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「チャンネル 桜」での討論の報告

「映画『靖国』と表現の自由を考える!」


2008年 4月 23日

塩見孝也

1. 去る4月17日と18日に放送された、の「日本文化チャンネル 桜」での、「映画《靖国》と表現の自由を考える」の討論を報告します。

収録は、渋谷のスタジオで、4月17日の10時から13時まで、3時間行われました。

出演は、 以下のメンバーでした。(敬称略)

パネリスト
(50音順)
 潮匡人(評論家)
 大高未貴(ジャーナリスト)
 坂本衛(ジャーナリスト)
 塩見孝也(評論家・元赤軍派議長)
 高森明勅(神道学者・日本文化総合研究所代表)
 野中章弘(ジャーナリスト/アジアプレス・インターナショナル代表)
 前田有一(映画批評家)
 三上治(評論家・元ブント叛旗派指導者)
 
司会:水島総

僕等の方は、野中さんだけが映画を観ているだけで、坂本さん、三上さん、僕はまだ観ていない人達。一方で向こうの人達は、「お金を払ってまで観ようという気が失せた」という潮氏を除き、全員、司会の水島氏を始め、観ている人たちでしたから、基本的議論は、観ていないことを前提にしてやろう、ということでした。

が、映画の内容は、僕等の方は語れないが、それが前提にされている議論が出てくるのには、相当困りました。

助成金の問題、表現と肖像権やプライバシーの問題、監督である李さんの人物、監督としての評価、制作上のバックの評価、映画製作上のルールの問題、らに司会が論点を設定し、それに沿って進んでゆきました。



2. 僕らは、mixiやホームページで展開している様な基本観点、諸論点を展開しました。

「今回の件は、表現の自由を侵しているという程のことはなく、また、わざわざスタジオに集まって議論する様なレベルの問題でもない」という立場の潮氏を除き、彼らは、司会も含め、論点を、細切れ的に設定しながら、全体の事態の構造、性格を、こちら側の主張、つまり「民衆が映画を観られない」「映画の評価は、先ず観て、評価はそれから、そう行って居ないのが、表現の自由の侵害に当たる」、「主観的に、“悪い映画”と判定し、見させないようにするのが問題」を、ぼやけさせてゆく様な対応をしました。

全体的に、見れば、水島さん達(潮氏を除く)の主張は、「街宣車右翼の<威力>的圧力も含めて、<映画上映の妨害>という事態についてはスルーして、結局<この映画は中国の指し金で、一種の謀略政治だ>、<靖国問題への、外国の干渉、圧力>」という主張に方向転換をする論法でした。

以下、こちら側の見解として述べた事です。

a: 「文科省が、反日映画に助成金を出した」は、我々、民衆側の関知しない、いわば、「執権勢力内部の内部問題」があるかもしれない。

しかし、文科省も大局では「表現の自由」に沿っている。別に、目くじら立てるほどのことではない、と思えました。

出来てしまってから、あれこれ、問題視し、騒ぎ立て、「元に戻そう」、と画策するのは、ある種の<八つ当たり>といえる。日本的価値観から<潔くない>といえます。

b: 刀匠の狩谷さんは、一度は映画出演を了承はしていたが、その後一連の騒ぎで電話を掛けたり、訪問したりして、ある種の「同調圧力」が働いた様な形になってしまったのではないか。

また、靖国神社に制服を着て階級章をつけて参拝した(ポスターにもなっている)自衛官の方であるが、表現の自由と肖像権、プライバシーの問題などは、微妙な関係にあり、直ちに肖像権の侵害とはいえないのではないか。

靖国神社側が、許可してなかったと言い出したのも、話が大きくなったための「後付け」ではないか。

c: 但し、上記の事柄について言えば、現時点では僕等は映画を観ておらず、また、狩谷さん、自衛官の方、靖国神社についての情報を持ちえてない我々側としては断言はできないし、あちら側の提示した<事実>なるものもそのまま論評、判断することはできないと表明しておきました。

この上で、一般論的に言えば、制作の過程できちんと承諾を得ないでアンフェアな手法で映画制作をおこなったのであれば、上記の三者の様な「当事者」、ないしはその代弁者は、問題箇所の削除や損害賠償などの法的措置を求めるために訴訟を起こしてもよいのではないか。

