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植垣 康博君、李 紅梅さんの結婚を祝う


2005年8月7日

                    塩見孝也


(一)7月30日、ご両人の結婚式に行ってきました。静岡グランドホテル、中島屋でありました。きちんとした盛大で、良き、僕にとっては、感銘深い結婚式でした。

 二次会は、彼の経営する「スナック・バロン」で行われ、僕は、特別のこととしてか、挨拶を要請され、若干の思うところを述べました。

 6月の終わり頃か、案内状が、中村順英弁護士ら5名の呼びかけ人名義で届きました。手紙に書かれている宛先の筆跡を見ると、紛れも無く、獄で、8年間、毎日ぐらいやり取りしていた、忘れもしない植垣康博君の筆跡であったのです。

 もろもろの事情を勘案すれば、植垣君も承認し、彼の意向でもあった、彼と紅梅さんの結婚式への招待状と判断しました。

 知る人ぞ知る、皆さんなら、僕と植垣君が、この20数年、政治・思想的に確執してきたことは、ご存知のことと思います。

 僕は、もっともっと、「12(14)名を想う」立場、を彼に強調するよう、要求してきたのでした。

 だから、私的性格としてある、結婚式に、彼が招待することは、見ようによっては、僕は「招かれざる客」として応対されることも考えられました。

 又見ようによっては、私的な性格で招いたわけだから、逆に言えば、僕らの確執はそれほどのものでないと、彼が思っている(ないしは思うようになった)と取れないことも無かったわけです。

 僕は、この案内状にどんな意図が込められておれ、参加することを即座に決断したのでした。義理には義理、仁義には仁義で対応する生き方を良しとしようと心掛ける僕には、むろん何の躊躇も無かったのでした。

 それに、僕はどんな事態にも対処しえる十分な自信もあったのでした。
 
 それ以上に、同志・関博明君の死らを大きな契機に、かつての部下同志、それも獄で苦楽を共にした、かつての部下同志の祝い事、新たな人生の再出発の門出を祝福してやりたい人情が、そんな複雑な思惑を跳ね飛ばしつつ、込み上げてきていたのでした。

 結婚式・結婚披露宴は盛大で、寿ぐものでした。両家のご両親、親族、両人の友人・知人が参集していたようで、在日の方もいらっしゃっていました。

 僕は、古くからの友人で、同志でもある静岡在住のN氏とこれに先立って会い、旧懐の情を温め、かつての同志たちで、今も親しい仲間である「連合赤軍問題の全体像を残す会」の人々と合流し、出席しました。

 そこで、僕は、旧1赤(正確には1・5赤?)の、これまで会いたくても会えなかった、S君やH君に再会したのでした。嬉しいことでした。全く申し訳ないことでしたが、宴席をそっちのけに不謹慎にも、彼と話し込んだのでした。



(二)植垣君が「元連合赤軍兵士」の看板を掲げ続け、出獄後も連合赤軍問題の、責任を受け止め続ける姿勢を堅持しているのは、一つの見識と思います。

 それは、僕の「元赤軍派議長」の看板を掲げ、この問題と向かい合い続け、責任を取ろうとする態度と、それを彼が見習ったか否か、は今は、おくとして、相通ずるのがあります。

 歴史の先端的極北を歩んだ運命を刻印されたような人々は、それが若き青春時代の事件であれ、それを、生涯忘れ去ることも、消し去ることも出来ないで生きてゆきます。

 であれば、この、運命を、その運命の主人となって、行き続ける以外に生きる道はないのです。

 やり直すことが出来ないとは言えないが、そうであるにしても、その運命から逃げることなく、それを、屈折させず、真正面から向かい合い、背負い、真実を見詰め続けてゆく以外に、晴れやかに、活力を持って、美しく、生きることは出来ないのです。

 この点で、桁落ちの点や先行き不透明なところも多々あるが、植垣君は自己の運命に忠実に生きていると言ってよいと思います。
 
 その植垣君が、人並みに結婚し、子をなし、家族への責任を果たすことを、表明したことは、彼の自主性をより一層成熟させたものとして、僕は祝いたいのです。

 それにしても、注目しておくべきことは、彼が、朝鮮系中国人の紅梅(ホアンメイ)さんと結婚したことである。

 植垣君のような運命を背負う人物は、ある面で、世間的規格から外れ、野放図、放縦に、実際的にも、内面的に生きざるを得ない。

 であれば、彼の内面まで、物怖じせず、踏み込んで、その琴線に終始触れることが出来るような精神的に強い女性が求められるのである。このように、考えれば、朝鮮人の紅梅さんが登場してくることは必然性があります。
 
