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人間の自主性についての覚書(その2)

2005年8月16日

                    塩見孝也


(四)自主性が愛や幸せ、徳、倫理・道徳を生み出すプロセス、構造とは?

 この自主性の成長を個の側からでなく、群れ、集団から、個に向けた関係として、逆の側から考察して行くともっと、自主性の意義がもっと明瞭にされてゆきます。
 集団の成員である個が、独立自尊し、社会奉仕、隣人奉仕をしてゆくなら、集団や隣人はどう反応、対応するでしょうか?

 当然にも、その個を貴重な、必要欠くべからざる存在として、認めるでしょう。最初は、それは実利的意味合いを持つ、相互主義的な、互恵的性格とし対したでありましょうが、その繰り返しの中で、その対し方は変化し、精神的、情緒的性格に変化し、かつ集団全体としての認知的承認に至ってゆくでしょう。

 つまり、集団はその個(体)に対し、掛け替えも無い集団にとって、必要な存在、つまり尊敬し、慈しみ、愛おしい存在、つまり情緒的、精神的な要素を含んだもの、つまり外的な関係が、内面化し、内面的規制、つまり、愛と信頼、尊敬の関係の対象として認知してゆくでしょう。

 最初、実利的、相互主義的であった互恵・互助の関係は、集団と集団成員間に内面化して行き、合理的であると同時に精神的な要素に転化し、愛と信頼、信義の関係で対するようになります。

 このように、ヒトは自主性を育ててゆく中で、愛とか信頼とか信義とか、人間固有の精神的、情緒的な活動、つまり精神世界を豊かにし、多様化し、それを、集団全体の規制としてゆくでしょう。

 この規制が、倫理、道徳であるわけです。

 このことを、今度は、個の側から捉え返し、どのような変化が生じるかを考察してみましょう。

 ヒトは自主性を持って集団奉仕する過程で、最初、相互主義の互酬的対応かと受け止めつつも、それは、それを内面化しつつ、生きることの充足感、言ってみれば、自分の生きる意義、価値、幸せ感を覚えてゆくでしょう。

 ヒトはここで、内面的価値、相互に掛がえのない存在関係の意識、つまり愛、言い換えれば、幸せという人生の最高価値とする価値意識を作り出してゆきます。

 集団相互間においては、信義の関係、そこから派生する様々な倫理、道徳の萌芽を育て、この関係の最高の関係として、東洋では、相互に信頼し、尊敬し、自然に尊敬し、無償で尽くしあう関係、つまり、徳の関係を人間の最高の目標と定めてゆきます。

 このような、内面的、外面的な人と人の関係が生じてゆくにつれ、ヒトは人となり、群れ、集団は、人間の社会、社会となっていたとも思われます。



(五)共同性、協同性と協働性の語義、その相違ついて

 僕は唯物論者であり、観念論者ではありません。

 僕のここまでの展開から、「塩見は観念論者になったのか?」と仮に思う人がいらっしゃるかもしれません。或いはこのようなことを「為にするする」政治的議論家に予め駁論しておく為に、その人達のためにも、これまでの主張が、観念論的見地から展開されたのではないこと、むしろ真の意味での唯物論の見地で展開されていることを、ここでは説明します。

 僕が主張したかったのは、幾度もこれまで、強調して来ましたように、道具の使用、そこから直線的、機械論的に人間の社会性、能動性、自主性を演繹してゆこうとする見解は無理があるということです。

 そのような機械論的物質や経済 還元論、道具フェティストに対して、そんなに人間や人間社会は単純に作り出されていったのではないこと、経済を、物質的諸関係を原基としつつも、そこに至るには、社会的共同性(協同性)、広い意味での文化性が介在し、この受け皿無くしては、この自主性を持った共同性と、道具使用から来る協働性とその知見の綜合なくしては、ヒトから人間、社会が現出されていかないこと、煎じ詰めれば、社会的性質の自主性の要素を介在させずしてはこの現出は説明できないこと、を強調したかったわけです。

