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元赤軍派同志 松平直彦君と,
よど号同志の妻、金子さんによる
「帰国カンパ」要請文の回覧について


                    塩見孝也


(一) 呼びかけ文の胡散臭さについて

松平君と金子恵美子さんの連携を機軸に、10人弱の呼びかけ人を並べ立てた、よど号グループの帰国カンパ要請文が、密かな形で回覧されています。

 僕のところにも、8月半ば頃松平君が持ってきて、カンパを要請してきました。 

 一時、その気になりかけたのであるが、呼びかけ文を仔細に検討してみて、僕は、カンパするに、やぶさかではないが、今回カンパすることを一時留保しました。

 逆に、このカンパ運動について、そのまま、見過ごしてしまわず、きちんとした論評の必要を痛感しました。

全体として、この呼びかけ文については、非常に胡散臭い印象を受けました。

「社会排外主義批判」という紋切り口上で、朝鮮国(「朝鮮民主主義人民共和国」)に対する、戦争責任、日朝不戦・日朝友好・国交正常化と拉致問題(よど号グループにあっては“連れてきた”問題)らを巡っての、日本民衆、国民の複雑、かつ微妙な感情を切り捨ててしまっていること、別の言い方をすれば、現在の日朝関係、或いはこれと連関する闘う民衆、とりわけ、関係党派である、赤軍派の元同志間に生まれている“疑惑”に伴う亀裂を、解消するのでは無く、逆に、朝鮮流の“解決済み”といやり方で、封じ込め、より強引に拡大してゆく手法が見受けられた、ということです。

更に、10人弱の呼びかけ人についてですが、それぞれ、松平君以外は、非常に曖昧朦朧とした形で名前を連ねていっていることです。

はっきりいえば、金子さんの使嗾の下、松平君の強引な仕切りで、厳密な討議に基づく、一致がないまま、呼び掛け文が作られ、回覧されていっていることです。仔細に、この曖昧さ、胡散臭さを検討してみましょう。



(二)よど号本隊の帰国について

「よど号」グループの「帰国」が前提とされているが、これは虚為に近いと思われます。

子供たちの大半や女性たちで、問題を抱えない女性たちは帰国しましたが、よど号グループ4人と問題を抱える女性二人は未だ帰国してないし、現段階では、帰国するつもりは殆どないと思います。

これまで、複雑な国際情勢に応じた労働党の方針から、彼等は「全員帰国の声明」は出していますが、4人はもともとから、田宮同志死去以降は、本音では、僕の体験からすれば、帰国するつもりは無かったように思えます。

この不帰国の決意は、現在の米朝関係、6カ国協議の情勢からして、ますます固まっている、とも考えられます。

僕も、もう帰国のタイミングは無くなってしまってきた以上、彼等が、田宮のように、一身を投げ出し、祖国の民衆、民族に奉仕する革命的決意を持って帰国するのであれば別ですが、又現在の段階では、「疑惑問題」はどこにあっても答えてゆかなければならないが、帰国しないほうが良いように思えます。

この不帰国認識は、彼等に深く関わっている救援者や弁護士諸氏ら関係者の共通の認識でもあるようです。

なのに、帰国カンパ要請とは、どういうことでしょうか?

それは、様々な要因で形成される彼等への、元同志や友人、知人たちの同情心に付け込み、これまでの「帰る、帰るといって、帰らない路線」を堅持して、「日本国内に無数のコネを作り、外国から日本民衆の運動をリモート・コントロールせんとする」彼等独自の欺瞞的な、「対日本工作」路線故のことです。

それなら、それで、同情心などにおもねろうとせず、堂々と自分の信ずるところを、朝鮮の地から、述べればよいのではないでしょうか?



