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2月6日 阿佐ヶ谷Loft A トーク報告

連合赤軍問題、足立正生さんに答えて

2008年 2月 26日

塩見孝也

1. 2月6日の「阿佐ヶ谷・Loft A」トークの報告をしておきます。

若松監督の、「実録・連合赤軍」の封切が近づいてきているせいか、或いは、ロフトの方々の宣伝面の協力もあったせいか、当日は、100名を十分越える人々が、参加されました。立ち見も出たそうです。

ゲストの顔ぶれのせいもあったでしょう。 ゲストの方々に感謝します。

僕の感じでは、若い人達が、十分、半数を超えていた、ように思えます。

これは、ありがたいことでもあり、また、この国の若者の今後の帰趨を占う意味で、注目すべきこと、とも考えます。

青年達が、自分たちの同年齢に近い30数年前の若者たちが、何故あれほど真剣に、たとえ、日本民衆の意に沿えず、決定的とも言える過ちを犯してしまったとは言え、日本と世界の未来を考え、決死の覚悟を持って決起したのか、先ずその現実の姿、そして、そこに内蔵されていた真実、真相を知りたい、こういったことではなかったでしょうか。

僕などと同時代を生きた世代、その後の50代、40代のひとびとにとっても、それぞれの世代において、この事件は、それぞれの世代ごとに受け止め方は違ったでしょうが、考え続けてこなければならなかった課題であったことは確かでしょう。

僕等70年闘争世代においては、これまで、それは胸底深くしまいこまれていたであろう。

それを、今一度、白日の下での、議論として考えてゆこうとするものではなかったでしょうか。

この意味で、この映画は、あれから30数年間、体制側の下で、封印され、思考することを禁じられていた問題のパンドラの箱を開け、この事件を、民衆側の見地で、思考してゆく水路を切り拓いてゆく場を提供していることにおいて偉大な、歴史的意義を有していたと言えます。

この点で、若松監督に、重ねて感謝の意を僕は表します。

足立同志(氏は、紛れも無く、僕の同志の一人と言えますが、今後は、文章の展開上、「氏」として扱わしていただきます。)は、積極的に、僕に挑戦され、いろんなことをおっしゃいましたが、これはこれで、連合赤軍事件の総括運動の現状を照らし出す上で、これまた意義あることだったと思います。

60半ばを越えた、年配の二人が、変革の要衝とも言える問題に立ち向かい、口角、泡を飛ばして議論するのですから、その真摯さに、青年達は、何かを感じ取ってくれたのではないでしょうか。

僕にとっては、僕の見地を説得的に述べてゆくためには、このやり取り具合は非常に、都合よく、有意義で、ありがたかったです。

足立氏に感謝します。

鈴木邦男さんは、見沢知廉さんの「スパイ」「粛清」事件を例に出し、右翼民族派内部においても同質な問題を経験してきた、又その処理に苦慮してきたことを述べられた。この辺は、時間があれば、もっと触れたかったです。いずれにしても、鈴木さんが、この問題に主体的に立ち向かってくださってきたことは、ありがたいことでした。

それにしても、こういった、一筋も二筋も縄では行かぬ問題とゲストを迎え、司会として捌くのは、並たいていではありません。

特に、僕が、確固とした主張を持ち、それをもって議論の方向をまとめようとするのですから、僕自身も、司会としては、やりにくかったです。

僕は、このことを考え、このゲストの長老である若松さんにカバーに入っていただこうと思っていたわけですが、この役どころを、成り行きから、鈴木さんが担ってくれました。

僕は、この役回し、割り振りは、いろんな事情を勘案した場合、一概に、とは言えませんが、今後もお願いできそうだと直感しました。

竹藤さんは、さすがに遠慮気味で、僕も、上手く、振れず、寡黙でしたが、昨年末、12月15日の「新宿」での飲み会らで発言されたように、「爺さん」など押しのけてでも、伸びやかに発言していただきたかった。

