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3・22 阿佐ヶ谷ロフトA 報告
ロフトは、革命的サロンとなりうるか?

2008年 3月 28日

塩見孝也


[写真提供:ムキンポ氏]

T.
3月22日の阿佐ヶ谷ロフトAのトークは満杯の盛況でした。

「全共闘世代VS自分探し世代〜この世を悪くしたのはお前だ!」、多分、この、平野悠氏(なお、氏は、僕の友人でもあり、今後敬称略で、氏の場合だけは、使いますが、それはその旨です)特有の挑発的テーマが受けたのではないか。

ゲストが鈴木謙介氏、森山裕之氏と平岡正明氏、僕で、司会が、平野悠、という組み合わせ、企画が良かった面もあると思う。

それに若松「実録・連合赤軍」の公開中という背景もあったのであろう。

若手のお二人は、正に団塊ジュニアの世代、32歳と34歳ということだ。僕と平岡氏が、団塊の世代より少し上の、ともに66歳でした。

さしずめ、僕と平岡氏は、自分の子供たちと議論したことになります。

いろんな人が来られていました。鈴木氏のファンが目だっていたのではないか。

僕のmixi仲間も、意外と、多数来られていたようです。中には、山梨の方から駆けつけられた仲間もいらっしゃりました。

僕にとっては、mixi仲間が、ハンドルネームで、「あの○○です」と挨拶されると嬉しいものです。

メジャーな月刊誌を担当されているこの世代の人が「今日は面白い話を聞かせてくださってありがとうございました」と挨拶をしてくださいましたし、「ポケットのなかの闘争」という本を寄贈してくれた若者も居ました。

大体は、若い人中心で、僕の息子より若い、70年安保、全共闘、よど号、連赤事件の際は、生まれていなかった世代とトークしたわけです。

こういった世代が、世代論を踏まえつつ、相互の位置関係を語り、論争するのですから面白いことになります。

戦前で、いえば日露戦争に出征した世代と戦後直後派が語りあうような関係で、考えてみれば、戦前のいくつもの戦争があったのに比し、全く戦争を知らない、世代の、ある意味で「平和の時代」の、世代間論争と言えました。

この意味で、「平和な時代」でもエポック・メーキングな事件は必ず起こり、時代は転換してゆきます。

70年闘争と連合赤軍事件は、戦前の太平洋戦争に匹敵する、歴史的な位置を占めているのかもしれません。

僕としては、良くここまで、遠くまで来られたもんだ、という感懐一潮でした。

と同時に、トークの内容を概観してみて、時代は確実に、この2〜3年で変わりつつあることをひしひしと感じるものでもありました。

70年代から始まり、80年代、90年代、21世紀初めまで、猖獗(しょうけつ)を極めた、ネオリベラリズム(新自由主義、グローバリズム)資本主義が破綻し、資本主義は世界的規模で、出口なしの時代に差し掛かっているといえます。

僕は、冒頭、「アメリカの大統領選で、若し、オバマ氏が勝つなら、恐らく、テロや暗殺の標的にされるだろう」「これからの時代は、予定調和の時代ではないのだ」と予言しました。

資本主義の破局が、近づきつつあるのに際し、日本と世界の民衆は、どう備えるか、各世代はどう団結して行くべきか、これが僕の、このトークに望む基本的態度でした。



U.
僕の2015年ぐらいまでの見通しと構図とは?

これからの3〜4年を一周期として、激動期に入り、大体2020年頃まで、”015年までに、世界と日本の激動は、早ければ、一区切りの決着のめどがついてゆくのでは、ということです。

2015年は、環境論の見地を初め、統計学的にいろいろと言われている年です。

◆これに対して、僕は以下のような大雑把な戦略を立てています。これは、今の所、全くの仮説といえます。
a, 目標は、世界同時革命、世界民衆(社会主義)共同体、世界人類共同体(世界諸民族連邦)

b, とにかく先ずは、米中戦争のような国民国家間戦争のような、大戦争を起こさせないこと。戦争の機運を封じ込めて込めてしまうこと。

これさえできれば、人類は、文字通りの「ポストモダン」の世界史に入ってゆける必要条件を獲得できること。そして、この国民国家間戦争の可能性の少なさは、金融の国際化、資本の多国籍化を梃子としてグローバリズム資本主義としての現代資本主義が登場したことによって、その物質的条件を保障しています。