(三)「連れてきた問題」(拉致問題)の疑惑の不問
   
− 朝鮮式外交術のミニチュア版
 −

二つは、この呼び掛け文には、いわゆる拉致問題、或いは、よど号グループ―赤軍派に関わる石岡君、有本さん、松木君の三氏にまつわる「連れてきた問題」(それについての“疑惑”問題)には、一切触れていないことです。

言い換えれば、一切触れない形で、実質は触れていること、もっと言えば、そうすることで、強引に「この問題を不問に付す」「彼等の潔白を認めるべき」という見地で、よど号グループの意を汲み、それを、代弁し、強引に日本民衆に押し付けているわけです。

そのために、アメリカ帝国主義の非を猛烈にあげつらい、“社会排外主義”の紋切り口上を羅列し、朝鮮国(「朝鮮民主主義人民共和国」)については、無批判に礼賛し、かつて70年ごろまで通用した「東風が西風を圧する」「抑圧民族と被抑圧民族の関係」の類の、陳腐な情勢認識図式が持ち込まれている事です。

この文章の骨格の根底には、明らかに朝鮮労働党の拉致問題での認識、外交対応の構造がストレートに持ち込まれています。

つまり、最初は「存在しない」、「アメリカの謀略」と言い張り、情勢に規定された朝鮮党の政治的都合から、一転して「拉致の存在を認め、謝罪した」のは高く評価するものの、今度は、真相を小出しにしか語らず、常に「拉致問題は解決済み」と、揺り戻してゆく、「臭いものに蓋」の取り合わない手法です。

一体、こういうことで、民族と民族、民衆と民衆の国際主義的信義、連帯、が実行されていると言えるでしょうか?

正に、呼びかけ文はこのミニチュア版と言えるのではないでしょうか?



(四)よど号グループよ、一体あなた方の祖国は何処にありや?
   
− 外国権勢盲従主義を批判す −

あなた方は、日本人として、自分の頭で考え、自分の言葉で、日本民衆を信頼し、日本民衆に真実を語るべきです。

最低限、あなた方は「連れてきた問題」で、嘘を言ってはなりません。

僕の、見るところ、これまでも発言してきたとおり、あなた方の関与したのはほんの僅かで、しかも、基本責任、大半の実行上の責任は朝鮮労働党にあるわけで、真実を言えば良いのです。

一体虚為の上に、祖国とあなた方の輝ける未来が築いて行けると思っているのでしょうか。

「嘘を言って、民衆は騙せる」「外国の権勢が保障しているから、日本人民は沈黙すべき」と見るのは余りに浅薄で、愚かな、民衆と民族の蔑視です。

朝鮮労働党至上主義に基づく、頑なな思い込みによって、「被弾圧者の当事者が言っているのだから、救援者は黙って、それを鸚鵡返しに連呼すべきである」といった態度を一貫してとってきたことを反省すべきです。

「外国の権勢を後ろ盾にしているから、嘘は衝き通せる、毒食わば皿まで、嘘は墓場まで持ってゆけば、嘘も嘘とは認定されない」といった愚かしい心象は、もうとっくに民衆はお見通しなのです。

こういう、態度を取るから、ありもしないのに、「疑惑」が雪だるまのように、膨らまされてゆくのです。

外国の権勢から必死で得たお墨付きを、陰で振り回し、こそこそ、善意の人々を騙したり、朝鮮利権で寄ってくる人々を労働党支持の盲従の方向に囲い込んでゆくような隠微なペテン師まがいのやり方を改めるべきです。

真実を言えば、堂々と、胸を張って、公然ともっと、もっと活動できるはずです。

僕等元赤軍派がこういった、陰湿な責任回避のやり方を、連合赤軍問題で取ってきたでしょうか?

僕らは、民衆と民族を信じていたし、自負があったが故に、基本的には、公開の論争の中で事実関係を全てオープンにし、民衆の判断を仰ぐ態度を取ってきました。

僕もこういったやり方を率先垂範してきたつもりです。

あなた方は、全くそれとは反対の権力主義的、スターリン主義的やり方を取っていると言えないでしょうか?

 田宮同志が、こういったやり方を喜ぶでしょうか?田宮の精神の在り様は断じてそんなところにないと僕は固く、固く信じています。

田宮は、必要な際は、真摯に幾度でも自己批判しています。あなた方は、彼の死以降、一度だって、公然とした自己批判をしたことがありますか?僕はそれを知らない。

その事情を、僕は百も承知ですが、この際は敢えて言わしてもらわなければなりません。

あなた方は、日本の民衆運動、新左翼運動、とりわけ自己の出身母体である、赤軍派を、連合赤軍問題を挙げつらい、悪の代名詞の如く、悪し様に言い、自分たちは「連合赤軍問題は関係ない」「赤軍派とは縁を切った」と、異常に強調します。

そこには、ハイジャック戦術の真摯な自己批判の気持ちもあるのでしょうし、この戦術の是非についてはイソップの言葉で法廷では語らなければならぬ事情も反映しているでしょうが、それ以上に、外国党に乗り移ったことに要因があるのではないでしょうか?その乗り移りによる、その党に忠誠を誓う分だけ、ブンドや赤軍派の歴史を、日本の社会と民衆の実際情況から総括してゆくことが出来なくなるのではないでしょうか?