多分、若い世代として、言いたいことは山ほどお在りであったでしょうが、それを僕は、十分に引き出せませんでした。

この点は、会場からの発言においてもいえることでした。

会場からは、青年達の発言は、少なかったですが、多分、言いたいことでうずうずしていた人は多かったでしょう。

一つ、語る用語、言葉、その背景の感覚、基礎知識の違いをどう埋めてゆくか、の問題は表面化していました。

にしても、平野さん、藤山さんや渡辺亜人さんの映画「WE」や和光春生さんの著書「赤い春」の紹介を絡めた発言、文芸評論家のマルマルさん、K君らが発言され、これはこれで面白かったです。



2. さて、トークの本筋についてです。基本的には、足立氏と僕の議論、論争が主軸でした。

足立氏は、トークの始まる前から、えらく張りきり、意気込んでおられ、「今日は塩見君にお小言を言いにきた」と誠に挑発的でした。

氏が、述べられた要点は
「責任転嫁的で、自己弁護過ぎる。責任回避だ。殺された人も、殺した人も苦しんできたのだ。こういった、悲しむべき、残念な現実があったのだ。この総体を、全部、ひき受けて総括する“全体性”が必要だ。」
「スターリン主義を持ち出すなら、塩見こそスターリン主義的でなかったか。」
「7・6事件を、感情に拝跪し、憤激した、というが果たしてそうか。」
後、「獄中ボケが治っていない」とかの苦言も頂戴しました。
「70年代を終えて、80年代、出獄してからぼやけてきているのではないか。」

こういったことを、氏は一気にまくし立てられました。

僕は、あたうる限り、僕の信ずるところに従って、具体的歴史的に、事例を挙げ、氏に答えて行きました。

はじめの、「こういった、悲しむべき、残念な現実があったのだ。この総体を、全部、ひき受けて総括する“全体性”が必要だ。」については、氏のお話からはその内容、骨組みまでは見えて来ませんでした。具体的な事実に基づくものとは、どう見ても言えませんでした。

もう少し、言えば、僕がこの30数年間、取ってきた基本的態度をそのままおっしゃっているに過ぎないと思います。

僕の生き様、姿勢の真髄を換骨奪胎して、言葉だけ簒奪し、その相手には、自分の中だけで誤解に基づくイメージを作り上げているとしか思えませんでした。そして、僕には、なんだか、氏が強がっている感じを受けました。

こういった「全部引き受ける」について言うなら、僕はこの30数年間、こういった態度を貫いて来ました。そのことを自負します。

連赤事件直後からの、「塩見孝也論叢」の約2年間、78年に至る「プロレタリア革命派」結成とその後の4年間、ダッカ・ハイジャック事件以降の「プロ革命派」解散以降の「労農通信時代」、83年以降の下獄期間、出獄して94年までの「風雪」の時代、そして出獄してからの「春雷」(「自主日本の会」を結成して活動してきた期間)時期、「連れて来た」問題を巡って「よど号グループ」と訣別しての現在に至る「ぱとり」の時代、こういった全部の期間、僕は「元赤軍派議長」の看板を下ろさず、責任を引き受けてきました。

 ※具体的な例証を付加します。

これは、これは、理論、思想内容を持った、全て、激しい理論、思想闘争も含んだ、公開されている実践行動を伴った軌跡です。

僕に関心を持つ人々なら、なおさらのこと、マスメディアも含め、おおよその世間の人々、周知のことです。いわば、天下周知の事柄であります。

僕の出獄後の「リハビリ終了宣言」、「幸福論」「赤軍派始末記」「獄中記」に明らかです。とりわけ、「始末記」、「監獄記」には、一目瞭然です。「始末記」の巻頭論文、「全て俺が責任を取る」とハードカバーの帯びにすら出しています。

足立氏は、激しく勢い込んでレッテルを貼られましたが、どう見ても氏の誤解、思い込みです。

氏は、具体的な事実を挙げ、検証してゆくことなどは全くされませんでした。

残念ながら、僕の文章も著作も或いは行動も「ぱとり」も、ほとんど読んでおられないで、人の噂、風評や根拠なき中傷、誹謗を真に受けたものとしか思えませんでした。

それも、狭い、狭い、野郎自大の人々が屯する人々の世界で通用しているような代物を真に受けてです。

又、僕が、ずっと自己批判の姿勢を堅持し、自己批判ばかりしているから、何か塩見が「何も立脚するところがなく、やわな人間に成り下がった。もともと、そうではなかったか?」と、と勝手に臆断されているのでしょうか?