その一方で、当事者以外の、匿名の「ネットウヨク」や「街宣車右翼」などが煽られて、配給会社や映画館に圧力をかけるような事態を惹起させてはならない。


d: 李監督やこの映画の出資元が中国資本であったとしても、また李監督が、<中国政府の回し者、謀略者>であったとしても、―――僕には、一般判断だが、とてもそう思えないのですが―――仮に、それが、<反日>の政治的意図があったとしても、侵略された側の靖国へのものの見方を、我々日本人は、受け止め、参考にするだけの度量が必要ではないか。

先ず、民衆が観て、議論し、その上で判断すればよいのではないか。

客観的評判からしても、右翼側でも、<反日>か<中立>か、もしくは<愛日(鈴木邦男さんの推薦文)>か、また、<労作>か<駄作>か、映画自体の評価で、意見は分かれているが、全体的には「観た人に評価をゆだね、冷静に対応しよう」というのが大方の判断である。

これは、4月18日、右翼諸氏100人が、新宿ロフトプラスワンの試写会で、この映画を見た、最新の全体的評価であるようだ。


e: 靖国神社については、「戦争推進の装置だった」という点では、僕等側のほぼ共通の見解であった。

また靖国神社の評価は、不問の<聖域>ではなく、これを、回避していた日本人の側の弱さの問題といえる。タブーを解き、これから、これを契機に、大いにこの問題も議論すべきである。この、領域に、僕等の側が、主導的に踏み込み切れなかったのは、僕等の側の問題だったと思えます。


大体、以上が論争の紹介といえます。


3. 最後に、今度は、僕個人が受けた印象を述べておきます。

僕は「日本文化チャンネル 桜」から、2005年を中心にして4回、申し込みを受けて論戦しましたから、水島氏たちが今、どんな情況にあるか、興味がありました。そして今回、以下のような印象を得ました。

a: 司会の水島氏は、少々しゃべりすぎである。司会は原則として公平であるべきだが、あらゆる問題に評価や見解を加え、議論を誘導してゆく。論点設定の枠を自らに定め、それに固執する。論争は、融通無碍、勢いの赴くままで、時にはハチャメチャで良いのではないか。

これでは、僕等の側の見解を視聴者に伝えきれない。あの場は、どこかの政治グループの「政治局会議」で、そこの彼、水島氏が政治会議の議長といった役どころでは全くない。

余りに、党派主義的になると、客観的には、視聴者から、自由な議論からなる“面白さ”を奪い、嫌がられてしまうのではないか。

特に、僕に関して、肝心な論点で、かみ合うようになり、一歩踏み込んだ議論が必要になった時、意識的に論点を外すような対応をするのは困る。

僕らの見解も聞きたい視聴者は、相当居るはずです。こういったことが続けば、「申し込まれたら基本的に受ける」という、僕の信条にこれまで、従ってきましたが、保守派の陣営と意見交換をしつつ建設的な論議にするという<倒論>の番組の意義、メリットが失われるなら、時間の無駄であり、今後僕としても、<倒論>を受けたり、番組をコーディネートしたりする協力的態度を考え直さざるを得ない。

せっかく労力も金も掛けているのでしょうから、もっと大きくおおらかに考えられないものか。

こんな対応をとれば、<チャンネル桜>は人気的にも、営業的に、立ち行かざるを得なくなるのでは。実際、そうなっているようだが。司会を、極力、第三者、中立的人にし、水島氏は、論者、主張者になればよい。

ごく一部なのでしょうが、街宣車右翼の人々が、映画館側に「威力的」行動をしたことは事実である。こういった行動が、まともな保守主義者としては、あってはならないことぐらい分かっているであろうし、討論の中でも実際にそう言っているのであれば、あれこれ理屈を並べる前に、先ずこのことを問題にすべきではなかったか。

又、「肖像権」や「プライバシーの権利」を語るなら、同じように、映画館主や配給会社の「人権」、「営業の権利」の存在、「表現の自由の権利」の存在の意義も分かるであろう。