 日本の民衆運動を悪し様に言うのとは、反対に、自分たちが信奉する国が、それ以上に、桁違いの問題を抱えていることについては、おくびにも出しません。

 置かれている実情からすれば、分からないこともないが、これらのことは、日本の外から「唯一思想」「一心団結」の観点を、機械的に、日本に当てはめて、ものを見ているからに他なりません。

余りに腑に落ちないことです。そのくせ、元赤軍派やブント系の元同志たちには頼りきっているのはどうしたことでしょう。

 一体、あなた方の祖国は、日本なのでしょうか?朝鮮国なのでしょうか?

戦前共産党員の大半は、祖国をソ連と錯誤する精神模様に落ち入りましたが、(その結果、大量転向の壊走に結果しましたが)、あなた方はそうなっていないと、果たして言い切れますか?

 あなた方は、口を開けば「日本中心」「真の愛国」を語り、「人間中心」「自主」「人民大衆中心」「個人主義、個人利己主義批判」を語ってきたが、一体、今、それは実行されているでしょうか?

全く、否、実際はそれと反対のことをあなた方はやっているのではないでしょうか?

僕が「保身のために、疑惑を提出した」など笑止です。

保身のためなら、他の友人、知人に右へ倣えして、沈黙に如くはない、と決め込めばよかったのです。

俗物は、自己の甲羅に合わして、人を見るが故に、僕の行動を「保身」としてしか説明が付かないのです。

僕が、同志的友情も考えながら、日本民衆、日本人、人類の利益の大義のために、自己の自主性、信念、自負に従って、発言したなど、思いも及ばないのです。

「驚いた」「驚いた」を赤木君は連発するが、驚いたのは、彼が「あったことも見たこともない」と鉄面皮に言い切った、ことについての僕の方です。それこそ、唖然、呆然自失したのです。

僕には、あの時、赤木君たちが、どのような精神的、思想的営為をしているか、鮮明に見え、怒りさえ覚えたのです。

論争は、外国の権威・権勢への盲従を巡って、拉致問題が露呈する2002年より、ずっと前から、続いていたし、「創」誌への「疑惑」の発表もゲラの段階で、彼らに送付されていたし、発表を見合わせて欲しい、と頼み込めば、見合わせていたのに、最後まで、小西さんらは、そうは言わなかったのです。決して、「突然」ではないのです。

「よど号」の人々は、この経過を、意識的に隠し、「驚いた」「驚いた」(「ヨーロッパ留学生の拉致問題について」の小パンフレット)の演出をやっているのです。

外国の民衆運動、革命運動から学ぶのは良いし、それは必要です。

しかし、それは、主体性、自主性をもって、あくまで、日本の民衆運動を良くするためであり、それは、決して、政治・思想・組織路線を「唯一思想」と「一心団結」で、教条主義的に信奉したり、外国の党に盲従することではないことは明らかでしょう。

日本の運動の歴史を清算し、外国の革命思想や党に乗り移ってはなりません。

もう、僕等は、そのような、誤り、偏向から脱却できる、年齢に達し、それ相応の経験を積んできたのではないでしょうか?

あくまで、日本民衆、民族、国民を主体にし、その歴史に責任を持ち、それを自主的に止揚的、超克的に総括し、日本人流の主体建設を追及すべきではないでしょうか?



(五)呼びかけ人の方々へ
   
− 外国権威盲従主義を排し、自国の民衆を信じ、問題を自分の頭で考え、
   
  自分の言葉で語る自主の作風の必要性 −
 

呼びかけ人の方々につて言えば、本当に良く考え、文章をよく検討し、名を連ねたのでしょうか?

金子さん、松平君の強引な工作を、なーなーのいい加減さで、受け入れたからではないでしょうか?