僕は、「プロレタリア革命主義―人民大衆中心・人間中心―人間自主の政治・思想・哲学路線」、自主革命家の立場を確立していますが、又、それ故にこそ、小さな組織など作らず、直接、人々や運動家、運動体との絆を作ってゆくやりようを追求、実践しているのを勘違いされ、単なる落魄した孤独者ぐらいの像を描き、というより、そう願望し、強く出ればひとたまりもないと思い込まれているふしも感じました。

人が人を批判するのであれば、とりわけ革命家が、革命家を批判するのであるなら、その人の全体的軌跡を良く調べ、或いは、どうしても解せない決定的事実をつかみ、根拠を持っておこなっていただきたいです。

足立氏は名士のように、民衆から処遇されてきたように思いますし、事実、帰国されて暫くはそうした実質を持ち、刻苦奮闘された、と思います。

しかし、刻苦奮闘は、継続されるべきです。どんな人でも、それをひとたび緩めたり、中断すれば、すぐにカビが繁茂し、腐敗してゆきます。人間もまた、冷厳な新陳代謝の法則の中にあります。

僕は、奥平さん、山田さん、岡本さん、若生さん、丸岡さん、重信さんら闘いを継続されている人々を尊敬し、学ぼうと思っております。非命のうちに斃れた「日本赤軍」の同志たち、今も海外の獄や地下で苦闘している人々を尊敬します。

とりわけ、コマンドとして闘い、斃れた人、無期・重刑攻撃を受けながら刻苦奮闘している人々を尊敬し、僕の生きる鑑としてきました。

足立氏は、同伴者であった時期はあったかも知れませんが、コマンドではありませんでした。

これらの人々と、その苦闘を共有し、必死でともに連帯して生きてこそ、或いは、労働者等民衆と必死でともに生き、闘ってこそ、腐食から免れ、日々を新たにしてゆけるのではないでしょうか。



3. 足立氏の、連合赤軍問題についての見方について。

一般に、永田さん、植垣君が、裁判で主張した、或いは二人の著書「16の墓標」「兵士たちの連合赤軍」で展開した、「共産主義化するため」の、「強い兵士になるため」のという、「極左的」な「急進的思想運動」だった、という評価がありますが、氏の意見は、おおむね、その見地に立脚しています。

●殺した側と殺された側には厳然たる境界線がある。殺された側から考えてゆくべきか、殺した側から考えてゆくべきか。

言うならば、足立氏の意見は、殺した側の意見を代弁しているのではないでしょうか。

であるならば、この見地は全く間違っています。

侮辱され続け、無念にも殺されていった12名の悲憤、惨苦の想い、これをおもんぱかる民衆や遺族の感情、或いは我々同志の無念至極の愛惜の感情が酌量されていないということにもなります。殺された側の遺族、関係者の声を聞かれたでしょうか?

これでは、殺された12名は、「共産主義化されていない」「弱い兵士」、殺して生き残った兵士は「共産主義化された」「強い兵士」ということが、前提とされることになります。

又、「悲しみ」「同情」の対象は、「殺された人も、殺した人も、同じようにつらく悲しいのだ」、としつつ、結局は、殺されていった12名は忘れ去られ、侮辱され続け、復権はされずじまいになり、結局は、その同情は、生き残った「新党」指導部派に向けられてしまいます。

確かに、殺された人で、最初は殺す側に居た人も居ます。しかし、最後は殺されています。

殺された人と、殺した人の間には、やはり厳然たる境界線があります。

こういった「境界線をはっきりさせ、その上で、殺した側のことも考える」といった内容抜きに、「全体性」を問題とするなら、足立氏の主張は方向性が間違っていると思います。

確かに、森君や永田さん(植垣君にしても)日本帝国主義が、二度と侵略戦争をしないようにするために闘った点で、決定的とも言える過ちを犯したにしても、権力によって裁かれる存在では、断じてなく、裁判では、民衆側の我々は、権力の一切の動きを批判して、反弾圧の見地で裁かせてはならないのですが、従って、彼、彼女等への弾圧には同情されるべきです。