この為には、社会的共同性、協同性と道具を使う協働性とは連関しているが、その本質において厳密には異質であることの説明から始めるのが分かりやすいと思います。

 協同と協働はいずれも“協”がつくが、“同”と“働”には本質的な違いがあり、「同」は社会全体の構造に規定され、「働」の方は生命維持活動の側面、そのために、動物も人間も共通の体を動かす、の側面、経済活動の側面を意味します。

 この「協働」から「協同」に至るには「協働」を前提にしつつも、前者から後者にいたる過程には歴史的長い過程があり、ヒトから人に自己変革して行く別の性質の基本モーメンントとしての集団性とその絆の質の変化、言い換えれば、生物が本性的、本能的に持つ、種の保存本能からくる群れ性とこれに規定されて、個体の自己保存本能を発達させるような、ヒトの中にある自主性の萌芽の関連から生ずる集団性ともいえるようなもの、後に「社会性」といわれるようになるヒトの関係の全部面性、総合性のモーメントを介在させることなくしては説明できない、ということです。

 この要因を容れずして、どうして、人間、人間社会の性質、構造を解析することが出来るでしょうか?

 これを、道具の駆使と協働からだけ説けるでしょうか?絶対的に、説けはしない。

 こういう意味に於いて、僕は「共同性」と「協同性」を基本的には同義と考えます。そして「協働性」と区別するわけです。
 唯物論者、マルクス、エンゲルスは、道具、協働から強引に共同性を説こうとしているわけです。

 一番分かりやすいところから説明しますと、道具としての石を例に挙げます。

 猿は、外敵から自集団を防衛したり自集団の群れを維持するため、協働したりもします。季節、季節に応じて集団で移動し、木の実や住みやすい場所を得るために移動します。ライオンは集団で、獲物を得るために、手分けして行動もします。  

 更に進んで、猿はこの石片を使って、くるみや貝を割ったり、殻を割ったりします。ここまでは、サルもヒトも同じかもしれません。

 猿は最初にこの行為をしたサルを真似、ほとんどのサルがそうするでしょう。しかし、猿はそこまでです。しかし、ヒトはその石をより鋭くしたり、磨いたりするでしょうし、そのためにそれに適した石を集団で集めたり、鋭化することを協働でやったりします。

 更にヒトは進めば、その尖り鋭化したもので穴を掘ったり、動物の以外や食料をを埋め、保存したり、動物の遺骸根茎を掘り出したりしたりするだろうし、それを木の先に括りつけ槍にし、狩猟の道具としてゆきます。

 ここまでくると、もうこの集団的行動は、人間の共同社会(協同社会)を前提とすることに於いて、槍は道具というよりは、明らかに生産手段になっていると言えます。
 確かに、槍を中心とする狩猟活動は、この生産手段を通じて、人間の協働性を進化させ、社会の構造を変えていったといえるモメントであろうが、この狩猟活動には氏族、部族の纏まり、一定の文化、政治があり、リーダーが居、その社会の中で、狩猟部隊が編成され、その部隊の中で、いろんな部隊配置が決まって行ったでしょう。

 だから、槍を使ったことに於いてすら、それが直線的に社会の内部関係を変えていったとは、簡単に言えないのである。

 しかし、言いたいのはそういったことではなく、もっとそれ以前のヒトが石片を道具として使いながら、ヒトから人に自己変革して行った、その境界線の構造についてです。

 この構造については、マルクスやエンゲルスが、経済・物質関係を強調する余り、結局は、動物集団の群れ性、集団性の継承のヒト集団への継承というモーメントを無視してきた、ということです。

 道具の使用と協働、そしてその知見を、ヒト集団が受け止め、社会化する集団性、共同性(協同性)という受け皿の存在とその変革の確認なくしては、その総合なくしては不可能だ、ということです。

 つまり、内容を受け止める動物、ヒト、人間の存在形式、そこでの形式の相互作用の分析が必要なのです。

 群れ、集団におけるその防衛、発展の要求は、決してその成員の個別利害の総和ではなく、それを包含する、別次元、別の質の集団、群れの共通要求、利害として、元々あり、それは種を存続させるために、固体が本能的に従うものです。

