寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る



我が日本は誰によって守られるのか?アメリカかそれとも日本人自身か。
                       「自主日本の会」代表 塩見孝也


(1) 掲示板に寄稿されている諸君へ、とりわけ幻想的快感君や「日本大衆」君へ

 僕はホームページ「主張」欄の如く、イラクに行って来ます。戦争を起こさせず、未然に防ぐために少しでも役に立てばと、と思い行って来ます。

 アメリカに何の道義もないことは明らかです。命を賭してでも、薄汚い石油強奪のために、人を平気で殺す行為を糾弾する人々が全世界に無数にいることを示す為です。

 非道の暴力に人間は屈せず、それを批判し、無くそうとする存在であることを示す為です。

 諸民族、諸人種が暴力、戦争を発動せずとも、一の人間、一の人類として十分共存、共栄、共和しえること、21世紀がそれを証明する世紀であることを示す為です。

 反戦、平和の本隊はあくまで各国、各民族の民衆の闘いにあります。この闘いを、勇気付け、激励するための一シンボル的行為として、アメリカの侵略行為が如何に下劣で、品性なく、如何に残虐、非道であるか、アメリカ人自身を多大に傷付け、イラク人自身にどれだけの悲惨を強いるかを自ら体感し、それを全世界、とりわけ我が愛する日本、日本人に伝え,アッピールするためです。

 その事実、是非善悪、野望の残虐さと犠牲の悲惨さを最も凝集して体現せんとしている国が今は他でもないイラクだからイラクに行きます。

 いま一つは日本、日本人、日本民衆が世界、平和、福祉の為にこれからもっともっと沢山のことが出来ること、しなければならないこと、日本人が平和を愛し、諸民族と共栄することを切望していることを世界とイラクの人々に伝えるためです。日本人自身にメッセージするためです。

 この意味では多少大時代的になりますが、日本人の非暴力・自主の反戦、平和の心意気、名誉、プライドを示す為に行って来ます。アメリカの尻にくっつき、イージス艦派遣に熱心な日本人ばかりではないことを示すことです。

 最大限、万全の対策はとりますが、世界の反戦平和の勢力が力足らず、空爆等戦争が勃発する可能性は2月下旬からあると言われているように、危険がないわけではなく、その際は仕方ない、犠牲を覚悟しています。

 「平和の盾」となれば本望で、皆さん、塩見もこれまで多々功罪相半ばし、世間を騒がしてきたのだし、幕をとじる運命であれば、これはこれで面白いし、赤飯ぐらい炊いて祝って下さい。

 しかし僕の予感では、そうそうたやすくくたばらない、ように感じるのです。全然死ぬ気がしないのです。天は「もっともっとやるべきことがあるから生きよ」と言っているようです。

 でも一応挨拶しておきます。皆さんお元気で、ご機嫌よう。

(2) さて掲示板の方も佳境に入り、なかなか面白いです。

 幻想的快感氏へ、「イラク攻撃支持」なんてアホなことです。どこからそんな理屈が出てくるのですか。貴兄は理念、理想、、思想と現実を混同し「糞リアリズム」になっています。ネオコンみたいです。理念、理想、思想=人間観についての思想的、哲学的営為が足りません。余りにも没主体、傍観主義、大勢迎合です。

 日本大衆君、「日本はアメリカにくっつく以外生きる道はない」だって!なんと情けなく、悲観的で、弱々しいことでしょう。あなたはこれまで、こんな形で他人任せの生き方をしてきたのですか。こんな生き方こそ最もアメリカの好む所であり、従属売国勢力が育成してきた「青年、日本人像」ではないでしょうか。

 日本人の我々が自らでは、自分を守れない、と思っているのですか。全くたわけたことです。日本人は古来から独立自尊、自分の国は自分で守って来ました。北条時宗ら武士達と民衆の奮闘を想起して下さい。豊かな我が国土は自力更生の無限の力を与えてくれます。日本人は創意工夫し、世界に伍し十分に自分の国、民族を守ってきました。

 こんな恥ずかしい生き方を日本人がしてきたのはたった近代150年、というより戦後54年間だけなのです。日本人は日本人流に主体性を持って独立自主で生きて行けば良いではないか。「そう言う生き方への転換はとてもやれそうにない、難しい」?なんと情けない限りではないですか。はなからあきらめていずやって下さい。今からでも遅くありません。 

 僕は愛国者ですし、人間個人、諸集団、諸民族、諸人種の自衛の為の暴力を認めています。人間中心の非暴力主義が大前提ですが、非道な暴力に対しての自衛の為の暴力は好ましいことではないが、許されるし、事情によっては必要で正しいことであると思っています。  「自主日本の会」は思想にに於ける人間中心、自主の主体性、政治に於ける自主、経済に於ける自立、国防に於ける自衛を唱えてきました。しかし米国の操り人形の「自衛」、日本従属独占の利潤追求の為の軍隊は民衆、民族の為のものでなく,アメリカの為のもの、アメリカの道具、アメリカの利潤追求、覇権、グローバリズムの為のものです。偽物と思っています。