呼びかけ人には、いろんな立場の人がいます。

中には、「連れてきた問題」の事情は良くわきまえていたものの、「子供たちの救援呼びかけの文章と思っていた」「文章は読んでいない」「勘違いしていた」と言う人もいます。

同じく、「連れてきた問題」の事情を良くわきまえ、「民衆や旧赤軍派の人々の、亀裂を拡大しない配慮を強く要求した」ものの、そのまま、結果としては、名を連ねざるを得なかった人もいます。

中には、「誰にだって、一つや二つは、墓場まで誰にも言わず、もって行くような体験もあり、そういう事情には、そっとしておいてやるべき」という、訳知り、先輩・後輩の情義、友情ら義理を重んずる人もいるでしょう。

中には、赤軍派とは関係ない、事情を全くといって知らない、他政派の門外漢で、善意から(多分?)名前を貸しただけの人もいるでしょう。

何故、僕の方に、呼びかけ人の相談や、内容上の問題で、相談に来ないのでしょうか?

 僕も含め、全体的討論を重ね、誰もが納得するような円満な呼びかけ文を作ろうとしないのでしょうか?

又この、呼びかけ構成には、かなり意識的に連合赤軍問題総括についての態度の相違が影を落とす形で綴られているよう見受けられます。

これは、主として、松平君の働きと思われます。

基本的趣旨、性格が反弾圧・救援なら、その性格、趣旨に一本化し、もっと、もっとシンプルで、ピュアーな呼びかけにすればよいのです。

それぞれのイディオロギー的立場は、それぞれの各人の自由に任せれば良いのです。

松平君や金子さんがこの趣旨、性格に徹して、音頭をとるのであれば何も問題ない、と思います。

何故、そうならないのでしょう。

それは、前述しましたように、金子さんや、ピョンヤンの人々が、日本の民衆の事情、感情、要求にお構いなく、その国とその党に、忠勤を励み、それをバックに強引な恣意的な政治をやり、それに、ある面で、私事的、「被弾圧者本人達の意向」という、形で保身政治を紛れ込まそうとしているからです。

そして、朝鮮労働党の意向とは、別に、この党に、阿諛迎合し、点数を稼ごうとしているからです。

果たして、労働党は、この贔屓の引き倒しを、喜んでいるのでしょうか?

はなはだ、興味のあるところです。

更に、愚かなことは、次のことです。

それは、日本人活動家の側の問題です。

被弾圧者と救援者の関係における、自主・対等の原則の無視もさることながら、日本人活動家の意識的部分が、塩見と彼等の歴史的関係を慎重に検討することもなく、簡単に、自主性を見失い、この金子さんらの「排除の政治」に、迎合してしまっていることです。

現在の、我が祖国の亡国の危機は明らかに、支配階級の対米従属の固持に主因がありますが、決して、看過すべきでない他の要因として、民衆の側の外国権威盲従主義もあるのです。

我々は、支配階級の右から亡国主義に気を付け、闘いの主力をここに向けなければなりませんが、それがために、民衆の側の外国の権威に阿(おもね)る、左からの亡国主義の発生を見過ごすようであってはならないのです。

国と民族の自主性の獲得と国際主義が同時一体に追及されなければなりません。

言い換えれば、パトリオティズム(愛国主義)と国際主義が人間自主、人間中心主義の思想、世界観を持って、統一的に追及されていかなければなりません。

福沢諭吉は「学問の進め」の中で言いました。「一身の独立・自主なくして、国の独立・自主無し」と喝破しています。正に、必要とされているのは、我が日本人個々人と日本国の、この自主・自尊です。

排外主義と闘わなければなりませんが、その排外主義の要因は幾つもあります。全く根拠のないものや正当な根拠を捻じ曲げたような要因もあります。

捻じ曲げられても仕方のないような要因が、反米で連合すべき点では友邦のその国の中に、宿されていることも明らかなのです。

だから、「和して同ぜず」で、他民族排外主義と闘うには、日本民衆、民族の意識的部分は、友邦に対するものとして、言うべきことは言わなければなりません。

八木君にしても、花園君にしても、柳田さんにしても、いつも、大勢傍観の日和見主義で、「和する」事だけはあっても、「同ぜず」の方は、からっきしないのです。これは、全く、残念で、反省すべき事柄ではないでしょうか!

僕等は、若き日、日本人の「バスに乗り遅れない」ために、常に「大勢に迎合する」「長いものには巻かれろ」の悪しき体質を批判し、独立独歩を主張してきました。

しかし、熟年になれば、その批判した、「周りばかり気にして、自主を忘れる」体質にいつの間にか染まって行っているのではないでしょうか!

