T. 序
●僕らは、これまで<商品の2要因><商品に表される労働の二重性について><価値形態について>を学習、研究して来ました。
そして、この4節です。この4節は、第1章「商品論」の、その集約的、結論的位置にあるものです。この4節で、第1章「商品論」は締め括くられます。マルクスはどういう締め括り方をしているのでしょうか。そお言う事柄に応えるものとして、彼は<商品の物神的性格>というテーマを設定し、的確に締めくくっています。(「物神崇拝」の訳の方が<呪物崇拝>より良いと思います。岩波のや社会科学研究所、資本論翻訳委員会、新日本出版社版のもそうなっています。)
●どういう締めくくりをせんと、マルクスが考えていたかを、先ずしっかりと考えて見ましょう。
<金ばかりではないにせよ、金がなければ、何も出来ない。やはり、金だ。><金だけが頼れるもので、ほかに信用できるものは何もない><地獄の沙汰も金次第。金のためには何でもやるぞ!>、とりわけ、金融恐慌―過剰生産恐慌―大不況の現状況では、こう考える人が多勢います。
民衆の中で、錯乱した人々は、金の亡者となって、信じられないような悲惨な犯罪を犯します。
その巨悪、金融資本、大独占資本ら資本家階級は、信じられないようなズルさ、悪賢さを発揮し、いろんな方策で、利潤追求第一を追求し、民衆を搾取、収奪し、隙あらば、民衆を戦争に動員しようとしたり、そうでなくても<あなた方も資本家になれるのだ。夢を棄てるな。><そうなれないのは、あなた方の努力不足、自己責任だ。>とのたまいます。
かかる事態につきましては、最近、報告しましたマイケル・ムーア「キャピタリズム ―マネ―は踊る。」に、そのものズバリで映像化されています。
中には、金融資本の横暴を怒り、民衆の中では<その本家は、ユダヤ人の金貸し達だ。ユダヤ人をやっつけろ!(ナチスの方で良い)>などと「人種」差別に錯乱してゆく連中スラも飛び出してきます。
プルードンは、金も貨幣も商品であることが分らず、又その経済的根拠が商品経済に根ざしていることを解析できず、現行貨幣制度、金融制度に、ただただ<人民貨幣>や<交換銀行><人民銀行>を対置し、すぐに破産しました。
日本でも、<貨幣は悪魔だ>だ、<日本銀行を襲え!>だとか叫ぶネオ・プルードン主義者が飛び出してくる始末です。
これは、<商品と貨幣の物神崇拝>の、典型的裏返しといえます。
確かに、僕らも含めて、民衆は貨幣に呪縛されています。しかし、その、呪縛性、物神崇拝の科学的根拠をしっかりと把握し、その根拠を廃止する基本方向、手立て、順序を知っておれば、根本的に<貨幣教>を批判でき、現実にも、相当脱却できます。
マルクスは、いまから、250年ほど前に、この事の道理を、この「資本論」第1巻、第1編、第1章、第4節で示したわけです。
こういうわけで、<商品の物神崇拝>はマルクスは彼の「商品」論の結論として、考察して行った節なのです。
●とっかかり、切り口として、「最初の机の自然的で、感覚的であると同時に超感覚的、超自然的で、ひとたび机が商品となるや、<踊りだす>、掴まえ所がない。」の叙述から、マルクスは始めます。
★彼の<物神崇拝>解明のその手がかりはレーニンの論断で与えられています。これは、直截的で良い、と思います。
<商品経済社会では、それが、商品経済社会であるがゆえに、生産物は交換目当てに、商品として生産される。だから、人と人の関係が、物と物との(交換を通じた)関係として、転倒して現れる。(レーニン)>
★ですから、商品経済、交換経済であること、交換目当てに、生産物が商品として生産されることをしっかりと押えておけば、本当はこのテーマは苦もなく解ける問題と言えます。
その際、商品経済(交換経済)の二つの性格をしっかりと押えて置く必要があります。つまり、「互いに切り離され、別々に行われる私的生産、そして社会的分業」を特質とする商品経済では<無政府主義的生産(自由競争)>と<価値(交換価値)が、独自化、形態化し(このことは、3節、「価値形態論」で見てきたことです。)、それが、商品経済の中では、物神化されてゆくこと>、このことです。
これが、資本主義経済の下では、剰余価値の生産、搾取を<規定的目的、推進動機>とする資本制生産に発展して行来ます。価値増殖を自己目的化する生産になって行く。ここからの恐慌の不可避性も生じることとなります。
競争を通じた均衡、価値法則を規定性とする経済になることも明らかになります。
商品、その交換価値、その価値形態が物神化されることで、本来の労働の目的、有用的生産物の生産、欲望の実現としてある使用価値は、第二義的となり、交換価値、価値、貨幣の取得が第一義となり、この取得合戦を経て、使用価値が、無政府的競争を通じて、社会の要求に対して配分されてゆくようになります。
これが、マルクスが後に「価値法則」と命名した法則の実質、内容です。
マルクスは、これを「誰かの頭上に家が倒れてくる重力の法則」に例えています。
★商品の使用価値と価値の二要素が、その矛盾が分離し、後者が価値形態、貨幣としての定在を帯び、<私的生産、私的労働の社会的性格の二重性>が、交換経済の中では、二つの事柄(下記で、マルクスの言から抜粋すると)<私的労働の二重性>が、つまり一つは<総労働の自然発生的な諸環を形成する>、もう一つは、<私的生産者は、自己の欲望を、等量の時間を持つ異種の労働―異種の商品と交換する。と言った具合に、にいったん、分離して、実現させられる、>構造となるわけです。
★上記が<「私的労働の社会的性格」と「その二重性」>の内容です。
★マルクスの展開の構造、順序。次の抜粋のところで紹介しますので略。
★2章の「交換過程論」との関係、口頭で。
★3章の「貨幣と商品流通」の章、そして「貨幣の資本への転化」の編、3編以降との関係。これも口頭で。
結論的に最簡潔に言いますと、<商品(貨幣)の物神崇拝>は、商品経済の中でのみ起こる現象で、ここでは、私的な生産者が、その生産物を、他の生産者(所持者)の生産物と交換することで、自己の欲望を満足してゆかざるを得ず、それ故に、己の生産と労働の関係、あるいは、他の人の生産、労働関係が、そのまま、直に現れるのではなく、生産物の商品としての交換を通じてしか現れて行かないこと。このことです。
しかも、無政府主義的な競争を通じた交換、いわゆる価値法則を介した、しかも、価値の、商品から分離した価値形態(交換価値)、貨幣によって仲介されることによって惹起される事柄が内的な原因と言えます。
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