しかし、ひとたび「総括」の見地に立てば、やはり、殺した側の「同志殺しの罪」そのものについては曖昧にしてはなりません。

先ず、第一に想いをいたし、復権されるべきは、殺された12名(革命左派側、永田さんらは、14名)なのです。

その上で、森君や永田さん、或いは指導部派もいくつもの同情されるべき点が、情状酌量されるべきなのです。

当時の武装闘争追及の歴史的意義を堅持しつつ、僕等、赤軍派、ブント潮流の未熟性も総括した内容が示されてゆかなければなりません。

しかし、先ず第一に、殺された人々と殺した人々の区別、差異がはっきりされ、同情されるべき優先順位がはっきりされて、連帯されてゆくべきなのです。

この境界線、優先順位は、絶対に曖昧にされてはならないのです。

この境界線が、曖昧にされるなら、革命の大義も、そのための武装闘争の大義も見失われ、何のための革命かも分からなくなってしまいます。

総括をするのなら、この事件の是非善悪、理非曲直が、先ずはっきりさせねばならないのです。

反弾圧にかまけて、この理非曲直、是非善悪をぼやけさせ、犯罪(的過ち)を「正当化」してしまうならば、そのことが問題なのです。

だからこそ、僕が「12名の立場に立って、連合赤軍事件を総括、処理してゆく」見地を、頑強に堅持しているのです。

足立氏には、この肝心、要なところを理解していただきたいです。


●武装闘争に、「同志殺し」や「粛清」はつき物か?

次に、永田さんや植垣君は、裁判の中で、武装闘争を追及すれば、「同志殺し」「粛清はつき物だ」「やむなきこと、しょうがないことだ」と主張してきました。

そして、原因を、「極左的な武装闘争路線」追求一般の所為にし、ブント・赤軍派の「急進主義的武装闘争」追求に根源を持って行こうとするのです。

そして、7・6事件の僕など赤軍派が連合ブント派の仏さんなどを殴った、ことに、淵源としてゆくわけです。

しかし、この主張は間違っています。

7・6事件と連合赤軍派=「新党」結成とは、全然違い、全くのこじつけです。

僕等赤軍派は、暴力を振るったことについては、僕等に全面的非があることを認め、きちんと自己批判しています。 除名処分もやむなしと、認めています。

又「別党」としての、「新党」を目指していません。赤軍派は、あくまでも、自らをブントの一分派と規定しています。

これと「連合赤軍派」「新党」と一緒くたにしてもらっては困ります。

あさま山荘での銃撃戦は、「同志殺し」の正当化、美化の延長線上に、なされたものではなく、<同志殺し>の贖罪心に基づいて、その否定、自己批判、清算の上に実現されたものですが、「プチブル革命主義」の軍事で、「同志殺し」を引きずっており、「なかったよりはあったほうが、遥かに良い」にせよ、決して、美化され、人民の戦争、軍事として、正当化され、支持されていいことにはなりません。

しかし、「浅間山荘銃撃戦は、あれぐらいしなければ、やれなかった」そこから、翻って、浅間山荘銃撃戦は、「日本で初めて、権力に銃口を向けた闘い」と今度は、天まで持ち上げつつ、「同志殺し」を、正当化、美化したりする、ことともなってゆくのです。そして「<同志殺し>もやれないぐらいなら、武装闘争はやるな」の極論を展開するのは理屈に合いません。

このような論理的矛盾が、80年代の後退戦の情勢と相俟って、どれほど人々を混乱させ、甚大な悪影響を及ぼしたでしょうか。

そう、単純ではないと、という認識、想いも、みんなに、ありつつも、結局、こういった認識・図式が、あれから30年間、体制側のキャンペーンと軌を一に、民衆の脳みそを、ずっと占拠し続け、赤軍派・ブントらの新左翼運動を思考停止の袋小路に追い込んでいったのでした。

こういった事態は、当時の民衆運動、革命運動の未熟性の現実に規定され、つまり、「資本主義批判、プチブル革命主義からプロレタリア革命主義へ」「人民大衆中心・人間中心、自主思想・哲学・世界観の獲得」という、根本的で、大規模な、民衆主体の大(自己)変革をやり遂げ、成熟して行かない限り、打破してゆけなかった、と思います。

