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資本論 第1部 資本の生産過程 第1章 商品

第4節 「商品の物神的性格とその秘密について」の抜粋と解説

2010年 1月 5日

塩見孝也


T. 序

 ●僕らは、これまで<商品の2要因><商品に表される労働の二重性について><価値形態について>を学習、研究して来ました。
 そして、この4節です。この4節は、第1章「商品論」の、その集約的、結論的位置にあるものです。この4節で、第1章「商品論」は締め括くられます。マルクスはどういう締め括り方をしているのでしょうか。そお言う事柄に応えるものとして、彼は<商品の物神的性格>というテーマを設定し、的確に締めくくっています。(「物神崇拝」の訳の方が<呪物崇拝>より良いと思います。岩波のや社会科学研究所、資本論翻訳委員会、新日本出版社版のもそうなっています。)

 ●どういう締めくくりをせんと、マルクスが考えていたかを、先ずしっかりと考えて見ましょう。

 <金ばかりではないにせよ、金がなければ、何も出来ない。やはり、金だ。><金だけが頼れるもので、ほかに信用できるものは何もない><地獄の沙汰も金次第。金のためには何でもやるぞ!>、とりわけ、金融恐慌―過剰生産恐慌―大不況の現状況では、こう考える人が多勢います。

 民衆の中で、錯乱した人々は、金の亡者となって、信じられないような悲惨な犯罪を犯します。

 その巨悪、金融資本、大独占資本ら資本家階級は、信じられないようなズルさ、悪賢さを発揮し、いろんな方策で、利潤追求第一を追求し、民衆を搾取、収奪し、隙あらば、民衆を戦争に動員しようとしたり、そうでなくても<あなた方も資本家になれるのだ。夢を棄てるな。><そうなれないのは、あなた方の努力不足、自己責任だ。>とのたまいます。

 かかる事態につきましては、最近、報告しましたマイケル・ムーア「キャピタリズム ―マネ―は踊る。」に、そのものズバリで映像化されています。

 中には、金融資本の横暴を怒り、民衆の中では<その本家は、ユダヤ人の金貸し達だ。ユダヤ人をやっつけろ!(ナチスの方で良い)>などと「人種」差別に錯乱してゆく連中スラも飛び出してきます。

 プルードンは、金も貨幣も商品であることが分らず、又その経済的根拠が商品経済に根ざしていることを解析できず、現行貨幣制度、金融制度に、ただただ<人民貨幣>や<交換銀行><人民銀行>を対置し、すぐに破産しました。

 日本でも、<貨幣は悪魔だ>だ、<日本銀行を襲え!>だとか叫ぶネオ・プルードン主義者が飛び出してくる始末です。

 これは、<商品と貨幣の物神崇拝>の、典型的裏返しといえます。

 確かに、僕らも含めて、民衆は貨幣に呪縛されています。しかし、その、呪縛性、物神崇拝の科学的根拠をしっかりと把握し、その根拠を廃止する基本方向、手立て、順序を知っておれば、根本的に<貨幣教>を批判でき、現実にも、相当脱却できます。

 マルクスは、いまから、250年ほど前に、この事の道理を、この「資本論」第1巻、第1編、第1章、第4節で示したわけです。

 こういうわけで、<商品の物神崇拝>はマルクスは彼の「商品」論の結論として、考察して行った節なのです。

 ●とっかかり、切り口として、「最初の机の自然的で、感覚的であると同時に超感覚的、超自然的で、ひとたび机が商品となるや、<踊りだす>、掴まえ所がない。」の叙述から、マルクスは始めます。

  ★彼の<物神崇拝>解明のその手がかりはレーニンの論断で与えられています。これは、直截的で良い、と思います。

 <商品経済社会では、それが、商品経済社会であるがゆえに、生産物は交換目当てに、商品として生産される。だから、人と人の関係が、物と物との(交換を通じた)関係として、転倒して現れる。(レーニン)>

  ★ですから、商品経済、交換経済であること、交換目当てに、生産物が商品として生産されることをしっかりと押えておけば、本当はこのテーマは苦もなく解ける問題と言えます。

 その際、商品経済(交換経済)の二つの性格をしっかりと押えて置く必要があります。つまり、「互いに切り離され、別々に行われる私的生産、そして社会的分業」を特質とする商品経済では<無政府主義的生産(自由競争)>と<価値(交換価値)が、独自化、形態化し(このことは、3節、「価値形態論」で見てきたことです。)、それが、商品経済の中では、物神化されてゆくこと>、このことです。

