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僕のパトリオティズム(愛国心)とは?

掲示板の投稿者さんへ (返事その2)

2005年年3月16日

                    塩見孝也


  僕や貴方、我々は資本主義を批判し、人間の解放、民衆の解放を求めます。

我が日本を始め、地球上の諸民族、諸国家の大半は、1975年のベトナム民族解放闘争の勝利を画期として、近代国家(ブルジョア国家)となり、民族はこの近代国民国家に括られる民族となりました。

 こうなった以上、この問題は、次の二つのこととなります。

 労働者等勤労民衆は、一方で資本主義生産関係、賃金の鎖で繋がれた最新の搾取と収奪の奴隷制からの解放を目指すことと「国民国家に括られる民族」からの脱却を求めようとします。

 このことは、(その一)で述べたことです。

 後者の「国民国家に括られる民族」から脱却してゆくこと、国民国家を超えてゆくような、民衆中心で、域内エスニシティーや少数民族が自主性、自主権を保証され、対外的には「他の国民国家に括られる諸民族とその民衆」と自主・共和、国際連帯できる国家に近代国家は脱却、止揚されてゆかなければなりません。

 そのためには、根本的に民族概念や国家概念をパラダイム転換して、措定してゆかなければなりません。

 同時に、生産関係から直線的に機能されてゆく「階級」概念も、実際はこれと一体に、パラダイム転換され再措定されなければなりません。

 ネグりなどがいう「マルティテュード」なども、この必要性から捻出されたものですが、僕は民衆、ないしは人民大衆という言葉で、十分適っていると思っていますから、こんな概念は使いません。

 ともあれ、この領域の問題は、ここでは、ここまでのことを確認し、[マルクス主義」の今では、御教化、先験化した、「階級」や「階級闘争至上主義」を相対化してみる、思考を持つ必要があることを確認するにとどめます。

 さて、「民族」とか、「国民国家」とは一体、歴史的、社会的に如何なる意味、意義を持っていたのでしょうか?

 民族が血縁関係、血族である、とするのは全く怪しいもので、基本的には幻想です。

 その基本モメントは当該の大地(近代ではそれは領土と意味付与されましたが)とそこに育まれ、物質代謝を行う文化、言語に表彰される人間集団との関係だと思われます。そして、次に政治、まつりごと(政)の要素です。

 血縁は二の次、3の次のモメントです。

 人類、人間の集団は、氏族―部族―部族連合的民族集団―民族(国民国家に括られる)と言った風に発展してきたと思われますが、そして長い射程で見れば人類共同体に展開されてゆくと思いますが、僕が言う「国民国家に括られない、民族であって民族でない“民族”」はこれへの過渡に位置する存在と思っています。

 僕はこれを「パトリ(源郷、民族の基層)的関係の人間集団」と命名しています。

 現在の「民族」は、グローバリズムと闘いつつ、一方でパトリ集団に、下向して、回帰しつつ、他方で、世界、地球的規模で開かれてゆく一個二重の行動をとりつつ、類(じんるい)への道を拓いてゆくものと考えます。

 これが、“民族を超える”という意味です。

 丁度、アフリカで確立していったホモサピエンスが様々な地球変化に規定されつつ、世界に広がって行き、世界各地で、適応しつつ、「人種」(一応こう言っておきます)を形成しつつ、上記の氏族―部族―民族集団―民族に変化発展していったプロセスを、民族―民族集団―部族―氏族へと今度は逆の行程として、基層に細分化しつつ、回帰し、自己認識を民族の基層から捉えなおしつ、世界に拓いてゆくわけです。

 ここで、間違ってはならないことは、このパトリへの逆回帰は、主体的な自主的、自立的(自律的)な個人、そして愛し合う男と女、そしてその家族(いろんな関係、形態があり、最終的には母系的な関係に行き着く、と思われる)が自己を暮らしやすくさせ、向上させようとして実現されてゆく人間的営為が原動力になってゆくこと、このことです。

 だから、パトリは煎じ詰めれば、特定の土地が絶対前提としてあるのではなく、自主的な人間と愛し合う男女の主体的な“生”こそが原基だということです。

 これを、押さえた上での、土地、地域、故郷をひっくるめたものとしてのパトリという謂いなのです。つまり、土地、場所は人間的営為を中心とした場所だということです。和辻はこれを「風土」と規定しました。
 このイメージは分かりやすくいえば、朝鮮系日本人、つかこうへいの「娘に語る祖国とは?」の「祖国」であり、「チョンファへの道」の歌詞の中にある、妻が語る「愛し合う家族がとりもなおさず、私達のクニ(くに、国)です」という、意味内容です。

 或いは、アメリカ映画「パトリオット」に鮮明化された、自分と家族、土地を愛するアメリカ独立運動に決起するコマンドの脳中に描かれるイメージです。

 つまり、パトリとは自分達をその根元で生成していった基層の土地と先祖の融合した概念ともいえます。

 同時にその今の現在に具現される自分と愛し合う男女、夫婦とその家族の思い出の土地といった、時間的な両義性を持っている土地です。

 僕等の“源郷”は遠く過去にあったと同時に現在にあるわけです。

 「民族を超える」とは、アメリカン・スタンダードのグローバリゼーションと民衆中心で闘いつつ、このような基層としてのパトリ集団を大切にし、この源郷に回帰しつつ、世界に拓いて行くこととなります。

 民族とその概念におけるパラダイム転換とは、こういうことであるわけです。

 これを、「国民国家に総括される日本人、つまりヤマトを越える」ものとしてのパトリとして考えるなら、日本列島における、一万年も続いた狩猟・採集時代の縄文人を基層とし、その現在的展開を自主・自立した自己たる個人とそのような愛し合う男女とその家族が生きる土地となるわけです。

 僕のいう、[愛国心」とは、このようなパトリを愛すること、すなわちパトリオティズムの意味なのです。

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