映画では、遠山さんが、余りにひ弱に、指輪や化粧のことなどのことで、なんら弁護されず、描かれていることは、その他、たくさん気にかかることはあるのですが、特に、気にかかります。他方で、対照的に、森君や永田さんが、凄く力強く描かれているのも気になります。

この、「同志殺し」の「共産主義化」論を補強、強化するものとして「殺されたものも殺している」「誰も、<山>から逃げようとしなかった」らが、語られ、今でも尾を引いています。


●「『同志殺し』なき、『粛清』なき武装闘争」は可能である。

爆弾闘争とは言え、黒ヘル諸君や<東アジア反日武装戦線>の諸君はやっており、赤軍派にあっては「よど号」闘争の田宮同志等9人がやっております。S同志の爆弾投擲闘争、M作戦など。

何よりも、「同志殺し」などせずとも、武装闘争はやれることを、パレスチナ人・PFLPの援助があったとは言え、あの当時は、まだ赤軍派の重信さんを中心にしていたという点で、「赤軍派」(系)であった、日本人のアラブ国際義勇軍の、奥平・安田・岡本同志たちが、その直後、見事に、典型的、模範的に実現して見せてくれました。又、政治・思想内容で問題がなきにしもあらずですが、「日本赤軍」のいくつもの<連続的国際ゲリラ戦>もそうです。

赤軍派のスピリット、思想、理念、がどう凝縮するかを、明々白白に実証して見せてくれたのです。

奥平、安田同志は、そのために、その全存在を捧げました。

岡本同志は、その肉体と頭脳が、ぼろぼろにされるような犠牲を受苦しました。

「武装闘争には同志殺しや粛清はつきもの、従って武装闘争をやるなら粛清は付き物、それが嫌なら、武装闘争は追及するな」と言った、言説は、完全に粉砕されてしまっているのです。

問題は武装闘争をやるか、放棄するか、ではなく、武装闘争にはいかなる思想、政治、条件が必要か、優れて主体の思想の問題なのです。

こういった問題、問題設定が、彼らには理解できないだけのことなのです。

映画については、監督が、浅間ー軽井沢銃撃戦を、完全に越えているリッダ闘争を、奥平さんらの名誉もしっかり付与し、対照的なシーンを付け加え、挿入していただければありがたかったと思っております。


●スターリン主義肯定が連赤事件を招いた。

連合赤軍事件は、何度も繰り返しますが、「銃による殲滅戦」を実現するための、<強い兵士を作る>ための、「急進主義的思想運動」から発したものではありません。

一体、思想運動から、こんな大量の死、殺しが何で発生するでしょう。全然、説明がつきません。

何故、加藤能敬君や尾崎君や小島さんが、取り立てて、初発に「総括」にかけられねばならなかったのでしょう。

何故、遠山さんや彼女と一緒に軍事訓練に来た、行方君、山崎君ら4人が総括にかけられなかったかが説明されえません。

その後、寺岡君、大槻さん、山本さん、金子さん、山田君らが、何故、そうされたか、も説明されてゆきません。

違います。こんな、<急進的思想運動>などといった、一見分かりやすそうで、何も分からず、ますます真実把握、真相究明を混乱させるだけの、次元ではなく、これとは、全く次元の違うパラダイムこそが、提出されるべきなのです。

根本の根本の第一は、路線、思想抜きに、「党」、指導者防衛を自己目的化する、「同志殺し」、「粛清」を肯定するスタ―リン主義思想の復活、肯定があったことです。(路線、思想が、正しければ、「同志殺し」「処刑」を容認するということにもなりませんが)
そして、

第二に、思想や路線の違う、新左翼・ブントとスターリン主義肯定の毛沢東思想を<銃による殲滅戦実現>のために、無理やり野合させ、「新党」をデッチあげんとして、邪魔者の「新党」結成に、反対する人々を、抹殺していった、こと、これが、事件の基本構図、原因なのです。

