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映画「フラガール」について

2007年12月1日

塩見孝也

1.時代を反映する、リアリズムの手法。

よき映画は、必ず時代を反映する。

それが、民衆的か、そうでないかは別にして。

そのことを、この20世紀初頭から現在にかけて言うなら、部分的に幾つかもの、技術的には、良い映画が現れながら、乱調気味であった、'05年以前に対して、’05年、’06年、’07年と見てゆくと、それは、年を追うごとに、民衆の要求、感情を率直に表す、流れを強めていっているように思える。

ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年11月公開)、「涙そうそう」(2006年9月公開)、「フラガール」(2006年9月公開)と話題となり、映画界でも各賞を受賞している。

その前を見ると、“乱調”の一極を反映するような、「血と骨」がある。

或いは、「世界の中心で愛をさけぶ」とか、「いま、会いにゆきます」などがあるが、これまでの映画評で指摘したように、映画技術としては、非常に優れていても、思想的、政治的に見れば、これらは“乱調”で、現実逃避的であった。

山田洋次時代劇三部作は、名実ともに気を吐いているが、鋭角的に現代の現実を切り取った「パッチギ」、「下妻物語」「嫌われ松子の一生」とかは、「惑星」的評価は与えれられてはいるものの、頂点に立つものとしては、挙げられてはいないと思う。
 
言いたいのは、この「フラガール」が、「ALWAYS 三丁目の夕日」と同じ手法、つまり、時代回顧の手法、一種の「時代劇」の手法を使って、今度は50年代ではなく60年代中期を描きつつ、明らかに、意識的に、民衆中心、古典的意味合いでの「階級闘争」の観点で、前二者の映画が持つような、曖昧性を削(そ)ぎ落としつつ、今の時代へ民衆が如何に向かい合うべきか、を正面から問うような内容で、創られていっている、ということである。



2.集団主義の映像手法を持った珍しい映画。

この映画は、集団の中での個の自主性を徹底的に追いつつ、逆にそれが集団に影響を与える関係性を自覚的に追っている。

映画の手法は、限りなくリアリズムの方向を提示し、これを踏まえた上でのロマンチシズムの手法となっていっている、ということである。

リアリズムを土台にし、これとロマンチシズムを統一して行く映像方法は、闘う生活者集団の映像化するに、最適な方法と思える。
  
<生きてゆくことの中に、真実がある。><生産と再生産、労働、このモーメントを基礎として構成される“生活”という、人間の土台、その上に築かれてゆく文化を精確に、描けば描くほど、真実や人間、人間性、未来が見えてくる>手法。

そうしてゆく行程は、現実に、沿っていない夢や思い、想いは、それが、如何に、いくら、人々の癒しに、一時、なっていようと、単なる空想、単なるロマンチシズムにしか過ぎないことを暴露してゆく。

しかし、注目すべきは、この映画は、こういった基本観点を踏まえつつ、集団の中での個を描く映画、もっと言えば、その集団の中の個が、動き、集団に影響を与え、集団が、分化、再編されつつ、闘ってゆく、集団を映像化する、現代日本では、非常に珍しい、良い意味での、集団主義の立場、観点、方法を持った映画なことである。

このことに、僕等は注目すべきではなかろうか。

黒澤の「七人の侍」を思い出すが、このような手法は、絶えて久しかったのではなかろうか。

このようなことが、実現されたのは在日の監督・李相白〈リ・サンイル〉の人間に対する認識の懐の深さ、製作・李鳳宇、李と合作した脚本家、羽原大介に負うところが大なのではなかろうか。



3. 「キューポラのある街」やフォード映画との関連。

「フラガール」は、僕の思想、映画論からすれば、上記(1)で述べた流れを、決定的に、質的に一歩進めた、80年代、90年代、21世紀の間の映画で、“一頭地を抜いた”映画、といって良いように思える。

僕は、この映画を観て、超元気になり、日本映画界の可能性を、若干ながら確信するようになりました。

この、映画を観て、浦山桐郎監督、吉永小百合、浜田光夫主演、浦山・今村昌平合作の「キューポラのある街」をすぐに思い出しました。
  
この映画は、1962年の公開作品である。

舞台は鋳物作りの街、埼玉県川口市である。

多くの鋳物工場から煙突が、にょきにょきと林立し、もうもうたる煙が立ち上ってゆく街である。

ここで生活している、娘、ジュンとその恋人、克己、そして父、辰五郎や在日青年達の物語を描く。
  
「フラガール」は、その舞台は、炭鉱の町、福島県いわき市となり、斜陽化した石炭産業の中で生きてきた炭鉱夫達とその家族達が、どうその時代に対して、その生活の場から、活路を切り拓いていくかの物語となっている。

