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グローバルなものとローカルなものの、
両義性・相補性とその相克の止揚について
   
九条改憲阻止闘争の性格、展望との関連で

2006年 5月 7日

                    塩見孝也

 昨年の自民党憲法調査会の答申案を、一つの画期として、小泉政権に影がさし始めていることや後継者争い、他方では小沢民主党の登場、「2大政党制」の「定着」志向ら、紆余曲折はありつつも、憲法9条改「正」の政治の歯車は、ごろごろ回り始めています。

 いまや、米軍(自衛隊をより従属軍隊化しつつの)基地再編強化、共謀罪、教育基本法改「正」、国民投票法案制定等の動きと'07年8月参院選、'08年の衆院選と執権勢力の政治照準はピッタリと憲法改悪に合わされ、基本的なロードマップは作られ、それに従って、動いていると言って良いと思います。

 治安弾圧や公安の動きも、これに呼応しつつ、もっとも危険で、衝き易いグループ、個人にピンポイント爆撃をする、実に巧妙な計画的な形となっています。

 いまや、我が日本国の政治は、ある人が、いみじくも指摘するように、「戦後最大の政治危機」の中に入り込みつつある、と言って過言ではない、と思います。

 しかし、危機の面はありますが、別に、敗退したわけでは、ありませんし、危機を打開することに、全くの手懸かりが、ない、訳でもありません。それなりに、理路を積み、順序を追ってゆけば、未だ、充分挽回の見通しは立ちます。

 確かに、土俵際まで追い詰められていますが、寄り切られたわけではなく、まだまだ、寄り返せる、民衆の側の力は充分残っています。

 だから、僕等は悲観主義に落ち込む必要は全くない、と思います。

 我々はさし当たって、参院では、3/1の壁を護り、衆議院では其れを、奪還することです。

 そうすれば,一(ひと)落ち着きします。

 その為には、今のところ、以下二つのことが考えられます。

 一つは、九条改憲阻止の民衆的基盤を何処に求めるか、という問題です。

 もう一つは、この第一の基盤を掘り起こしてゆく上での、どおいった政党的、政派的対応が必要か、という問題です。

 最初の問題では、国際的基盤における、途上国、先進国問わず、現在のアメリカを機軸とするグローバル資本主義の犠牲になっている、世界平和、人類福祉を求める、直(ちょく)のインターナショナルナルな民衆の国際主義的連帯と民族的、国民的な反米統一戦線の一個二重の展開の問題がありますが、日本では、在日コーリアン、ウチナンチュウ(沖縄)、アイヌの人々の問題も入りますが、それは、ここでは、これまでの指摘にとどめます。

 現在の日本社会では、「勝ち組」「負け組み」として、階層格差が進展しています。

 この中で、中間層、小市民層と言われる、中間市民層の意識的部分は、概して「九条の会」に結集しています。この、部分を基本として、より拡大することでしょう。

  しかし、この部分から、やや離れたところにある、「負け組み」とも言える、必死で生きようとし、もがき、にもかかわらず、社会的政治的足がかりを発見し切れてないような、フリーター、各種依存症や閉じこもり、「落ちこぼれ」の青年、援助交際少女、心身障害者、の青年層、或いは、生活保護を受けているような人々、或いは、自殺願望者、男女の熟年者たちです。

 ここに、執権者たちの「セーフティーガード・ネット」らの欺瞞、偽善を暴きつつ、政治の光を差し込ませる、大変難しい問題です。
 第二の問題、政党、政派の関連では以下でしょう。

 先ず、第一に、この30年間の後退戦から学んだ教訓を活かしつつ、民衆の側が、「小異を残して大同に付き」、まず、「9条改憲阻止」で、左翼民衆の側が、過去のしがらみに拘らず、垣根を外し、正しく共闘することが大切です。

 新左翼・全共闘系の人士、社民党系の人士、共産党系の人士が、正しく共闘、連合することです。

 他方では、真に自衛を考え、トータルな解決を求める、中庸、和を問題にする良き面も持つものの、他面で、インチキ的な「自衛権」論に侵され、これを、前提とする面も持つ、反安保や反アジアの間を彷徨う「愛国」派や専守防衛派、「国民主義」など、あやふやさを持つ、動揺的で、二面的、文字通り日和見的、風見鶏的潮流、とも言える、自民党案に賛成しない「改憲」派の人々の存在です。

 この潮流を、ダブルスタンダードな構造で、政敵の執権勢力、従属と保守の「改憲派」の側につかさせ無いようにし、切り離し、中立化せしめるか、味方の民衆派の側に立たせるような、統一戦線的対応が必要です。