 米国、米軍が我が国と我が民族、民衆を守ってくれる、なんて全くの幻想です。

 戦争の先兵に徹底利用し、「浮沈空母」の日本を自己防衛の盾に利用するだけです。

 自分と自分の民族、国を何故体を張って他の国 アメリカがが守ってくれるでしょう。自分の国、民族は自分で守る以外にない、これは単純だが明快極まる真理です。

 米軍駐留が対アジアであると同時に本質は日本隷属化であることは明らかです。アメリカから自立した、日本国民の国民軍を持つことです。日米安保を基本的には廃棄し、アメリカとは相互不可侵の平和条約の関係に立つことです。当然にもこの原則はアジアの諸国、諸民族にも適用されるし、朝鮮、中国にも適用されます。

 先ずアメリカの戦後築かれた従属構造を打破すること、或いは戦前からの帝国主義利権勢力が逃げ込んできた利潤追求のためには自らの人間と民族の尊厳を捨て、そうすることで他国他民族の人間の命、尊厳を踏みにじってきた日本の従属支配体制とその構造を打破する事です。

 日本には沢山の民衆だけでなく従属を潔しとしない資本家勢力も沢山います。

 これへの段取りは除々の離米、脱米、決定的チャンスを利用しての一挙の実行等いろいろあります。勿論その為の内政の転換、エネルギーや食料自給いろんな問題があります。

 しかし基本は日本人自身のパトリオティズムとしての愛国心、自主精神が鍵です。

パトリオティズムについては、国家主義やファシズム、侵略主義でなく、人間中心・人民性・愛郷心を土台とする民衆自治に立脚し、それを集大成したものでなければなりませんし、あくまで軍事的には専守防衛を原則にするものです。

 敗戦後国家主義、ファシズム、侵略主義の過ちを正しく反省し、このようなパトリオティズムの愛国主義が育つ可能性はあったのです。しかしそれは二つの方面から妨害されました。

 みんなはそれ程自覚していませんが、一番はアメリカです。二番がある面でマルクス主義です。

 アメリカが民主主義や自由、個人主義のアメリカ式価値観を押しつけつつ、日本人の愛国心、ナショナリズムを貶し、民族の精神的背骨をうち砕こうと一貫して系統的に振る舞ったことです。東京裁判が典型で、この東京裁判史観に右翼も左翼も一貫してイカレてきた、と言うことです。左翼もこの枠の中で「階級闘争」を語ったのであり、朝鮮半島の「冷戦」に比べるなら、既に圧倒的力関係は決まってしまっており、日本国内では「冷戦」は終結された構造の中に左翼はあったと言うことです。

 日本を悪くしたのは誰か、と言う議論が噴出しています。「左翼か、自民党か」、そして現今は「左翼だ」と言う議論がまことしやかに流されされてもいます。

 この議論はナショナリズムの問題です。そこをキチンと押さえたら、アメリカ、米軍とそれに従属した売国的勢力が第一、主因であることは明らかで、左翼も又その追随を「マルクス主義・民族否定の世界社会主義ー階級闘争」の名の下に、民族を愛することを捨て、アメリカの戦略を補完した、と見るべきです。右翼も又「民族」を語る外観を呈しつつも、実質は反対側の「階級闘争至上」 、つまり反共至上主義で急所の"民族"の背骨のところをへしおられてしまっているのに無自覚だったのです。どういうことか。「民族と階級を統一する日本の新しい有り様」を打ち出せず分裂してしまったことです。

 その根元はそれを統一出来るような人間観をもっていなかったからです。

 とはいっても、帝国主義侵略戦争の民族的反省の為には可成り長い「冷戦思考」の試行錯誤が必要だったことも事実でしょう。

 この意味では、朝鮮半島ほどではないが、「冷戦」関係に日本も十分影響されていた訳です。但し半島と違って、圧倒的にアメリカ主導でです。

 左翼に問題があったのは確かですが、しかし左翼の影響は決定的ではありません。何故なら戦後の執権勢力は明らかに自民党であり、アメリカの言いなりなる対米従属勢力ではないですか。

 その勢力が90年代アメリカに良いようにあしらわれ、日本は主として経済面で主要打撃を受け、未曾有の危機を招いている、ということです。

 左翼の責任は、このアメリカと従属勢力の枠にはめられ、それを越えられなかった、と言うことです。この意味でマルクス主義、「階級闘争至上」は「人間自主・非暴力、民族自主、資本主義超克、民衆中心」の人間中心の世界観から総括、超克されるべきべきなのです。  「人間自主、民族自主(他民族蔑視反対、自主平等)、民衆中心」のパトリヲティズムが「冷戦」終了以降決定的に求められているのです。