このことを、対外的に見てみましょう。

我が祖国・日本の民衆運動の欠点として、伝統的に、外国権威、権勢盲従主義があります。

戦前の32テーゼの日本共産党然り、戦後のソ連や中国の無批判な礼賛然り、それは、我々にあっては、連合赤軍問題にも露呈しました。

一寸、情勢が悪ければ、外国の革命運動を全面否定したり、一寸情勢が良ければ、外国のそれを全面礼賛したりする風潮です。

今は、ややアジアの「“労働者国家”が、旗色が良い」時期といえるかもしれません。

そうなると、味噌も糞も一緒くたにし、区別もつかなくなり、全面礼賛の風潮が生まれます。

あきれ返ります。過ちは率直に批判し、成果は率直に評価する態度が必要です。

呼びかけ人諸氏は、このことをしっかり考えるべきではないでしょうか!

外国権威盲従主義が台頭するたびに、その蹉跌として、自主の作風も生まれました。

連合赤軍問題総括の中で、この自主の作風も新しい質的段階として、未だカオスの様相を呈する、日本共産党の「独立自主論」の弱弱しさとは違って、荒削りな面も伴っていますが、戦後世代の中に、初めて生まれつつある、自主の、生鮮の統一と団結の気風、ここに、民衆運動の未来があると、考えます。

注意しなければならないのは、このカオスの中で、しっかりとその混交状態の玉石を、自主性を持って見極め、決して外国権威に盲従してはならないことです。逆に外国の経験を自家薬籠中のものにする研鑽が必要なのです。

 このことは、金子さんたちには時間が掛かり限界もあります。

真に、このことを求められ、義務として果たさなければならないのは、我が日本の革命家達です。この人たちが、田宮も言う、自主革命家に生長しなければならないのです。



(六)松平直彦君について

そこで、松平直彦同志についてです。

ついでに、最後に、八木君にも、一言。

松平君は、朝鮮革命の全体像についてきちんと論じたことがあるでしょうか?提言したことがありますか?否です。八木君についてもそうです。

 しっかりした、見識を持たないが故に、ピョンヤンのよど号同志たちと帰国した金子さんらの盲従主義に、押し捲られ、引っ張られ、利用されているのではないでしょうか?

何故、それを許容しているのでしょうか?

それは、彼が、70年闘争での赤軍派の闘いを、よく知ろうともせず、当時の「武装闘争批判」の日和見主義的風潮に惑わされ、正しく総括できず、文字通り清算してきたからです。

侵略戦争に反対し、アジアの人々への義理を果たすべく、生死を賭けた闘いはそれが本物であるが故に、幾ら、そうしようとしても、決して清算できはしません。

その意義と限界の総括は、幾らしんどくても、止揚される以外になく、彼が、幾らマルクス主義護教論にしがみつこうと無理です。

歴史によって与えられた運命の、その主人になれず、その重さに悲鳴を上げ、割り切ってしまい、宿命論に逃避しているのです。怜悧な割り切り主義、合理主義、大きな戦略的構想や独創的理論活動は展開出来ないが、或いはダイナミックな大衆運動は組織できないが、確認された当たり前なことを、理論、実践面で、堅持して、こつこつと粘り強く活動すること、これが松平君の良いところでもあり、限界でもあるのです。

自己批判は、あくまで、人間と民族と人類、民衆の自主解放における献身を根底に置いた、プライド、自主・自尊をベースにした民衆と革命家たちの向上のためであり、決して権力や体制におもねったモノであってはなりません。

我々赤軍派やブントの総括論争は、己の闘いの歴史的意義を根底において自負し、その上で、己の未熟性を克服し、向上せんとする真摯で、必死な営為でした。

だから、我々は、決して、自己を抹殺、否定するような清算主義、スターリン主義流の「極左主観主義」のレッテル張りで、満足するような総括方法は断じて取らなかったのです。

ところが、松平君は、我々赤軍派の一時挫折に、驚愕し、「マルクス主義を知らなかった」と、言い立て、これを名文に、我々の自己批判を、われわれの闘いの全否定、清算に捻じ曲げて行ったのです。

