寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る

映画批評若干と、映画に感ずる
幾つかの僕の注文。



若松孝二「実録・連合赤軍―あさま山荘への道程(みち)」について


2008年 5月 18日

塩見孝也

T.
この映画の歴史的、革命的意義とも言えること、4点ほど。

「実録・連合赤軍――あさま山荘への道程(みち)」は、この3月、全国公開で封切られました。東京では、3月15日、「テアトル新宿」で、封切られ、全国で、今もロングランを続けています。

東京映画祭で作品賞を取り、今回「ベルリン映画祭」で、アジア映画最優秀賞、映画評論家協会最優秀作品の二つの賞を取ったように、この映画の持つ真実の価値が世間的にも、ほぼ、認められた、と言って良いと思います。未だ、観ていられない方は、是非ご覧になってください。  僕は、このような映画を作ってくださった若松監督に心より、改めて感謝しています。

この映画の歴史的意義とも言えることを、4点ぐらい、指摘しておきます。

a): この映画が世にでることによって、これまで、体制側によって遮断され、ある面で、空白化されていた、民衆側の過去から現在に至る歴史が、初めて連続化されて語られたこと。そのことによって僕等、民衆が、現在の位置をはっきりと捉えて行くことを可能にしてくれていること。とりわけ、青年達にとってそうではなかろうか。

b): b,歴史は、後世の人々が、予定調和的に、結果解釈し、整合する具合には進んでゆかない。この映画は、そのことを訴えているとも解釈できます。決定的な過ちを犯しつつも、何故、全存在を賭けるような闘いが行われたのか、が、リアリズムをもって、描かれており、映画を観た人は、このことにおいて、当時の時代性、時代状況を、肌で掴み取って行けると、と思います。

c): 全存在を賭けるような闘いを追求しつつも、その全存在を賭けることの中身において、どのような弱さが内蔵されていたか、それはどのような内容において克服されるべきか、或いは、どのような内容において追求されてはならないか、がリアリズムの映像表現を通じて、ビジュアルな形、象徴的手法において語られていること。ここに、若松さんの稀有の映画監督としての資質、手腕が示されています。

d): このような映画を可能にしたのは、ひとえに監督の資質に負うものである。その中でも、分けても、彼のある面でインテリとは違う草莽的出自、民衆的生き様、その思想的核にどっかりと座る志によるものと思います。 それが、氏のパレスチナ体験や僕等のほぼ30年余をかけて、やっとまとまりかけてきた総括内容の執拗な、飽くことなき吸収によって、映画的構想、イマジネーションへと昇華されていったものと確信します。



U. 朝日新聞社刊、「「若松孝二<実録・連合赤軍――あさま山荘への道程(みち)>」関連で。

さて、この映画をさまざまな角度、分野から解説したり、紹介する本が2月中旬に刊行されました。貴重な資料や写真が、ふんだんに盛り込まれてもいます。当然にも、連合赤軍問題の総括論争なども紹介されています。 とても、良い本です。書名は「若松孝二<実録・連合赤軍――あさま山荘への道程(みち)>」です。 是非、ご参照になることをお勧めいたします。出版元は朝日新聞社です。千四百円です。非常に水準の高い、コンパクトな連合赤軍事件のダイジェストといえます。

 さすが新聞社だけのことはあるもので、脱帽せざるを得ません。

 ところで、雑誌「情況」から、この映画評と連合赤軍問題についての意見の投稿を求められました。 それで、考えたのですが、この課題に正面から意見展開をするより、この本を紹介し、書評すれば、それが、自ずとこの課題にトータルに答えられ、同時に、連合赤軍問題の総括論争の現状や僕の意見や近況や心境を、バランスの取れた形で表現できるのでは、と思うに至りました。 それで、この本の書評という形で意見を述べることが、至当と思うようになりました。そのような、観点、方法で、以下、意見を述べてゆきます。



この本の帯びには、 「日本を撃つ」と大書され、衝撃的で、「映画に文法はない。志さえあれば、映画は撮れる。俺に在るのは「あの時代、彼等は何に怒り、立ち上がり、全てを捨てて闘おうとしたのか、権力側からの視点ではなく、実録としての作品を残す」という志、これだけだ。」という若松監督のコメントが記されています。