 動物は、群れをつくり、これでもって、外敵に対し、或いは自然の驚異や自然の活用に役立てて行きます。

 この「群れ」としての集団の存続要求、その継承抜きに、人間の社会性、共同性は語りえないといいことです。

 マルクスは、飲食、衣、住を人間の生命存続の基本エリメントとしますが、マルクスはそれ以上に重要な、この決定的要素を全く見落としています。

 マルクスの言っているエリメントなど高々平時の市民社会で、民衆の生活風景から導出される以上のものではありません。

 まず、戦争、侵略、征服、人間が暴力を使って、ヒトを屈服させる事象、命のやり取り、社会内部で、健康で体力、力が強くて、暴力、喧嘩、少武力と小戦争技術でのし上がってゆく奴、とそうでないやつが居る、人間の生死、法を超えた親子や恋人、夫婦の絆の深さがあるし、生殖、種の存続とも根底で連関する、雄、メスの選択の争い、恋があり、天変地異、自然災害や疫病の人間への甚大な影響も存続している、人間の最も固い絆、親子や恋人等の関係は、社会にとって、如何なる比重、位置を持って影響するのか、このような事柄は群れ性、集団性、その質を変えた社会性の要素を容れずしてどうして道具と協働そしてその知見のみでどうして説明されるでしょうか?

 これら直接的に人間の生死、生命に関わるような最重要な事柄を、経済からだけで直接的に説明して行けるでしょうか?このような事態の中で占める人間の的確な判断力、不屈の勇気、意志の力、美しいものや快を求める絶対的に強い欲求などは、どの程度の集団、社会存続に、位置、比重を占めるのか?

 圧制や政治の腐敗に対する英雄的犠牲的行動、或いは革命的行動は直線的に衣食住からのみで説明できるでしょうか?

 否です。



 (六) 先覚者、指導者(リーダー)と自主性について

  動物、概して哺乳類は、群れのリーダー、ボスを中心に纏まった、集団行動をします。

当然、ヒト集団もそうです。

  ヒトが雷か、何かの原因で発生した火によって、肉や採集食物を焼いたたり、水を湯にしたり、暖を取れることを知り、そのために火を消えないように維持したりすれば、多くの利便があることを覚えたりするでしょう。それから火打石を発明するまでは、又長い時間がかかったりするかもしれません。

切片を道具にし、砕いたり、磨いたりし、生活用具にしたり、狩猟の道具にしたり、ある時期では武器にしたりもするでしょう。

いずれにしても、最初は偶然だが、それをヒト集団が、それを、自己保存、種保存の本能から来る集団性と結合させ、そのことによって、火や石片を社会的生産手段に変革させていったことは明らかです。

他方では、その、自らの集団性を変えていったことも明瞭です。

 ここで、注意しなければならないのは、偶然性や最初の経験を集団的、社会的にしてゆく先覚者やリーダーが居て、それをこの人々が社会的にしていったということです。

 だから、自主性、自己意識、つまり、独立自尊の意識は、最初、この先覚者やリーダーの内に芽生え、内面化されつつ、それが、一方では、社会奉仕、協同性に寄与し、他方では道具を軸とする協働性に寄与し、両者を変革し、融合させていったと考えられます。

 だから、2節で強調した、群れ的集団性と自己保存の生命維持活動を結合させ、融合させていった自主性の発生、成長の問題は、実際は、先覚者やリーダーのうちに芽生え、それが成員全体に伝播し、社会的集団の内外秩序、規制を作り、他方で道具とそこでの知見、協働を発達させていったこととして確認される必要があります。

 一方での道具の使用とその知見、他方での種の自己保存要求か来る集団性、「社会性」を結合、融合させる、自主性、或いはそれを機軸とする自己意識は、先覚者やリーダーであった固体から芽生えてゆくのでした。

 しかも、ここで注意しておかなければならないのは、火の偶然的な利用、活用の最初の発見者、或いは石片の最初の道具としての利用者のその発見、利用の自ら覚える感激の意識から来る以上に、それが、群れ、集団に役立ち、集団利益に寄与することに於いて、集団から感謝され、必要な存在と認知され、尊敬され、愛されることに於いて、その自主性と自己意識を完成させるということです。つまり、集団に認知され、自己の行為が社会的に認知されることに於いて完結するということです。

