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第4回「資本論研究会」の報告。

「貨幣物神崇拝の世界から脱却する」


2006年 11月28日

塩見孝也


第四回「資本論研」、先週の23日、やり遂げました。

次回は12月23日(土) 17時〜21時におこないます。

SCATセミナは本当に研究会や会議をやるには良いところです。

図書館もあり、向坂訳の〈資本論〉やその他のものや、解説書も2〜3あり、テキストを忘れてきても、何とかなります。

ホワイトボードも設備され、お茶やコーヒーの設備もあり、お茶を啜り、煎餅などポリポリ齧りながら、寛いで進められます。

これで、無料で、アポイントを取っておけば、宿泊も無料で可能なのです。タバコもベランダに出れば、灰皿が用意されています。

この部屋主のオナーの奇特さには、毎回利用させて頂く度ごとに、ほとほと頭が下がってゆきます。ありがたいことです。

一人、新人の若い女性も加わり、女性が二人となり、進めました。

休日で、闘争や休養が予定されている中、僕等は〈継続は力なり〉で、やや常軌を逸しているように思われるでしょうが、あのマルクスのヘーゲル調の初心者には、ややとっつきにくい文章に挑んで行ったのです。



● 商品、貨幣の物神化を語る第一章、4節の意義について

今回は、「資本論一部の第一編〈商品と貨幣〉の第一章〈商品〉の終節、第4節――――商品の呪物的性格とその秘密」でした。

この節は、マルクスが「資本主義社会の富の原基形態」である、「商品」を1、商品の二要因、使用価値と価値、2、商品に表れる労働の二重性、3、価値形態または交換価値 と分析した後に続いて、マルクスが、この章で一番言いたいことを展開した節と言えます。

それは「商品の呪物性」ということです。大月書店のマルクス・エンゲルス全集刊行委員会の5巻本では「商品の物神性」となっています。

実は、僕はこの5巻本で「資本論」を勉強しましたから、どちらかといえば「物神性」の方が馴染むのですが、何故「資本主義社会の人々」は「商品、貨幣、あるいは資本」に「未開人が木ら植物、動物、石、或いは山や川や森ら、に神聖性,呪力を感じ、崇拝する」と同じようにようになるか、を解析、それまでの展開を踏まえ、説明した節です。

「金は驚嘆すべきものである。それを持つ人は、彼の望む全てのものの主人である。金を持ってすれば、魂を天国にまで行かせる事が出来る」(マルクス,ジャマイカからの手紙)、正に「地獄の沙汰も金次第」なわけです。

レーニンはこのことを「人と人の関係が、物化され、逆さまになって(転倒されて)、物と物との関係として幻影的な姿で写しだされる」とも述べています。
マルクスは、このことを商品が「あるものが商品として現れるや感覚的であって超感覚的な存在」になることを、商品としての机を例に引きつつ「机が踊りだす」といった、マルクス独特の表現を例に出し、説明してゆきます。

そして、その秘密が、生産物、ものを商品という存在に形態化させる、「形態そのものにある」ことを指摘し、それが「労働生産物の社会的関係」性から発している、ことを突き止めてゆきます。



● 商品と貨幣の物神化を生み出す、生産、労働における社会的関係性とは?

「総労働に対する生産者達の社会的関係性おも諸対象おも、諸対象の彼等の外に存在する社会的関係性として反映させる」などと、難解な説明を行っています。

この「外にある社会的諸関係」とは、ここでは、マルクスは明瞭な形で言い切っていませんが、次のような意味でいっているわけです。

商品経済関係が、主要になっている社会での、私的労働(生産物)が、社会的労働(生産物)になるには、交換を通じてなされること、つまり、

a,私的所有にもとづく私的生産(私的労働)、
b,それが互いに独立し、行われる社会的分業の社会では、
c,そして、労働力までが商品化される社会、
と、資本主義商品経済社会の社会的関係に根ざしていることを指しているわけです。

このような社会では、労働生産物は、交換を通じて社会的生産物とならざるを得ず、価値形態、つまり、貨幣を持って、等量の労働の交換を行わざるを得ません。

資本制商品経済社会は次のような特質を持っています。

生産物は全て、自分の使用ではなく、交換目的で生産され、その使用価値は、単なる「交換価値の素材的担い手」でしかなく、生産者は、この交換を通じて、自己の求める使用価値、ないしは、それを実現できる交換価値・貨幣を得ること。

イ、 この私的労働、私的生産物が社会的労働、社会的生産物となるには、無政府的生産、競争を通じて「神の見えざる手」(アダム・スミス)を通じて、分配されてゆくこと、このような形で価値法則が貫徹されてゆくこと。
ロ、 このような、イ、ロの事柄をマルクスは以下のように「資本論」で表現しています。

「労働生産物はそれらの交換の中で、初めて、それらの感覚的に違った使用対象性から分離された、社会的に同等な等価物対象性を受け取るのである。このような有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換が既に十分な広がりを持つ社会であることが重要であり、有用な諸物が交換の為に生産され、したがって諸物の価値性格が既に生産そのものに際して考慮されるようになった時、実証されるのである。

 この瞬間から、生産者達の私的労働は実際に一つの二重的な社会的性格を受け取る。
 一面では、一定の有用労働として、一定の社会的欲望を充たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として実証する。

 他面では、私的諸労働がその生産者達に欲望を満足させるためには、ただ特殊な有用な私的労働のそれぞれが、別の種類の有用な私的労働と交換可能であり、したがって、これと同等と認められる限りのことである。――――――――――――、従って彼等の私的労働の社会的有用な性格を。労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用とされなければならないという形態で反映させ、異種の労働の同等性という性格を、これ等の物質的に違った諸物の、諸労働生産物の共通な価値性格という形態で反映させる」(P137〜138)