水島氏は、70年闘争の頃、早稲田の「反戦会議」の周辺に居て、吉本隆明などをかじっていた人である。

それが、その後、アメリカのトロッキストがネオコンになったように、日本型ネオコン主義者の典型として、保守反動陣営に転向した人である。であれば、「再転向」は無理にしても、およそ、一度は左翼の飯を食った人であるなら、上記のような行動をたしなめるべきであろうことぐらい、分かるであろう。

僕が、こういった行為が、「右翼保守陣営の名を汚している」と指摘したことに、まともに答えようとしなかった。こういった司会運営がだめなのです。


b: 相変わらず、<反日>を名文にして、中国人や朝鮮人に対して、特別な予断と偏見を有していること。国家や指導者と、中国民衆を区別し、後者には、どこまでも人間として、尊重、尊敬し、友愛、連帯の視点で望む姿勢が必要であるが、それがなく、権力者と民衆を「中国人」“民族”として、一くくりにして敵視している様にも見うけられます。

日本人が、「自虐的民族ニヒリズム」に陥らず、パトリ的民族的プライドを持つのは重要ですが、彼の場合は、<自虐史観批判>なるものが、自民族の特別な優秀視、他方での他民族の劣等視、中国人蔑視、敵視感情と裏腹な関係で成立している。正に、レイシズム、エスノセントリズムといえます。

お決まりの<他民族排外主義>は、4・5年前から10年前の朝鮮人に対したような時代とは違って、通じなくなってきています。

今は、中華資本主義の指導部に変質しつつある中国共産党は、チベット問題をはじめ、さまざまな矛盾を累積しつつあります。であれば、今のところ、中国プロレタリアートは、その掣肘下を抜け出していませんが、いずれなんらかに形で、姿を表してゆきます。

日本民衆、民族は、このような中国で抑圧された民衆、民族らと国際主義的連帯を目指し、決して「国家」対「国家」に分断されて、戦争的対峙の道にすすんではなりません。

ところが、水島氏の戦略は、戦前の国民国家間相互の対立の方向に、日本民衆、民族を煽っている、ように思えます。

これが、戦略なのです。そして、国家と、国家に抑圧された民衆との区別がつけず、つけられず、中国人一般を、攻撃する「戦略」をとり、それを「政治」「国事」と思い込んでいるように思えます。

これは、全くのアナクロニズムです。


c: 水島氏は本来頭の良い、賢い人です。

しかし、戦前の歴史から大事な事を学んでいない様に思えます。又、安倍の破産から、何も学ばない、何も反省してない、ということですから。

民衆や世の中の利益、民衆の要求や感情感性、意識水準を無視する。 この点では、視野の狭い、偏屈思考でもあります。この点は、本質的には、民衆を中心、本位にして考えない思考、思想、哲学が根底にあるからです。

これで、何で「草莽堀起」など、実現できるでしょう。

「草莽」の人々の動きあります。しかし、それは、水島氏の描くような「堀起」とは反対の方向に、です。

戦前の戦争の国民的規模の反省として、改めて「憲法9条、一項二項をしっかり守ること」。また、「先の大戦」の本質は「欧米植民地からのアジアの解放」でもなければ、民主主義をめぐる「ファシズム対反ファシズム」でもなく、日本帝国主義とアメリカ帝国主義の利潤追求のためのアジア・太平洋地域の「植民地の分盗り合い」であったことを自覚しつつあります。

だから、決して「聖戦」ではなく、靖国は、日本民衆と日本人を「七生報国」「尽忠報国」「死んで英霊になる」「靖国で会おう」と「死を覚悟」させ、戦争に動員する装置として機能したわけです。

天皇家ですら戦争責任者の合祀の関係で靖国神社には参拝しなくなったとも云われています。

にも関わらず、二派ある執権勢力のもっとも頑迷な一つの勢力、「日本会議」を中心とする、復古的ファッショ派は、死者を弔うことを名分にして、民衆の靖国批判派に対して神経をとがらせているのです。

水島氏は、その最先鋒といえます。しかし、水島氏のイメージする「大東亜戦争」の夢は、全くの白日夢です。

もう少し醒めた視点をもって、極端に振れすぎた歴史観の振り子を少しでも戻してもらえる様にと願っています。



塩見孝也