浅間山荘に籠城した吉野雅邦君の獄中からの手紙。

彼等は、何故闘ったのか?1960−1972「連合赤軍」全記録。

◎元連合赤軍・坂口弘君の短歌 

◎インタビュー、若松孝二、ジム・オルーク◎平沢剛「若松孝二作品史」◎撮影日記

◎ARATA,酒井真紀―――出演者からのメッセージ 

◎元活動家たちのトークバトル

◎寄稿

浅野線潜/雨宮処凛/植垣康博/喜多匡希/桑原茂夫/椎井友紀子、塩見孝也/重信房子/杉本真一/鈴木邦男/田原総一郎/趙博/飛騨信彦/中谷健太郎/橋本勝彦/平岡正明/船戸与一/吉川俊治/前沢虎彦/三上治/森達也/雪野健作/四方田犬彦/ほか/
 といった具合に、本の構成が、コンパクトに記されています。


カバーの扉を開けると、銃を持った「連合赤軍」の青年兵士達の夜間の雪中行進のシルエットが、赤地のページ一杯に、浮かび挙がってゆくように、黒で描かれている。壮観と言える。

次ページは、森恒男君の坂東国男君宛の遺書の抜粋である。 天蓋孤独に、逝った、彼の悲愴感が漂っているページである。
日付は1973年元旦である。


吉野忠邦君の手紙が掲載されている。日付けは2007年11月26日となっている。

当事者の事実関係の報告としては、彼のが、これまでで、一番精確ではなかろうか。よくまとまってもいます。さすがは、30数年後の報告である。何箇所も、知らないことが記されているのに、僕は驚かされました。

彼の中に、これまで渦巻いて、複雑に絡まりあった情念が、カラッと浄化、昇華されていることが分かります。

さすが、獄中36年である。

冬枯れの清澄な空を思わせるような文章である。


次が坂口弘君の短歌の紹介である。

「常(とこ)しえの道」と題して、短歌の名手として、既に評価が定まっている 最近の坂口弘君の短歌が17点掲載されている。

これを、読めば、今も尚、彼の、この事件を凝視し続け、煩悶し続けている姿、誠実さが、ストレートに伝わってきます。

彼や永田さんへの死刑は、なんとしても食い止めなければ、ならないと誰でも思うでしょう。

指導者を憎みおれども 第三者の彼への批判は不愉快になる。

この気持ち、痛いほど分かります。森君は、自決して逝ったが故に、その後、本当の彼の仲間、同志となっているのであろう。

これが最後、これが最後と思いつつ面会の母は85となる。
  
坂口母子のひっそりと睦み合って生きている姿が、僕等の不甲斐無 さとともに、胸に押し寄せてきます。

彼の慙愧の念の火炎は、今も胸に渦巻いています。凄絶な彼の火炎をなんとしても受け止めてゆこう、と思いました。

新左翼運動を誰一人として総括せぬ不思議なる国。

これには、僕にも、突き刺さってくるものがあります。

赤地の二ページにわたって、掲載されているこの歌群は、なんと凄絶でしょう。

無期の吉野君と違って、坂口、永田両君は、今も死刑攻撃と真正面から対峙する苦行僧として生きているのである。

権力者達を僕は憎む。


「1960→1972―<連合赤軍>全記録」は 「前史」、「発火」、「炎上」、「野火」、「鬼火」、「織火」、「硝煙」、「業火」、「銃火」の構成であるが、これを見れば、この3時間半の大作が戦後現代史のアウトラインを民衆の側からくっきりと描き出していることが、誰の目にも明かになります。

構成、文を担当したのは掛川正幸氏である。氏等とはこの間、付き合うようになったのですが、この各節ごとにはめ込まれている彼の解説は、いろんな論点を網羅して、沢山の僕の知らないような事実関係を、細かいところまで含んで、紹介しつつ、展開されており、見事で、彼の透徹した目を感じさせます。

本当に、事実関係を良く調べ、沢山の本を読まれていることが分かります。

12ページから138ページですから、126ページですが、写真が主ですから、息もつかせず読ませてくれます。これで、この映画の志向した時系列に沿って、「事件を時系列で、正攻法で追う」、と言う若松さんの正攻法論が、補強されていると思われるし、本自身ににも、骨が通されている、なと思います。

時系列で描く、正攻法は、観客に理解してもらう定石なのですが、凄くエネルギーと根気の要る大変なことなのです。


特別寄稿は、各方面、各界のこれは、と誰でも思う人が書いておられます。この寄稿が、上述の「全記録」に、巧みに織り込まれています。

お読みになれば、この事件に、これらの人がどんな想いを持っているかが分かります。前沢虎義氏のが印象に残りました。

彼は連合赤軍兵士で、あの「地獄」の「山」から、「逃亡」し、長い獄中闘争を経て、現在「連合赤軍の全体像を残す会」で活躍しています。雪野君、キム君、故人となったM作戦兵士、関君とともに、僕の仲間です。

