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“自主哲学”についての若干の覚書

2008年 1月 21日

塩見孝也

僕は、「人間自主」とか、「民衆中心―人間中心」とかといった用語を良く使います。

以下は、そのことについての、若干の覚書です。


第一に、資本主義批判、階級性は前提です。この、確認を前提にして、自主論、自主哲学は出てきています。


第二に、人間を<社会諸関係の総体(マルクス、「フォイエルバッハ批判第6テーゼ」)> としてみるだけでは足らず、として、僕の人間論は、「自主性を持った社会的存在」と規定しています。 ちゃんと<社会的存在>を入れていること。

その上で、「命の最高尊貴性の確認とそれを社会的に輝かせる」、人間の性質として、<自主性>があること、このマルクスの「社会諸関係の総体(アンサンブル)」を束ねるもの、或いは、その『総体』の内容として、『自主性』が存在する、といっているわけです。

『自主性』という概念は、「存在と意識」の唯物論的関係性を踏まえ、その上で、「世界と人間の関係性」としての場所性、場所的関係性の中での、人間の地位、役割を示す概念です。

つまり、「人間が世界の主人」であり、「人間のみが世界の全てを決定しうる」存在、それ故に<人間は、自らの運命の主人になりえる>

こう「自主性」という概念を設定しているわけです。

こう言った具合に、人間の可能性を確信しているわけです。

これは、「人間学」、といえば「人間学」ですが、マルクス哲学を踏まえ、それを超えて、提出しているつもりで、これがあれば、文化人類学や構造主義、ポストモダンの諸人間学を打ち破れます。


第三、黒田哲学、「主体的唯物論」は、スターリン主義的『弁証法的唯物論』的性格を有しつつ、かつ、他方で、その核心は、西田幾多郎哲学、梯明秀の「物質の哲学」、梅本克己の「過渡期の意識」、そして黒田寛一の「プロレタリア的人間の論理」と続く、禅仏教の武士道思想の死生観、「絶対無の場所的立場」、「永遠の今」などの、観念論哲学です。

この観念論、宗派性と唯物論を『融合』させようとする、全てを意識としての「主体性」に還元して行く哲学です。

これは、日本的、前近代性を孕んだ、現代観念論哲学といえます。

こんなものと、僕のは、全然違います。


第四、関西ブントやブント系は、これに対して、「自己の意識おも含めた対象化」を主張し、唯物論、対象把握、情勢分析、としての資本主義批判を主張しました。これは、大筋で、良いのですが、しかし、こういう「対象化行為をする」、主体があるはずです。それが何か、を規定する必要があるのです。

つまり、「物質と意識の唯物論的関係性」とは違う、別の関係性「自己と世界の関係性」、この哲学、分野が抜けては駄目です。
そこに、自主性(プラス、創造性、意識性)が存在します。


第五に、この意味では、「物質」は、「意識の外にあって、意識に反映する客観的実在(レーニンの“物質”規定、(唯物論と経験批判論)」で、一面、いいのですが、こういった「反映論」は、「鏡的反映論」、「客観主義的唯物論」、一転して「客観的観念論」に通じがちです。

「命の最高尊貴性 とそれを社会的に輝かせる“自主性”」という、人間の本源的慾求が、常に「反映」の媒介としてある、という肝心で、極めて、当たり前のことが、哲学化されてないからです。

資本主義の社会諸関係の中にあって、それに規定されつつも、それを、逆規定し、打ち返してゆく労働者の階級性の中に、“自主化”という、生物学的、社会的慾求拠点が、在ってこそ、それを、介して、人間認識は、能動的に「反映される」わけです。


第六、「自主哲学」は、各人が各様に自主性を持って振舞うことを意味しますが、しかしそのことは、社会関係、集団との関係では、この自主性を踏まえた、共同性、協同性、協働性において、ぴったり一致する盟約的関係が成立すれば、つまり、個と集団の共同主観が成立すれば、その共通確認を何よりも大切にし、人間は、自己存在にかけて実行してゆく存在なこと。

人間は、こういった事柄を実行する本性をもつ存在で、勝手気ままに振舞う存在ではないこと、この確認が必要です。

塩見孝也