非常に、似通っているのではなかろうか。

その活路の、一つとして、常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)が企画され、その目玉として、炭坑夫の娘たちを、フラダンサーに育ててゆくことが目論まれる。

こういった背景の中で、映画の主題は、紀美子(蒼井)、早苗らの炭鉱夫の娘たちやその家族達、そして、東京から来た、今は、うらぶれて、ドサ周りをやらざるを得なくなっている、若い時は、「太陽のごとく脚光を浴びていた」、SKD出身の「めんこい」フラダンスの先生、平山まどか〈松雪〉、らが、如何に、目的に向け、協力し合い、幾つもの試練を乗り越えつつ、目的を実現し、情愛関係を作り出して行ったか、に設定されている。
 
東京から招請されて来た、先生と娘たちは、いくつもの葛藤、確執、争いを行いつつ、次第に交流・相互理解をしあい、最後に、その会館で、素晴らしいフラダンスを踊る。

始めは、無理解で、この行為、行動を嫌悪し、排斥しようとしていた炭鉱夫達とその家族たちが、次第に、先生と娘たちの営為を理解し、協力、応援して行くのである。
 
所変われば、品変わる。

無数の鋳物工場、煙突、煙に替わって、ダイヤモンドヘッドのようなボタ山、炭坑、炭鉱夫たちの画然と建てられた無数の長屋が印象的である。

ここには、日本資本主義を、<黒いダイヤモンド>、石炭を産出し、支え続けてきた、「天皇陛下もご観覧に来られた」という、炭鉱夫たちの労働、生産、労働力の再生産―――文字通りの「生活」が存在する。

それに、石油によって駆逐され、斜陽化し、消滅寸前の危機にある石炭産業に従事して来、解雇必至、寸前の境遇にある、炭鉱夫たちの、最後の抵抗、意地と諦観、職業転換という特殊な事情がつけ加わる。

であれば、この映画の中には、これは、これで良いのですが、 「ALWAYS 三丁目の夕日」に描かれるような、それは、ともすれば、ある種の観念的な空想、風刺、パロディーに流されがちな<庶民の生活>像とは、全く違う、具体的な労働者階級の生活像がある。
  
この映画では、ジョン・フォードがイギリス、ウエールズ地方の炭鉱夫家族を描いた「わが谷は緑なりき」など、世界的にも普遍的な炭鉱労働者像と共通するが、他方で、それを特殊化した日本的な炭鉱労働者とその生活が描かれているのである。

「青春の門」に描かれた、筑豊の炭鉱夫や助炭婦とも似通った常磐炭鉱での日本的な労働がある。

それに、福島、いわき市の自然、方言、習俗、情景が合わさった独特の生活臭が、この映画では、醸し出されている。

それが、嫌が上でも、映画のストーリー展開のリアリティーを高めているのである。



4. 激烈な言い合いとその後の和んだ相互理解のダイナミックな過程が、会話、その台詞と音楽の冴えで暗示され、炭鉱夫たちの運命と幸せが何かを描くことに、この映画の生命がある。 

いわき市は平穏な日常生活が繰り返されている街ではない。

いわば、非常時の街である。

明治以以来続いたこの街は、エネルギー産業の王様として君臨した石炭産業が斜陽化し、炭鉱主、会社側は、日々人員を縮小し、炭鉱夫側は、生活のため、是が非でも会社側の解雇攻勢を阻止せんと激烈な労使の対決が続けられている街である。

ハワイアン・リゾートセンターの建設は、この労使の対決の狭間にあって、ある面では、労働の側への切り崩し策の面も持っており、他方では、労働側の主体的、自主的要素・条件如何によっては、真っ当な労働者の救済策の面も持つものになると言えない事もない。

であれば、労働側にとって、娘たちがフラダンサーとして育成され、娘たち自身が、こういった方針に、自己の将来の夢を託そうとするのは、大いなる物議を醸し、組合や大半の家族が反対するのも当然である。     

又、事情も知らず、ただただ金のための仕事としてのみ割り切って、いわきにやってきた、“頑な、剛毅な個人主義者”の平山まどかが警戒され、排斥されるのも当然といえる。

企画推進者の吉本は、初めから「労働者の裏切り者」とされているのである。

このような、労使の厳しい集団的攻防、闘いの過程にある集団の中での人間存在の性格を踏まえておけば、何で、言い合いが、あれほど激しくなるのか、さらに、激論にまつわる、細部にわたる感情のデリケートな起伏、流れらが、より仔細に観客には、掴めて行けるだろう。
 
まどかと富司の最高に激烈な言い合い、蒼井の紀美子と冨塚の母・娘のフラダンスをめぐって、これまた、激烈な言い合い。

最初の賛同者である紀美子の親友、早苗の父が、早苗の行動を知り、怒り、娘を暴力的に「折檻」して行く事件を起こし、それを知ったまどかが、その父に、風呂場まで行って、飛び掛って行く事件。

