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Kさんに答える。

「暴力革命」と「死刑」について

2008年 10月 22日

塩見孝也

 連合赤軍事件につきましては、意見は、基本的に同じと理解しました。

暴力革命の問題と死刑問題を出さされています。これに、お答えいたします。

 僕は、非流血の革命を望んでいます。

「命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせることを保障する民衆、人間の自主性を最高に尊重する」人間自主主義者、人間中心主義者、ヒューマニストです。

 ですから、僕は、理念的、理想的には、暴力(革命)至上主義者ではありません。本性的には、非暴力思想の持ち主で、暴力・軍事至上主義者ではありません。

 あるいは、孫子の軍事の要諦、「闘わずして勝つ」を信奉しているものです。

 特に、日本のように、かなり民主主義意識が発達し(ヨーロッパに比べれば、圧倒的に、まだまだ未熟ですが)、しかも、アイヌ、ウチナンチュウ、在日コーリアン、その外、多数の外国人が在住していますが、つまり、単一民族国家ではありませんが、大多数がヤマトであるような、社会では、相互理解ー話し合いが相当得られれうような社会では、こういった可能性が相当あります。

 しかし、国家が「幻想の共同性」に覆われ、実質は、資本家階級によって牛耳られ、彼らが権力を独占し、暴力的支配を貫徹しているような社会では、議会で過半数に近づいても、過半数になっても、その決議に従わず、改革派や革命派を脅し、変質させてゆくことは、十分に考えられます。

 又、その決定をニグレクトし、サボタージュします。

 こういった事態で、支配階級を従わせるには、民衆の下からの民衆権力の創出、そのための直接民主主義の母胎である澎湃たる大規模な大衆運動の恒常的持続、爆発が必要です。50万〜100万を超える様な街頭デモンストレーションです。

 仮に、300万〜500万のデモンストレーションが、東京だけで、爆発してゆけば、政治情勢は一挙に変わってゆきます。

 「反改憲、反安保、生活危機突破の全国民的規模の民衆自身の国民会議」のような下からの民衆権力によって、国会議員、国会を従わせるようにしなければなりません。

 工場、職場、会社で、資本を統制し、企業、経済を自主管理する労働者の評議会(全共闘のようなもの)、それに地域での、これまた、大衆闘争による、生活の場からの地方議会を従わせてゆくような地域の評議会(コンミューン)が必要になります。

 全国的規模の地域での、「反改憲、反安保、生活危機突破の全国民的規模の民衆自身の国民会議」の創出です。

 僕の言っているのは、資本ー権力との政治・思想・理論闘争に打ち勝ちつつの最大限、合法的な、大多数の民衆が参加する大衆運動の爆発が、政治、選挙、議会の帰趨を決する基本決定要因であること、すべての政治の管制高地であること、これを第一としない選挙、議会闘争は批判されるべき、政治の帰趨を決するのは選挙ー議会闘争ではではないこと。これは、大衆運動の所産、反映として、活かされるべき、なことこと---このことです。

 選挙、議会での影響力を無視しませんが、民衆諸個人のそれぞれ性に基づく自主的な大衆運動(そこから、輩出してゆく大衆運動の諸機関)が決定力であり、この決定力に、先ず立脚し、議会ー選挙闘争も、極力利用してゆくことです。

 決して、この逆ではないことです。

 暴力ー軍事的関係は、このような、政治的、思想的諸関係によって決まってゆくのですから、軍事ー暴力を至上、第一とすることは出来ず、政治的・思想的モーメントの凝集点として大衆運動をあくまで、重視してゆくことです。

 このことで、権力側の暴力装置を、彼らも人間、民衆ですから、民衆側に引き寄せてゆくことです。

 70年安保大会戦では、僕ら革命派は、まだまだ未熟で、敵の軍事に対して、一対一的に軍事で対決して、勝とうとするところがありました。
 政治・思想闘争・理論闘争 、これに基づく大衆運動を軽視する点で、若気の至り、と、反省しています。

 これは、権力の猛弾圧の下で、大衆運動を対置して跳ね返してゆく、という基本原則を貫徹してゆくことに耐え切れず、民衆と切り離されて地下に追い込まれて行った、結果で、決して、大衆運動という基本的戦線を否定して行ったからではありません。

 今でも、貴兄が、僕らをそう考えていらっしゃるとしたら、それは誤解です。

 僕らは、このことを、真剣に反省しています。

 もちろん、大衆運動の坩堝の中で、敵側が、追い詰められて、暴力を発動する可能性は排除しえません。

 そのときも、挑発に乗らないようにしつつ、最大限、民主主義的大衆運動を対置すべきです。

 同時に、断固。敵の暴力に怯まないことです。

 とはいえ、大衆運動と渾然一体となったミリシャス(民兵)的な、自衛、正当防衛的な民衆暴力も同時に育成してゆかなければなりません。 しかし、これは、あくまで、政治に従属すべきです。

 僕は、死刑制度には反対で、幾人殺していようと原則、殺すことではなく、生かす、活かすこととを重視します。

 今の日本では、このような「犯罪者」を十分、留置して、改造してゆく、施設的条件は、江戸時代までとは違ってあります。

 「政治犯」、革命家も、そのように処遇されるべきです。

 このことと、政治的、階級的関係から、そう処遇されず、刑死に際して、それに、屈服して、命乞いなどせず、毅然とし、覚悟の程を示すこととは、又別のことと考えます。

 最後に、貴方にアドバイスすることが2点ほどあります。

 1、ひとつは、現在の政治、経済危機が資本主義の本性(私的所有と社会的分業、労働力の商品化)、これに基づく、無政府主義的利潤追求戦(労働者階級を賃金奴隷としつつ、剰余価値を搾取する、限界ある経済、政治制度であること。この社会制度での危機は、戦争と恐慌以外に脱出口はありえ得ないこと。このような資本主義批判を鍛えて欲しい、ということ。と。

 2、資本主義に取って代わる社会は、この矛盾を取り除くべく、決起してゆく民衆の戦いの中から、徐々にイメージされてゆくこと。
 僕らは、この闘いの中から浮かび上がってゆく、イメージを注意深く見守り、絵図を作ってゆくべきこと、このことです。


塩見孝也