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資本論 第1部 資本の生産過程 第1章 商品

第4節 「商品の物神的性格とその秘密について」
の中で気づいた留意すべき内容の諸点の覚書。

2010年 1月17日

塩見孝也


1.呪物崇拝の発生原因、基盤、根拠は商品経済、つまり、「互いに切り離され、独立に行われる私的生産と社会的分業」から成立している経済社会、それも煎じ詰めれば[<使用価値> からでもなく、<商品の価値量>からでもなく」<(商品という)形態から発生する。>」にあること。

 「(生産物が商品)形態をとること」から発生する。「物」、「物的形態」とかは、物理的な「物質」を意味せず、商品形態のこと。レーニンの「人と人の関係(労働の関係)が物と物との関係に転倒して展開する」の<もの>もこの謂いです。

 「形態」については、3節(1節、2節も踏まえた)で展開しているので、その成果から、それを、拠点にして提出されています。

 特に「相対的価値形態と等価形態」での解析、あるいは「商品の2要因、使用価値と価値(交換価値)の矛盾」の展開としての、後者が外化し、形態化してゆく関係の認識が前提になっています。

 この二つの前提認識について、概括したエッセンスをマルクスは、「価値形態論」P117のところで以下のようにまとめています。

「商品Bに対する価値関係の中での商品Aの価値表現の一層の詳しい考察は、この価値関係の中では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められていることを示した。つまり、商品のうちに包み込まれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係の中では、自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にただ使用価値としてのみ認められるのであり、これに対して、それで価値が価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値と認められるのである。」

 この<自分の>と、<それで>が、抽象化された二つの価値形態の理解のうえに、この二つの価値形態の関係をさらに抽象化して概括しているから理解の困難性を僕らにもたらしますが、この概括にこそ、「価値形態論」のエッセンスが凝縮されていると考えても良いと思います。



2.マルクスの解析、論証の文脈についてしっかりと理解しておくべきでしょう。 彼は、p135の冒頭から真ん中辺りまでのところで、この呪物崇拝の展開について「三つの形態の指摘とそれに基づく三つの呪物的反映を指摘する」文脈で説明しています。

 念のために、その文章をもう一度抜粋しておきます。

「労働生産物が、商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか?明らかにその形態そのものからである。

 a、人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等の価値対象性という物的形態を受け取り、
 b、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量と言う形態を受け取り、
 c、最後に、生産者達の労働の前述の社会的規定がその中で実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。

 だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるのである。

 商品形態は、人間労働の社会的性格を、

 イ、労働生産物そのものの対象的性格そのものとして反映させ
 ロ、これらのものの社会的自然属性として反映させ
 ハ、したがって総労働に対する生産者達の社会的関係性おも、彼らの諸対象の外に存在する社会的関係として反映させるということである。

 このような置き換え(Quidproquo)によって、労働生産物は商品となり、感覚的であると同時に超感覚的であるもの、または社会的産物となるのである。」

 ここから、人間労働が商品経済関係で生み出した「呪物崇拝」、「映る」、「最終的な事柄と映じる」などを説明してゆきます。それがブルジョア経済学の範疇を構成してゆくこともその後で述べて行きます。


3.「商品経済社会では私的労働と<社会的労働>の対立、矛盾が基本矛盾である」と言う言説は全く間違っています。
 先ず第一は、う<社会的労働>という概念です。このような概念をマルクスは、僕の知る限り使っていません。マルクスは「社会的労働」という概念を提出しているか、検証してみる必要があると思います。

 マルクスは、前の「価値形態論」の節でも「直接に社会的形態の労働(P112)」という概念は使用しています。これは、この4節で彼が使っている「労働の社会的性格」と全く同じ概念です。いずれにしてもマルクスは、<社会的労働>という言葉、概念は使っていないのです。ですから、僕は、<社会的性格の労働>という言葉を使用します。