一応、これをエコロジカルな世界といっておきましょう。

このためには、人類、民衆は、ありったけの知恵、想像力を発揮し、自己の思想的、感性的、哲学的大変革を、論争、政治闘争を通じ、やりきってゆかなければならない。要は主体の大変革をやり遂げてゆくことです。

この前提は、資本制生産様式の命数が尽きつつある事、このことを、科学的な資本主義批判を持って、しっかり自覚し、上記のような共同体を展望してゆくことだと思います。

c, 日本では、憲法9条をしっかり守りぬき、変革後も「赤軍」のような国家常備軍を持たないこと。そうすることによって、国家の戦争と支配の最大の暴力装置、常備軍を消滅させ、国家死滅の条件を作ること。

古い文脈からいえば、憲法9条は、「共産主義」の綱領といえます。

他の主権在民、基本的人権、地方自治らの現憲法の基本条項は、資本主義的規定性を免れませんが、9条は違うのです。この意味で、僕は、こと9条に関する限り、「9条を守れ」と主張します。

代議制民主主義制度は、直接民主主義の大衆闘争を母胎にした、民衆のコンミューン権力にとって変えられるべきです。

天皇制(象徴)に反対し、天皇制の廃止を主張します。しかし、これにはは、慎重であるべきです。差しあたっては、最低限、京都に、天皇家が帰ることで、政治にノータッチであるべきです。そして、無化されてゆくべきです。

d, 日米安保条約は、廃止され、米軍基地は撤去されるべきです。反安保の闘いは、反改憲の闘いと一体になって推進されなければなりません。

日本民衆、民族が、cの如く、憲法9条を遵守し、それを実質化すべく、民主主義闘争を徹底化してゆくことと、相乗的に、補い合って行けば、その力で、廃棄してゆけます。

しかし、戦争の根源であり、民主主義否定の経済的・社会的基礎、資本制私有財産制、資本制生産・所有関係は、これだけでは、廃止できません。これには、長期的な思想闘争、資本主義批判の理論闘争、大規模な政治闘争、あるいは地域の闘争、労働運動強化らを民衆が、独自に積み上げ、その結果、職場、工場で、労働組合(運動)とはレベル質の違う、企業を自主管理しうる労働者評議会(全共闘のようなもの)を創出し、これが、労働力の再生産の場、つまり民衆の生活の場の、地域の民衆評議会と融合した時、つまり、民衆権力は創出されて行く時、初めて可能です。

この時から、資本制生産関係は、徐々に廃止されてゆきます。

ここから、社会革命が始まってゆきます。

この時、我が日本国憲法、9条が、第二次世界大戦の悲惨を総括した、21世紀の人類の指針を示す、世界に冠たるものであることを、日本と世界の人々に立証してゆくでしょう。

僕はこのような話をしたかったのですが、トークは、あたうる限りホットではありましたが、まだまだ、このレベルまでは進みませんでした。


V.
これからの時代の若者たちの生き方について。自主性を鍛え、高めてゆくことの意味について。

トークは、一時だけ、緊張しましたが、全般的に穏やかで友好関係で、なされてゆきました。

鈴木謙介さんはチャ―リーと愛唱されるらしい。彼と「ハンチ」副編集長の森山裕行さんがコンビで、これに対して、平岡正明さんと僕が、コンビで対抗する関係です。僕と平岡さんは、団塊の世代を代表し、終始一体的でしたが、ジュニアー世代は、意見相違が見られる時もありました。塩見―平岡コンビを、平野が崩して、話しをおかしくしようとしましたが、このコンビは終始、断固として、崩されませんでした。

鈴木君がマルクス主義経済学者、デービッド・ハーベー(「ニュー、インペリアリズム」「新自由主義」)なども読んでいるのには感心しました。彼は、勉強家のようでしたし、別に、我々の世代と対抗する企図が全くないことが、すぐに分かりました。気さくで、率直、頭の回転の速い、言うことが論理的、理論的な青年でした。

