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*自主日本の会は連合赤軍問題を考える会(仮)を応援しています。

僕が「元赤軍派議長」の看板を掲げ続ける理由
---30周年に際しての連合赤軍問題私的総括
   塩見孝也

このような看板を僕が掲げることを厭わないことについては多少の物議が醸されているようです。

 「同志の死を飯の種にしている」とかのとびっきり悪意に満ちたモノから、「売名行為の自己顕示欲だ。歴史の亡霊が徘徊している」「同志の死を悼むのであればもっと静かにしてやれば良いのではないか」「もっとやることは沢山あり、やりようも考え地味に地道にやったらどうか」等々の否定的モノや、「最後まで責任を誠実にとろうとしている」「責任を引き受けようとしているのは塩見一人ではないか」と言った肯定的なモノまであります。

 僕の方は95年「リハビリ終了宣言」を書いた時の態度で委細意に介さず必要なときはこの看板を当然のこととしてキッパリと掲げ続け、世間に自分流にメッセージを送り続けてきました。

 出獄し僕も生活の資を得るために適当な職を得ようと模索してきた時期があった。塾や予備校の講師等等である。適当な自営業も考えた。しかし警察や反動「右翼」が跳梁し妨害をし続け難しかったし、僕自身の方でもやらなければならないことも重なり定職を固めて行くことにはなりませんでした。

 結局「自分は市民社会に両足突っ込んで初心を貫くことは出来ない人間で、一方で市民社会に片足突っ込み、他方の足は外に出して置くようなスタンスが適当である」と観念しました。

 世間の注目や有名性についても考えました。「有名なことは悪いことではなく良いことで、志と矛盾しない限り利用して良い。知りたいという要求に応え、それらの人々と応答すべく利用すべきである。」と。これでメディアやジャーナリズムへの僕の「頭隠して尻隠さず」の中途半端な態度はふっきれ、ある種の「やくざな評論家」的なりあい、「文筆業」でなにがしかの生活の資を得、活動を保障することも良しとするするようになりました。

 しかし、このなりふり構わず看板をかかげる理由の根本はこの方面から生じたのではなく僕の初心、志、責任意識から生じていることについてははっきりと言っておかなければなりません。しかしに更に煎じ詰めたより深層の意識に潜って、その理由を率直に述べれば僕固有の歴史に基づく倫理観ともいえる分野に根ざすものと言わなければならなりません。

 確かに僕の不器用さ、適性、才質が生活者としての定職を得ることに向いていないことは確かであるがそれは表面的な理由です。

 僕の内面に生活者になりきることを拒む抵抗感というか、強迫観念というか、そんな感覚が心の根底のところに揺曳していると言うことです。それはかっこよく言えば初心、志、責任意識ということ、自分の生き方、自分の学生運動、ブント、赤軍派、連合赤軍問題と獄中非転向20年、リハビリを経ての「自主日本の会」に到る自己史から来るプライドと言って良いものですが、それとも重なるが、本質的にはややそれとずれます。むしろこのプライドと裏腹にある何かと言えます。

 文学的と言うか自己の精神史的分野に属する問題です。

 僕には赤軍派でたおれた望月上史をはじめとする同志達、そして「連合赤軍問題」での12名の同志達がいます。
赤軍派系で言えば5人の同志達がい、沢山の傷ついた同志達がいます。

 そしてこれらの人々の思い、魂を凝集した人として「連合赤軍問題」でたおれた同志遠山美枝子や山田孝が居、やや違った星として同志森恒夫が居ます。

 この3人の人々は亡くなっていった経緯こそ違え、僕と共に生き、僕を信じその為に生命を賭した、僕と最も近しく時が経てば経つ程、より近しくなってきた僕にとって掛け替えのない同志達です。

 このようにして亡くなって彼岸に逝った人々を日本人は古来から神として祀ってきたと解するなら、この3人をはじめとする人々は紛れもなく僕にとって、神と言えます。

 僕はこの3人を内心に於いて神として祀ってきたし、これからも祀ってゆきます。
遠山は赤軍派フラクション結成以来の同志であり、以降常に第一線に立ち闘い続け、一番しんどい時期、一番人がいやがる部署を担い続け、困難な際前面を背負い、勇敢で品性高く崇高な精神の持ち主故に敢えて「山」に行き、理想に殉じました。

