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僕の「大きな物語」での三つの夢想(妄想)について

恐慌、民衆権力の創出、人間をどう捉えるか。


2008年 8月 11日

塩見孝也

以下は、雑誌「情況」で、フリーター労組の山口素明さん、「9条改憲阻止の会」の仲間、三上治との鼎談の際、僕の発言部分についてのみ、その後、かなり、手を入れ書き直したものです。

この文章は、僕がこの2〜3年考えてきたことの、包括的内容のアウトラインと言って良いものです。

≪「大きな物語」についての夢想≫。この部分は、特に、注目していただければ、と思います。皆さんの、参考になるものと、確信し、掲載いたします。

尚、鼎談は、9月号(?)として発表されますが、非常に内容もあり、刺激的で、実践的でもあり(特に山口さんのもの)、是非、お読み下されば、と思います。




世代を超えた問題、都市と地方の格差、母子家庭の問題ら了解できます。ネオリベ路線の中で費い捨て的労働力の全般化、貧困の問題がベースと思います。これも全般的といえばそうなのですが、精神的には、現代の青年はかなり追い込まれているんじゃないですか?仕事に出られず、引きこもっている人も増えているのじゃあないのかな。いわゆる「人間の壊れ」という問題です。




だけど、「メンヘル系」の問題として、リストカットとか、薬物依存だとか、或いは、「生きづらさ」、などから自分の問題意識を深めていって、それがプレカリアートの問題に結びついていっている経緯もあります。

この十年近く、出会った、ぼくの周りに居た、居る青年にはそんな人が多いのですが、グローバリゼーション−ネオ・リベラリズム路線、貧困化、棄民政策と裏腹の拝金主義、個人利己主義、低水準な快楽主義の跋扈といった文化、社会状況と密接な関係があると思っています。



「当たり前の労働運動」、納得です。80年代以降、この「当たり前」の権利を主張すること自体が言い出しにくくされて来て、みんな「いい子ちゃん」にさせられてしまったと思う。それが、ぎりぎりに追い込まれて、やっと「当たり前」のことを言わなければ、生きてゆけなくなって、段々言い始めてきた、と思います。




僕はほとんど山口さんの報告というか、提起には、全く、共感、賛成なんですよね。自分は、出獄後、ある種の講演とか、もの書き、カンパとか、あるいはメディアなんかで生きてきたわけだけど、地に足が付いてない感じがしていて、やっぱり、僅かでもの、自己労働で生きて行こうと思い、最近は清瀬の小さな駐車場の管理員をやってます。

月、九日間、バイトのようなもので、だいたい五時間から六時間仕事するんだけど、時給が千円なんだよね。それでいくと、だいたい、月五万円前後。「プレカリアートとの連帯」などの僕流の前提はともかくとして、僕の心身にとって、生活上、非常に良いんです。

一生懸命、はりきってやってるつもりなんだけど、それでも時給千円だと、仮に九日間を二倍にしても十万円じゃんか。三十日にしたら十五万。

だからやっぱり、めちゃめちゃに生活しにくい、というのが良くわかる。やはり、時給二千円ぐらいあればちょっとだけ自分の経済の見通しがつくという感じがしたんです。こういったところから“ベーシック・インカム”なんて発想が出てくるのでしょうね。だいたい、みんな時給千円前後でフリーターの人々が、がんばっている、と思うと「すごくしんどい感じ」は、身に浸む感じで理解でき、連帯感を感じます。

僕自身の特殊性としては、そもそも年金なんかは全く無い状態で、老後を国家に保証されているわけじゃなく、この自己労働をアクセントにしつつ、これまでの収入をもっと組み立てなおして行っている最中です。




僕らの仲間に、よくよく聞いてみるとね、運動やったやつはそれほどもらってないよね。年金でのうのうと暮らしながら反改憲運動をやってるわけでもなくて、医療保険の切捨てなんか、深刻な問題として存在している。だから、仲間達は、貧困者への連帯感をすごく感じています。