僕の「迷妄の霧が晴れるとき」が、トップに掲載されているのは、光栄でもありますが、汗顔の至りでもあります。


「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程、撮影の全記録」はメーキングの過程を報告したものであるが、オーディション風景から始まり、若松門下として、映画撮影の修羅場に突入し、わずか3ヶ月で、仕上げてゆく過程が、写真つきの日記で報告されています。

監督は、昔から、早撮りの名人と言われていました。それは、そうでしょう。ピンク映画に、数ヶ月、半年も時間を掛けるわけにはゆきません。

こうして、若松さんの叱咤激励の下、青年達が、「若松組」として、如何に、鍛えられて行ったかが良く分かります。 映画好き、映画つくりを志す人には、堪(こた)えられない箇所ではないか。


出演者のメッセージは、森君役、永田さん役、坂口君役、吉野君役、遠山さん役、重信さん役、加藤三兄弟役、塩見役ら事件の主役を担った人々を演じる俳優さんたちの写真入りの一口メッセージの掲載となっている。

これを、呼び水としつつ、この映画に出演した全ての人々、全員が、満遍なく紹介されています。

僕は、これで、うろ覚えであった寺林さんとか杉崎さんとか、他、数人の人の姓名を確認できました。

この、メッセージは、世代の隔たりを感じさせるも、同時に、この映画作りに参加した、若い人達が、歴史の空白を埋める重要さに気づき始めていることも感じさせてくれました。

たまたま、森君役、永田さん役を担った地曳豪君、並木愛枝さんにはお会いしましたが、良い青年達と思いました。

僕の役を演じてくださった坂口拓君のメッセージも読ませていただきました。

「塩見が、えらくハンサムに描かれている」と言うのが世間の評判です。

僕だけは、例の思い込みで、「俺の方が、もっとハンサムだった」と、密かに思っているのですが、どうも誰も認めてくれないようです。

とにかく坂口拓君には、機会があれば会ってみたいものです。


「トーク・バトル」では、昨年12月のことです。監督、植垣君、平野悠さん、 僕の4人のトークとなっていますが、これは、僕と植垣君のバトルの論争になっています。

テニスなどの試合でも、試合が好試合になるか、否かは対戦の組み合わせ次第、と言われています。

どういうわけか、試合の序盤から植垣君が突っかかって来る様な態度だったので、こちらも高慢の鼻っ柱を、先ず、へし折っておこうと思ったのです。

僕としては、この章は、この事件を如何に見、如何に総括するか、ですから、自分の思うところを歯に衣着せず展開しました。

多少とも、植垣君をやっつけ過ぎ、のキライ無きにしもあらず、ですが、ここのところは譲れぬところと、判断しておりました。

次の「日本外国特派員協会」でのトークでは、彼はおとなしくなり、それなりに気の利いた良いことを言うようになったので、僕も和気藹々で対応しました。

前回の試合が、好試合であったということでしょう。


「ジム・オルークの道程」の章は、監督を慕い、この映画の音楽部門を担当した、アメリカ人の青年、オルークのインタビューです。

才能ある、素晴らしい音楽家のようですが、僕は、それを聴き忘れ、思い出せません。

今度の時は、しっかり聴きますが、彼は、前の晩に、監督がこんな音楽にしてくれ、と注文が来れば、一晩でメロディーを作り上げ、監督のイメージを際立たせてゆく、とのことでした。


平沢剛氏が、若松映画の軌跡を、専門的だが、分かりやすく解説し、この映画が監督にとっての集大成的位置を担っていることを解説しています。映画好きには、欠かせない章と思います。


「それでも、僕は若い奴等を信じる」は、若松節の独演ですが、素晴らしいものです。読んでください。

監督が、財政に逼迫し、壊し、燃やす「浅間山荘の建物らセット」が、準備できず、結局、秋田にある監督が10数年使用してきた別荘を、浅間山荘に擬したエピソードは書き落とすわけには行きません。

それは、秋田県の県境、大崎市鳴子町の鬼首(おにこうべ)というところに在るとのこと。ここが、最重要のロケ地になったわけです。

映画から伺い知れる、この地域の風景は、「連合赤軍事件」を映像化するに当たって最適の地であったように思えます。

僕は、この「鬼首(おにこうべ」という、語感が気に入りました。

もう、その別荘は影も形もありません。壊され、燃やされてしまったのですから。それほど、監督が、私財を投げ出しても、この映画製作に賭けていた、気魂を示す事柄でしょう。