 女性でありながらもコマンドとして生きぬかんとし、恋人の高原の意も体しつつ闘わんとしました。
僕にも何度も面会に来、いろんな報告をもたらし、その態度は獄外に居るときと終始かわらずで僕を信じてくれました。

 山田は彼を僕が学生運動に引き入れた人であり、以来赤軍派結成の際も真っ先に関西労働者部分として僕を支持し、馳せ参じ、以降も「連赤」でたおれるまで赤軍派の基幹部分を担い、僕を信じてくれ、共に闘い続けてきた人です。
 病弱ながら理性、知性の人として、その道理の赴くところに忠実で、病気の最中にも関わらず最愛の妻子を残しても敢えて「山」に出征した。革命的知識人と言う言葉が死語でなかった時期において、彼こそその名を冠するに相応しい人物はなかったのではないでしょうか。

 森には申し訳ない、辛い思いをさせたと言う哀惜の念なしに彼を思い浮かべることは出来ません。余人は彼と他の二人、その他の亡くなった同志達と区別を付けるかも知れないが僕にとっては僕を信じ、共に闘いたおれた同志である点で何の変わりもないのです。このことを今こそはっきり言わなければなりません。

 彼についてはいろんな気質的な面、指導者としての才質、力量の面でいろんなことが言われておりそれをあながち否定するつもりは僕もありません。しかし一人の被指導部としてあったなら十分に彼も又勇敢な革命家であった、ことは明らかです。

 しかし、問題なのはそんなことではない。彼が運命の巡り合わせから、僕や八木君等赤軍派創世記の指導部が居なくなった時期に、たまたまその当時の赤軍派(第二次赤軍派)の中枢部分に居たこと。そして彼がその巡り合わせを、敢えて退路を断ちつつ、僕らに代わってその指導部の重責を敢然として引き受けたことです。

 被指導部と指導部では背負い込むべき性質、課題が違い、そこからくる重圧の量質が違い、判断の量質が違い、それに伴う重圧と孤独の質、量が違うことは見識のある人であれば分かってもらえるであろう。

 信じていた僕や田宮が居なくなった時期、僕や田宮ですら解決できないようなより高度で複雑な任務を僕に代行する形で僕を信じ、一人で背負い込み、僕が獄で必死で想像しようとしても限界があったような森閑の森に「河を渡り」入り込んで行ったのです。森閑の森はこれまで戦後人民運動が入り込めなっかたし、入り込むことを拒んだ世界です。

 僕などが必死で想像力を羽ばたかせ想像しようとしても想像しきれない世界に、その
限界ある想像力に基づいて提示された基本的な路線を僕を信じ、ある面でもっとも誠実にあの森閑の森で実行しようとしたのです。指導者としての森は全ての矛盾、僕や川島豪君等獄指導部の限界、新左翼や人民運動総体の限界、矛盾を一切ひっからげてかぶり込み、勇敢にもその役所に挑戦したと言えます。

 この点は永田さんにも言えることです。

 そして彼は“共産主義化”の誤った思想運動の過程でなんの科無き同志を死に追いやる過ちを犯した。その過ちは「共産主義化」の最後の局面で山田や坂口君によって批判されさしあたっては正されました。

 しかし「共産主義化」の誤っていた思想運動とわ言え、その根底の根底には、紛れもなく森君や永田さんも含め12名の人々をはじめとして、「連合赤軍」全体の中に殉教の精神が
流れていたこともハッキリと確認されるべきと思います。

 その精神は高遠な夢のような理想社会をアメリカ、日本両帝国主義の非道なベトナム侵略戦争を憎み、「銃を軸とする殲滅戦」を通じてこの地上に実現することでした。

 その目標は自らを修身すべく、敢えて自傷行為を繰り返し、人柱を積み上げても「銃を軸とする殲滅戦」を実現せんとする執念の確証行為にも凝集することともなった。これは集団の共同主観として形成された側面を有していたとも言えます。

