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和光晴生 著
「赤い春 私はパレスチナ・コマンドだった」について
〈上〉


2008年 1月 5日

塩見孝也

11月に入った頃でしょうか、集英社から、和光晴生著「赤い春 私はパレスチナ・コマンドだった」が送られてきました。

書評をお願いしたい、という彼からの丁寧な伝言が封入されていました。

この本の上梓については、和光氏本人や救援会の人からも聞いておりました。

先ずは、こういった本が上梓されたことについて、お祝いを、彼に述べたいです。

いろんな人が、下獄前にこういった自分の闘いの記録を本として残されます。これは、民衆にとって、彼〈彼女〉本人にとっても極めて貴重なことと思います。

たとえば、坂口弘氏の「あさま山荘1972」浴田由紀子さんの手記など。また、永田洋子さんの「十六の墓標」植垣康博氏の「兵士たちの連合赤軍」など、それはそれで、歴史の記録として、非常に貴重と思えます。

不幸にして、丸岡修さんのように、なかなかそうは出来ない人もいらっしゃいます。彼は「公安警察ナンボのもんじゃ」という本を一冊出していますが、その対象は限られており、彼の歴史、苦難を現すには、全然不足していると思います。

彼は、無期判決を受け、獄で、心臓病で苦しんでいます。

いろんな実体験をした人が、自分に合せて、どんどん書いてゆけるようにすべきでしょう。そうすることによって、僕等の後に続く、しかし、体制側によって、民衆の歴史としては、切断されてしまっている若い人たちが、歴史を連続させてゆくことが必要です。

こういった不幸が、なんとこれまで、必然といえば、必然なのですが、巨大に、累積されてきたことでしょうか。

これは、民衆にとっても、本人にとっても残念なことですが、幸いにして、若生さんは、それを実現されました。

願わくば、もっと、もっと書いてくださり、何冊も残して欲しいものです。

和光春生、彼は、生粋のパレスチナ解放・日本人の国際義勇軍兵士、ゲリラ戦コマンドである。

1968年: 慶応大学に入学、若松孝二監督の下で映画製作の修業をしつつ、全共闘運動や70年安保闘争を闘う。

1973年: アラブへ。

1974年: 9月、11月とPFLPの指揮下、オランダ・ハーグでの同志奪還闘争、「日本赤軍」として、マレーシア・クワラルンプールでの同志奪還闘争の二つの国際ゲリラ戦を指揮官として闘う。

1978年: 年末、「日本赤軍」に脱退届けを出し、79年、単身、自立し、PFLP傘下の、PLOのパレスチナ人民解放軍として、南レバノン戦線に配属。3年後正式に「日本赤軍」から離脱が確認される。
以降1997年まで、闘い続ける。

1997年:
レバノンで岡本公三さんらと共に、日本人グループとしてベイルートで逮捕。

2000年:
日本へ強制送還。以来、完全黙秘、非転向で、獄中、法廷闘争を闘い続ける。

2005年:
3月一審無期懲役判決。

2007年:
5月二審も控訴棄却で無期懲役。上告へ。


以上が概略の彼の経歴である。


この経歴を、一寸辿っただけで、彼が、素晴らしい革命家、コマンドであることが了解できるでしょう。

彼は、パレスチナ解放運動に挺身した奥平、安田、岡本、山田、日高、丸岡、重信、浴田諸氏ら諸革命家の中でも、今、存命、下獄中の丸岡修氏らとともに、最も優れた、最も原則的で、しっかりした、自己に誠実な人と僕は思っています。

こういった人々は、日本民衆の宝であり、こういった人々を忘れてしまう、社会、民衆、民族は、心、精神、思想的営為の生命力、躍動性、輝きを失ってしまいます。

時代が如何に転換し、民衆の闘い方も、それに応じてどんなに変化してゆこうと、その生き様の中には、日本と世界の民衆が模範にすべき人、民衆、革命家としての輝くものが、無尽蔵なほど、内蔵されています。