 このような陣形を、僕等は今年10・21国際反戦デー前後に創出する必要があります。

  このためには、九条反改憲の攻勢的理念を打ち立てる必要があります。

 「国民国家」を前提とする“守り”の姿勢ではなく、九条を世界的、人類史的視野で捉え返し,攻勢的に、位置づけ直すことだと思います。

 世界平和、人類福祉、人類共同体、世界民衆共和国に向けて、「戦争は人類には付き物」といった宿命論を打ち破る「常備軍無き国家」の方向が、資本主義のグローバリズム独占資本主義の段階への到達を経て、この物質的、文化的条件が、自己否定的に、グローバリズム独占資本主義の展開、それ自身の中から、生まれつつあることに、僕等は、しっかりと着目すべきです。
 この可能性を、民衆の側が、アメリカ的グローバルスタンダードを反面教師的に捉えることで、長期的、大状況的視野で、真っ向、正面から「世界平和」「人類福祉」に向けた「人類共同体」「世界民衆共和国」の方向を、全面に押し出し、徹底的に、現実化してゆくことです。

 「国民国家を超えて行く」回路、道筋が、その大筋において、見え始め、拓け始めて来ているのですから、この見地を、徹底的に、全面的に展開すべきです。

 これが、九条改悪を阻止し、執権勢力に対置する基本的な理念の基礎、方向、道と思います。

 九条、つまり、先の悲惨な戦争の国民的体験を、世界と人類協同(史)にリンクする意義ある回路と思います。

 米中ら軍拡の嵐の中で、日本民衆が、憲法九条を改悪しないで、確固として、堅持し、活かして、理念的、道義的に,毅然として、これに対抗して、21世紀に、進んでゆける、徳と信義をもった、基本理念、方向だと思います。

 ところで、とは言え、このようなピュアーでイディアルな方向で、「国民国家」の呪縛を超え、勝って行く道を追求しつつも、しかし又同時に、「国民国家」を、他方では前提にしなければ、それは実現してゆけない、のも事実です。

 そこに、「世界的なもの」と「一国的なもの」との一個二重的連関、「類的なもの」と「民族的なもの」の連関、「グローバルなもの」と「ローカルなもの」との関係、つまり、「グローカル」の問題が登場してきているわけです。

 みんな、この二項対立的要素は、相補的で、矛盾的自己同一関係にあり、みんな両義的なモメントといえます。

 つまり、 現今のグローバリズムの時代、グローバルな要素はローカルなものを前提にしなければ発展し得ない、ローカルな要素は、グローバルな要素を前提にし、グローバルな視野から捉えて行かないと、解決し得ない、「世界」と「一国」、「類]」と「民族」の関連も同じような関係にあります。

 「グローバル無きローカリズム」は、国民国家至上となり、保守反動となり、ローカルを活かさない、「ローカル無きグローバル」は、無力で、平板なコスモポリタニズムとなり、アメリカ帝国主義のグローバルスタンダードにしてやられてしまいますし、又、一国主義のローカリズムに足を掬われます。

 僕が、人間中心、民衆中心、民主主義と主権在民を基本ベースとしつつも、“国民主義”や“愛国主義”に拘っているのは、この観点からであり、決して、世界や人類の視点を否定しているのではいるのではありません。

 そう、認識される方がいらっしゃるとすれば、それは、全くの誤解です。

 そればかりか、この視点を、いつも前提にして語ってきました。

 何故なら、「世界同時革命」を僕は、70年闘争の頃から、今まで、ずっと掲げてきたのですから。

 拘ってきたのは、これと、「一国」「民族」「ローカル」の関係です。

 ここに、資本主義批判を持った、“人間的”(自主、自立し、世界に対して主体者であるような自由なる人の)で、“民衆的”、“国際主義的=人類協同的”モメントに芯を置いた、つまり、上記した、「常備軍無き国民国家」から、「国家死滅→人類共同体(=世界民衆共和国)」に向け、真に、国民主義的(=共和主義的)な、真に愛国的=パトリオティズム的(「国民国家」論を批判する愛郷主義.愛くに主義的な)愛国心(愛くに心)な、政治思想、作風が“リソリュジュメント(復興)”されなければならない、由縁があります。

 つまり、世界的視野、人類史的視野をしっかり、これを、追及し、見据えつつも、他方で、この見地から、いつも「民族」と「国民」への“こだわり”を持ってゆく必要がある、ということです。

  この観点でこそ、上記した、インチキ「自衛論」を思想的哲学的に批判する、ピュアーにして、イディアリスティクな世界福祉と人類平和をもっとも優先させる、左翼民衆共闘と他方での、現実主義的な“民族”的、“国民”的な統一戦線のダブルスタンダードな陣形の必要が認識され、現実に可能となると考えます。

 諸モーメントの相補性、両義性を如何に捉え、位置づけるかが、一番難しい問題なのでは、ないでしょうか?

2006年 5月 7日                    塩見孝也