 このような認知をする個が、その最初の発見者、利用者で、たまたまあったかもしれないが、そのことは本来偶発的なことで、一般にはその事態を、認知し、社会化する先覚者、リーダーにおいてであるということです。

 言い換えれば、自主性は、個の発明や発見をベースにしつつも、いったん集団利益に返され、この過程を通じて、芽生え、定着して行くのであります。

 つまり、自主性、独立自尊の精神、意識はあくまで個から生まれながら、他方では、あくまで、社会に役立ち、必用とされる関係、社会的認知に於いて確立し行くということです。



 (七)事実認識と価値判断について――人間中心主義と自主性の真相とは?

 ここで、この問題を哲学上の命題、事実認識と価値判断との関連で考察してみましょう。

 これと、関連する哲学上の命題では、存在と当為の問題です。いくらかずれますが、客観と主観の問題でもあります。

 一般に、事実認識とは対象の認識、大体は自然認識、それに加えて社会認識、更にそれに加えて、意識・精神認識を対象にします。

 ここでは、主として、道具、自然と人間の関連での考察ですから、自然認識から始めます。 しかし、一番困難なのは、意識・精神を対象とする事実認識と価値判断の問題なのです。

 道具の使用は、ヒト、人における人間と自然の関係ですから、ここにおいて、一般的に確認されるように、自然に対して、動物は自然に適応することが出来ても、自然を、自分の要求に合わせて、変革することが出来ないから、ここに動物と人間の境界線が敷かれる、となるわけです。

この認識は、全く間違っていないが、この道具の使用と協働、そしてその知見が決定的とも言える境界線であり、ここで、ヒト、人は自然の法則を知り、それを活用する出発点を獲得します。

 しかし、これまでの確認のように、ここには種の保存に淵源を持つ、集団性、共同性、を容れずしては、つまり、動物、ヒト、人の存在形式を容れずしては、更には人間の自主性のエリメンントを設定せずしては、その境界線の構造、プロセスも明らかに出来ないわけです。

 近代では、資本制と一体に唯物論と科学が人間の価値意識のベースにおかれてきました。それまで、そこに首座を占めてきた神、宗教は半ば追放されることとなりました。

 そして、ロシア革命をもって、神は完全に追放されたように見えましたが、それを、主導したマルクス・エンゲルスの唯物論と科学主義が、人間の存在形式、社会性と人間の本性、自主性を位置づける、パラダイムを確立し得なかったが故に、初期社会主義は、その歴史的役割を終え、終焉することとなりました。

 マルクス主義のパラダイムが、本質的には近代の唯物論、科学主義、法則決定論とも法則物神化の限界を超えられず、人間論にいたっては、ダーウィン進化論の域を出なかったことに起因します。

 マルクスも、エンゲルスもダーウィニズムによる神、宗教の批判を高く評価したものの、それに留まり、その批判をなしえなかったのである。

 人間を動物とみなしたのは良いが、人間が動物とは異なる本性を獲得することで、動物を超えた存在であること、すなわち人間特有の社会性を、動物の集団性とは異なった、自然の科学的認識を繰り込みつつ、獲得してきたこと、すなわち、自主性を獲得し、自主的な社会、社会関係を獲得してきたこと、このことを明らかにしえなかったわけです。

 以上を踏まえた場合、事実認識は自然の法則、社会の法則、意識の法則の科学的解明といった問題となるわけですが、残念ながら、この法則解明とは一体誰のためのもので、どのような目的、条件で、どのように限定的に解明されてゆくかについては、検討されてゆきませんでした。

 客観的な絶対普遍の法則、摂理があるかもしれない。僕はあると思います。

しかし、あったとしても人間はそれを、それを知りことは出来ないし、又知る必要もありません。

 このことを、強調したからといってどれだけの意味があるでしょう。

 人間は、その時代、その時の、人間的課題、要求を実現するために、試行錯誤し、実践し、科学し、その時代のコンセンサスを作り出して行くのであり、この課題、要求と離れて、実践も、科学もあり得ないし、実際、人間はそれ以上のことを望まないし、望む必要もないです。