特別附録として、この映画の台本が、附録されています。

この台本は、映画に関心を持つ人には、極めて有用と思います。
僕は台詞がどう吐かれ、脚本がどう作られるかで非常に興味を持ちました。

映画は、前持った予習抜きに観ることべき、と言う意見もあれば、きちんとした予備知識を持ってみるべき、と言う意見もあります。僕は後者なのですが、この本は、いずれの立場をとろうと、重要と思います。


V. 僕の4点ほどの注文

連合赤軍問題総括に、この30数年間、赤軍派の代表であったものとして、一応、民衆を代表する気宇を持って、責任を引き受け、自己批判すべく、関わりあわざるを得ず、また、関わりあってきたものとして、どうしても、この映画との関連で、発言し、注文しておかなければならないことを、幾つか記しておきます。

a): 「同志粛清(同志殺し)」は、スターリン主義思想を復活させた永田さんとそれに感染した森君の、軍事を至上化しての、路線の違いを無視した 野合「新党」でっち上げに伴う、その反対派の排除、抹殺に、事実関係における、事件の本質があったこと、 このことを、映像でもかなり語られてはいますが、本質的観点としては前面に押し出されていないことです

言い換えれば、「共産主義化」は、そのためのベール、カムフラージュに過ぎなかったことが、曖昧で、実際は、森・永田の権力維持、支配の方法、手段であったことが、曖昧的になっています。ここから、事件の基調、映画の基調トーンが、単なる急進主義の所為にされている憾みが見受けられること。“憾み”、と限定して、僕は言っていることに注意しておいてください。

基調音といっているのではありませんが、ブントー赤軍派の流れが、その帰結として、連合赤軍事件を招いてしまった、というような誤ったトーンが紛れ込んでいるのでは、と若干感じるのです。

このことは、「新党」指導部派に、特に植垣君に、監督が、事実関係を、相当、仰いだことが関係しているのではないでしょうか。

赤軍派やブント系は、当時、軍事至上主義的偏向を含め、革命家集団として、基本的未熟性、弱点を多々有していました。これはこれで、自己批判、総括しなければならないことで、僕等赤軍派、ブント系の自己批判的な総括の主要課題であります。

そのために、この30数年間、僕(ら)は、自己批判し続けてきましたが、「同志粛清(同志殺し)」のような思想は断じて持っていません。事件の本質は、永田さんが、革命左派が、潜在的に持っていた「粛清思想」を、復活させ、ブント思想を、永田さんの影響下で、森君が永田さんに思想的に屈服し、否定、清算したことに由来していること、それが、無原則野合、「新党」結成に持ち込まれたこと、このことが、事件の基本性格、本質であることは、しっかりと把握されておくべきことです。


b): 僕にとって連合赤軍事件は、僕と最も親密であった、殺された遠山さん、山田君らを初めとする、殺された12名とともに生き続けることです。
 ですから、遠山さんが、永田さんと森君によって、なぶり殺しにされてゆくシーンは、全く正視に耐えられなかったし、怒りを禁じえませんでした。

彼女が、なされるがままに、唯々諾々と従っていたかについては、検証されていません。山田君は、この、「共産主義化」を否定する言を、はっきりと遺しております。 植垣君の言に基づくものであろうが、ここは映像化に慎重であるべきでなかったかと思います。このことは、一般に殺された12名全員に厳密に点検されるべきことでもあります。或いは、向山、早きさんにも。

遠山さんが、「惨めったらしく」殺されてゆくのに対し、その反対に、森君は、いかほどにりりしく、永田さんは、いかほどに毅然と描かれているでしょうか!そして、当時、中央委員ではなく、森君の片腕的役どころを演じたとは言わないが、それなりに重要な役どころを担った、と思える植垣君は、ほとんどに画面に登場せず、後景に退いています。

c): 森君やそれを真に受けた植垣君は、7・6事件を、でっち上げ野合「新党」結成から、逆に、過去にスライドさせて考える認識を持っていますが、そして、それが、映像化されています。が、これは事実と全く違うこと。  

