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「我が憲法闘争論」覚書
最近の「僕の憲法闘争論」考


2007年10月4日

塩見孝也

僕は、これまで、多くの「憲法論(反9条改憲論)」「憲法闘争論」を書いてき、それを実践してきた。

その後、4・28沖縄デー復活闘争、国会座り込み・ハンスト闘争、6・15闘争、成島選挙闘争らを闘ってみて、そして、安倍信三を失脚させる「政変」が生まれるに及んで、反改憲闘争の次のラウンドが、長期持久戦の、能動的な国民主義的な総路線陣形で闘われなければならない時期に直面し、これまでの僕の立論に加え、いくつかの観点も加え、整理してみる必要を感じている。

これは、その雑駁極まる、覚書ともいえるものである。



1. 弱肉強食の戦争を絶対にしてはならないこと。自己利益のために、覇を唱え、他民族をいかなる名文を唱えようと殺し、侵略してはならないこと。


2. 「自衛〈権〉」という、欺むかれやすい「国民国家論」の論理に付きまとう、面妖で、おぞましい論理には、必ず欺瞞が存在し、それに、乗せられず、「国家自衛(権)」論と真っ向から対決すること。


3. 「自衛〈権〉」という美名の陥穽にひとたび陥れば、民衆、人間の尊厳はどんどん失われてゆくこと。それに応じて、執権勢力の民衆奴隷化は進行する。


4. 「各国毎」の「自衛戦争」のまやかしに、パトリを尊重しつつ、全人類的見地、世界民衆的見地、“国民国家”を超えた国際主義的連帯、世界革命を第一にして、思想的、理論的に論破すること。


5. 戦争の名文、民衆、国民の自衛の看板の裏には、きわめて現世的な、薄汚い利権追求の欲望が隠されていること。

戦争の構造、形態は明らかに、従来の「戦争論」を超え、変ってきている。
「反テロリズムVSテロリズム」となっている。

 重商主義・産業資本主義の「略奪・征服戦争」、独占資本主義時代の植民地の奪い合いを動機とする「「聖戦論」「国民戦争論(国民国家間戦争)」の後に続く、グローバル帝国主義の戦争構造、形態である。

しかし、この執権勢力の戦争動機、目的の薄汚さは、どす黒い利潤追求、利権追求の欲求といった戦争の根源、動機はまったく変わっていないのである。そればかりか、ますます透けたものとなり、むき出しになっているといってよい。

「テロリズムの撲滅、国際貢献」の裏には執権勢力の、薄汚い戦争で儲けようとする利権慾求が潜んでいること」「しかも、対イラク戦争で明らかになっているように、なんらの“聖戦性”も帯びない、正に、むき出しのそれが現れている」


6. 「9条こそが最大の安全保障であること」「9条改憲を絶対に阻止すること」


7. 「憲法9条は“押し付けられた”面が十分あること、というより、“上から与えられた面”が強いが、良いものは良いこと。」「この外的で、没主体であったとしても“良いものは良い”、という観点、方法が、もっともっと、自覚されるべき」「押し付けか、民衆自ら勝ち取ったか、かの論争は、二義的で、我々は、押し付けでない、という視座に立つような、短絡志向はやめるべきである」

「憲法9条は、アメリカのエゴ、直接的な当面の政治要求、日本執権勢力の武装解除の要求を反映してもいるが、〈当時の日本民衆の“国民的戦争体験→天皇主義執権勢力批判への責任追及”を利用しつつ、他面で、それを、それを、巧妙に、資本主義リベラルの枠内に押さえ込むべく〉、アメリカ憲法の底にある、独立宣言のよき面、また、その更に、その底にある、アメリカ先住民、インデアンの平和、共同体的民主主義、自然主義思想、社会、あるいは共同体の基層、原始共同体の基層から生まれ、人類が、延々と引き継いできた、近代のフェミニズム、女権思想を越えた、そのベースに存在する女性尊重思想らも反映しており、良き理想主義も反映していること。あるいは、マッカーサーも含めた進歩的なニューディール官僚の理想追及の志向も反映されていること」