 これが、資本主義経済の下では、剰余価値の生産、搾取を<規定的目的、推進動機>とする資本制生産に発展して行来ます。価値増殖を自己目的化する生産になって行く。ここからの恐慌の不可避性も生じることとなります。

 競争を通じた均衡、価値法則を規定性とする経済になることも明らかになります。

 商品、その交換価値、その価値形態が物神化されることで、本来の労働の目的、有用的生産物の生産、欲望の実現としてある使用価値は、第二義的となり、交換価値、価値、貨幣の取得が第一義となり、この取得合戦を経て、使用価値が、無政府的競争を通じて、社会の要求に対して配分されてゆくようになります。

 これが、マルクスが後に「価値法則」と命名した法則の実質、内容です。

 マルクスは、これを「誰かの頭上に家が倒れてくる重力の法則」に例えています。

  ★商品の使用価値と価値の二要素が、その矛盾が分離し、後者が価値形態、貨幣としての定在を帯び、<私的生産、私的労働の社会的性格の二重性>が、交換経済の中では、二つの事柄(下記で、マルクスの言から抜粋すると)<私的労働の二重性>が、つまり一つは<総労働の自然発生的な諸環を形成する>、もう一つは、<私的生産者は、自己の欲望を、等量の時間を持つ異種の労働―異種の商品と交換する。と言った具合に、にいったん、分離して、実現させられる、>構造となるわけです。

  ★上記が<「私的労働の社会的性格」と「その二重性」>の内容です。

  ★マルクスの展開の構造、順序。次の抜粋のところで紹介しますので略。

  ★2章の「交換過程論」との関係、口頭で。

  ★3章の「貨幣と商品流通」の章、そして「貨幣の資本への転化」の編、3編以降との関係。これも口頭で。

  結論的に最簡潔に言いますと、<商品(貨幣)の物神崇拝>は、商品経済の中でのみ起こる現象で、ここでは、私的な生産者が、その生産物を、他の生産者(所持者)の生産物と交換することで、自己の欲望を満足してゆかざるを得ず、それ故に、己の生産と労働の関係、あるいは、他の人の生産、労働関係が、そのまま、直に現れるのではなく、生産物の商品としての交換を通じてしか現れて行かないこと。このことです。
 しかも、無政府主義的な競争を通じた交換、いわゆる価値法則を介した、しかも、価値の、商品から分離した価値形態(交換価値)、貨幣によって仲介されることによって惹起される事柄が内的な原因と言えます。



U.この節のマルクスの文章展開の構造、順序、その特徴、抜粋とその解説。

 1、「商品の神学性、超自然性、呪物性は使用価値からも価値規定の内容(労働の量、労働の継続時間)からも生まれない。」

 2、その謎のような性格は商品形態、価値形態から生まれる。「形態そのものから生まれる。」
「人間労働の同等性は

 a,労働の同等性の価値対象性を受け取り

 b.継続時間による人間労働の尺度は、労働の価値量という形態を受け取り

 c、生産者達のその諸関係を、a,bの規定性を通じ労働生産物の社会的関係という形態 を受け取る。」

 つまり「商品形態は、人間労働の社会的性格を、イ、労働生産物そのものの対象的性格として反映させロ、これらのものの社会的自然属性として反映させハ、したがって総労働に対する生産者達の社会的関係性おも、諸対象の外に存在する社会的関係として反映させる」 <このような置き換え(Quidproquo)によって、労働生産物は商品となり、感覚的であると同時に超感覚的であるもの、社会的産物となるのである。>

 d,
 ・「ものの視神経を通じた、目への投影は、純粋に<物理的現象>であるが、商品形態やこの形態が現れるところの諸労働生産物の価値関係は、物理的性格やそこから生ずる物的な関係とは絶対に何の関係もない。」

 ・「人間と人間の関係が、幻影的関係をとるのは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかない。」

 ・「その類例を見出すならば、宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれらの自身の間でも、人間の間でも、関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では、人間の手の生産物がそう見えるのである。これを私は、呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるや否やこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。」

 e,何故、このような、このように人間と人間の関係が、人間の社会においての労働生産物と労働生産物の関係が、このように呪物崇拝的性格を付着させるか、(帯びるか)と言えば、「互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからに他ならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者達は、自分達の労働生産物を通じて初めて社会的に接触するようになるのであるから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格も又この交換においてはじめて現れるのである。 言い換えれば、私的諸労働は、交換において労働生産物が置かれている、それを介して、生産者達が置かれるところの諸関係によって、はじめて、実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。諸個人が自分達の労働そのものに取り結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係、および諸物の諸関係として、現れるのである。」、こういうことであるからです。(ここのところが、商品の呪物崇拝、<人間と人間の関係が物と物との関係に転倒されて展開される。>のレーニンの解説のガイストとも言える。)

 f,「労働生産物は、それらの交換の中で、はじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような、有用物と価値物への労働生産物の分裂は、既に交換が既に十分な広がりと重要性を持つようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がそれらの生産そのものに際して考慮されるようになった時に、はじめて実証されるのである。」