 人間はその時代において、その時代との関連で、知れること以外に知れはしないし、それ以上を望む必要もないし、それでよいのです。
 科学の人間にとっての必要性も明らかであるが、他方では、科学の限界も明らかなのです。又それで、いいのです。

 確認されなければならないのは、人間の幸福、愛、徳、或いは様々な倫理、道徳の本質的部分、つまり生きる価値の普遍性であり、その核心としての自主性にとって科学、法則、事実認識が役立てられれば良いということです。

 つまり、事実認識は、本来、価値判断の素材であり、その従者として、常に、そこに、繰り込まれた存在だということです。

 あくまで、人間中心に物を考えてゆけばよいわけです。

だから、道具の使用と協働、その知見を持って、それを事実認識の基本としたり、するのも過ちなわけです。

 事実認識は、社会の福祉の促進、そのための人間の自主性の強化のための、手段、素材以上を出ないのです。

 言い換えれば、近代の事実の認識方法としてあった、あたかも人間が、物質、自然の外にあって、超然たるポジションを持ち、そこから観察、事件することが出来るとする科学的方法、観点の過ちの問題です。

 ここから、「客観、主観」という二項対立概念を創出し、科学の土台としてきたわけですが、「客観的存在」があるにしても、それを知ろうとする存在は、人間であり、人間は、物質、自然の内部の存在であり、決して、観察主体やその意識はそこから、超然としてはあり得ないのです。

 であれば、「客観的知見」もまた主観的なのであり、それはせいぜい社会の成員が共通に認めるコンセンサス、共同主観以上の何者でもありません。
  とわ言え、人間中心の世界観、観点に立てば、それが、その時代の人間の福祉や自主化に役立っていれば、それが、主観、共同主観であろうと問題は無く、意義があるわけです。

 人間中心の世界観から、逸脱し、それに害をなす、科学の方向性や知見こそ批判されれば良いのです。

 実際、そのような害悪をなす、科学方向と知見が、客観的真理とかの、名文を振り回し、大手を振って闊歩し、権力者や執権勢力によって、開発、売りさばかれて、行っており、自主の民衆勢力は、こういった流れ、方向とあらゆる人々の叡智を集めつつ、なくしていかなければならないのです。

 「客観と主観」という二項概念は、人間社会が必要とする、コンセンサス、つまり共同主観を作り出してゆくための、人間の思考構造と概念操作に決定的に必要とされる、概念といってよいと思います。

 客観的真理は唯物論の見地に立てばあるといえますが、とは言っても、人間が獲得できるの、その時代時代に応じた、人間社会の福祉と人間の自主化に寄与すると、その成員の誰もが承認するコンセンサス、共同主観であるわけです。

 だから、人間、民衆は、本来、科学や法則を絶対化し、這い蹲る必要など毛頭ないわけです。

自己の独立自尊と社会福祉への献身にどれだけ役立つかで、事実認識、科学的認識を取捨選択してゆけば良いわけです。

最高の事実認識が価値判断である、といった見解もあります。

しかし、「最高の事実認識」などといったものが何処にあるでしょうか!

 自然の法則すら人間は相対的にしか分からない。まして社会の法則、人間の意識、精神などを体系的な絶対的法則として解明、体系化することなど絶対に出来はしません。

 言いえることは、人間は、自己を陶冶し、磨き、独立自尊しつつ、社会福祉に貢献してゆくこと、行かねばならないこと、この価値判断から、事実認識を強め、豊富化してゆくべき、ということです。

 そして、個人的には、幸福や愛を得ようとし、徳を積んでゆく努力をしなければならないということです。

 そのようなものとして、叡智的判断を得るべく、科学を積み上げ、真の人間中心、民衆中心の福祉のために、悪い個人主義、民衆隷属、動物的自己保存本能の野放しの政治や体制の飽くなき変革のために、強い意志、克己の努力、健康の保持、美や快を正しく見極め、追求することに努めるべきだということです。