8. 「たとえ、良きものでも、主体的に闘いいにとったものと、与えられたものとでは、その国の民衆、国民にとってはありがたみが違い、その有難みを活かすも殺すも、その国の民衆しだいである」「“ありがたみ”とは何か。自分にとって、恩恵があり、大切である、という認識」

「この点で、日本民衆は、憲法9条の有難み、をこれまでよく理解してこなかったこと、それが、現在の執権勢力の強みとなっていること」「その有難みを、失いかかってみて、身にしみて日本民衆は、その良さを理解する時期にいたりつつあること。憲法の良さ、有難み、を活かすか、殺すかは、日本民衆各人の、己の自主、自立を何よりも基本としつつ、他方で、社会的関係性、社会に責任を持とうとする、より高次の独立自尊、独立自主性の涵養にかかっていること」


9. 「憲法を尊重しつつ徳高き、信義ある自主日本へ」

これは、我が日本民衆、日本人、かなり長期的スパン、時代区分性において、かかずり合わなければならない関係性における、“日本国民”、“日本国”の在り様について、僕が長年、掲げてきたスローガンである。

「押し付け論」の側面、「与えられた論」の側面を、認めた場合、――「与えられた論」についてのスタンス、対応は上述した――、安倍的な戦前回帰論は、検証に耐え切れず崩壊したが、依然「自衛論−自衛軍保持」論は根強く残っていること。

僕等は、本気の「9条改憲阻止論者」「国家常備軍否定論者」であり、本気で、「交戦権の放棄と戦力不保持」を追求してゆく立場である。

とは言え、押し付け論は、ともすれば、「ナショナル・アイデンティー」を奈辺に設定するのか、どう描くのか、にスライドされ、展開しがちだが、このスライド化の道を断ち切り、別の道に転轍、パラダイムチェンジする視座、方法が必要となって来る。
そのようなものとして、これまで、僕が執拗に主張してきた、「国民国家ナシヨナリズム」論を超える「パトリオティズム・アイデンティー」が、対置され、据え直されるべきである。

「9条改憲阻止の会」では、国民主義的規模の「反改憲闘争」が問題にされてきているが、しかし、この「国民主義」について、誰も感覚的で、整理して、理論的に提起はしていません。

この「国民主義」についても、現代のリソリュジュメント運動として、「パトリオティヅムアイデンティー」の観点から、捉え返しておくべきである。

そこから、「戦争に対置して、人民の国際主義連帯を第一におく」、「国家ではなく、個人にのみ自衛権は許され、つまり、武装が許される」観点に立つ、「パトリに立脚する、国家常備軍でなく、非常備のミリシャス〈民兵的自衛機能〉」の構想は定立されてゆくべきである。

我々の、目指すべき国家があるとすれば、民族論において「民族であって民族でない民族」、パトリ民族論を主張するように、根本的には、「国家であって国家でないような」「国境を持たない、乃至は、国境をどんどん低くしてゆく、民衆の生活の根、パトリ〈故郷〉をベースとする非暴力〈常備軍を廃止した〉のコンミューン型国家」である。

一水会ら、良い意味での民族派は、段々「ナショナル・アイデンティティー」論の枠組みから脱却し、「パトリオティズム・アイデンティー」を受容し始めてはいるが、なお、「自主憲法論」や国家常備軍に未練を残し、不徹底である。

「反米愛国」が、必ず、「自前の国家常備軍創設」に、向かうとはいえないのである。

政治激変は、別のパラダイムチェンジを用意してゆくのである。

これは、民族論におけるパトリ論や「人間独立自尊、独立自主論」の思想的弱さや人民論―資本主義批判の欠落」に起因する。あるいは、戦前の戦争を「人種戦争論」から肯定する思考をいまだ、残していることにも起因する。


10. 「資本主義が戦争の根源であるにしても、それに取って代わる社会、パトリ共同体を追求するにしても、――それが社会主義であるにしても――人間、民衆、国民の自主性、パトリの尊重を起点にした、現憲法の尊重、活憲の回路を抜きには、それはありえないこと。

憲法を否定した未来社会はありえないし、9条や主権在民、民主主義を否定した、ただただの「社会主義のための憲法利用主義」は反省されるべき。
 僕等「阻止の会」には、このような利用主義への反省も、ひとつの思想的原動力になっている。


〜 以 上 〜