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資本の生産過程(資本論第1部)

第1編の第1章「商品と貨幣」の抜粋しながらのノートと考察。(2)

2009年 8月26日

塩見孝也


第1章 「商品」の第1節、 「商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体、価値量)」

 この冒頭で、前文でも引用した「資本主義生産様式で支配的に行われている社会の富は、一つの巨大な商品の集まりとして現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」が掲げられます。



1、「使用価値」

 「そして、商品は先ず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの欲望を満足させるものである。」「ある一つのものの有用性は、そのものを使用価値とする。」

 マルクスは、使用価値の考察で、以下、a,bの二つのポイント、基本モーメントを有用性の問題と「交換価値の素材的担い手」という特質として述べています。

 ,「人間の何らかの欲望を充足させる」エレメント、要素としての有用性。商品を「有用物」の観点から見てゆけば、このエレメントが抽出 される事を万人は認める、ある意味ではまったく常識的認識とも言えます。

 「有用性はそのものを有用価値とする」 「有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なくしては存在しない 」 「 鉄やダイヤモンド小麦などの商品体が使用価値、または財である。」「富の素材的内容をなしている。」


 ,「われわれが考察しようとする社会的形態にあっては、それは(使用価値は)同時に素材的な担い手である−−−−−交換価値の。」

 「使用価値は交換価値の素材的担い手」である。これが、もう一つのポイントです。それを、ここではさらっと結論的、断言的に述べているだけですが、ここは、大変分かりづらいし、難しい結論的内容といえます。

 この文言を、マルクスは冒頭から、使用価値論の中に導入しています。

 初心者はこの文言の重要性を気付かなかったり、何のことか分からないまま、すっ飛ばしてしてゆきます。しかし、本当は、彼の使用価値認識で、一番、言いたく、強調したいところであったと思います。

 とはいえ、この内容を、きちんと説明しようとすれば、次の節の、さらに、三節の「価値形態」などの全部の説明をしなければならないから、さらっと断言的に述べるしかなかったわけです。

 これが、彼の価値論、貨幣論、価値形態=交換価値論や交換過程論を成り立たせる極めて重要なキーワードの一つであることを記憶して置いてください。
 ※「イギリスの著述家達はWorthを使用価値、Valueを交換価値の意味にもちいて使う」(マルクスの、ジョン・ロック「利子引き上げーーーーの結果の諸考察」の中に見られる説明引用からの註)

 「価値でなくても、使用価値であるものはありうる。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。」、他にもあります。それは、後で述べます。



2、「価値」、または「交換価値」

 「交換価値は、先ず第一にある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち、割合として現れる。それは時と場所によって、絶えず変動する関係である。したがって、商品に内的な、内在的な交換価値は、一つの形容矛盾であるように見える。」―――割合という表現に注目すべき。 交換関係における割合関係をあらわしている。マルクス価値論は、弁証法的な関係性から捉えられて行っているし、このような観点でマルクスは事物を見、商品も見て行っています。


 ※「価値とは、あるものと他のある物との間の、ある生産物量と他の生産物量とのに間の成立する交換関係である」、 全面的な商品経済社会、資本主義社会における、その商品交換関係における関係性を表現している、といってよいのです。

 ※老バーボン  「どんなものも内的な価値を持つことも出来ない」「あるもの価値は、ちょうどそのものがもたらすであろうだけのものである。」、固定普遍な手で掴まれるような静止的な定量などはないのです。

 後に出てくる、貨幣、その定在である金表現も、本当は、手でつかまれるようで、割合、関係性を表現しているだけといってよい。
 ▽1クウォーターの小麦は

「X量の靴墨、Y量の絹Z量の金と交換される。小麦はさまざまな交換価値を持っているのであってただ一つの交換価値を持っているのではない。」、「しかし、Y量の絹やZ量の金と置き換えられるわけだから互いに等しい大きさの交換価値でなければならない。」

 ここでいえることは、

 「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表している。」

 ・「およそ交換価値は、ただそれとは区別されるある実質の表現様式、現象形態でしかありえない。」、ということを意味しています。

 ・「結局これらの等式は、第一のものでも、第二のものでもない第三のもの、<それ自体としては第一のものでも、第二のものでもないこの第三のもの>に還元できるものでなければならない。」

