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「9条改憲を許さない6・15共同行動」
1000名余で大成功す。


2007年 6月 20日

塩見孝也

「9条改憲を許さない、6・15共同行動」は、1000名余の参加者をもって大成功しました。

反改憲闘争の勝利への道の扉は、はこの日をもって、こじ開けられ始めた、といって良いと思います。

この牽引車、機軸である「9条改憲阻止の会」は、昨年12月末より、この日に向けて準備を始め、半年間、幾つかの節目となる、闘い、行動を積み上げつつ、活動を継続し続けてきたわけですが、それが十分に実った、と言って良いと思います。

僕ら、「会」は 先ず持ってこの成功をしっかりと踏みしめつつも、断じて浮かれるようなことをせず、これを「小成」とすら見なし、さらに謙虚になり、がっちりと「戦後レジームからの脱却」「美しき国日本へ」などの迷妄に立脚する改憲攻撃と真っ向から四つに組み合い、それを完全に打ち破るべく、「9条改憲阻止」の大義をいっそう己のものとして鍛え上げて行かなければなりません。

受身、防御から転換し、より積極性、能動性を発揮し、攻勢に出て行かなければなりません。

この闘争には、人民大衆の人間らしさ、とりわけ、平和への願いが込められた、勝利に向けての想像性、創造性、自主性、意識性の萌芽が充満していました。

「6・15」は、正に民衆側が防御から攻勢に、布陣しなおしてゆく、転換点の闘いだったといえます。

秋は、これは全く私案で、思いつきですが、10・21東京・関西での双方5千の同時決起をイメージしています。

東京では、新宿駅を周遊する5千の決起者によって、東京都心で、68年のゲバ棒、ヘルメットは違う、非暴力・合法の形態で、決意を固めたデモによる集中的プロパガンダ行動で、新宿を「9条改憲阻止の大竜巻の嵐の中に叩き込むことです。これに呼応して関西で、円山公園、祇園石段したから4条河原町一体を「9条改憲阻止のハリケーンの嵐」の中に叩き込むのです。

東京では、これを盛り立ててゆく形で、500から千のハンスト座り込み闘争を連続的に前段でしょうか、まだ良く分かりませんが、展開することではないでしょうか。


それまでの雨天の予想は覆り、6月15日の午後は、初夏の日差し眩しい、上天気となりました。

僕らは、この日、午後、前段活動として、14時からの幟を掲げ、トラメガでのアッピール、チラシを巻きつつの、リレー・ウオークを開始しました。

新宿、高田の馬場、渋谷、上野、御茶ノ水ら各周辺拠点からの、逆放射的に国会に向けて集中して行く歩道ウォーキングです。

この後、国会内での院内集会、請願行動、樺美智子追善の献花行動をやりました。

僕は、高田の馬場組に参加し、その後の、予定は、本番の日比谷野音集会(18時15分より20時までの、約2時間弱)に参加し、それから日比谷から銀座、新橋、八重洲を経て、常盤橋公園にいたるパレード的な一時間余のデモンストレーションに参加する、というものでした。

後段行動として、茗荷谷・林泉寺での、地方参加者との交流、親睦、慰労会にも参加する予定でした。


僕は、リレー・ウォークをやった後、国会には行かず、会場設営組みに加わり、その後、僕の担当である、進行係りに集中しました。

来賓、ゲスト、発言者の接待は、僕が企画班として提唱した企画が多く、招請役をやって来た以上、僕が主要にやらざるを得ません。

司会ともう一人の進行係の仲間とコンビを組み、司会と進行について調整する役回りでもあります。

こんな具合で、僕は集会に楽屋裏から参加したのでした。
集会は以下のようなプログラムの下に行われました。

これは、当日配布されたビニール袋に入れられていた、プログラムのチラシに明示されているものです。

■プレ・イベント   開場17時30分
□ 三味線 攝津正
□ うた ZAKI
□ ぼけまる 歌唱指導「会悪NOなら!」声をあげよう」
□ うた 望月彰 歌唱指導「忘れまい6・15」
■ 集会開会 18時15分
□ 開会挨拶 小川登
□ 経過報告 蔵田計成
□ 国会報告 保坂展示人〈衆議院議員、社民党〉
□ 斉藤貴男(ジャーナリスト) 「6・15に連帯する」
□ 安次富 浩 〈辺野古ヘリ基地反対協〉 「今、沖縄は」
□ 雨宮処凛「作家」「生きさせろ!難民化する若者達」
□ 発言 柳田真 反原発からの闘いから
    攝津正 青年から
    久木野和也 学生から
    江田雅子 女性から
    正清太一 リレー・ウォーク
□ 国会前連続ハンスト
・ 栖原弥生〈北海道〉
・ 福山主税(九州)
・ 新開純也 (関西)
・ 国会前ニュースから 三上治
・ ハンストを闘って  篠田常木
・ ハンストとこれから 下山保
■ 集会宣言 塩川喜信 
□ デモ行進出発に当たって 松平直彦
■ デモ出発 20時

以上が、僕ら実行委員会のプログラム最終案でした。

60年安保全学連副委員長、反主流派の「全自連」の黒羽さんの肝臓ガンと闘いつつの、「9条改憲阻止闘争を死に場所としたい」という緊急発言要請がありました。

これに応えた以外、大体に於いて、集会はプログラム通りに進んで行きました。

若者達が参加者の4/1を占め、女性達もしっかりと参加されていました。

昨年の、参加人数のほぼ3倍でした。

集会は闘う決意に満ち、内容があり、かつ笑いも溢れる伸びやかなものでした。

沖縄辺野古の報告には、皆、耳をそば立てて謹聴し、地方からの報告もそうでした。

雨宮処凛さんの「流動的不安定労働者」、いわゆる“プレカリアート”を強いられている青年たちの生活、労働状態の報告は、参加者の最大の注目を引く報告と言えたかもしれません。

