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日本文化チャンネル桜 (SKYPerfecTV! ch.767)

日本よ、今... 「闘論!倒論!討論!2005」

4月2日放映分 (3月26日 収録)

                    塩見孝也



その2:戦後思想、東京裁判と戦後民主主義をどう見るか?

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 さて、報告です。

これは、優れて、思想的、政治的、理論的に立ち入った内容にならざるを得ず、この報告は、当然にも僕個人の主観的性格のものであることを、予めお断りしておきます

 4人の方々は、40台前半の油の乗り切った、言論、メディアで場数を踏んだ、論争慣れした方達で、自説を、その場に合わせ、巧みに展開し、その為の資料―それは、僕の見るところ、一面的と見ざるを得ないのですが――も持っています。

 中には、防衛庁長官秘書職をされたり、これから防衛庁発刊の雑誌の編集の任に就かれる軍事プローパーな面も持つ、怜悧な論客も居れば、「“作る会”副会長」の肩書きを持ったり、大学講師をなされたりしている方たちも居ます。

 それぞれの自己紹介から始めたわけですが、僕は近著「監獄記」を紹介させていただき、「ある時期まで、日本はマルクス主義に芯を持つ反戦運動ら左翼運動が大きな影響力を持ち、それが、破綻し、今度は、いろんな意味合いを持つにせよ、“ナショナリズム”的思潮が、それに替わって登場してきているのは事実であるが、これからの時代は“階級”と“民族”を如何に統一するかが問われ、それを統一するのは、21世紀に於ける、人類の自己認識である『新しい人間論』、『新しい日本人論』と思われる」

 それは、「人間の自主性・自律性を捉え返し、意識化しなおすこと」、日本人は「“国民国家”に括られない、“民族であって民族でない”ような、民衆性と国際性を合わせ持った“民族”に脱皮してゆかなければならない」

 「日本の大地、自然と一体化した、自主的な個人である、愛し合う男女を中心にした、民衆第一の集団の関係、すなわちパトリ(源郷)を愛する人間関係、すなわちパトリオティズム(愛“くに”心)が確立されるべきである」

 「資本主義は、政治革命を先行させるのではなく、利潤第一ではなく、民衆の要求である“生産の社会化”要求を汲み上げ、“資本主義であって、資本主義で無いような”経済システムに変わって行かなければならない」と簡潔に述べました。

 すぐには、理解されないと思いましたが、まず旗幟を鮮明にすべきと思ったのです。

 ここでは言いませんでしたが、「日本は、“徳高き、信義ある自主的な日本”」に変わってゆくべきである、と言いたかったわけです。

 左翼の方が、「階級、階級闘争至上、階級対立非和解」論から脱却し、国家主義に収斂される、民族論を批判しうる、民衆の側の民族論を確立しつつあることを、予めデモンストレーションすべきであると思ったからです。

  実際、旧来の「マルクス・レーニン主義」の「民族論無き、階級闘争至上論」は、現代の現実の諸関係、民衆の感性、要求にマッチしていず、そこを衝いて、復古主義や売国主義も合わせ持った、新旧の国家主義的保守主義が台頭しているわけです。
 僕としては、僕等が「マルクス主義」を超克している、超克し始めている、ことを論戦の最初に宣言しておきたかったわけです。

 論客達は、「戦後、思想というに値する思想は無かった。戦後民主主義は虚妄であった。東京裁判が元凶である」と発言されました。

 僕等の方は、「東京裁判」については、先の大戦の勝者の「米・ソ」とそれに身売りした、責任逃れの日本執権勢力に主導されたものであり、否定的である旨を述べましたが、それとは別の、国民的、民衆的レベルでの戦争体験として“戦後民主主義”があり、それは決定的に評価されるべき、と主張しました。

 僕は、これを一歩踏み込んで、僕流の展開をやりました。

 「左翼の中に、『東京裁判』を肯定するような、論調無きにしもあらず」ですが、この裁判自身は「戦争の勝者が、敗者を裁く」儀式に過ぎず、「アメリカに、日本国を裁く資格、道徳的高さは無い。日米の戦争は、いずれにも大義は無く、利潤追求第一からする、他国、他民族の土地の分捕りあいに過ぎず、日本側に大義がないのもそうだが、アメリカ側にも大義は無い。いわば、裁く、裁かれる、の関係は、目糞が鼻糞を笑う、類であり、茶番劇に過ぎない。あなた方が“アメリカの非を鳴らす”、のは良いが、とは言っても、それでもって、翻って日本側に、大義あり、とするのは夜郎自大である」「我々は、アメリカに道徳的、精神的に頭を下げる必要は無いが、この前の戦争で、アジア、太平洋の諸国、諸民族を、侵略し、迷惑を掛けたことは事実であり、この点では、衷心から詫びるべきであり、日本人は詫びてきた。これで良いと思う」

 「ただ、衷心から詫びるにせよ、あの当時は、米ソ、米中の政治的結託とそれに伴う、“政治の邪”が宿命的に付随し、事実にそぐわない過大な認識や要求もあり、とりわけ、日本人、日本国民の民族的誇りの背骨をへし折ろうとする動きもあり、それに、日本人が打ちひしがれる風潮があったと思う。この意味で、あなた方が“自虐史観”と名づけ、日本人の民族的誇りの覚醒を促したのは一定の意義があった」

 「しかし、それを持って、アジア・太平洋戦争を、“独立自存の聖戦だ“ などと、再び侵略戦争を正当化するのは詭弁であり、勇み足もいいところであり、“羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く”類の論法である。あほな事である」
 
その3へ続く