● 宗教にアナロジーできる貨幣の物神崇拝性

以上のことをしっかり押えておけば、商品、貨幣の超感覚的性格、幻影的な呪物的性格の秘密は全く明瞭となります。

「ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見出すためには、我々は宗教的世界の夢幻境に逃げ込まなければならない。

ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられて、それら自身の間でも、人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に人間の手の産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるや否や付着するものであり、従って商品生産と不可分なものである」(p136)

人間は、未だ生産力も科学的認識能力も低かった社会では、事物に超自然的力を感じ、それをカミとして崇拝します。

いわゆるアミニズム、シャーマニズムのファティシズム性向です。

この宗教性は、さらに歴史が下れば、一神教の絶対的な宗教を人間は創出します。

重要なことは、このカミ、神、そしてそれへの信仰は、人間自身の悩味素の産物で、関係性の矛盾に源を持ち、人間自身が創り出したものだということです。
しかし、にもかかわらず、いったんそれが作り出されるや否や、今度は、人間がそれを崇拝、信仰し、人間は、その神に対して、その従者となることです。

今は、その宗教的関係が、人間の世界に対する地位、役割の相対的で,絶対的性格の基づくものであることや、信仰が人間を癒し、一定の生きる力を与え、ある面では、その神が、世界の命や摂理、声を超自然的に反映している面があり、それが社会、共同体の協同主観、秩序を作り出して来た人間史、文化・文明史の事柄には踏み込みませんが、商品経済社会では、商品、貨幣、資本らが、呪力、物神性を持つことを、人間とその社会関係が、商品に呪物性を付与し、そこから人間と人間の関係が商品と商品、貨幣と貨幣の関係に転倒され、貨幣の物神崇拝が行われること、をマルクスは、人間と宗教の関係にアナロジーしながら説いているわけです。



● これまで、貨幣の物神性 を伴わない社会があったし、今後も〈透き通った〉社会を人類は作り出せる。

マルクスは、このような現象が、特別な歴史的段階としての社会、資本制商品社会に全面化すること、他のその前の社会ではそうでなかった、これからの、資本主義に取って代わる社会でも、そうでないこと、つまり、人と人の労働の関係がガラス張りのように、「幻影を伴わずに存在しえる」ことをロビンソン・クルソーの自主・自立した無人島の自給・自足経済、一人共同、協同、協働社会、或いは未だ商品経済が、全体経済の部分しか占めなかった中世経済、「共同の生産手段で労働し、自分たちの沢山の個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」の例を提出してゆきます。

叉、ここで商品が、共同体と共同体の境目から発生し、「共同体」の内部では、それが内面化され、商品経済は、その社会の主要な所有、生産関係の社会の従属的性格であることも指摘されています。

或いは、その呪物性は、宗教における古代や中世のユダヤ教や教皇を中心とした教会的権威や秩序を伴うキリスト教と違う、それ以降の近世、近代のキリスト教一定の合理性、人間の自主性を加味したプロテスタントや理神宗教の神信仰に似ていることも指摘しています。

尚、評注のアダム・スミスやリカードの国民経済学に触れ、彼等が商品の価値の源泉、その実体が、労働であることを主張した点(つまり〈労働価値説〉)を革命的学説としながらも、価値の生産と使用価値の生産を混同したり、価値の形成と価値の移転を混同したりする重大な過ちを犯していること、「労働の二重性の把握が「経済学を理解するための枢軸」であることが軽視され、それ故に、労働と労働力が区別されずにいたことが明確な形で、指摘されています。

実際、この点がしっかり押えられれば、何故労働力と賃金が等価交換されつつも、その労働力の使用価値の消費が、剰余価値を産出し、その産出者である労働者に還元されず、それを資本家が取得するか、も説明しきれなくなるのです。



● 現代グローバル資本主義社会と貨幣物神化の猖獗

この、マルクス「資本論」の商品と貨幣、商品の分析をしっかり押え、貨幣物神を理解しておれば、現代グローバル社会の経済的基礎、グローバル資本主義の段階では、各国毎に分断されて、争った産業資本主義や独占資本主義の段階とは、違って、商品経済は、世界単一の市場経済に遥かにグレードアップして行っているわけで、貨幣の物神崇拝はグローバルとなり、同時に人々の精神文化の中に、強烈に滲みこみ渡っています。
つまり、拝金主義、個人利己主義、軽薄な商品経済化した男女の性的関係、快楽主義らとして、人々、民衆を病みつかせています。

他方では、「人類益、自由と民主主義の実現」などの名文を掲げた市場原理至上に立脚した侵略や〈自己責任―自由なる競争〉を旗印にした、格差社会現出の世界共通の現象として、世界各国に蔓延してきています。

日本社会も、この例外ではなく、むしろその反対に、その典型国になりつつあります。

であれば、〈貨幣の呪物崇拝、物神化〉を呼び起こすその社会的諸関係を、しっかり科学的に捉え返し、僕等は批判精神を磨き、「世界人類共同体」「世界民衆共和国」の方向で、日本社会を〈自由なる人間の共同した社会、コンミューン〈共同体としての社会主義、共産主義社会〉へと、貨幣物神化現象を克服してゆかなければならないと思います。

そこまで、確認する必要は全くないのですが、そんな勢いを醸しつつ、僕等、第4回〈神楽坂・資本論研究会〉は、抽象的思惟の知的労働の楽しみ冷めやらぬまま、研究会を終え、近くの中華料理屋で、皆で和気藹々と夕食を味わったのでした。


               塩見孝也