<共産主義化>の<急進主義的思想運動のためだった>という言説は、このための、下部同士の<共産主義的な、強い兵士になりたい>という真摯な、戦闘的、革命的慾求に付け込む、下部同志支配の名文、方式、隠れ蓑であった、といえます。
 この原因とそのプロセスは以下なのです。

a: 第一は、永田さんら、革命左派、永田派が、こんなパラダイムとは全く異なる、スターリン、スターリン主義の指導者、絶対化、神格化のためには、思想の違いを許さず、同志を殺してゆくことを正当と考えるスターリニズムの思想を復活、正当化したこと。

これは、永田さんの資質、性格、女性としてのトラウマなどといった資質論的次元の問題では全くありません。

それは、川島豪君を指導者として作り上げてきた、毛沢東思想盲従、「農村から都市へ」の中国革命教条化の革命左派のスターリン主義肯定・粛清肯定の、政治・思想路線、組織路線、軍事路線の帰結するところといわなければなりません。

赤軍派は、「前段階蜂起」、「連続蜂起」、この延長での「社会主義革命戦争」、プロレタリアートに立脚する「都市ゲリラ戦争」路線です。

主として、寄せ場、学園、大衆闘争拠点、工場、職場、労働運動らに
立脚する「都市ゲリラ戦争」路線です。

革命左派が、中国革命を教条化するなら、こんなにも軍事・政治路線は違っていたのです。

残念ながら、さすがの若松監督も、こういった分析は、全く触れていません。

b: 第二に、発達した高度資本主義国の日本において、中国革命の<農村から都市へ>を教条化、盲信し、プロレタリートら人民の居ない山岳を、「解放区の根拠地>と錯誤したこと。

 この錯乱の上で、<根拠地>を<脱走した>二人を、「根拠地防衛」を名文に<スパイ>のレッテルを貼り、処刑してしまったこと。

これが、事件の発火点、導火線です。

寒い、冬の民衆との絆が断ち切られた山小屋アジトは、集団主義的な異常心理を生み出す格好の条件です。しかし、ここからのみ、多数リンチの「同志殺し」の理由を説明してゆくことは、できません。

山岳は、永田さんら革命左派にとっては、単なる「軍事訓練基地」ではなく、中国革命とオーバーラップし、「根拠地」「解放区」として特別に、神聖な意義を有していたのでした。

こういった感覚は、映像的にはかなり出ては居ますが、それが、中国革命教条化の革命左派の政治・軍事路線に基づくものであることはほとんど意識化されていません。

c: 第三は、上記、野合「新党」を、間違った、スターリン主義の2名処刑を、居直り、それを正当化しつつ、迷っていた森君をオルグし、無理矢理、強行したこと。

d: 第四に、無理矢理に、野合「新党」を、強行するのに、障害となる、これに反対する、川島豪氏ら獄中革命左派と繋がり、「新党」反対の意見書を持って行った、3人を、まったくのとるに足らぬ理由を挙げて<総括>に掛け、抹殺したこと。

同時平行的に、遠山さんら、獄中赤軍派指導部に連なる人々を<総括>に掛け、抹殺していったこと。

映画では、加藤、尾崎君らが[野合新党」反対の、川島君の意見書を持って、山に行き、それが、永田さん・森君の不興を買い、総括に、掛けられてゆくシーンがかなりなウェイトを於いて、語られていますが、そしてと遠山さんの化粧、指輪問題も語られていますが、ここに、「同志殺し」「粛清」の基本構図があったこととは、意識的には映像化されていません。

これは、困ります。

e: 第五に、当面の<新党>反対派からの指導権の揺らぎ、動揺の危険は脱したものの、森・永田の「新党」権力は、野合ゆえ、決して安定していず、自分たちの権力を脅かす人々を次の段階として総括に掛けていっていること。

つまり、「新党」反対派の粛清の後、今度は、「新党」を前提としている人々に対して、森、永田さんの権力を脅かす危険がある人、或いは、この二人を中心とする権力の絆に、対抗する可能性を有す、別の絆を持っている人々(と森君、永田さんが、勝手に妄想した人々)を、<総括に掛けること>でした。