第二に、<私的労働>と彼が勝手に捻出した<社会的労働>を、対立的に、つまり矛盾として捉える人もいる様ですが、マルクスはこうは捉えていない事です。

 以下、4節、p137を引用しておきます。

 「この瞬間から、生産者達の私的諸労働は実際に一つの二重な社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として、一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、自然発生的社会的分業の自然発生的体制の諸環として実証しなければならない。他面では、私的労働が、それら自身の生産者達のさまざまな欲望を満足させるのは、のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められる限りの事である。互いに全く違っている諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、人間労働力の支出、抽象的人間労働として持っている、共通な性格への還元でしかありえない。」

  このように人間労働としての私的労働を一個二重に捉え、私的労働のもう一つの交換に伴う価値的側面とともに、他面での使用価値側面として、その有用性の側面として「一定の有用労働として、一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、自然発生的社会的分業の自然発生的体制の諸環として実証する」側面に分けて分析しているわけです。

 以上から、マルクスは「私的労働」と「社会的労働」を対立する内容としては捉えていず、「私的労働」を構成する「二重性」の一つとして捉えていることははっきりしています。

 第3に、p137の引用が示す通りなのですが、「私的諸労働がそれら自身の生産者達のさまざまな欲望を満足させる」ことと、「一定の有用労働として、一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、自然発生的社会的分業の自然発生的体制の諸環として実証しなければならない。」こととの関係は「私的諸労働がそれら自身の生産者達のさまざまな欲望を満足させる」という、こういった事柄があって、これを基本ベース、不可欠なプロセスとしつつ、「自然発生的体制の諸環をなしてゆく」わけですですが、ここのところの個別的な価値関係の事柄があって、その総合として「(社会全体としての)総労働の諸環」を形成してゆく、順序関係、プロセス、個別の交換行動と全体の「総労働」の関係について、両者を混同している方もおられる事です。

 初めから「諸環をなすために」私的労働が行われるわけではないのです。

 第4に「商品経済社会においては、私的労働と社会的労働の矛盾が基本矛盾」ということにおけるその捉え方、<基本矛盾の捉え方>の間違いについてです。

  先ず、これまでの僕の論証で、マルクスは、別に「私的労働」と、いわゆる「社会的労働」を<二項対立的>矛盾とは捉えていないことです。

 敢えて二項対立的矛盾と言うのであれば、商品の2要因を形成する「使用価値と価値(交換価値)」というのが妥当なところでしょう。

 さて、「商品経済の基本矛盾」という際の、この際の「基本矛盾」と言う捉え方についてです。

 社会や世界を分析するに当たって、僕らは<基本矛盾>とか、<主要矛盾>とか、<副次的矛盾>とか、あるいは、<矛盾の諸側面>とか<諸矛盾の関係性は如何に>とかいった具合に、矛盾について使います。 この上に立って、それでは、「商品経済における基本矛盾」などという捉え方が成立するか、ということです。

 資本制社会以前の私有財産制の社会、階級社会では、<単純商品経済の社会>などはありえず、その部分として存在する商品経済の運動は、その当該社会の生産、所有関係に規定されますし、従ってその当該社会の経済的運動法則に商品経済の運動も包含され、規定されます。したがって、商品経済社会が単独で持つような<基本矛盾>などありえようがありません。

 ところで、商品経済社会が全面的に発達した社会がただ一つあります。言うまでもなく、それは資本主義社会のことです。

 確かに資本制経済社会は、商品経済が可なりか、全面的に発達した社会で、商品経済の運動法則が規制性を発揮する唯一の社会といえます。 しかし、資本制商品経済社会は、たとえ、商品経済がそのベースに座って居、規制性を持つにせよ、生産手段の私的所有とそこへのその労働力が商品化した労働の経済的隷従(生産過程における資本の労働の指揮、監督による絶えざる労働の支配、抑圧、搾取)、すなわち、資本と賃労働の関係が、資本主義社会の基本的な矛盾と言えます。この中で、これを前提にして、商品経済の法則が規制してゆくわけです。