 このたとえとして、マルクスは、直線形の面積をいくつかの三角形に分解して、その面積は「底辺と高さの積の2分の1」に還元してゆく、例を引く。

  諸商品の使用価値を「捨象したら」、「問題にしないことにすれば」

「残るものは労働生産物という属性だけである」「それを使用価値としている物体的な諸成分や形態を捨象すれば、机や家や糸その他の有用物の感覚的性状はすべて消し去られ、その事によって労働生産物に労働の有用性は消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることのないすべてことごとく同じな、無差別な抽象的人間労働に還元される」「残っているものは、同じ幻(まぼろし)のような対象性のほかになく、無差別な人間労働のただの人間労働力の支出の形態にかかわりのない、人間労働力の支出の、ただの凝固物の他に何もない」。 この幻(まぼろし)のような、手に掴まれるような固定的なものではない、商品、交換運動の中だけに顕現しているようなもの。この「幻(まぼろし)のような対象性」はマルクス的言葉表現であるが、的を得た、言い得て妙の価値の本質的表現と思います。

 この本の中には、このようなマルクス独特の言葉表現がそのほか、沢山使われていっていますが、これは彼も自認しているように、ヘーゲルの弁証法を継承し、それを唯物論的に転倒させて、意識的に使っているのですが、この彼の使い方を掴み取れば、彼の経済学の本質、優れた内容が分かってきます。

 とはいえ、ここでは、マルクスが、いくつかの等式を持ち出し、その共通性を探り出す方法で、価値概念を導き出している、ことが押えられていれば良いと思います。

 「それらのものが表わしているものは、その生産物に、人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられている、という事だけである。このような社会的実態の結晶として、これらのものは価値――商品価値である。」と。

  「商品の交換関係に現れる共通物が商品の価値である」「だから、使用価値、または財貨が価値を持つのは、ただ抽象的人間労働がそれに物質化、対象化されているからに他ならない。」

  「その価値の大きさはどのようにして計られるか?それは価値を形成する実態の量、すなわち労働の量の量である。労働の量そのものは労働の継続時間ではかられ、労働時間は、1時間とか一日とかとか、というような一定の時間部分をその度量標準としている。」「すべての商品は、ただ一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」

  「社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度を持って、何らかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。」
  価値、交換価値は、その社会で、その時代、その期間中に存在する平均的労働時間の量のよって決まってゆく、といっているわけです。
  ▼「価値でなくても、使用価値であるものはありうる。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。」自分の欲望によって、自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値は作るが商品は作らない。マルクスは、後で、ロビンソン・クルーソーの無人島での自分の労働に基づく生産物の例を挙げる。中世の農民の領主や坊主への貢納物の例も挙げる。
 「商品となるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手によって移されなければならない。最後に、どんなものも、使用対象であることなしには、価値でありえない。ものが無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働の中に入らず、したがって価値も形成しない。」



 a,「価値」と「交換価値」の関係とは?
 「マルクスは(商品の)価値」といい、他方では、「交換価値」といい、一方では、価値と交換価値を区別しつつ、価値を本質的概念として使い、交換価値をその「表現様式」または「現象形態」として使っています。他方では、ほとんど同じ意味で使用しもします。両者を彼はどう包括的に捉え、関連させているのだろうか?

  この回答は、 「実際に使用価値を捨象してみれば、ちょうど今規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係に現れる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行過程は、われわれを、価値の必然的表現様式、または現象形態としての交換価値に連れ戻しであろう。」(大月の文庫本、第一分冊のP78)の文章に与えられていると思います。

  「価値」を「交換価値」概念をさしはさまない形で、説明する事は、本来出来ません。なぜなら、両者は、一体の関係性、商品交換運動の中で、与えられているからです。しかし、この節では、彼は、出来るだけ、その説明を避けて、その本質を、言い当て、言い表そうとしているわけです。
  そうすると、「人間労働の凝固」であり、それは「幻(まぼろし)のような対象性」という基本モーメントして言わざるを得ないわけです。
 とはいえ、彼の既に確立している基本認識では「その、幻(まぼろし)性」を商品交換間関係、商品交換運動の中で、より現実性、具体性を持ったものと表現することが包括性を持ちうる、と把握されており、それが、「交換価値」といえる概念と認識されているのですから、この節では、それを暗示するような、定言的表現方法をとるわけです。

  人間労働が、その社会で、平均的に凝固している労働時間で与えられている事において、時間基準を持って価値が表わされ、現象しているものとして「交換価値」という概念を彼は使用しているわけです。



  b,マルクスの表現方法は「ア・プリオリか?」「定言的か?」
 商品に含まれる、2要因、2エレメントを、マルクスは、いきなり言定するやり方をとっています。このやり方について、「ア・プリオリ」 「定言的」「ヘーゲル的」とかいった批判があります。確かに、一見、その憾みなしとしない。このような叙述方法は、世間一般の人々にはなじみ薄いと思われます。
  何故、マルクスは、ある面で、一見「ア・プリオリ」、「定言的」と思われるような形で、言い切るのでしょうか。