平野が「40年代、団塊世代、50年代、しらけ世代、60年代、新人類世代、70年代 団塊ジュニアー世代」とすっきり特徴付けました。

この、70年代生まれの世代が、格差社会の矛盾を、我々の世代が、年金・福祉らでネオリベ経済から、矛盾を受けていると同位相で集中的に、受けている世代ですから、話が合うといえます。

この世代は、一昔前の宮台氏のような「終わりなき日常をまったりと生きよう」という悠長な感覚とは、既に縁遠い存在です。

「小泉チルドレン」や「ホリエモン」などの、ネオリベの申し子などを横目で見て、青春時代を送っています。会場に集まった20代世代は、もっと深刻です。

僕は、このことを、ネオ・リベ経済路線の破綻、米国サブプライム・ローンなどから金融恐慌―世界恐慌の可能性から、この事態はもっともっと深刻になる、と説明しようとしたのですが、そして、平野は、経営者感覚から、資本主義が破局に近づいていることを肌身で感じているのでしょう、珍しくも僕と同じ、時代認識を示しました。

しかし、論点は、こういった時代認識を吹っ飛ばして、一挙に、20代、30代が如何に生きるか、という生き方の問題となりました。

★ここで、昨年話題となった、今では既に「出がらし」となった「論座」の赤木君の「左翼が、自分のような孤立した、何の権利も持たない薄給の不正規青年労働者、フリーターに何の対策も出さないなら、戦争に賛成し、自衛隊に入って飯の食い扶持を得る」という“悲鳴”をどう受け止めるか、といった青年達の生き方の問題へと入ってゆきました。

雨宮処凛ちゃんなどは、平野の言では、「何かの文章でこの世界は動かせない」と悲観的言辞を吐いている、とのことですが――――僕は確かめてないが――――こういった悲観主義こそ克服すべきことを説きました。

平野に確かめたら、そういった文章がある、ということです。もしそうでであれば、非常に残念です。確かめてみて本当であれならば、激励します。

人間の可能性、人間の命を最高尊貴し、それを社会的の輝かせる自主性、想像力、創造力、意識性を説きました。人類は、民衆は、こういった危難に遭遇しつつ、そのたびにそれを乗り越えてきたこと、――――間違った判断をすることもありますが、――――人間、民数は、ぎりぎりに追い詰められると、自主性と社会的共同性を発揮し、それを一致させ、愛するもののために、全てを投げ出しても、闘ってゆける存在なこと。

この勇気、行動力は、人間、民衆が歴史的、社会的に具備している本性であり、どんな人も有している本性であること。こういった、自己の可能性、本性を信じることが大切なこと。

そして、目標を資本主義打倒!に設定すること。その目的を貫徹するために、計画、戦略・戦術を立てること。自分たちを苦しめている根源、敵が誰かをしっかり見極めること、そうすれば、敵や味方がはっきりと見えてくること。又闘い方もすっきりと見えてくること。

赤木君には、先ず己を信ずること、だといいたいです。ソモソモ、戦争に身を投じる、といっても大義なき戦争で救われるでしょうか。日本支配階級は、その戦争に向けてのコンセンサス、統合力を、かなりな程度、創出しえなくなっています。

であれば、革命以外に、活路が何かあるでしょうか。

★「塩見さんや平岡さんは強い人たちだ。僕等は、それほど強くない。弱い人間です」「そんことはない。全共闘世代は、それならみんな強い人ばかりだったのか。己と人間と民衆を信じることです」「クライシスが進んでゆけば、誰も必死になり、道理があって、合理的な道の発見、創造に向け努力し、強くなってゆける。自分と愛するもののために、誰も強くなってゆけるのだ」、僕や平岡氏は吹きまくったのでした。

★「僕等は知識の蓄積がなく、余り事態を解明したり、説明する概念を知らない。難しくて、分からない」
ここで、平野が二度目の良いことを言いました。

「俺たちだってそうだったのだ。しかし、知らなかったら、恥だと思い、競争しながら必死で勉強したのだ。勉強すれば、知識など、すぐに得られる。勉強は、その目的が、はっきりしていたからだ。誰でも向学心はある。この探求、努力は、目的をはっきりしていたからだ。特に若い人の、向学心は凄いものだ。」と括りました。