全く、似て非なる事柄です。赤軍派フラクションはブントの革命化、「党の革命」を追求しましたが、「別党」としての「新党」を追求してはいません。党内路線闘争に、自然発生的に暴力を持ち込んだことは事実であるが、それはその直後、赤軍派フラクションにあっては、厳格、真摯に自己批判され、ブント中央の処分を受け入れる態度表明をしていること。除名処分を受けた後も、それには反論せず、ブントの一分派として、「共産主義者同盟(赤軍派)」と自己規定していたこと。でっち上げ、野合「新党」は、ブント、赤軍派の綱領的立場、路線を否定、毛沢東思想を金科玉条視することを、政治的思想的理論的支柱に据えていたこと。

このことが、しっかりと捉えられていないこと。植垣君などは、「過渡期世界−世界同時革命」の路線を明確に「兵士たちの連合赤軍」で、否定しています。

赤軍派の流れから、連合赤軍事件を捉えるような視点が、映画に混濁しているように思えます。森君は、7・6事件の際、逃亡し、7・6事件の事実経過、その直後の自己批判のプロセス、内容を知りません。そして、勝手に、自己の「新党」結成と、赤軍派結成をダブらせてみており、それを植垣君は、オウム返しに、繰り返しているのです。

d): 赤軍派やブントの思想的流れは、たとえ軍事至上主義的偏向を持っていたとは言え、その理想主義、ラジカリズム、ヒューマニズムは、よど号−田宮君らに発現して行き、典型的には、イスラエル・リッダ闘争における奥平、安田、岡本さんらの信じられないほどの無私の英雄的な革命的行動として典型化されてゆきました。プチブル革命主義の限界を、持っていたとしても、真に人間的であれば、(武装闘争をやれば、必ず「同志殺し」を伴う)、或いは(、「同志殺し」は、赤軍派の帰結点)という謬論を吹き飛ばす、輝ける革命的闘いを、赤軍派−ブントの流れは、生み出しています。

勿論、これらの行動を、現在において、僕は単純に再現しようとするつもりは、全くありません。

僕等赤軍派、ブント系の主体的総括の基調は、プチブル革命主義、軍事至上主義的偏向、たとえ、一部とは言え、外国権威盲従、スターリン主義に引きずられてゆく部分を排出させたこと、このことにおいて、当時の革命思想を、「資本主義批判−プロレタリアら人民大衆中心−人間の命と自主性最高尊貴の人間中心主義」の立場、観点、方法において根底から、原理的、思想的、理論的に、再構成、再編成して総括することであります。僕はそうしてきています。

であれば、欲を言えば、“オリオンの三ツ星”といわれる、この三君の英雄的行動を、「同志殺し」の対極として、“赤軍派物語”として、この映画を捉えるとすれば、どこかで、象徴的に、挿入して下さったら、良かったと思っています。



W. 僕は、どういった資料を読んで欲しいか。

連合赤軍事件を知る上で、参考になる資料としては、以下三つを推薦します。

a): 事実関係としては、革命左派が未だ健在であった、1973年の「銃撃戦と“粛清”と」の組織的な文献です。これは、既に歴史的文献として、極めて貴重と考えます。こここには、いかにして野合「新党」が、でっち上げられ、そのでっち上げの過程そのものが、「粛清(同志殺し)」であったかが、集団的討論の成果として記載されています。故川島豪君が編集していますが、当時の革命左派のほぼ全ての人々が意見展開している集団的文献です。革命左派は、このように、事実関係を明快に解析して野合「新党」の過ちを指摘しています。

僕は、事実関係においては、ずいぶんと参考にしました。しかし、革命左派は、自己のスターリン主義肯定、軍事至上主義、毛沢東思想教条化、中国革命教条主義、僕等赤軍派と同じ、プチブル学生主義の故に、その後、解体してゆきました。

b): 森君の獄で書いた、膨大な上申書があります。これは、「同志殺し」を居直ったもので、推薦できません。参考のために、目を通すのは良いでしょう。しかし、当時、未だ、一応健在であった、赤軍派は、これを、組織としては認めていません。赤軍派が認め、彼の文章で承認し、その線で、彼の「自決」を、悼んだ際、推薦した文献として、黒書、「森恒夫」遺稿集があります。これは、推薦できます。

c): 永田さんや植垣君の「16の墓標」「兵士たちの連合赤軍」は、多くの自己弁護も混じっていると思います。また、坂口弘君の「1972年」は、自己弁護がなく真摯な文献ですが、僕は、この本、「若松孝ニ、実録連合赤軍」に掲載されている、吉野雅邦さんの手紙が、もっとも信頼に値するものと考えています。 30数年後の現在、事実関係として、集大成された、もっとも精確な文献で、資料価値が最高に高いと言えます。これを、推薦します。



塩見孝也