寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る

 

映画「ニュー・ワールド」を観て。

2006年 5月19日

                    塩見孝也

 半月ほど前、池袋で時間があり、良い映画ないか、と、うろうろし、嬉しいことに、お目当て以上のものを見つけました。

ニュー・ワールド」(原題:The New World)という封切映画ですが、 僕は、シニア料金ですから、千円で入場できました。

 この新鮮さは、あれほど、綺麗に、日本の風景と人を描いた、藤沢周平原作、「蝉時雨」以上でした。

 僕は、「ウエスタン」も大好きですが、その前の、インディアン達の物語が大好きなのです。

 特に、メイ・フラワー号以前のネーティブ・アメリカン(インディアン)の世界、つまり白人無きインデイアン時代、そして、その後の、「開拓」初期の未だ、圧倒的に先住民が、強かった時代の人々の映画が大好き人間なのです。

 先住民が、「イロクオイ」連邦などをつくり、白人が、その法に従い、パスポートを発行され、関税を払っていた時代です。

 或いは、次第に、押されながらも、「折れた矢」の大酋長コチーズらの旗の下、彼等が、結束して闘い、未だ勢力関係は5分5分の頃までの時代、アメリカ大陸の大地、自然の中で、狩猟採集のインディアンが伸びやかに、誇り高く、生きて居た、時代までなどが大好きなのです。

 その後、彼等がやられてゆき、反逆、反抗しながらも居住区に閉じ込められ、「卑屈」を強いられて行く過程や、それ以降は、溜まらなく悲しくて、見て居れません。

 それでも、あほな事に、見ることはみるのですが---。

 そして、現代に至り、ウンデットニーで、1960年代、彼等、僕の友だちのデニス・バンクス達、全米インディアン協会のリーダー達が決起して以降、少し、その悲哀の感情は和らぎました。

 インディアン映画は、白人を主とする、彼等、アメリカ人の「成長」の思想史に応じて、変化して行くわけですが、とにかく、ありとあらゆる、この分野の映画を、僕は、観、漁りました。

「ラスト・オブ・モヒカン」、レッドフォードのもの、「ダンス・ウィズ・ウルフ」、「シャイアン」「折れた矢」、ロバート・ワグナー、ジェフリー・ハンター主演のもの(名前が出てこないが、あのインディアンの酋長の息子を演じるハンターの雄雄しさは最高でした),キャンディス・バーゲン主演の「ブルー・何とか」等ら、それに彼等の習俗、伝説、文化らを描いたもの、しかし僕の関心は、ツマリ、実はアメリカ映画製作者たちの関心は、次第、次第に、過去へ、つまり、独立戦争の頃、その前の仏英戦争、イロクオイ連邦の頃と遡って行き、正に、メー・フラワー号前後を経て、そして、未だ白人が居なかった時代へ、と移って来ているのです。

 このような、過程で、映画「ニュー・ワールド」は作られ、登場してきた、と思います。

 インディアン娘をヒロインにした、白人とのラブ・ロマンスですが、その感触、香りは、「旧」大陸人と「新」大陸人の接触は、「旧世界」から見た場合、アメリカ大陸とそこに住む人々は、正に新鮮で、限りなくロマンに満ちた、しかも、それは、フォークロアの世界かも知れませんが、旧大陸人から見た場合、異質な、極めてスピリチアルな、「ニュー・ワールド」、ユートピアに映ったのは当然でしょう。
 両文化の接触は、数限りない相克と和解を産み出します。

 それにして、その時代は、多分、バージニアやノースカロナイナの海岸線に僅かばかりの土地を「領有」して白人たちが、生きていた時代のことです。

 見渡す限りの原生林、突き抜けて広がる蒼天、奥地には唯一、水量豊かに、盛り上がるように、悠々流れる河川を遡る以外にはない世界、インディアン達は、海岸で漁労もやっています。

 白人は、奥地に、カッターを仕立て、入ってゆく、その河岸は森が迫っています。

 奥地の森、山河、平地のエリアの一角に部落があり、インディアン達は、尊敬する酋長、長老、呪術師たちを中心にのんびり、原始からの悠久の生活をやっており、畑にはとうもろこしが実っています。

  豊かな野や山の幸の数かず!―――自然と一体となった、平和極まる純朴な生活!

 このような、時代の別の映画を、僕は5〜6本見ていますが、この、平和な共同体の中で、インディアン達は、どの映画でも共通なのですが、正に「人間」として、慈しみあって暮らしています。

 部落の真ん中には、三内丸山遺跡に見られた巨大な、集会場のような建物があります。

 そこには、人間としての喜怒哀楽、確執は何処の世のものとしてもあった、ようなものは、確認されたでしょうが、白人から見れば、「人を騙す事」など知らない、「自然人」たちの全くのユートピア、と見受けられたと思います。

 西欧文明が、どれほどか、みすぼらしく見えたでしょうか?

 そして、西欧白人たちの、今は、遠くに行ってしまって、もう既に忘れ去ってしまってはいるが、紛れもない祖先である、インデイアンたちと同質の社会を作っていた、原始共同体のケルト人の昔を、かすかに想起させたのではないでしょうか?

 お定まりの小戦争と和解、共存の繰り返し、そこで育ってゆく恋と結婚、 その最後的破綻、インディアン女性の失恋ゆえの、死に至るような、骸のような生活、そして、そして、かつてのような燃え滾るような情熱はないが、穏やかで、静かな、優しみに満ちた再婚生活の到来、彼女は、僥倖を経て、遠くブリティン大英帝国、イングランドにまで、招かれ、出向き、初恋の人、かつての夫と出会い、病み、死にます。

 当事、インディアン達が騙され、西欧に連れ去られ、見世物にされ、九死に一生を得て、帰国する映画も、2〜3、観ました。

 或いは、とうとうと押し寄せる白人移民達とその争いに巻き込まれる不毛な歴史を総括し、先見の明ある指導者に導かれ、カナダの奥地に移動した物語の映画もあります。

 子供の時、アメリカ先住民の白人無き社会で、好戦的リーダーとあくまで平和を追求する青年との「戦争と平和」を巡る闘いの伝説の童話、絵本を読み、僕は胸を弾ませたものでした。

 この時代のインディアンの物語は、尽きせぬ無尽蔵のイマジネーションを、湧かせてくれるのが、僕には、全く不思議です。

 僕は、日本一万年の縄文時代、日本ー環太平洋圏の原始縄文人達の物語と、インディアンが、同じモンゴロイド系のアジア人であることも、重なってか、無性にアメリカ先住民への想いが強くなり、強烈な想像力を掻き立てられさせててゆくのかな、と思う次第です。

 映画「ニュー・ワールド」は,僕と同じ想いを持つ、彼等の祖国、アメリカを真に愛しているが故に、現代アメリカに批判的な人々が、アメリカの過去を憧憬しつつ、未来を変革的に展望する思想的営為をすることによって、創造された、ロマンに満ちた、限りなくピュアーな、美しい映画だと思いました


2006年 5月 19日                    塩見孝也