僕は、こういった人々を、なんとしても獄で存命させ、奪還し、思う存分、活躍させてあげたいと願っています。

どうか、「国境を越える騎士団」(救援誌、「ハルの会」編集、出版)ら、購読され、重信さんやもう一人のハーグ事件被告、西川純さんとともども、面会、文通してあげてくだされば、と思います。

この本は296ページ、それほど長大なものではありませんし、書き方も地味ではありますが、書かれていることは、徹底して、リアリティーを持ち、全般的にして簡潔、要点、核心部分がさらっとした形ながら、しっかり押さえられており、十二分に内容が詰まっており、迫力があります。

本の開き、のところに、小説家、船戸与一さんの推薦文が載せられ、末尾にはパレスチナ解放闘争、関係年表が付され、彼の歴史も記されています。

 1章:「レバノン南部戦線へ」
 2章:「<アブノーマル>で行こう」
 3章:「コマンド結婚事情」
 4章:「モハムードからの問いかけ」
 5章:「作法は一声、<フィーラスティーン!>」
 6章:「自動車爆弾遭遇編」
 7章:「イラン人コマンド列伝」
 8章:「党の革命、兵舎の混迷」
 9章:「コマンドお食事事情」
 10章:「花嫁は刑務所育ち!?」
 11章:「兵舎の隣にマイホーム」
 12章:「敵襲」
 13章:「アルクーブ地区へ」
 14章:「長い暑い夏、再度、三度」
 15章:「つかの間のやすらぎ」
 16章:「1982年、戦争勃発」
 17章:「Seeyou―――」
 18章:「エピローグ、そして、プロローグヘ」
 19章:「あとがきに代えて」

の19章から成りたっています。


僕は4回程、読んだわけですが、4回目は、メモをしっかり取り、やっとこの本の構造、意義が掴めました。それほど、この本は、リアリティーを持ち、精緻で、学術性も高く、重い、内容を有しています。

僕は、この本で、これまで、生半可でしかなかった、パレスチナ問題、現代パレスチナ史が、こういうことであったのか、といくつも教えられました。
和光春生は、現代パレスチナ解放運動を、そして日本現代を、最前線で生き続けている人物である。

僕は、こういった、彼の生き様を、この本を通じて、再確認しました。
そして、大体において、僕と思想的には同じ軌跡を辿り、同様、同質な到達地平にいることも確認できました。

彼は、日本人のパレスチナ解放運動の生き字引の一人と言って良いが、それ以上に、優れた思想家、理論家、知性と言って良いように思えます。



各章ごと、ほとんど主題があるのですが、その小見出しが、もう一つ、それを鮮明に体現していなく、ぱっと見ても、どんなことが書かれているのか分からないような編集のまずさを感じます。

この本は、特殊な、ある種の体験的なパレスチナ紀行記、長期のルポルタージュ的体裁をとっていますが、僕は、読者が啓発される思想の書、文学の書としてみた方が良いように思えます。

いろんなことが、要領よく、書きこまれているのですが、ある種の現代史の学術書のように、記述が精緻なため、それだけ追ってゆけば、かなり疲れます。

そういった意味では、この本は、読み流せるようで、そうではなく、メモを取っていった方が早く、良く分かります。

だが、彼に文学的感性、能力が無いかといえば、その反対であろう。

そもそも「詩は志なり」という観点で見れば、まだまだ、初めてで、荒削りですが、彼には、十分、その資質があると思えます。

それが、この本では、ストレートに出されるようではなく、極度に抑制され、事実記述を通じて浮かび上がってゆくような書き方で、良く現れていないだけのことであると思う。

ですから、僕の方も、各章に入り、解説、批評してゆくやり方で行きます。

とは言え、この本を書いた、彼の主題があります。彼は、それを大上段には、振りかざしていませんが、僕は以下のようにうかがい知ることが出来ました。

それを、最初に書いておくのが適当と思えます。

①世界的にはベトナムやパレスチナに代表される民族独立闘争、日本では70年安保大会戦、現象的に世界的な規模の「冷戦時代」、そういった構造の下で、世界人民運動の頂点まで駆け上った人が、大きな時代的転換、新たなグローバリズムの時代、新たな人民運動の構造の到来に遭遇しつつ、思想的、政治的に、自己否定、自己超脱、脱構築してきた、彼の思想的到達点を記述した書であること。