 この所有、生産関係(資本関係)と商品経済の法則、価値法則を総合し、これを、よりトータルに、かつ簡潔に、言い換えたのが、エンゲルスの<生産の社会化と所得、所有の資本制的関係が基本矛盾(「空想より科学へ」>いう命題です。

 「互いに別々の、独立した私的生産と社会的分業」という商品経済の生産、所有関係は、上記資本主義の生産・所有関係にいったん吸収され、その下で、これを前提にして、より一層生命力を持って展開、規制性を発揮して行きます。つまり、価値法則とし発揮されてゆくわけです。

 資本制商品経済社会では、まず私的労働の二重の側面の価値、交換価値、価値形態、貨幣の取得の側面が第一になり、使用価値は「価値(交換価値)の素材的担い手」としてしか機能してゆきません。結果として、「社会的性格の労働」の役割を果たす、つまり「自然発生的分業体制の自然発生的体制の諸環を形成する」といった具合に、価値と使用価値の関係は、使用価値側面は第二義的にしか機能しないわけです。 無論、このことは、この価値法則の貫徹が、その前提である、資本制所有、生産関係を自己否定的に掘り崩して行き、ついにはそれを廃絶に追いやって行ったり、価値法則それ自身を、これまた自己否定的に廃棄してゆく事を、全く排除せず、そればかりか、こういった帰結を必然化してゆく認識として捉え返されなければなりません。これこそが、弁証法というものです。

 この意味で、「商品経済社会における基本矛盾が私的労働と社会的労働である」などという命題は全く成り立たず、これは、商品―貨幣―資本の物神崇拝、資本制商品経済社会における価値増殖第一、利潤追求第一の志向を否定し、ひいては、階級矛盾と階級闘争第一を無視したものに連なってゆきます。

 ですから、あくまでも、「私的労働の価値側面の労働と使用価値として社会的性格を有す労働側面」は、あくまでも、価値法則を介して、一定程度しか統一されえないわけです。

 両者は、正に<自然発生的>関係なのです。

 マルクスが「一定(程度)」とか「自然発生的」とかいった言葉を使っていることを、僕らはしっかりとかみ締めておく必要があると思います。



4.労働が自然発生的ながら、<透き通って捉えられる>ロビンソン・クルーソーの個人経済、自然発生的なヨーロッパ中世の農奴経済での、封建領主への「賦役」「貢納」の労働も透き通っています。「家長的な家族経済社会」での労働やその生産物も透き通っています。

マルクスはこれらの事柄と比較しつつ、商品経済の呪物性を捉え返しながら説明しています。同時に、資本制商品経済を止揚した「自由な人間の連合した社会」における、生産・労働関係、労働時間の配分を基本デッサンし、提示しています。

 あるいは、自然発生的ではなく、意識的統御された<自由なる人間の結合した社会>との比較を通じて<呪物崇拝とその秘密>を捉えて行きます。

5.a,<商品の呪物崇拝>とb,<貨幣の物神崇拝>は、同一性を持つも、同時に区別、差異されているのではないか、というよりこう捉えた方が良いように思えます。

 この第4節では、主としてaを語っている。bは、次の2章「交換過程論」で語られているように思われる。両者は同一で同時で、かつ発展関係にあります。前者があって後者が生まれます。

  又aについては、<呪物崇拝>の方が、語感に合うように思える。bの方は物神崇拝の方が語感に合うように感じます。



6.2章、<交換過程論>へ続いてゆく。ここでは、実際的な交換が分析されている。これは1章の成果が前提になっている事。むしろ、ここで、第1章、第4節では、「商品の呪物崇拝」と「貨幣の物神崇拝」の解析、論証における同一性とその差異の紛らわしさも、この章の後半部、P169〜170で払拭され、<貨幣の物神崇拝(商品の呪物崇拝ではなく)>も独自に論証していると見たほうが良いように思えます。


塩見孝也