 自主の哲学は、徹頭徹尾、その価値判断を人間中心に置く哲学、人間中心の哲学であります。



 (八)宗教と自主性、人間中心主義との関連について

 これを、事実認識を持って、価値判断が生まれる、と逆転させるならおかしなことになるわけです。客観主義やその補完物としての主観主義が蔓延(はびこ)るわけです。

 ヒトが人間となり、人間を中心として価値判断を設定するようになったとしても、その狩猟、採集の原始時代では祖先信仰やシャーマニズム、アミニズム、トーテミズム(日本では八百万の神)とかの原始宗教を氏族、部族やその成員の出生、結集理念としていたことは明瞭です。

 人間の自主性が、低次元にあり、自然との関連で、未だ多く圧伏されるような、或いは、逆に、それから恩恵を受ける関係では、その圧伏したり、恩恵をを受ける対象を絶対化し、信仰し、それを生きる価値とするのは合理性があります。

 これは、人間の自主性が低次元であったから、自分にとって外在的な、絶対的存在を信仰したとも解釈できますが、別の見方をすれば、低次元の人間の自主力では、自らを世界の主人とすることが、直接的主張されず、自らが、絶対的な存在を想像、創出し、それに帰依する、といった形で自主性を具現したとも捉えられます。いわば、自主性が、このような形で(ある面で疎外されて)発現した、といえます。

 宗教は、世界、宇宙の森羅万象、法則を自主的に解明し、能動的に自然を改造してゆく力が脆弱な時代、すなわち、人間が自然の産物であり、人間がその自主的な主宰者になりきれていない時代では、その事実(認識)が、即、価値判断となったといえます。

 この意味で、宗教は、人間中心主義が弱い場合、客観主義と主観主義のない混ぜになったものとして、神という名の宇宙、自然を絶対化する、信仰を行い、人間を紐帯してゆくわけです。

 人間の農耕時代が、封建制としての私有制・階級社会の発生と一体に始まってゆく時代では、人間社会は、血縁的性格を離れ、地縁的となり、氏族・部族の連合、ある種の民族的な広域社会になってゆきます。

 こうなれば、自己の親、先祖、或いは身近な自然の信仰を離れ、その広域性に適応する普遍宗教、一神教が必要とされるようになり、その性格、内容も一元的形而上学として整理され、質を変えてゆきます。その典型が、キリスト教やイスラム、仏教であったことは言を待ちません。

 一神教は、一元的な神を設定し、そこから人間の価値判断の内容を、シャーマニズムやアミニズムのような素朴な自然信仰とは違って一層精緻に示してゆきます。

 しかし、これとて、本質的に、人間の自主性の程度に応じた、人間中心の価値判断、事実認識の弱さに基づく物であることには変わりありません。

 人間が、自然、宇宙から生まれ、何処まで行っても自然的存在であり、その根っこの自然に規定された存在であることを示していることに他なりません。

 言うなれば、マルクスが、自分の思想を「自然主義の貫徹されたものとしての人間主義」人間主義の貫徹されものとしての自然主義」「そして科学主義」と特徴ずけた、人間の自然性に基ずく、自然(宇宙)を神として崇拝するものとしては変わりないのです。言い換えれば、人間は、自然との対応関係の中で、その時代ごとに、人間を中心にして、パラダイムを作り出してきたこと、人間中心思想、自主の世界観を、宗教、神の衣を被せつつ、自主性を向上させてきたとも言えます。

  だから、宗教は根が深く、宗教信仰と人間中心義の人類に於ける葛藤、闘争は果てしがないとも言ってよく、人間は、宗教を唯物論や科学の名において、政治によって廃止するのは全く愚かな行為といえます。

 唯物論者で、人間中心の自主主義者は、宗教に対して、実際の社会福祉と人間の自主化の成果を根気よく積み上げて、実績によってしか、宗教を消滅させてゆくこと以外にないのです。

 宗教と人間中心主義の分岐点は、あるがままの自然を、いろんな形而上学的な、理屈付けをしつつも、絶対的存在として信仰するのか、それとも、その自然を人間中心に自主的な実践を通じて拓いてゆくかにあります。
 

       2005年8月16日