つまり、夫婦、恋人、親子の絆を持つ人々をばらばらにしてゆくことです。

そのような人として、寺岡君(彼も結婚し、夫婦は、山に居た、と思います。?)を<スタ―リニスト>と決め付け、強殺していったこと。

大槻さんと植垣君は恋人関係です。吉野君と金子さんは、妊娠している夫婦の関係です。山本純一さんと山本さんは、ライラという娘を持つ夫婦であった。

山田君は、今は、森君、永田さんの権力に随順しているが、一貫して<共産主義化>に批判的で、死ぬ前に、永田さん、森君をはっきり批判しています。

山田は「死は人間にとって平凡なことである。死を押し付けても、人は革命化しない」、死んでゆく時、「畜生、何が総括だ!」と言い切り、亡くなっています。

これは、確認されており、僕は、それを[監獄記」のページ256に書き記しています。
彼は、思想家、理論家であり、塩見との絆は深く、塩見を慕って、ブントや赤軍派の行動をともにしてきた同志でもありました。こういった人々も、危険視されたのでした。

森君、永田さんは、こういった絆を危険視して、大槻さん、金子さん、山本さん、山田君を次々に「粛清」に掛けて行ったのでした。

f: 第六に、野合ゆえに、森君、永田さんの絆すらも不安定ですから、 二人は、永田さんの提案で、永田―坂口君の夫婦の関係、森君とAさん夫婦の関係を解消し、結婚したのでした。

g: 第七に、永田さん、森君が、「結婚」で、山岳を空けたこと。権力が、<連合赤軍>の山岳存在を察知し、包囲の輪を縮めてきたこと、このためからの山岳逃避行の妙義越え、銃撃戦、籠城が、5人の戦士たちを本来の革命家の方向に、よみがえらせて行き、12名への贖罪心をバネに、10日間の籠城、銃撃戦を実現してゆくこととなった。

映画では、腰だめからの銃発射、銃撃戦のシーンは、圧巻であり、最後、加藤兄弟の末弟が、最後に「何を言うんですか、僕等が勇気がなかったからではないですか」の一言に、監督は、連赤事件の、本質をシンボライズさせていますが、“勇気”は、対象と自己の唯物論的、客観的な自己認識が前提とされなければならない、と考えますが、、つまり、正しい政治上、思想上の認識が前提とされなければなりませんが、映画手法としては、最高のものとなっていました。

このような、連合赤軍事件の原因、真相、経過、どのような順序、優先順位を持って悼むべきかを、僕は[監獄記」の第4章[監獄での<連合赤軍事件>体験――森恒夫物語」、特に(8)、(9)の「連合赤軍事件の全体像とは?」「「赤軍派系の5名の同志たち、革命左派系の7名の戦士を先ず追悼する」に詳しく書いております。

どうか、ご参照ください。


4. 連赤事件に対する「けじめ」について。

現在、連合赤軍事件以来、35年が過ぎました。

明らかにこの2〜3年、かつてないむき出しの資本主義の中で社会のかかえる矛盾が大きくなるにつれ、民衆運動は、長い後退戦を抜けて盛り上がりつつあります。

こういった時期にこそ、過去、民衆運動が抱えていた、宿阿のような問題を考えないわけにはいきません。

70年闘争当時、二大革命的左翼として存在したブント潮流と革共同潮流においては、一つは連合赤軍事件であり、もう一つは内ゲバ問題です。

この二つの大問題に、正しく決着をつけ、その「けじめ」を示してこそ、若い人々が二度と同じ間違いを犯さずに、民衆運動を正しく発展させてゆく為の役に立てるというものではないでしょうか。

特に、僕らブント系左翼にとっては、いうまでもなく連合赤軍問題です。

何故、これまで僕らは「けじめ」をつけることができなかったのか?

これは過去、僕らには民衆的成熟がなく、客観的視点で自らの批判をおこなえる総合的力量を持ち得なかったからだと思います。

しかし、あれから35年を経た今、僕らは、当時よりも年輪を重ね、多くのことを学んでいます。

今は、それができるし、するべき時期に来ていると思います。

「けじめ」をつけるには、まずは当時の僕等の未熟性への自己批判が前提になるのは明らかです。そして、亡くなった12人の立場に立ちつつも、「罪を憎んで人を憎まず」の観点で、「何がどう間違っていたのか」「何をどうすべきだったのか」を、客観的かつ冷静に皆で真剣に考察してゆけば、必ず実を結ぶものと確信します。


塩見孝也