又、僕等全共闘世代は、権威主義的学問、御用学問を敢然と批判した、ことも述べました。

或いは、社会科学と社会学は違うことも論点となりました。

この点は、平岡氏がきっちり説明しました。

学問、真理の探求は、象牙の塔に閉じこもってできるものでもなく、さりとて実利主義的な、資本の要求にこたえて確立してゆくものではないこと。

人類、民衆に奉仕するもの。現代世界の矛盾の根源を明らかにし、そこから、民衆を解放するためのもの。

日本人、日本民衆の見地に立てば、二度と侵略戦争をせず、平和で民主主義と福祉にみちた社会を作り出すこと。

社会学は、現象を説明、解釈することはできても、民衆解放の武器としての社会の運動、発展法則を解明してゆく、社会科学とは違うこと。

赤木君などが、考える学問は、丸山真男などの社会学でしかなく、丸山氏は、肝心な時、全共闘と敵対し、批判されてしまったこと。と、平岡は言いました。

全く、彼の言うとおりです。脳みそは、何のためにあるのか、といいたいです。



W.
70年闘争以降の全論点が質問され、論議された第二部。

この辺から、現実的な歴史的総括の領域に入り込んで行きました。

会場からの質問、応答といったやり方です。休憩を挟んでの第二部です。

先ず平野が、映画「実録・連合赤軍」を観たか、と会場に問うと20名近くの人が挙手しました。

この会場に集まった世代にとって、連合赤軍事件は最高に興味あるテーマであったのでしょう。何故、あのように決定的過ちを犯しながらも、あれほど全てを賭けて、自分たちと同じ年齢の世代が戦ったのか、は、尽きせぬ興味であったのでしょう。


●オウムについて
「オウムをどう考えるか。東アジア反日武装線をどう考えるか。」、或いは、「連合赤軍事件は、“理想主義”の帰結。“理想主義”の過ちを立証したのではないか」というひねた意見も出ました。

「全共闘世代は、今は何をしているのですか」という質問もありました。

オウムは、80年代の政治では勿論、文化でも閉塞された情況で、観念、心の中に、救済を求めるカルト集団、唯心論の集団、身勝手に、「俗衆」を「懲らしめる」こと、殺すことで自己救済されるとするカルト集団、唯物弁証法に基づく人間認識の欠如した集団であり、連合赤軍の誤りなどとは、比較することができないこと。らの諸点を述べ、民衆運動が、完全に体制、権力に抑圧されきり、展望を打ち出せないで居る時、あのようなカルト集団が誕生することを強調しておきました。


●東アジア反日武装戦線について
「東アジア反日武装戦線」は、連合赤軍事件のあと、尚、武装闘争を堅持しようとした場合、ヤマトの抑圧民族性を徹底的に問題にし、そこから一転して「(ヤマト)民族の滅却」「東アジア民衆に、主観的に感情移入をする」、このことを、自らの立脚点にしようとしたこと。

日本人、ヤマトの抑圧民族性を自己批判し、摘発しようとすれば、民族が、生産関係に規定され、階級に分裂しているということを忘れるなら、このような、極論まで行き着くこと。

しかし、これは、あくまで極論であり、間違いなこと、日本人、ヤマトの抑圧民族性は、日本資本主義を打倒して、民族の大多数を占めるプロレタリアートが、解放され、過去の民族史を総括し、侵略・抑圧しない民族、<パトリ民族>になるという解決の基本原則を忘れていること。日本人と日本プロレタリアートが抑圧民族、抑圧民族のプロレタリアートとしてではなく、被抑圧民族と自主平等な関係に立つには、民族の自己否定を、「自己抹殺」に短絡する「反日」運動をやることではないこと。日本人は、過去幾度か過ちを犯し、特に近代において大きな過ちを犯し、域内ではウチナンチュウ、アイヌを侵してきたが、日本民衆が日本民族、ヤマトを愛するのは、極く、自然で、当たり前で、正当な感情である。こういった、ヤマトの誤った過去の歴史を清算するには、日本資本主義、日本帝国主義を打倒する社会主義革命を完遂することである。

