寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る

朝鮮国核実験声明と日本民衆、民族、国民のとるべき態度について

塩見孝也

2006年 10月 6日
                    

 朝鮮国が、核実験実行の声名を出しました。

 「抑止的自衛暴力」とか、「非核を目指して」、とか、「アメリカ政府を交渉の場に引き出す」「駆引き」、とかが、その主張です。

 ほんの少しは、分からぬこともないですが、「戦争に反対し、世界平和を求める」者として、「あらゆる国の核武装、核実験に反対する」立場、或いは、その根元である「あらゆる国民国家(自衛)」の「常備軍」保持、を否定する者として、或いはこの見地から、我が日本国の歴代の自民党政権や現安倍政権の反動的、超国家主義的、ネオ軍国主義的「常備軍の公的保持」「戦争肯定」の改憲の動きに対して「9条改憲阻止」を徹底的に貫かんとしている、民衆の一人として、この基本原則に照らして、徹底的に反対します。

 朝鮮国為政者(達)が、真に民衆を思う、大義の人(達)、仁愛、仁徳の人(達)であるならば、このような軍事至上主義、軍事的冒険主義の「国民国家」を前提とする、「一国主義」の「パトリオット・ゲーム」は、即時やめるべきです。

 このような、志向が、どれほど日本とアジア、世界の民衆の安寧を危険に晒し、日本やアメリカ帝国主義の政治を利しているかを朝鮮国指導者達は知るべきです。

 このような思考、志向は、既に完全に破産が証明された、米ソ冷戦時代のソ連スターリニストの「国民国家」「一国主義」を前提とする、執権勢力の権力保持、エゴ防衛の軍拡主義のそれと全く同じと言えます。

 真に民衆、民族、人類を思う、自主革命家なら、下野して、仮に反革命によって八つ裂きにされる危険があっても、民衆中心主義の「世界人類共同体」「世界民衆共和国」「世界同時革命」の見地、立場に立ち、国際主義を貫き通すべき、と思います。

 真の民衆、民族の自衛は、世界と自国の人間の命と自主性を最高尊貴する民衆の国際主義的連帯によって唯一実現されるものと、僕は固く信じます。

 とは言え、このような事態に追い込んだ基本要因は、アメリカ帝国主義とこれに従属する日本帝国主義の朝鮮戦争以来の、日本国に於いては、明治以来からの朝鮮民族、民衆への侵略、支配、植民地化の延長として、朝鮮人蔑視、朝鮮国敵視、包囲、孤立化、朝鮮民族分断支配、の政治にあることを僕は強調します。

 僕は、アメリカ帝国主義のこのような、政治、戦略、政策を徹底的に批判し、日本とアメリカ、世界の民衆の国際主義的結合とそれに基づく闘いを強調します。

 当然にも、僕は、日本に於いて、これを契機に高まるであろう、朝鮮国排外主義の熱狂、そこからの軍事力強化、核武装化の動き、「改憲」熱に対して、これと対決し、批判しぬき、叉対米従属の日米安保体制再編強化を徹底批判し、闘います。

 たとへ、この行動を「売国奴」「非国民」と言われようと、実行します。

 僕は、この際、「非国民」「売国奴」と言われることを誇りとします。

 何故なら、「祖国」を愛さないが故に、そうするのではなく、その反対に、僕等、民衆こそが、誰よりも「祖国」を真に愛するが故に、そうするのだ、と信念しています。

「祖国」に生きる9割以上の勤労民衆を熱烈に愛しているが故に、そのために、勤労民衆が犠牲にならないよう、世界平和を求めるが故に、自国の戦争準備、軍事力強化に反対するのです。

 民衆とは、労働者のみならず、平和を愛し、真の国と民族の自主を考え、人類の未来を考える、戦争推進に反対し、民衆の福祉を考える資本家、大資本家、時には一部独占資本家すら入ります。

 事態は、本来、国際主義的である、民衆が「国民国家」と言うマヤカシの幻想上の“共同体”(実際は、資本家支配階級の利益を実現するための、民衆抑圧、支配の装置)によって、分断されて、各国家毎に、それを牛耳る支配階級の利益実現の為に、良いように利用され、各国毎に分断され、操られ、犠牲にされ、相闘い合わされんとしている、ところに本質があると思います。

 戦争や核戦争抑止の核軍拡競争によって、利益を得るのは、(主として大独占資本か、それも対米従属の)資本家ら支配階級であり、民衆はそれによって耐乏を要求され、犠牲にされ、マヤカシの戦争熱によって、現実の深刻な矛盾を没却され、さらに戦争熱に駆り立てられてゆきます。