 植垣君にもあるであろう、人間の怯惰やいい加減さを戒め、人の道の基本を歩ませしめてゆく様な女性とは、日本女性というより、連合赤軍問題を、何の偏見も無く、ある面でありふれた、闘いの必然事、革命闘争においてありふれた事として見れるような民族の女性、つまり、日本帝国主義によって侵略され、その暴虐のクビキを、自らの力でもって断ち切り、自己解放を勝ち取ったような、アジアの民族、革命的な中国人や朝鮮人の女性などが適切であったということです。
 
 思想的にある面で、緊張する紅梅さんとの夫婦生活、或いは生まれてくる二世(達)との家族生活をつつがなく、こなし切れるか、否かは、彼にとって難題でもあろうが、それを越えてゆくことで、植垣君はより大きくなれるのではないでしょうか?

 そして、連赤問題を正しく総括してゆく、視座をより確かなものとしてゆけるのでしょう。

 赤軍派系のコマンド、革命家の中には、他国、他民族、とりわけ第三世界の女性、男性と結婚した人がかなりいます。重信房子さんや、パレスチナ人のウマイヤさんと結婚し、最近一児をなした足立監督、などがその典型だが、国際主義を闘う精神の核とし、それを、言葉でなく実際に実践した赤軍派であれば、これは当然と言えます。

 そして、植垣君も、この国際主義の精神を実行したわけです。

 二人を見ていて、多分、二人はこれからうまくやってゆくだろう、と僕は思いました。
 
 それにしても、実際に再会した植垣君は、政治・思想的にどの程度かは、未だ測りかねるところがありましたが、生活者として、社会人として、手広く交際し、ハチャメチャナなところはありますが、どっしりとし、頼りがいのある人間に成熟していってるように思えました。
 



(三)僕は、この結婚式に参加する中で、僕の裡の中で、牢固として固まっていた僕と植垣君の間に作られていた溝が、いつの間にか埋められ、取り除かれていったことを確信し、強い歓喜を覚えたのでした。
 
 僕は、獄8年間、共同総括をやり、その後20数年間、永田さんと彼が「裏切る」ような形で訣別することで、もはや永遠に埋まらないとまで思っていた氷のように冷え切った溝、確執が、溶けてゆくのを確実に感じたのでした。
 
 互いの確執はより高く、広い境地に立てば、全く枝葉末節に属することを痛感したのでした。
 
 一番しっかり確認しなければならぬことは、あの’70年安保闘争で、「金も要らない、名誉も地位も歯牙に掛けない」思いを凝縮させ、文字通り、赤軍派は命を賭け、全身全霊で闘ったこと、我々赤軍派、連合赤軍の同志たち全員が、この美しく、綺麗で、崇高な価値ある戦いに身を投じたこと、この行為は世界の全ての宝玉を合わせても、それを問題外に上回る意味と価値を持ったものであったこと、ここから生じた同志間の絆は何物にも換えがたい、崇高な絆であり、この絆の強さこそ、我々旧赤軍派同志たちは、己が作り出したものとして、誇りを持って、しっかり自覚する必要があるということです。
 
 この絆とその自覚があれば、僕等の限界、欠点や或いは生じた諸確執の克服は必ず可能である、と言えます。
 
 次に確認されなければならぬことは以下のことです。
 
 そして、これらの闘いは、様々な欠点、未熟さを含むものの、マルクス主義に殉じた、マルクス主義の殉教者達の闘いであったと言い切ることが出来ます。 
  
 であれば、その過ちは、自らの信じ、殉じようとしてきた「マルクス・レーニン主義の限界」、とりもなおさず、日本と世界の民衆運動の歴史的限界に起因するものであった以上、超えなければならぬ、のは、マルクス主義であり、それをなしてゆくには、あくまで、マルクス主義を土台にしつつも、“マルクス主義の超克”の方向であること、このことだと思います。
 
 この2点こそが、実践的な総括基準であり、後は枝葉末節であること、を僕は痛感したのです。
 
 僕は、このことを植垣君や「全体像を残す会」やN同志と、和気あいあいに語り合う中で、体感したのでした。
  
 連合赤軍問題総括は、この事件に関りあった諸同志たちそれぞれの立場によって、その総括の視角、方法、内容もこの30年余異ならざるを得ませんでした。
 
 あの’71〜’72年ごろ、現場最高指導者の森君の立場、永田さんの立場、「粛清」され、殺された兵士の立場、その人たちの係累で、その悲しみを押し出す遺族の立場、二人の現場指揮官につき従った兵士の立場、獄に居て森君や永田さんに不安を感じ、批判的で、これまでの武装闘争を清算してゆこうとした立場、二人に限界を感じながらも何とかその武装闘争を支持しようとしていた立場ら様々な立場が生まれてきつつありました。
 
