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1月27日に、重信房子さんに会いに行きました。

2010年 1月30日

塩見孝也


 1月27日に、“フ―ちゃん(重信房子さん)”に会いに行きました。

 2年振りのことでした。それは、その日の、国会前座り込みをやり、国会に向けて、平野官房長官の「名護選挙は斟酌に値しない。あくまで、今はゼロベースだ。法的適用もありうる」という超反動的暴言を糾弾しつつ、喜納昌吉さんや田中真紀子さん、鳩山首相らに「こう言う発言に乗るな、覚悟をもってことに臨んで欲しい」と一演説した後のことでした。

 彼女への面会は、二年振りのことでした。彼女は全く元気で、いつものように藹(ろう)たけていましたが、心なしか、ほんの少し翳がさす表情でした。

 それはそうでしょう。彼女は、癌の手術をしていたのでした。そのことを聞き、昨年、大阪拘置所(?)のほうに檄電を打ったのですが、その時は、既に東京拘置所に移送された後で、届かなかった、ことを僕は思い出しました。

 プラスチック越しに、僕らはいつものように掌を合わせ、再会を喜び合いました。

 最初に「お互いに、ぜんぜん変わっていないな―」「フ―ちゃんも全然変わっていないよ!」「塩見さんも、そうですよ!」と自然に、互いの無事を喜び合う言葉が交わされました。僕の口から“フーちゃん”と言う言葉がすらすらと出て行ったのが、少々不思議でした。

 病気のこと、互いの健康状態や裁判のことや現情勢のことや<司法や警察体制の改革の可能性>など意見交換しました。

 彼女は、僕が送っていた「年頭の挨拶の論文を支持する。」と言ってくれました。
 
 彼女が最近出版した「日本赤軍私史 パレスチナと共に」を「是非読んで欲しい」とも言い、僕は、「手に入ったら、すぐに書評を書く」と答えました。<「オリーブの樹」は送るように、既に伝言した。>とも言っていました。

 「(上告の結審の後、)まだ12年程、残っている」とのことでした。それを聞き、僕は口惜しかったです。

 「癌は、早期発見したり,予防処置をとれば、もう治る病気だから、貴方なら完全に大丈夫」、「司法や警察体制の<改革>が射程に入ってきている、時代です。」「4〜5年でフーちゃんが解放されるよう頑張るよ」「先ず菅谷さんの冤罪に対して、検察を陳謝させることから始めたい。そのために、彼と、できれば対談したい」と言いました。

 「フーちゃんのことを、日本民衆、パレスチナ民衆、世界の民衆は誰一人として忘れる人はいない。とにかく健康に気をつけて、生きて、生きて、生き抜いて欲しい。」これが、この日の、最後のお別れの挨拶となりました。

 東京拘置所の出る際、僕の胸(心)の奥底から、突然、激しい感情が込み上げて来ました。

 「辛い、辛い想いをさせて申し訳ない。フーちゃんや獄で苦しむ同志達、僕の不甲斐なさをお詫びする。畜生!畜生!情けない。絶対に獄死はさせないぞ!」という痛哭の想いでした。

 国会前座り込みの戦列に帰ってゆく道すがら、僕のこの想いを、彼女に手紙で、すぐに伝えようと思いました。



塩見孝也