これが、彼のその後を決定しましたが、もはや、その総括方法の過ちは明らかです。 

最初、我々は、変革における対象認識としてマルクス資本主義批判(賃金奴隷制批判)を学び取り、世界と日本の現実の資本主義批判の獲得に努めました。

人民大衆中心思想です。

その後、この資本主義批判を主体の側に孕みこんだ日本の主体的で、自主的な変革路線、人間中心、民衆中心の路線の構築に努めました。

そして、21世紀を境目とするころ、人間自主論をベースとし、民族論を確立し、人民大衆を中心にして、民族と人民を統一することで資本主義を変革する路線を確立しました。

ここで、あくまでマルクス主義を土台としつつも、マルクス主義を超克し、パラダイム転換する日本(人民)流の変革路線は確立したのです。

赤軍派の、未だ、未熟な「過渡期世界論―世界同時革命論」や「人間、人民の能動性」らを自己脱却してきたのです。

松平君は、我々赤軍派の資本主義批判には同調しました。これは、全く良いことです。しかし、彼は、「資本主義批判が無かった」ことを名文に、我々の当時の革命的武装決起そのものまで否定し去ったのです。

現在の松平君は、それで、これまで良くがんばってきたわけです。

それは高く評価しますが、しかし、この初期の総括運動の「資本主義批判」のままで、後は、マルクス主義の「階級闘争至上」論のままで、何の進歩もないのです。いわば、彼は、マルクス主義の講談師、よく言ってマルクス主義の啓蒙家に終始しているのです。

それが、マルクス護教論といわれる由縁なのです。

人間論や民族論が未確立なのです。人間論はマルクスの自主性という、人間本性を欠落させたフォイエルバッハテーゼの「人間とは社会関係の総体(アンサンブル)である」「人間とはまず食い、住み、着る等(ドイツイディオロギー)」「人間の起源を道具の使用に見る(エンゲルス「空想より科学へ」)」に留まっていることです。

この、マルクスやエンゲルスの「人間論」の限界批判は、僕が、現在の松平君の、即物的、機械主義的、客観主義的唯物論の今あるを予測して、批判すべく、意識して、最近展開し、このHPに掲載されている、「人間の自主性についての覚書」に詳しく展開されています。お読みくだされば、幸いです。

それに、彼には、上記した、70年闘争における武装闘争における自負心投げ出しの日和見主義的武装闘争清算主義が、未だ尾を曳いてあります。

「主観主義」というレッテルを自らの赤軍派に張り、自らの革命的決起を清算したのです。これによって、彼は、機械的、客観主義的唯物論、或いは経済決定論の経済基底還元主義に終始した、ただモノ的人間観故、人間の自主性が位置づけられず、人間についてのロマンの分野、主として、思想や文化、美学らの領域は皆無か、貧困そのものなのです。

松平君は、僕の後追いをし、それで、僕の総括が、未完成で、一時破綻した時、僕等「止揚派」が創造した成果を、幾度か簒奪し、あたかも清算主義が勝利したかのごとく、カン違いしています。山谷、釜での「山統労」(山谷統一労組)運動の底辺労働運動然り、赤軍派(プロレタリア派)解散後の、僕の誤った二段階戦略、日共政治への接近に付け込み、ブント(赫旗派)を創りだした、経過等等。しかし、いずれも、破綻しています。

そして、出獄後の、僕のピョンヤンのよど号グループの救援・連携活動を見守りつつ、出番を伺い、彼等と僕の思想上、路線上の違い、路線闘争が生じるや、またまた、成果簒奪の落穂拾いに乗り出してきたわけです。

しかし、中味がないから、いずれ早いうちに破綻します。

破綻を避けたいなら、我を張らず、清算主義を改め、僕(やよど号の同志たち)から「自主思想」を学びつつ、僕と団結することではないでしょうか?