しかし、彼等の体を張った「反日テロ」は、日本人の暖衣飽食の状態を鋭く撃ち、心ある人々に、反省の気持ちを呼び覚ましたこと。

彼等は、“同胞殺人(決して意識的なものではないのですが)”を反省し、獄中で、死刑廃止ら、獄中者解放運動を、不屈に、今も闘い続けていること。

こういったことを僕や平岡氏は、逮捕される前に、青酸カリで服毒自決した斉藤和氏らの真摯な生き方を挙げつつ、説明しました。


●連合赤軍事件を人間の理想主義、急進主義の極限と見る考え方について
連合赤軍事件を、「人間の理想主義、急進主義の極限、極致」とする意見は良くみかけるところです。これは、本質的には、現体制防衛の現実主義者からの革命否定の見解です。

彼等の前提は、連合赤軍事件の事実関係を知らず、「共産主義化」が事件の本質と錯誤しているところから発しています。

彼等は、ここから、武装闘争そのものを否定し、挙句の果てには、70年闘争、全共闘運動、新左翼、ブントの運動総体を抹殺しようとするのです。

全く、間違っています。あそこに理想主義などかけらもありません。あれは、スターリン主義を容認する毛沢東思想賛歌、盲従を名文とする、永田さん、森君二人の日和見主義者の、間違った判断による「野合新党」でっち上げに伴う、それに反対する人々の粛清です。

「共産主義化」「総括」は、そのための下部同志支配の手段であり、カムフラージュでしかありません。

それを、「理想主義」などと、混同させるのはチャンチャラおかしいのです。

赤軍派の理想主義の流れは、その2ヵ月後、実現された国際主義精神に溢れたリッダ闘争に貫徹されます。

今こそ、理由(いわれ)なく殺されて行った12名は、正しく復権されるべきなのです。

銃撃戦は、この過ちから解放された、贖罪心をばねとする5名の戦士達によって実現された、日本初の真っ向から日本国家権力と戦った銃によって武装された民衆の闘いでした。しかし、これは断じて支持されたては、ならない戦いです。

同志殺しなどせずとも、日本民衆は、奥平、安田、岡本同志のように戦えるのです。


●「革命的暴力」を超える、“超暴力としての非暴力”について

僕は、今後の革命は非暴力の闘いだと述べました。

但し、この非暴力は、暴力絶対否定の見地ではなく、当時の僕等総体が陥っていた唯軍事主義傾向、唯武器主義傾向の自己批判、つまり暴力を超えた超暴力としての非暴力であり、民衆諸個人が正当防衛として武装する権利を全く否定しないこと。したがって、コンミューン原則である、全民衆の武装を否定するわけではありません。

憲法9条一項、2項は、たとえ自衛であろうと国家常備軍を否定していますが、共同体の民衆諸個人の自衛の権利は否定していません。

又、いずれにしても、軍事は孫子も言うが如く「闘わずして勝つ」、政治が要諦であり、軍事そのものとしては、日本古来からの武道の極意、“活人剣”、“無刀剣”を極意とするものでなければなりません。

我が日本国憲法9条の基本理念と原則に、この極意は完全に通じているのです。


●全共闘世代は今?
全共闘世代は、目覚め始め、山本義隆氏や秋田明大氏も、昨年の「9条改憲阻止の会」提起の「6・15、9条改憲を許さない共同行動(実行委員会)」に結集して、9条を守るために闘っています。

日本国有権者の過半数である3500万人を国民投票で、9条防衛の投票に決起していただくべく、がんばっています。

先ず、このことをもって、支配階級の戦争への道、可能性を完全に塞いでしまうのが目下の急務です。


議論は3時間余でありましたが、平野悠の良き司会の下、4名のゲストと会場からの良き参加、協力を得て、非常に実り多いトークとなりました。

僕は、このことをこれらの方々に感謝するものです。


塩見孝也