 敵との遭遇は「連合赤軍」全体にたゆとうていた本来の革命への殉教のスピリットを甦らせて行き、「共産主義化」の歪みを正す機会を与えました。その契機は坂口、板東、吉野、加藤兄弟の5人の赤軍兵士に凝集されていきました。

 かくして、「連合赤軍」が請い願っていた「銃を軸とする殲滅戦」は浅間山荘銃撃戦として実現されました。

 あの「共産主義化」の過ちの責任は、あれこれ全てをおしなべれば、最終的には僕や川島豪君にあります。そしてそのことを踏まえてならば、赤軍派、革命左派、連合赤軍総体、極論すれば日本の人民運動総体が負うべきあやまちであると言得ます。しかしその責任は残念にも“共産主義化”の惨状の露呈の直後森と永田さん二人に集中され、森は人民運動の総体の限界、問題点、課題の責任の全てを背負い込み、僕も又救済の手をさしのべきれず、天涯孤独の内に自裁しました。森同志は指導者としての重責を一人で泣き言も言わず引き受けた、否、引き受けさせられた、志操高き日本的な倫理・美意識を持った人であったと思います。

 その孤独の魂は僕や板東君や坂口君に遺言されました。

 今になって、益々痛切に感じてきているのは、彼、彼女等が僕を信じてくれた程に僕は彼彼女達を信じていたのか、と言うことです。 情けなく、申し訳ないことですが彼、彼女等ほどではなかった、のではないか、言う、思いを禁じ得ません。信じてくれたほどに、自分は同志達を信じていたのか、と言う、慙愧の念が募ってゆくにつれ、 僕は3人に代表される人々を神として祀ることを徐々に自覚しこれまで生き続けてきました。

 僕にとって痛切なまでに悲劇であったことは、そしてそれは赤軍派や革命左派、もっと広く言えば人民運動総体に於いての悲劇でもあったのだが、そしてそれこそが「連合赤軍問題」の本質と思いますが、双方とも僕を信じ、僕にとっても掛け替えのない存在であった同志達が銃撃戦を貫徹したとは言え“共産主義化”の修羅の過程で、一方はなんの科無く死にいたり、他方はその後自裁したり、死刑攻撃を受けているとは言え、それを促した側に立ち、両者はやむなくも分裂していったという残酷なまでもの冷厳な事態です。これを自分にとって痛苦な悲劇と言わずしてなんと言ったら良いのでしょうか。 

 僕はこの森君や永田さんをはじめとして連合赤軍が挑戦し、挫折し、その解決を遺言として残した、「“共産主義化”と銃撃戦」としてあった哀切な戦後人民運動の最高峰の峻厳にして悲劇的な課題、矛盾をどう読み解き、解決してゆくか、と言う課題を生涯の課題として、あの事件以降ずっと突きつけられ続け、抱え込まざるを得ませんでした。

 指導部と被指導部として別れながらいずれも、信じてくれるに相応じない僕を信じてくれ、たおれ、今は神となってしまった同志達を胸底に棲まわせつつ、僕はこの課題と向かい合い続けなければならなかった。そしてそれを生きて行く目標、指針、力、喜びの源泉としようとしてきました。

 このような生き方は、他の人々の諸事情を勘案した場合、多分当時議長であった僕以外になし得ない生き方と観念しており、僕はこの任を様々な非難や責任追及、ありとあらゆる質疑に身をさらし、公然と行き詰まって立ち往生すること常態にせよ、逃げることなく、なりふり構わず、生涯にわたって引き受け続けようと決意してきました。

 私ごとのようで申し訳ないのですが、僕が敢えて「元赤軍派議長」の看板を掲げ続けるのは、この覚悟の故と思って下さい。

 尚、僕は30年を経ての「連合赤軍問題」のまとまった見解を本などでまだ発表していません。 年内にそうするつもりですが、その基本ベースとして「私の幸福論」(オークラ出版)を上梓したつもりです。又年内に元赤軍派同志達の内輪の集まりや公開のものとして「30周年に際して、当事者達と若者達が連合赤軍問題を考える(仮)」集会などが準備されていることも合わせて述べておきます。

2002年6月17日