 「この瞬間から、生産者達たちの私的諸労働は実際に一つの二重な社会的性格を受け取る。

 一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環とし実証しなければならない。(――具体的有用労働が、総労働の諸環として自然発生的に実証されてゆく。)」

 「他方では私的諸労働がそれら自身の生産者達のさまざまな欲望を満足させるには、特殊な私的労働が別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと求められうる限りの事である。――略――つまり、諸労働が人間労働力の支出、抽象的人間労働を持っている共通な性格への還元にしかありえない。」「彼らは。彼らの異種の生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らの異種の労働を、互いに人間労働として等値するのである。」(象形文字云々のところは省いても良いのですが、「使用対象の価値としての規定は、言語と同じように人間の社会的産物である。」から、というフレーズは面白い。)

 g,実際には、生産者達にとっては、自らの生産物の交換割合が問題になるのでありますが、そのことは「互いに独立に営まれる、社会的分業の自然発生的諸環として、全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えず均衡の取れた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合を通じて、それらの生産物の生産に必要な労働時間が、たとえば誰かの頭上に家が倒れてくる時の重力の法則のように、規制的な自然法則としてつらぬかれるからである。」―――(ここは価値法則のこと、その説明をマルクスは説明しているのである。このことが具体的な<商品の超自然性><呪物性、僕には呪縛性と取れますが)の根拠と言えるのではないか?)

 (※塩見―――価値法則の説明をしておくべき。呪物崇拝、物神性格との関連で。)

 h,貨幣について、マルクスは次のような説明をしています。

「諸商品の価値性格の確定に導いたものは、諸所品の貨幣表現に他ならなかった。ところが、その、まさにその商品世界の完成形態――貨幣形態が――が、私的諸労働の社会的性格を顕わに示さないで、かえってそれを覆い隠すのである。上着や長靴が抽象的な人間労働の一般的具体化としてのリンネルに関係するのだ、と言うならば、この表現の奇異な事はすぐに感じられる。ところが、上着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的等価物としてのリンネルにーーーまたは金銀に、としても変わらないーーー関係させるならば、彼らにとっては自分達の私的労働の社会的総労働に対する関係はまさにこの奇異な形態で現れるのである。このような諸形態こそがブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。これが、商品世界の一切の神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧の中に包み込む」<奇怪事>なのであります。(ここも、呪物崇拝の核心的叙述の一つです)



V.他の非商品経済社会と比較しての「商品の物神化」理解の促進と
   マルクス<自由なる人間の連合した社会>のアウトライン。


 以上の商品の呪物的性格、貨幣の物神的性格の性質、その現われ方、その根拠、現れ方の奇異さ、ブルジョア経済学における錯乱性などを押えた上で、今度は、マルクスは、その性格を次の四つの社会的生産の経済構成体との比較の上で説明しようとします。

 つまり、価値関係、交換間関係、あるいは、価値関係、価値法則にまとわれつかれないでいる、言い換えれば、労働が具体的有用性と労働時間を計測基準とする抽象的人間労働がそのままに現れている社会とマルクスは、(資本制)商品経済社会と比較しつつ呪物崇拝の性格、全貌を明らかにして、最後に全面的に発達した(資本制)商品経済を止揚した<自由な人間の連合した「共同体社会」>の基本骨格、イメージを語ります。このイメージをより厳密にした内容が、「ゴータ綱領批判」に書かれているコンミューン(アソシエ)社会としての共産主義社会の記述です。

 a,無人島に漂着したロビンソン・クルソーの個人経済。

 b,ヨーロッパの中世社会。

 c,農民家族の素朴な家長制的な勤労経済。

 d,最後に<共同の生産手段で労働し、自分達の沢山の個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の総合体>を挙げてゆきます。

 a,b,c,は歴史記述的にマルクスはその特徴を語っていますから、きちんとそれを読んでゆけば分ります。

 しかし、三者を踏まえつつ、<自由な人々の結合体(共産主義社会))の基本輪郭を描いてゆきます。

 この点は、きちんと考察してゆくべきでしょう。 


塩見孝也