早苗の父は、炭鉱夫としてしか、家族を養ってゆく術を知らない、生粋で朴訥な炭鉱夫であり、炭鉱、閉山の方向に、必死で抵抗してきた。

自分たち家族の生きる方向を、未だ生き残ってゆける力を有す、北海道、夕張に流れてゆくことで解決しようと決意している。
 
まどかが、ただただのよそ者の傍観者から、娘たちを次第に愛し始め、彼女等をプロのダンサーに育てて行くことに、それまで失いかかっていた生きる情熱、ダンスへの情熱を何故、蘇らせて行くのか、ひいては、それを炭鉱夫とその家族ら全体への奉仕と心から考えてゆくようになる。その心理の変化。
 
もはや、この若い人達と先生、まどかとの結束を、周りは突き崩せなくなり、逆に、それを許容して行くようになる。

このような、婦人部の責任者である、母をはじめ、炭鉱夫たちが、屈折、ジグザグしながら、次第に、娘たちに理解、共感してゆく、意識の変化。
 
とは言え、映画は、このような人々の歴史的、社会的な関係の構造,特質を、長々と説明してゆくわけには行かない。

映画人である、監督や脚本家、李や羽原大介は、俳優さんたちの演技、それに加えての卓抜で簡潔な台詞、言質を、駆使しつつ、映像の中で表現してゆく以外にない。

方言の台詞による言い合い、会話の映像表現がドラマ展開の迫真性の決め手になっているのである。

常夏の島、ハワイで生まれたフラダンスは、一見、寒く、雪深い、東北のド田舎の炭鉱町、いわきに、アンバランスで、合っていないように思われるが、その素朴で悠揚たる性格は、実は東北人ののんびりさ、粘っこさ、素朴さとどこかで通底しているように思われる。

その“ゆったり”さが良いのである。

それを、炭鉱夫の娘たちが、そのプライドをかけて踊るところが意表をついている。

吉本の企画は、優れた着想、想像力に富んでいるのである。
 

劇中歌やギターの爪弾きの調べによって、この集団と個々の関係、その感情、心理の流れを補完し、観客に伝えてゆく映像表現をとる以外にない。

「Wish you my star」や「ジェイク・シマブクロ」の音楽は、この点で、まことに素晴らしいし、効果的なのである。
  

僕は、この映画のよさ、狙いを理解する前提を幾つか語ってきたが、それは、目的ではなく、手段、方法として、である。
 
目的は、別のところにあった。

監督やスタッフ、俳優人ら映画人集団の目的を明瞭にするためである。

言うならば、人間を語ること、人間の真相や情愛、幸せを語ることである。

人間の情愛関係が如何にあるか、あらねばならぬか、そして、それが如何に創造されるかを、追うことである。

人間の命の尊厳、それを歴史的、社会的に保障し、輝かせる人間の自主性、そこから生まれる情愛関係、幸せを語ることである。

誤解を恐れずに言えば、生産や労働、労働の再生産を問題にするのは、ひとえに、このことにおいて、その関係性、社会体制、政治、階級関係が、人間、民衆にとって、良きものか、否か、において、問われているだけのことである。

そのことを、目指して、己に桎梏と化している社会的諸関係、政治と民衆、人間は闘うのである。

監督、スタッフ、俳優たちは、この目的、狙いにぴったり照準を合わせ、それを映像化しているのである。

そのために、映画集団は、この映画で、激烈な言い合い、争い、心理的、感情的葛藤、相互理解を得ることでの気持ちの落ち着き、前向きに生きようとする積極性、情愛、幸せ感など、微妙なところ、デリケートで、ナイーブなところまで踏み込んで映像化すべく、卓抜な台詞、音楽を必死で、駆使しているのである。
 
そこが、観客の心を揺さぶり、感動させ、前向きに生きて行くことへの鼓舞となっているわけである



5. この映画の醍醐味と俳優について 。

映画は、戦争映画でも、アクション映画でもないが、闘う集団を追うことで、極めてダイナミックな映画になっており、各チャプター毎が、すべて、圧巻的なのである。

デリケートな感情の流れまで詰め切る形で、巧みに映出されているのである。

そこが、凄いのである。
  
松雪泰子(この映画で 日本アカデミー賞 優秀主演女優賞を受賞)の演ずるともえは、過去、栄光を馳せたが、今はうらぶれ、家さぐれ、相当、生きることに情熱を失っている。