もうひとつは「居場所」の問題ですが、「昔から関係をつくるのが苦手な若い人はいたはず」、というのにはやっぱりちょっとひっかかります。僕は80年代監獄にいたからリアルにはよくわからないんだけど、80年代に社会、地域の人と人の関係や家族の関係が急速に変っていった感じがする。70年代後半以降、年功序列制の終身雇用を基本とした日本的な経営ってのが、能力給みたいなものにとって替わられて解体に向かう構造が大きくある、と。

ネオリベというか、グローバル経済の社会構造への転換だと思うんだけど、80年代、90年代から現在まで、かつての労働構造、地域の構造などが解体していく中で、若い人が居場所とか関係性を失っていくのは、やっぱり社会問題として基本的に存在していると捉えるべきだと思うんですよね。正規の労働者でも、非正規の不安定労働者にしても、付き合ってみると、パニック障害とかうつ病とか、いろんな病疾を抱えていてすぐに仕事を休んだりする。社会からの圧迫感が関係性の問題に転化していくような危機が進行中である、と僕は捉えているんですけど。

そういうことを踏まえて、山口さんたちがやっておられる労働運動に関して高く評価しています。

60年代学生運動のような、権威を認めずに自主的に考えていくような直接民主主義の運動が、今の青年労働者の中で行われているんじゃないか、と。「自由と生存のメーデー」も東京だけじゃなくて、熊本から広島とか福岡とか、名古屋、新潟とかに全国化している。ヨーロッパの労働運動との連帯とか、国際主義的な視点もものすごく持っていて、同時に60年代から70年代の負の遺産である「党」至上とか内ゲバ、暴力の問題なんかについて、はっきり否定して、克服しようとしているところがある。運動形態としては非常にラジカルで行動力はすごいんだけど、実力闘争から暴力に、という流れに安直に行かないで、個の問題を大切にした、何かの民衆権力を求めるような方向性を持っている。

ネグリ(アントニオ・ネグリ「構成的権力(松籟社)」)、三上のは、これとかなり、思想上かなり違うし、と言うより、全然違うし、内容は、全く不分明なののですが)流に言えば「構成された権力」ではなく、個が生きる、それぞれ性を大切にする、プロセスとしての「構成的権力」志向を持ち、労働運動といっても既成のビジネスとしての労働商品を高く売るというだけじゃなくてさ、社会・政治関係での制度との対決も含めて捉えられている。

そういう点を、僕は高く評価していて、そこに、日本の既存の労働運動、民衆運動に穴を開け、前進させていく鍵があるんじゃないか、と感じています。僕ら、新左翼が観念的・反対派的にやっていたような運動が三十年経って総括されながら、現実の生活や労働から闘いが始められていると思っているんですよね。

憲法二五条なんかを前面に押し出すのもまったく賛成なんですけども、資本主義を対象分析としても、思想としても批判して、実践の中で、新しい社会主義の構想をイメージしてゆく、というような基本的な姿勢、観点が凄く必要ではないでしょうか。

「労働者階級はこれらの日常闘争〈経済闘争〉の究極の効果を期待してはならない。自分たちはもろもろの結果に対して闘いはしているが、それらの結果の原因に闘っているわけではないこと……。従って一時の休みもない資本の侵害や市場の変化から絶えず発生するこれらの避けがたいゲリラ戦だけに頭を突っ込んではならない。(マルクス、「賃金、価格、利潤」)こういった観点です。

ネオリベラリズムがグローバル資本主義を推し進める中で、相対的過剰人口が一国的ではなくて世界的に作られて格差社会が世界的に現象しています。国際的に、相対的過剰人口、流動的な労働者が意識的に創出され、それが、分断され、争そわされて、という分析は有効でしょう。「資本主義との対決」を前面に押し出す場合、そのやり方はいろいろがあると思うんだけど、この点だけは逃げずに進めていって欲しいと思っているんです。逃げているとは思っていませんが。

もう一つは、分野が違うので、本来、別々に進むものですが、反改憲闘争ら全民衆的政治課題を重視し、それを、ともに、“反資本主義”をベースにして意識的に結合させてゆくようにして欲しい、です。