②彼は、1979年、南レバノン、リタニ川流域、ナバティエに着任したところから、書き初め、決して、彼がパレスチナ来て、早々に、担った、二つの「国際ゲリラ戦」から、書いて行ってはいない。彼は、この二つの作戦を成功させた勇士としての資質を示してはいるのだが。

彼が、かの地へやってきた、本来の目的は、パレスチナの解放のため、対シオニズム・民族解放戦争を前進させるためであった。
そのためのボランティア、国際義勇軍であった、という、その当初の目的を実行するためであったからであろう。

この意味で、彼は、この行動こそが、自分のパレスチナに来た意義を試す、これが、本番である、と言う認識があって、ここから書き始めたのでは、ないでしょうか。

ちなみに、リタニ川流域、ナバティエは対シオニズム戦の最前線である。

既に、この時点で、彼が担った「日本赤軍」―PFLPの二つの闘争には、明確に、批判的・自己否定的であり、それが、彼の自主、自由のためには、足かせにすらなっていると捉えている。

実際、それが、足かせに後々なっていたことは確かであろう。

このことは、P61の第5章の末尾、
「このとき以来、何度敵地に行ったことか。―初めて作戦に参加する銃弾を駆け抜けながら感じていた不思議な心の落ち着きが鮮明に残っている。」

「私が、今訴追されている二つの事件、すなわち74年のハーグ、75年のクワラルンプールの大使館占拠作戦の時にはそんな不思議な感覚にはとらわれなかった」 の記述に明瞭である。

彼の思想、信念とこのナバティエでの最初の小作戦が合致していたから、こういった「不思議な心の落ち着き」が訪れたのである。
戦いの大義と主体の行動が一致した時の、充足感を、彼は「不思議な心の落ち着き」と表現しているのである。

これは、僕の言葉で言えば、「人民大衆中心、人間自主・人間中心」の思想、感性である。

この、彼の考えは、その後、武装闘争より、イラン革命に影響されたものとは言え、パレスチナ民衆自身が決起してゆく「インティファーダ」、大衆的民衆蜂起〈決して、(<武装>の方に力点が置かれていない)を高く評価してゆくところに、連なって行っている。

③この本には、リタニ川地方のパレスチナ民衆の生活を中心に、レバノンで生きる諸民族の姿が、労働、生産、生活慣習・文化、習俗、特に食習慣、言語、宗教ら、そして諸民族の関係、内部の階級格差、国際諸関係の分野らにおいて、しっかり書かれています。

このことは、軍事をやる場合、その基本、ベース、原則として、民衆の生活の平場まで、降りること、軍事を民衆の要求、感覚が分かる民衆の平場の生活に合わせ、その目線から考えてゆかなければならないという観点がはっきりとつかまれているのである。

又、このような民衆への認識を基礎にした、彼の体験した、軍事、作戦が語られています。

やや、迂遠かもしれませんが、こういった認識視座は、毛沢東の初期の「湖南省農民生活の報告」とも共通し、又一寸飛びますが、レーニンの「ロシア資本主義の発達」もこう言った認識視座を有していると思う。

それは、対シオニズムへの批判、こちら側の大小の作戦、向こう側の襲撃、作戦の分担、装備、訓練、行軍、兵士たちの生活、論争、喧嘩、コミュニケーションと言語習得、給料、休暇、家族との関係、軍隊内部の上下、指揮関係、PFLP〈党)と軍の関係らら、或いは、パレスチナ本国在住の兵士と外国に住み、志願してこの地にやってきた兵士たちとの関係、彼のように、生粋の外国人で、ボランティアとしてこの国にやってきた人達との関係ら、精緻で、半端ではありません。