いわきに来て、再び人生とダンスに情熱を取り戻してゆく、気の強い、狷介倨傲(けんかいきょごう)な、もう若くはない中年女を演じきっている。
  
喧嘩ばかりでなく、しんみりした所も演じる。

定食屋での洋司朗との出会いや借金取りに襲撃されているところを、洋司朗にガードされた後、しんみりと自分の過去を述懐するところ。いろんな場面で、圧巻である。
 
早苗と別れる際、抱きかかえ、自分のメガネを送る場面など、一見柄にあってないように思われ勝ちながら、芯はまことに熱いのである。
 
しかし、小百合の父が、事故で亡くなった、通夜の晩に帰ってくる場面で、自分の意志に反して、踊りを続けた、娘たちの責を被り、責任を引き受け、東京に引き上げる決意をし、挨拶するところが最高に格好良い。
 
 「ハワイアンが山を潰す、と思っておられるが、この子達は、山を救うために、歯を食いしばって頑張ってきました。もうきっぱりと、一人前のプロになりました。」「どうか、この子達の晴れ姿を見に行ってください」
 
それに続く、一人で去ろうとする彼女、それを連れ戻そうとする生徒達の場面も圧巻である。
 
駅頭で、紀美子達は、教えてもらった「ツウ ユウ シート アロハ」の手話をやり「愛してる、先生、どうか行かないで帰ってきてください」と訴える。

ともえは、それに感激し、「テレ助」と言いつつ、戻るのである。

ここが、又、最高に熱いのである。

ここにおいて先生と生徒達、娘たちとは不動の結束を勝ち取るのである。
 
紀美子演ずる蒼井も、松雪を並ぶか、凌ぐほど良い。

これまた、気の強い母に育てられ、気性は激しいが、親友に恵まれ、よき兄を持っている。

母と喧嘩する時は「自分は自分の人生を歩む」と、堂々と啖呵を切り、ともえとも激しくやりあう。
 
特に、兄と一杯飲み屋でのほほえましい語らいは秀逸である。

洋司朗ら兄妹は、落盤事故で死んだ父を持つ。

彼はその遺志を受け継ぐ母の生き方を継承する生粋で、やや複雑で、見えにくいところもあるが、戦闘的で原則的な炭鉱夫である。

しかし、「たった一人の妹」を案ずる兄でもある。

その感情は、まどかに、定食屋で、妹のことを頼み込んだり、「お前はいったん、母に逆らい、家を出た以上、自分の生き方、方針を貫け!」と、飲み屋で、未成年の妹に、酒を勧めつつ、勧告するシーンとなり、それが、親友、早苗が夕張に流亡してゆくことで、ショックを受けている、紀美子を立ち直らせてゆくのである。
  
気持ちが、晴れた紀美子は、兄に「兄ちゃん、スターになったら何を 買って欲しいべ」
それを受ける洋司朗の答えが面白いのである。

「女という奴は、お前にしても、おっかあにしても、先生にしても、何故そんなに強いんだべ」である。
 
洋司朗は、妹を世話し、育ててくれる、まどかに興味を持ち、まどかを、借金取りから守ろうとする。

最初の出会いは、「時代の流れに、頑なに逆らう穴掘り〈人足〉」「身を持ち崩し、流れてきた、集団の仁義の、人間にとっての尊さも知らない、自分ひとりだけで生きてきた、と思い込む“個人主義者”」といがみ合う二人であったが、次第に、二人の間には、ほのかな男女の気持ちの通い合いが生まれてゆくのである。

この、いがみ合いのやり取りや「自分は、SKDのエイトピーチェスにもいた、花形ダンサーであった」とか「自分は、人に優しくしてもらうのに慣れていない」とか、自分の歴史を洋司朗には率直に語るまどかの姿は、極めて真実の姿なのである。

豊川悦二は、その役柄を、精一杯好演している。
  
紀美子は、気性はあっさりし、素直で、喧嘩した後、先生に、あっさりと「イイー」をし、許しを請う。

宣伝旅行が成功し、みんながほっとしているバスの中で、先生と気を許しながら、穏やかに話し合う。
  
「先生、先生は何でそんなに頑張るの」「どこにも行くところがないからよ」

「だって、先生、めんこいのに」「めんこいけど、どこでも追い出されるのよ」

「そったら、いわきにいればよいのに」

ここも、名場面である。
 
蒼井優は、きっと実像においても、個性の強い、しっかりした娘であるのだろう。若いが十分に、与えられた役どころを演じられる、スケールの大きい女優なのである。 (この映画で、日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞を受賞)

富司純子の演技も、「日本アカデミー賞 優秀助演女優賞」(この映画での受賞)に値するものである。早苗、小百合、初子、子持ちの女性、洋司朗の友達、借金取り、組合の面々を演じる俳優達はみんな息が合っている。吉本を演ずる岸部一徳はベテランの味を出している。



〜 以 上 〜