“大きな物語”として三つほど言わせていただきます。

一番目は経済情勢全体の問題です。現在の貧困の問題が、資本のグローバリゼーション、ネオリベラリズムの路線に起因し、それが、世界では、イラク・アフガニスタンらでの侵略戦争の行きつまりを基本として破綻しつつあること。つまり、「戦争ビジネス」を持って、維持、回転されてきたアメリカ−世界経済が回らなくなってきていること、又、この関係で、日本経済もそうなって来、かつ、民衆自身が、己の窮乏に照らし、この路線を批判できるようになって来たことです。

この状況は、サブプライムローン破綻を経て、一種の金融恐慌から過剰生産恐慌へと展開して行きつつあります。民衆の貧困が世界的規模で新たな段階として進行するということがほぼ確実じゃないか、思います。この意味で、恐慌の問題は民衆にとって深刻極まる問題です。

ネオ・リベラリズムとは、ある面で、マルクスが「資本論」で行った資本主義の解析、思想的な批判としての、資本主義の一国的規模の運動の論理構造を、75年の米帝国主義ら列強のベトナムでの敗退、植民地体制崩壊後、中国の協力を得て、最も整備され、洗練された世界市場現出を背景に、世界的規模に移し替えて、一つの「(世界)資本主義」として、純化しつつある問題だと思います。

勿論、資本の「直接的生産過程」で、「資本の多国籍化」と言われる「工場内分業や協業が国際化」したとしても、資本の“世界性”に、「国民経済」の“一国性”が吸収されるようなことはありえません。さりとて、”29年恐慌後の閉鎖的なブロック経済への世界経済が分断化されてゆく構造も又、考えられません。

現在の資本主義は、資本主義相互の不均等発展とそれに伴う不均衡性を増大させつつも、世界性と一国性の矛盾を露呈し、果てしなく痙攣しながら、苦悶し続ける存在だと思います。

この問題は、実際的には、資本の側からすれば局地戦争の更なる継続、拡大、或いは世界恐慌の継続という問題としてあります。

二番目は、こういった時代で、生きるために闘いながら、われわれ「9条改憲阻止の会」もそうだけども、民衆運動のなかで、ひとつの民衆権力を創出してゆく可能性があり、それに、試行錯誤の中で、どう答えてゆくか、という権力の問題が浮上しつつある、という問題です。

三番目に、経済危機、世界恐慌の問題は、民衆、主体の側からすれば、世界民衆共同体(エコロジカルで、無階級な世界的規模の社会、社会主義)、世界同時革命の問題であり、マルクスの時代と違う、どういう人間観を僕らが持ち、どういった革命思想を鍛えてゆくか、それが民衆権力の創造というような問題とどう連関しているかを考えることだと思います。

一番目の恐慌の問題に関しては、現在のサブプライムローン危機で、ベア−スタ−ンに続き、アメリカの二つの巨大証券会社が潰れて、メル・リンチ社すら危機に陥っています。 

国家が介入して、公的資金を投入して救済しなければならない局面にきています。この問題は明らかに国際的な証券、信用関係の問題だから、世界的に中国もEUも日本も関係しています。したがって、それが焦げ付けば世界資本主義は回らなくなるということになる。 

先ずICバブルが弾けたのですが、これは、初期のイラク戦争景気に吸収され、事なきを得ました。この点で、住宅問題が最初ですが、それが、住宅問題からエネルギー、食糧問題らへ危機がどんどん拡大しています。明らかに世界資本主義は収縮しています。これに、オリンピック後の中国の経済、政治問題が加わります。

さらに経済的窮乏が深化していけば、世界の労働者の中からストライキの波が起こるだろうし、日本だって、ストだって頻発してゆくだろうし、ゼネストだって起こらないとは限らない。

労働者の権利獲得は、最初は、労働運動のかたちで進んでいくにしても、ある段階に至れば、資本主義生産関係と衝突して、自主管理を「労働者評議会」の創出をベースに構想する段階が来るのでは、と僕は直感し、夢想しているんですよね。

それを、僕らの70年代の体験と比較してみた場合、いわゆる全共闘は大学内でみたら、明らかに、一〜ニ(三)年だけども、擬似的な面も持つにせよ、一個の権力だった、と僕は思っているんです。