 そればかりか、この軍拡、とりわけ核軍拡は、支配階級すらも含んだ人類絶滅の危険を増大させます。

 ナント、全く、馬鹿らしく、愚か極まる行動、政治現象でしょう。

 安倍などのインチキの「勇ましさ」「英雄主義」などに騙されてはいけません。

 民衆、人間の真の勇気、真の英雄性は、如何なる暴虐に遭おう、とこれに屈せず、戦争の根源、資本主義と国民国家のマヤカシを批判し、目先の事象に振り回されず、孤立を恐れず、一切の戦争準備を批判しぬくところにあります。

幸い、僕等日本民衆、国民は世界に誇れる、「交戦権と一切の軍事力」を否定する憲法を保持しています。

 僕等日本民衆は、この憲法条項を、しっかりと、堅持し、核軍拡を含んだ軍拡競争を拒否、批判し、この軍拡の嵐に抗して、我が日本国を、文字通り、「常備軍を廃止した」世界平和の砦にすべく奮闘すべきです。

 その事によって、日本民衆、民族、国民は世界、人類に貢献すべきです。

 決して、1対1的な一国主義の「国民国家政治」の沼地に彷徨いこんではなりません。

 平和を求めておれば、犠牲は伴わないと、いった思い込みとは、この際、訣別しましょう。

 戦争推進だけに犠牲が付き物で、これに反対する平和を求める闘いには、犠牲は伴わないと考えるなら、これは全くの浅はかな考えです。

 犠牲とその為の覚悟を伴わない平和、ある面で、命を的としない、犠牲を伴わないような平和闘争が一体何処に、これまであったでしょうか?

 非暴力思想を唱えれば唱えるほど、それに従って行動すればするほど、そのような行動それ自体から、独自な覚悟と犠牲が伴ってきます。

 僕等は、このような覚悟を固め、敢えて必要ならそのような犠牲を甘受しようではありませんか。
 今ひとつ、このような覚悟と犠牲に関して、ある人々は言います。

 「“非暴力”、“不服従、“非武装中立”、実に結構なことだ。しかし、ある国の、ある“狂人”の指導者が、核ミサイルを撃ち込んできたなら、あなた方はどうするのだ」と。
 このような、ぎりぎりの質問に対しても、僕等は、臆さず、次のように答えるべきでしょう。

 「確かにそのような危険を否定しない。それこそ、人類の積み重ねてきた愚かしさの集積が、そのような危険を生み出している、と思います。しかし、核軍拡を含んだ、軍拡競争の嵐の中で発生する偶発的核戦争や本格的核戦争の危険性、その確率に比べれば、比喩的に言えば、万対1、億対1の確率だと思います。」

 「同じ死ぬなら、人を殺し、他民族を皆殺しにし、人類全体を絶滅させるようなチキンゲームやその実際の実行をするよりは、全くはないとは言えない、核ミサイル攻撃の可能性についても、僕等は、非暴力、非武装の選択を取ります。前者には命を賭け、死ぬに値する価値など何処にも見出せません。

 後者の選択には、仕方がない死かも知れないが、人間として、 民衆として、日本人として、人類として、死ぬに値するだけの価値があります。」

 「何故なら、そのような選択の方が圧倒的に、人間的で、民衆的で、日本人が体験した悲惨な戦争の国民的体験からの教訓に合致しているから」と。

 さらに次のようにも言います。

 「これは、一種の二者択一のギャンブルと言えます。僕等は、そのギャンブル性に目をつぶり、そういった性質の要素がないなど、と嘘を言ったり、自己欺瞞することはとてもできません。実際に、ギャンブル性があるからです。

 しかし、一体、人類史に於いて、未来の平坦が約束されたような、予定調和の歴史的選択が一度だってあったでしょうか。ありはしません。

 人類の歴史は、常に、ある種の、人類の英知を賭けた、ギャンブルの連続ではなかったでしょうか?」

 「可能性、確率が零とは言えず、そのことを冷静に見つめた上で、敢えて、僕等は非暴力、非武装の道を選択するのです。

 何故なら、その選択のほうが、人類の未来を代表しえているからです。 人を殺し、他民族を殺し、人類絶滅の危険を必至とするような非人間的、非民衆的な選択より、遥かに叡智に充ちているからだ」と。

 さらに「自国の軍事力強化、日本では、対米従属の安保体制を、廃止する闘いを、世界、アメリカ、アジアの民衆としっかりと結合し、日本民衆が死に物狂いで闘えば闘うほど、この確率はゼロに近づく、どんな人間、民衆、民族、人類でも参画できる、主体的参画の方途、要素がここには孕まれているではないですか?」

 「馬鹿の“狂人”が、このように闘っている民衆、民族に核ミサイルを撃ち込む道義性が、一体何処にあるでしょう」「そのことが、暗愚と化した“狂人”のリーダーすらも規定するのだと」と。

塩見孝也