次代を担い、改憲阻止闘争の今後の主力を成して行くべき青年達の状態がどんなものであるか、は集会参加者の最大の関心事であったからです。

それに処凛さんは見事に応えたスピーチを行ったと思います。

圧巻は、何をさておいても国会連続ハンスト、座り込み報告だったでしょう。

40日間を一日も欠かさずハンスト、座り込み闘争を闘った篠田常木さんは、「孫達を2度と戦場に行かせない」想いで、頑張ったのだと、という彼のスピーチは、その凛然とした熱さとしっかりした論理でみんなを魅了しました。

彼は、お孫さんお二人を壇上に連れてこられて、挨拶したのでした。

下山さんの「飯は食わなかったが、酒はしょっちゅう、飲んだ」の無頼ハンスト報告も会場を沸かせました。

しかし、集会の決定的成果は、最後に塩川さんが読み上げられた、集会参加者、皆で採択した集会宣言文ではなかったでしょうか。

これは、塩川さんを長として、佐藤浩一さん、下山保さん、僕、渡辺亜人さんで起草委員会を作り、検討し、完成させたものでした。

ここには、「阻止の会」や「6・15実行委員会」の、理念、原則とも言われる内容が書き込まれていたからです。

ここには、日本民衆運動やそれを受け継いだ新左翼運動の負の遺産が何であり、それをどうしたら克服できるかが、簡潔に書き込まれています。

あらゆる権勢、権威〈そこには、未収の利益よりも組織の利益を優先させる、外国と国内「民衆の党」や「党派」を自称する存在も入る)に対して自主・自由なる存在としての個人の尊厳性、そしてそれを土台とした自主・自由なる、人間の連合した組織の重要性、これ等の基本理念から引き出されてくる「小異を残して大同に就く」「会」の諸関係に対する関係原則の確認、ここが宣言文のポイントでした。

これは、「共通性より違いを強調し、それを暴力的対立,抗争で解決しようとする」厭うべき悪しき作風、思想、他方での、そのことを理由にしつつ、裏返し的に存在してきた「ただただの“異質分子”と見立て、“自分だけは良い子ちゃん”ぶって他者を排除しようとする排除の思想」との思想闘争の中から生まれてきたものでした。


つつがなく、集会を終え、僕らは8時過ぎ、デモに出発しました。

デモ隊は、5百人づつの二挺団、2台の宣伝カー、トラメガ6台を装備していました。

デモは、事前の綿密なデモ指揮方針の下、パレード的要素も持った、決意性、思想性、規律とユーモア、ウイット、音楽性、伸びやかさが融合した、これまでにない楽しさを持った、みんなが満足した立派なものとなりました。

反戦平和、国際主義の伝統的革命歌「国際学連の歌」が「反戦、平和希求、9条改憲阻止」の歌に替え歌され歌われました。

叉、歌手・坂本九の「幸せなら手を叩こう」のポーピュラー歌が「改憲NO!なら声をあげよう」に替え歌され、歌われました。

この時、事前に配布されたメガホンがカスタネットに早変わりし、みんなは「幸せなら手を叩こう、タンタン」「声をあげよう、タンタン」と合わせてゆくのでした。

これを、5百人,千人がやるのですから、迫力があり、歩行者は振り向き、引き込まれざるを得ません。

デモ隊は、この時、ある種の「軍楽隊」に変じたわけです。

宣伝カーのコーラーの呼び掛けは、堂に入り、決まっており、デモ指揮との呼吸も合っていましたが、二つの挺団が最初は一キロ以上も離れてしまい、これを近接する必要が生まれました。 

僕は、デモ指揮経験豊富ですから、陰であれこれこんなことを調整して回りました。

デモ隊の横に付き、臨回してゆく中で、沢山の顔見知り、そうでない同時代を生きた多くの人々から声を掛けられました。

こんな時の再会は、僕を興奮させ、精神的に高揚させてくれます。

何故なら、この再会は、この30年、40年の苦節の幾山川越えてきた再会です。

であれば、間違いなく、双方共が、一回りも二周りも大きくなっって成熟した中での、再会であり、もっとも確かな、未来に向けての再出発の新しい出会いといえますから。

僕はデモは大好きです。

デモをやりきった後の満足感は最高の快楽とも言える喜びです。

とりわけ、自分が主体的に参加し、計画したデモなら、最高の最高といえます。

初夏の微風、涼風が汗ばみ、ほてった体を、癒してくれるくれる頃、デモは終了しました。

9時過ぎ、僕は微風に身をゆだね、タバコを楽しみながら、えも言えぬ満足感、幸福感に浸ったのです。

多分、この達成感に裏打ちされた幸福感は、登山家が頂上を極めた時、覚える満足感と同質のものではないでしょうか。

僕はこの達成感を味わいつつ、地方参加者との交流、兼、慰労会、親睦会のある茗荷谷、林泉寺に向かいました。

慰労会は、ややハ茶目茶、無礼講的なエネルギーに溢れたものですが、僕らは、そこでも達成感から来る、幸福感に浸ったのでした。

僕はそこで、3時ごろまで話しこみ、果てしがないので、翌日の我が友人、成島忠夫参議院選出馬の発起式、激励会に備えるべく、眠りに付いたのでした。
塩見孝也