三派全学連ができて、10・8、11・12闘争として、反ベトナム侵略、反安保の街頭政治闘争が爆発し、この、バイタリティある街頭闘争をやったことが経済闘争、授業料値上げ反対闘争で負けてきた連中を元気づけたこと。

いうなれば経済闘争と政治闘争が結合して、その結果、ひとつの学生権力としての評議会みたいものができて行った。それが、全共闘だったと思います。こうみて来て、僕は、これからの時代での、会社、企業での職場、工場での「全共闘」を直感、夢想しているのです。こういうことを、これからの政治・経済情勢の展開如何では、労働者はやれるし、又、やれるところからまずやっていかなきゃならない。

ここで、留意すべきは、東大闘争で、加藤総長が機動隊導入を決断するまで、全共闘は、ある面で、合法性ぎりぎりのところで「公認」されており、こういった「合法性」を確保してゆくことが決定的に重要なことは、決定的に重要なこととして、留意されるべきです。

憲法では、労働三権として、ストライキ権が保証されています。

その前提には、今の世の中では、資本主義ではやっていけないんだ、これを打倒していく以外にない、といった観点を持つか否かの如何によると思います。又、大きな政治闘争を起こさなければあかんし、起こしうる可能性はあると思う。

これは、今の政治・経済情勢をみれば、十分あるのではないでしょうか。ここが、70年闘争とは、全く違うモーメントです。だって、労働者ら民衆が食えなくなった場合、戦争への道を拒否して行けば(「戦争への道」を、主体的に塞いでゆけば、)残された、「食う道」は、資本の民衆側からの経済的統制、生産手段−経営の自主管理の道しか残されていません。搾取された剰余価値を奪還する、生産手段の自主管理しか、ないのではないか!

第三番目の問題として言えば、次のことです。権力の内容という問題はやはり哲学と関係しているわけじゃないか。人間についての評価というか、人間をどう見るか、という問題です。マルクスにしても「ドイツ・イデオロギー」では、「食うこと、着ること、住むこと(そして、“他人の生産”)」を言っていますが、「“命”の最高尊貴性とそれを社会的に保障し、輝かせる“自主性”」の問題にまで、降り下って、これを、基本命題として、人間の生存、存在については、言及していません。

どっちかっていうと哲学的な展開では、僕にとっては、生物的な命が社会的に保証される関係が第一だという認識です。それを包んで、規定していくものが社会関係(政治、経済、文化の関係)である、と。だから、マルクスは「人間は社会諸関係の総体」と言ってはいるけど「その“総体”の内実は何か」については、言及していません。

僕は、それが、やはり「命の最高尊貴性とそれを社会的に保証する人間の自主性」だと、考えます。

だから経済還元論的に経済危機がきたから、それで社会革命だ、というような認識方法、観点ではなく、「命とそれを社会的に保障する人間の自主性を大切にする」のがすべての出発点で、それを、実現してゆくには、どうしたらよいか、それを、押しつぶしていく、まずい社会体制、つまり、資本主義体制であれば、それは、しょうがない、ぶっ飛ばす以外にないという話だと思うんです。

で、そこを明確にしながら、「命と自主性という問題」を押えた場合に、民主主義という問題も、例えば、「改憲か反改憲(護憲)か」という論争が、反改憲・社会主義という論争に回路づけられ、繋がってゆくような対応もできるようになって行くのではないでしょうか。

「マルクス主義の超克」とかいろいろいわれているけど、詰めていけば、人間論で、「命とそれを社会的に輝かす自主性」を全ての出発点にして、「社会諸関係の総体」(の捉え方を起点に,捉え方を含んで)を再構成してゆく問題だと思います。こうすれば、マルクス護教論やマルクス清算論も卒業でき、「構造主義」や「ポストモダン」が提出した「小さな物語」の問題提起も、きちんと捉えられて行けます。そうすると、「マルクス主義か、アナーキズムか」のこの、2〜3年の論争も決着がつき、「社会主義」のイメージなどもすごく変って出てき、斬新なものになるし、組織論の問題の解決の糸口、解決方向も出てくると思います。僕は、この内容を既に持っていますが、これは、別の場で論じます。

