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第5回 「資本論研究会」、及び 
吉本舞踏、「情況」忘年会の報告

「ここがロドス島だ。ここで跳べ!」 「貨幣の資本への転化」読み終えたぞ!

2006年 12月31日

塩見孝也


● 第5回「資本論研」、12・23(土)やったぞー。

 今回は、神楽坂の恒例の場所(SCATセミナールーム)がとれず、高田の馬場の某喫茶店「会議室」でした。

 次回(第6回)は、2007年1月21日(日)、17時から。今度は、いつもの神楽坂(SCATセミナールーム)です。

 今回は、少々ハプニングも起こりました。

 茨木から、新人の方も、加わられましたが、17時から21時の予定が、ナント深夜0時頃まで掛かり、23時までの最初の喫茶店を出て、別の「ファミレス」に移るなどする悪戦苦闘でした。

 ところが、土曜であることを、うっかり、意識せずで、結局終電に間に合わず、僕や柳沼君、そして、茨木の新人の方は、読書メンバーの一人の、池袋の彼の下宿にお世話になる始末と相成りました。

 新人の方には、配慮不足で実に失礼致しました。

 原因は、読み込んでゆくページ数がいつもに比べ、2〜3倍と、厖大であったからです。

 第一篇、第二章の「交換過程」は読み込み、第3章の「貨幣または商品流通」、価値尺度、流通手段、貨幣の所は、余り枢要ではないので飛ばしまして、第2編の「貨幣の資本への転化」まで読み進んだのです。

 総計90ページでした。これまでの、3倍以上でした。

 とにかく、来年は第三編の「剰余価値の生産」に入り込む、という読書・研究予定を組んでいたからでした。

 それでも、皆さん、猛烈に熱心で、誰も音を上げず、途中で夕食をとるのも、惜しんで読み進んで行った次第です。

 新人のF氏には、大分辛かったのでしょうが、商品と貨幣の第一章をこなしてきている常連は、マルクスの価値論の考え方、論理の組み立て方、言い回しに、大分、お慣れになってきていますから、読解の方は、可なり進んでいっているようにお見受けしました。

 それにしても、ここまで読み進んできただけでも、「資本論は、マルクスの論理学でもある」とよく言われて来ていた、ことがよく判ります。

 マルクスの包括的な、抽象力に立脚した、ヘーゲル的な言い回しや卓抜な比ゆなどに、僕等は引きずり廻されるのですが、後から、それ等を振り返ってみますと、第一章の「価値と使用価値」を土台に、実に理路整然たる構築物として、「資本論」建築されて行っている、ことがよくわかるわけです。

 いわゆる「資本制社会における富の原基形態である」「商品」の分析、マルクス価値論を土台に据え、この最下向した地点から「剰余価値の生産」「資本の蓄積」「再生産と流通」現実の「資本の総過程」へと、上降してゆく過程のこの組み立て自身が、論理的なのです。例えば、来年から読んで行く第3編の「絶対的剰余価値の生産」の章組み立てにしても「労働過程と価値増殖糧過程」といった具合に、「使用価値と価値(交換過程)」の展開と振り分け、表現される、といった具合に、なされ思考され、編成されているのです。

 「交換過程論」は、独自の一章がもたれていますが、第一章をおさえて居れば、特に三節の価値形態論「価値形態または交換価値」を判っておれば、基本的には、案外、簡単にクリアーできます。

 「貨幣または商品流通」の所は省略しましたが、ここでは、マルクスが彼の価値論を駆使し、どのように現実の貿易や生産、流通、或いは、これまでの、経済学、「富」蓄積、錬金学らも含め、「商品流通と貨幣」らを捉えているか、が如実に示されています。
飛ばしましたが、お読みになれば、すごく参考になれます。

 相当、専門的に踏み込んで、難解ですが、立ち入れば、彼の経済学思想がよく判ります。

 ともあれ、今回の読書会の眼目は「貨幣の資本への転化」のマルクス的思考、論理を理解する所にありました。

 G−W−Gが どうしてG−W−G+Δgとなるか?