 幻想的快感氏が指摘するように過去やこれまでの日本のなしたことの反省を基本とするも、今回の拉致問題やそれへの対策等は毅然とすべきです。

 しかし、この"毅然"はアメリカに唆されたり、対米売国の利潤第一主義者や他民族拝外の好戦主義者の戦争主義者のものであってはなりません。

 アメリカから脱米しつつつの自衛の国防力を付けつつの自主共存・平和を目指した朝鮮国牽制でなければなりません。非暴力平和の自主思想をもった牽制でないといけません。

 これが今の日本人の主流の考え方ですが、アメリカやその従属の好戦勢力が暴力・戦争礼賛の意見を持ち込み、好戦論を吹聴しているのです。

 決してアーミテージなどの戦争けしかけに屈してはなりません。

 つまり、こういった朝鮮の過ち、「先軍路線」等の責任の大半はー彼ら自身にも原因があるのですがーアメリカとこれに従属した日本の側にもあることを深く認識すべきです。

 また戦前の朝鮮・アジア侵略の過ちに起源することを認識すべきなのです。

 アメリカの手先になっているから狙われるのです。さらに言えば、アメリカの手先になって、自国の安全保障、自衛国防を怠り、他人任せで平和呆けしていたから、隙だらけで、狙われ、そこをつかれたのです。又しっかりした日本民衆と朝鮮民衆の国際主義的絆があれば拉致の悲惨は起こらなかったでしょう。

 アメリカの手先にならず、自主独立し、しかも自衛力と国際連帯を持っていればなんで朝鮮がつっかって来るでしょうか。

 日本が戦前の過ちを誤らず、それを居直って、アメリカ帝国主義の庇護に逃げ込み、あまつさえ、日韓条約では、南を唯一の朝鮮民族の正統政府と認知することで、北を否定し、更に敵視し、民族分断に加担してきたからこそ、敵視するのです。敵視しているのは実は日本の方なのです。

 日本に基地をおき、朝鮮半島(朝鮮)に照準を据え、不断に朝鮮有事を唱えているからです。

 このような日本戦後体制を根本的に改めつつ、非暴力・人間中心の民族と国の自主精神を養いつつ、アメリカに掻き回されず、自衛力を付け、南北朝鮮の連合・統一を見守って行くべきなのです。

 アホな成果なしの犠牲ばかり多い、戦争の感情に犯されてはならないのです。

 朝鮮に余裕を与え、マントを脱がし、自分で自分の国を革新させて行くような日本式の「太陽戦略」が必要なのです。北風ばかりを送ってはなりません。

 そうすればキム・ジョンイル政権が自浄力があれば自己革新するであろうし、なければ民衆が崩壊させます。それは朝鮮民衆自身が決めることで他の国、他の民族があれこれ容喙することではありません。いずれにしても外からの戦争による政権のとっかえは全く間違っており、これは「先軍路線」を勇気づけ、かえって北の朝鮮民族を玉砕覚悟に結束させます。

 日本、日本人、日本民衆はアジア、アフリカ、中南米、西欧と連合しアメリカの帝国主義、覇権主義、グローバリズムの傲慢をを牽制して行くべきなのです。

 勿論アメリカの支配階級と民衆を厳格に区別し、民衆とは連帯してです。世界の民衆の反覇権・平和、諸民族の自主尊重の闘いを基本にして、国際政治を先の如く据えるべきです。

(3) このような対応が出来ていないのは、戦後アメリカの側、左翼の側によっても日本の有り様、ナショナリズムが見えてこなかったことにあります。冷戦の結果でもあります。

 「階級と民族の統一」にはその底に正しい、近代を越えた21世紀的人間観が必要だった、と言う難しい問題があったからです。

 人間と暴力、民族と暴力の問題、「人間とは何か」の問題に踏み込み切れていなかったのです。

 アメリカは「人間の尊厳」「ヒューマニズム」「基本的人権」「人間の自由」ら多々「人間論」を述べましたが、あまり内容はハッキリしないのです。結局それは弱肉強食の競争の自由、拝金主義、個人利己主義、動物的本能の礼賛ら資本主義的人間観です。

マルキストはこれを資本主義イディオロギーと批判し、階級的憎悪心はもったがそれにとって代わる人間観、哲学、世界観を打ち出せませんでした。

 そして資本家・資本主義と同じように個人利己主義、暴力、特権でしか体制を維持し得ず「ソ連」は崩壊しました。資本家と同じ人間観、即物主義的動物的人間観とかわりなかった。

 人間が世界に対して自主的な存在で、これを基本にして社会的共同性を創造して行け、愛と信頼を獲得して行ける存在なこと、不断に関係性を変革して行こうと努力する存在であること。

 隣人の自主性を伸ばし、集団に於ける居場所を作りださんと努力する存在なこと、自主を伸ばすには暴力を拒否する存在なこと、暴力に屈せず自主を伸ばそうとする存在なこと、非暴力・平和を求める存在なこと、僕は階級闘争を否定しないがその底に人間中心の思想を据え、「所有ー階級対立の非和解性ー暴力的残酷さの承認ー暴力革命・プロレタリア独裁」の図式を全力で超克してゆこうと思う。

 自衛の為の武装を認めるが、それは、あくまでそれを不断に越えて行く非暴力・平和の志向、営為を根底においてである。

 このような愛国心、パトリオティズムこそ我が国、我が民族に最も必要とされていると言えます。

                                   2003・2・11