 僕は、この点は、物理学や数学の唯物論的な公理のようなものと考えています。

 公理は、本来説明なしで、人間が科学的、論理的に、ある体系を説明してゆくためには、まさに直観的に、その後の体系のもろもろの範疇(カテゴリー)の説明を使わず、その一切を省き、その体系のガイストのガイストとして、導入されます。逆に、この公理から、体系のもろもろのカテゴリーが説明され、組み立てられてゆきます。このようにしてしか、人類は、対象を解析し、科学的に表現してゆけないからです。

 にしても、かれの価値論もまた、その後に続く、「労働の二重性」「価値形態」論(そこに於ける、最終項の「貨幣の物神崇拝など)と不可分一体なのですから、その説明も加えなければならず、こう言った包括性が、結局、この公理の中に、最小限の形で暗示的に語れもするわけです。

 “直観的”とは、インスピレーションを伴っていますが、当てずっぽうでは決してありません。確かに、深い深い井戸の底を見通す場合、底に降り下って、把握してゆく以上に、井戸口から、一条の光をあて、底の本質的形状から、その本質を見て行くような作業と言えますが、その方が、井戸の底を、底にある澄んだ(濁った水も、長い時間の間では、こうなるでしょから)水おも透視して、突き抜けて、底を把握できます。その背景には、膨大な包括的調査、研究、実験、あるいは透視条件が備わってのことで、決して当てずっぽうではないのです。

 公理の説明の中に、この公理から、後に出てくる、諸概念をさしはさむのは、公理説明のトートロジー(同義反復)を使う、科学、論理性に反するルール違反です。ですから、マルクスは、こう言ったルール違反をしないで、懸命に公理を説明しようとするわけです。それが、一見「アプリオリ」に見えるに過ぎません。



 ともあれ、僕らは、マルクスを招いて、彼の研究方法と叙述の関係、彼の弁証法について、直接、彼の説明を受けようではありませんか。

 そこで、僕らは、「資本論」第二版の後書き(大月出版、1972年の岡崎次郎訳のもので、P37からP31)で述べている彼の説明に耳を傾けましょう。

 「資本論」第1巻が公刊された時、各国で、沢山の書評がなされ、ドイツではI・Iカウフマンという批評家が発言をしたわけですが、マルクスは、この批評が、自分の弁証法を見事に要約していると、好意的に受け止めて、紹介しつつ、自説を展開しています。
 
 ここで、彼は、ヘーゲル的であってヘーゲル的でない、自分(マルクス)の弁証法や経済学の核心をすっきりと説明しています。あるいは、研究における調査、分析、思考の構成と叙述、表現の方法、文章構成の仕方の違いを述べています。
 
「彼(コウフマン)の自分(マルクスのこと)への批評、評価は弁証法的方法以外の何であろうか!自分の弁証法の概括である。もちろん、叙述の仕方は、形式上、研究の仕方とは区別されなければならない。研究は、素材を細部にわたって我が物とし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探り出さなければならない。この仕事をすっかり済ませてから、初めて現実の運動をそれに応じて叙述できるのである。これがうまくいって、素材の生命が観念的に反映することとなれば、まるで先験的な「a・priori」構成がなされているように見えるかもしれない。

 私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名の下に、一つの独立な主体にさえ転化できる思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただのその外的現象をなしているだけなのである。

 私ににあっては、観念的なものは、物質的なものが人間の頭の中で転換され翻訳されているものに他ならない。


 ヘーゲルの弁証法の神秘的な面を私は30年ほど前に批判した。ところが、今、私が「資本論」1巻を仕上げたちょうどそのときに、ドイツで、ヘーゲルを<死んだ犬>として取り扱う事が流行しているので、それだからこそ、私があの偉大な思想家の弟子である事を率直に認め、価値論に関する章のあちこちで、彼に特有な表現様式に媚を呈しさえしたのである。弁証法が、彼の手の中で受けた神秘化は弁証法の一般的な諸運動形態を始めて包括的な意識的な仕方で述べたということを決して妨げるものではない。

 弁証法は、ヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮の中に合理的な核心を発見するためには、それをひっくりかえさなければならないのである。


  その神秘化された形態では、弁証法はドイツの流行者となった。というのは、それがドイツの現状に光明を充たすように見えたからである。その合理的な姿では、弁証法はブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては腹立たしいのであり、恐ろしいのである。なぜならば、それは(マルクス弁証法と価値論は)現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、一切の生成形態を運動の流れの中で捉え、したがってまた過ぎ去る面から捉え何者にも動かされる事なく、その本質上批判的であり革命的であるからである。―――――」 

(3に続く)

塩見孝也