 僕の立場は、獄に居て、議長として、僕の代行者の現場指揮官・森同志を基本的に支持しつつも、様々に分裂、分化してゆく動きを、何とかまとめてゆこうとする立場でありました。
 
 赤軍派を創設し、それに責任を持って来、その後も持とうと任じてきた僕のようなものにとっては、僭越かもしれないですが、何とか、無私、空、子に対する親の立場、いわば、こういってよければ、このような具体的な、それぞれの立場を何とか超越せんと目指してきた、僕のような人間には、この分化、分裂は、わが身を引き裂かれるような、なんとも癒しがたい悲しみ、孤独を覚え続けたのでした。
 
 その僕が、選択した立場は、戦うために「殺され」死んでいった、12(14)名の志を受け継ぎ続け、その苦闘を思いやり続けることでした。
 
 ここにこそ、もろもろの立場にある、赤軍派の同志たちを救出し、再団結させる普遍性が内蔵されていると感じ取れたのでした。つまり、遠山美枝子さんや山田孝君らを想いやる立場です。
 
 この、「12名を想う立場」は、正に、「空」としての普遍性でありますから、現実の政治情勢の展開に即しては、「資本主義批判、プロレタリア革命主義」、「天皇制批判、封建社会主義の克服」と時代時代ごとに、そのバリエーションを変化させ、最終的には、「人間自主主義・資本主義批判を孕みこんだ人間中心の民衆主義、民族性と人類主義」へと「マルクス主義を超克」するパラダイム転換の立場に至っています。
 
 しかし、この僕の思想的営為の過程は、他方では、具体的な立場で営為する諸同志達と具体的に行動し、話し合い、実際に通い合う回路を作り出さずに進行し、同志たちには、抽象的で、観念的な空回りする思想的営為にしか、映らざるを得なかったと思います。権力の打ち続く弾圧の継続過程で、獄20年の壁や出獄後の相互不交流の壁が、このことを阻んでも居たのでした。
 
 同志達に、僕は頑固で、狷介居傲な一人夢芝居の思想家、理論家にしか、映らざるを得ない面があったと思います。
 
  又諸同志達も、相互理解を閉ざす、立場に固執する狭さ、僕に対しては「親の心、子知らず」の狭さで対する面があったと思います。
 
 レーニンの言葉で言えば、我々は「イソップの言葉」でしか、分かり合えない境遇に置かれ続けていたのです。
 
 レーニンは1905年から1917頃の間、ボルシェビッキが、ツアーの弾圧下で、言いたいことを真正面から 言えなかったことを、上記のような言葉で表現しています
 
 しかし、この壁は、30年余の歳月の経過の中で、徐々に、実際の同志たちの面貌やその立場を形成する「秘話」に属するような事実も含んだ事実関係を知ってゆくに及んで、実質のある交流、再開が進んで行き、取り除かれていったのです。
 
 僕は、新鮮な形で、諸同志達の立場を理解し、自分の見地と噛み合わせてゆける道筋を発見してゆけるようになったのです。
 
 この過程に「連赤30周年の集い」や旧日本赤軍同志の「帰国」、「よど号」同志たちの全員帰国活動、或いは「連合赤軍事件の全体像を明らかにする会」の活動、主体的には、僕の「幸福論」「赤軍派始末記」「監獄記」などの著述活動などが、大いに寄与したのも事実でしょう。
 
 以上を踏まえるなら、読者の皆さんも、このような「氷解」と和解、相互理解、真の再会の極めて重要な一里塚に、植垣君の結婚式への招待、僕の出席の事態があった、ことを理解していただけると思います。
 
 植垣君にも「12(14)名を想う立場」はちゃんとあること、しかし、植垣君にも、自己を弁護するに足る立場があること、つまり「共産主義化」は兵士たちにとって闘うための必用不可欠な兵士教程であったこと、さらには、永田さん、森君の未熟、個人的資質、器量も関連していたとはいえ、或いは、スターリン主義や野合によって異常に歪曲され、疎外されていたとは言え、連合赤軍問題は根本的には、マルクス主義の歴史的限界からする、人間、民衆、同志の自主性の軽視、軍事至上の美化、中央集権的党組織の弊害の許容によって、必然化されざるを得なかった不可避的事件であったこと、これらの観点は、既に僕においては、幾度も確認され、理論化もされてきたとはいえ、これまでの確執によって靄がかかっていた状態があったのですが、それが、結婚式出席行の中で綺麗に拭いされられていった、といえるわけです。
 
 だから、僕は、この機会を与えてくれた天に、そして植垣君・紅梅さん夫妻、結婚式を保障した呼びかけ人の方々、N氏や「全体像を残す会」の仲間たちに心から、感謝の意を表したいのです。“ありがとう”と。