日本の場合は憲法の基本理念と基本条項をまず大切にしてゆくことだと思います。

と言って、これは、「平和」、「主権在民」、「基本的人権」、「地方自治」、そして「代議制民主主義」の五つが考えられますが、この5番目については、僕は強く批判的、否定的で、あくまで直接民主主義、ダイナミックで圧倒的な大衆運動にこだわります。そこを回路にして、権力の問題とか、新しい社会のイメージなんかも考えていくことが日本での変革にとって重要ではないでしょうか。

これを、構造的、恒常的な経済危機、社会的危機、政治危機の進行との関連で捉えていった場合、次のようになると思います。

どうしても資本と賃労働の関係とぶっつかざるを得ず、資本と賃労働の関係性の変革という問題、つまり、権力の問題になります。経済危機の進行する過程での、資本制生産関係の構造的、恒常的な変革の提出の問題は、労働者の資本の経済統制−労働者の自主管理−工場評議会、他方での労働力の再生産の場、つまり「生活の場」としての“地域”でのコンミューン(生活協同組合の本来の意義での再生、復活の問題も含まれて居ます)の問題になると思います。

その中には焦眉の問題である環境問題なども入り込んできますが、資本主義の末期の時代での、決して非合法化されてはならない内容を持った、下からの民衆権力の創出(ネグリ流には“権力を構成化する”、とでも言っても良いと思います)の内容を孕んだ「資本主義の革命的な恒常的な構造改革」とでもイメージ化されます。

それに、地球温暖化―環境問題という別領域の途方もない問題が切迫してきています。

これは、全く途方もないような問題ですが、緊要な問題です。産業革命以来からの化石燃料―CO2ら温室ガスの問題らは、利潤追求第一の資本主義生産関係では、解決不能です。同時に、この生産力の質の問題をそのままにして、生産関係だけを変革すればよい、といった問題ではないこと、この点で、資本主義的な生産力の質の根本的な大変革、エコロジカルな革命の問題が、諸個人―資本の生産力の文化革命、変革の問題として、生産関係の変革の問題と一体になりつつ、つまり、生産関係と生産力の両方を一個二重に変革してゆく、ことが加わります。このことは、ここでは省きます。

こういった内容が、僕には“現代革命”ということになります。



いずれにしても、個人の居住っていうような問題と、みんなが集まる場所ですよね。それが発展して、人民公社じゃないけど生産や労働、生活もそこで一体化して、仲間係を大切にしていくための自己規律みたいなものも創造されるような、そういったものの原型が作り出されていけば、すごく展望が出てくると思うんですけどね。



僕は、僕等の世代、或いはブント系の人々との付き合いも大切にしてきたつもりですが、新しい運動が出てくれば別ですが、正直言って、鬱陶しいです。僕が第一にリハビリが必要なのですが、同時代を生きた人々にも、リハビリが必要なことを痛感しました。

ですから、若い人達、新右翼の人々等若い人々、文化の戦線ら、新しい運動が起こりそうな分野で活動するよう努めているようにしてきました。

山口さんがパクラレタことを聞き、駆けつけプレカリアートの人々と交流し始めたのもこのスタンスでした。若い人々の感情、要求、思考方法、生活、労働状態らを先ず知りたかった。そして、自分の思考法や想念がどれだけ限界があり、かつ、有効かを試してみたかったわけです。ウェブサイト「ぱとり」を開設し、mixiをやっているのも、このスタンスからです。

これで、何かが出来るとは思っては居ませんが、今の社会に有効な媒体であることは確かで、ここでいろんな元気をもらっています。

当面、憲法9条の運動と憲法25条の運動を結合させたく思い、プレカリアートの闘いから学ぼうと思っています。ですから、山口さんらの運動を応援し、できれば、徐々に加わってゆきたく思っています。

これからが本番で、この本番で、「年寄りの冷や水」と揶揄されないよう、それでいて、存在意義が確認されるよう、せいぜい奮闘するつもりです。



塩見孝也