 Gは貨幣、Wは商品、ΔGは剰余価値です。

 「資本は流通から発生することは出来ないし、叉流通から発生しないわけにも行かない。」

 「資本は流通のかで発生しなければならないし、同時に流通の中で発生してはならない」、有名な「ここがロドス島だ。ここで跳べ」というところです。

 このことを、マルクスはW−G−Wの一般的商品交換の定式と比較しつつ、どうして、ΔGが発生するかを、様々な商品交換に際する、諸論点を精緻に検討しつつ、結局、それが、労働力の消費(労働する過程),したがって,「労働力の売買」から発生することを突き止めてゆきます。

 つまり、労働者が自分の労働力を再生産する生活資料分(衣食住、家族の扶養、文化的精神的再生産の費用)は、賃金として、最低限与えられ、この点で、労働力と生活手段の交換は、等価交換と矛盾することなく行われ、叉新しい生産物の商品は生産手段である機械らの摩滅、移転、原料、資源の変形、転体も、価値移転するだけで増殖はしないことを立証してゆきます。

 結局、価値増殖は生活の再生産に必要な生活手段を得るための必要労働時、つまり賃金を越えた、資本の専制の下での、労働力の消費の超過労働時間から発生する事を論証しようとします。

 この等の事に、第一章の商品の使用価値と価値、労働の二重性論が縦横に駆使されて、証明されて行くわけです。

 つまり、商品交換の基本法則、等価交換と矛盾することなく、商品の二要因、二重性を踏まえつつ、剰余価値が生産されてゆくことをマルクスは見事に立証してゆくわけです。

 この歴史的、社会的前提として、マルクスは、「自己の持つ労働動力を自由に販売しえる」こと、「生産手段から自由であること」という「二重な意味で自由な労働者(マルクス)」、わかりやすく言えば「労働力を売らずしては生きてゆけない労働者階級の発生、生成」が、あることを強調しています。

 僕等は、ここまで、到達し、心のなかで歓声を上げたのでした。

 読み進んで来た甲斐があったというものです。

何故なら、ここまで来れば、秘密として隠されていた「剰余価値の生産」の構造、論理は、半分解き明かされてしまった事になるからです。

 クリスマスのイブイブ、世の人々が、浮かれている時、終電がもう走り去って行くのも何物かわ、この地点に到達し、僕等は喜び合ったわけです。

 これで、来新年から、「剰余価値の生産」に予定通り、入って行ける、というものです。

 尚、僕等は、読み合う過程で、マルクスが、付けてゆく評注まで、きちんと読み、論議してゆきますから、それで時間が掛かるのですが、セーとかシスモンデー、とかケネーとかホッブスとか、当時の経済学者、哲学者,思想家、歴史学者、政治家(革命家)ら、出てくる人々も確認し合いますし、マルクスの、比ゆも検討しますし、ラテン語やドイツ語、フランス語、ギリシャ語らも一応検討します。

 であれば、自己の歴史、哲学、経済学史、語学らの再点検もしてゆくわけです。この中の検討が、結構役に立ちます。

 しかし、その註そのものが、意味が分からなく、一論議起こることがあります。まるで、「解体新書」の訳のための杉田玄白たちのようなものです。

 例えば、「机は自分の足で床の上に立っているだけでなく、他の商品に対して頭で立っており、その木頭からは、机が自分勝手に踊りだす時よりも、遥かに奇怪な妄想を繰り広げるのである。(註25、P133)などです。

 そして、この註を見ると「他の世界が全て静止していると思われたときにシナと机が踊りだした。――」となっています。そうすると「一体このシナは何じゃ」と当然なり、「新日本新書版」を別に持ってきていた誰かが「ここにこれは、中国製の古代の花瓶のこと」と説明されている、と言い出し、一件落着しました。


● 12・24(日) 吉本舞踏、及び「情況」忘年会

 翌日、吉本大輔さんの前衛舞踏を拝観しました。

 照明、光と影、陰影の中で、ダイナミックに踊る吉本さんの肉体はまるで魔物のようでした。

 その後、大下君達の「情況」忘年会に出席しました。

 「情況」も若い人達が加わって、来年からは、この人達が編集し、「老年組」は、本の出版に力を注ぐ、とい事でしたが、老年組は、来年の安倍政権との対決の重要性を、若い人達に説いていました。

 僕も、その線で、簡潔に一席ぶたなければならない破目になりました。

 編集のことで和田春樹教授や佐藤優さんも来られていました。 

 元外交官(現在は「起訴休職外務事務官」)の佐藤さんは、「外務省のラスプーチン」ともいわれ、最近は「国家の罠」「自壊する帝国」「獄中記」等を書かれている方。同志社大学神学研究科と、同じ関西の大学出身ということに加え、さらに私と同じく「猫好き」ということを人から聞き、より親しみが湧きました。

               塩見孝也