ここまで、来れば、何故、彼と金子さんらピョンヤンが、現段階で同盟するか、明らかとなります。

「よど号グループ」は、こういう風に言ってよければのことですが、彼等の信奉する「チュッチェ思想」を活学活用し、日本の実際に、その真髄を活かしつつ、運用するのでなく、その教条主義的持込みで、赤軍派やブント、新左翼の歴史を清算し、この思想に乗り移りました。

これは、彼等に即して言えば、政治・思想内容上、実際問題上も決定的ともいえる、一応の根拠もあります。しかし、これまで、見てきたように、その内容検討は今はおくとして、如何せん、外国権勢盲従主義という決定的欠点、限界を宿しています。それ故に、外国の“高み”から、日本の民衆運動を、なで斬り、清算してしまうのです。

それ故、自主思想をベースにして塩見思想を確立し、日本の民衆運動、赤軍派やブントや新左翼の闘いを、日本の実際に照らして、内在的に止揚しようとしている僕と対立せざるを得ませんでした。外国盲従主義を脱却しない限り、この対立は続きますが、それを止めれば、僕と彼等は、完璧な同志となれます。

松平君もまた、今まで見てきたような、清算主義に固執する限り、僕と対立します。

かくして、外国の強固な清算主義(乗り移り)と国内の強固な清算主義は、内容は違うが、反「止揚派」、反「塩見」で、一時、連合する必然的事態が生まれるのです。

金子さん等は、松平君を利用しようとしています。松平君もそうです。

双方、利用しあっています。しかし、どちらかといえば、盲従主義ゆえ、日本の民衆と結合できていないが、とは言え、強固な世界観を持ち、多数の家族の強固な絆で成り立つ、「よど号“民族”」を擁している点で、「日本の民衆のことなどお構いなし」の、金子さん達の方が利用勝ちしているといえます。

松平君は、旧赤軍派内部でも、清算主義ゆえに孤立し、「釜らの労働運動」のメッキも剥げ、ひと頃の、「連合ブント」系に迎合した清算主義も勢いを無くしているからです。彼が、赤軍派、ブント系で、清算主義の旗を振れなくなって、同じく、「コレコン」会とか称し、構造改革系、旧日共系に流れよっているのも、清算主義の帰結とするところで、面白いことです。

かくして、起死回生の1打で、一山当てようと、僕の言うことと、彼女等の言うことを冷静に比べ、検証しようとせず、真実追及と「疑惑」には、目をつぶり、彼女等の言うことを鵜呑みにし、代弁せんと決意し、衣の下の、見え見えな、卑賤極まる政治的野心をひた隠しに、「よど号」グループ救援のカンパ運動に乗り出したのです。

「塩見は孤立している、塩見は人気がない」「赤軍派の中でも、孤立している」とデマゴギーを流しつつ。

果たして、松平君に人気があり、徳があるでしょうか?孤立しているのは、松平君の方である。だから、簡単に、金子さんたちに利用され、このような、姑息な投機的行為に出てくるのです。

しかし、いちいち説明しませんが、僕のこれまでの行動を見てもらえば、これが、デマゴギーであることは、明瞭であり、情報を知らない人に、一時簡単に、入り込んで行くような欺瞞とデマの手法で仕組まれたものでありますが、事情がはっきりしてゆけば、たちどころに破綻してゆくのは明らかなことです。

それは、これまで見てきたように、その呼びかけ人集めの実態を見るだけでも明らかです。

もう一度、繰り返しますが、殆どの人が、文章も読んでなく、人間関係で、なーなーで声を掛けられ、頼まれ、問題を深く考えず、“付き合い”で、名前を貸している程度なのです。

このことは、今は、はっきりした形で名前を挙げることは避けますが、調査して見て、ますます、はっきりしてきています。

最後に、金子さん、松平君にヨイショされ、彼女、彼等の「強力な後ろ盾になっている」位に思い込まされて、いい気になっている、八木君に聞きたい。

一体、貴方は、現在の朝鮮国を「民主主義」の「人民」の「共和国」と思っているのでしょうか?

「“疑惑”は存在しない」と思っているのでしょうか?

或いは、「塩見が、保身のために、“疑惑”を表明した」と思っているのでしょうか?

或いは、このような、虚構と欺瞞に満ちた、姑息な松平君、金子さんのカンパ集めの手法に心から、賛同しているのでしょうか?

そうであるなら、僕も、聞き捨てなりません。公開で論争しようではありませんか。

このことは、同じく、田宮君や赤木君が大阪市大の出身である関係上、その先輩として、僕が退かざるを得なくなった後、大阪で、子供たちを献身的に世話してきた、かつての関西ブントの僕の尊敬すべき先輩、しかし、もう2年前近くから、この種の質問をし続けてきたのにも関わらず、だんまりを決め込んでいた、柳田さんにも質問したいところです。


       2005年10月1日