ゲバラの「ゲリラ戦」論の精緻さです。

これは、彼自身の民衆への想いの凝集の表現であると思います。

この想いなくして、この認識なくして、何ではるばる日本くんだりからやって来て、何で、銃を握れるでしょうか。

彼にとっては、大衆的民衆戦争が、如何にあるべきか、に於いて、こう言った事柄の習得は、進んでゆく中で、必要に迫られて、自然に学んで行った側面もあるでしょうが、自主的生きるための意識的行動であったでしょう。

彼は、対戦車のバズーカ砲の操手でした。
こういった、観点から、ベイルートでの「自動車爆弾遭遇記」では、パレスチナ人の、母、息子、赤ん坊を献身的に助けたこと。

1983年の、イスラエル軍のベイルート侵攻と言う、大攻防戦で、ゲリラ軍が頑強に2ヶ月半、立てこもり戦を戦い、遂に停戦協定に追い込んだ際、彼もまた、前線で献身的に、勇敢に戦ったことなどが書かれています。

④JRA〈日本赤軍〉―PFLPの「国際ゲリラ戦」や「批判と自己批判」に批判的である。「批判と自己批判」を同志支配、同志統制の政治手法、「具」と捉えている。PFLPの軍事(指揮)部のアブ・ハニ氏にも批判的である。

この手法と連合赤軍派の「共産主義化」が同質であると見ていること。

或いは、未だ革命左派時代の、永田さんらの、二名処刑についても「その作戦の決定者が、自分自身でその作戦を担ってゆくシステム、作風があれば、あんな、現実を知らない、観念的、主観的事態は生まれなかったであろうし、その誤りが、その後を縛りとなり、更なる大きな過ちを生み出してゆくような事態とならなかったであろう」と明快に言い切っています。

⑤彼の死生観もまた明瞭である。

「とにかく、精神主義の押し付けなんかとは無縁なところで、人は誰でも環境と条件が整えられれば、身体〈からだ)を張った戦いが担える、というのが、私がこの数十年の経験から得た確信である。<思想闘争>とか<共産主義化>とか、怪しげな<修業>ではなく、必要なのは<環境>」と<条件>なのであり、それを用意するのが、路線や政策、方針と呼ばれるものだろう。」(p227)

⑥彼のドイツ人女性、アミーナとの愛の関係が、控えめで、抑制的ながら、彼流のものとして書かれている。

⑦彼は、投獄・裁判闘争らも含んで、未来を信じ、不屈である。

⑧もう一つ。彼は、離脱する前、先輩同志であった日高敏彦氏のことを忘れることなく語っています。

氏は、彼の離脱後のことであったでしょうが、イスラエル側に捕捉され、拷問を受けて亡くなった彼のことを、しっかりと偲んでいます。

こう言った態度が、彼の思想のベースにある、事は注目してよいことと思います。
さらに、もう一つ。

彼は、日本で、焼身抗議自殺をした、檜森孝雄さんについても、悼んでいます。

そして、彼が、奥平さん達と本当はリッダ闘争に決起する予定ながら、たまたま山田さんの水死事故でそうできなくなり、その後、日本からの支援活動をやらざるを得なくなり、それを悔やんでいた経緯などについても語っています。

⑨なお、以下は余談というか、僕の感想の一つですが、体を張って、誠実にパレスチナ解放に挺身しようとしてきた彼のような、国際ボランティアの人々に、パレスチナ側は、粗末に扱いすぎている感じを受けます。

その献身性、誠実さを、ある面では利用している憾みを感じます。

思想・政治の独立性の保障、経済、社会保障の面、待遇上の地位、「身分」等において。

この点では、朝鮮国は、政治、思想、路線での承認があれば、逆に、その分だけとして、経済、社会保障、「身分」の面では、かなりな配慮がなされていた、ことを感じましたが。

[続く]

塩見孝也