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苛烈に「兼愛」「非攻」に徹する墨者、革離

映画「墨攻」を観て

2007年 2月 28日

塩見孝也


先日、映画「墨攻」を観ました。

この題名は、「墨守」から原作者、酒見賢一がもじってつけたらしい。

映画的には「10万人に対して、たった4500人を指揮し、城を守る、“兼愛”“非攻”の“墨家”のリーダー」の売り込みに、いかれたわけですが、中国春秋末期、趙と燕の戦争関係、燕の梁城の守城戦が舞台です。

主人公は「墨家の法」を固く守る指導者、防城請負人、革離を中心に展開して行きます。

城主勢力(奴隷主勢力、ないしは、新封建主義勢力、ここにも内部矛盾と謀略、政争がある)、民衆、攻め方の趙の将軍の三つ巴の関係で展開して行きますが、−−− 一応民衆、農民の動きが描かれていますーーー軍事攻防、アクション、謀略、恋愛ありで、見れなくもないのですが、軍事にしても、政治についても、恋愛についても、民衆の状態や心理や諸人間関係も、突っ込みが足りなく、泥臭さが残り、粗雑で物足りなさを感じました。

一流アメリカ映画のように流麗とは行かないまでも、少々はスカッとさせて欲しかったです。

いま少し、というところです。

但し、アンディー・ラウが、自己の信ずる法に、忠実に生きようと、現実と信念のギャップの中で、必死でもがきながら闘っている革離を、素朴ながら大真面目に演じているのはよかったと思う。

映画的にだけ見れば、僕は韓国映画「MUSA-武士」の方が、遥かに出来の良さを感じました。

僕が、観にいった理由は、「兼愛」「非攻」を主張する、ある種の、中国古代における民衆革命家集団、ボルシェビーキ、墨家の思想や生き様、軍事思想がどんなものか、を探れたら、という次第です。


革離が、この「家」の「法」を固く守り、愛する人よりも民衆、義を重んじ、結局、恋人を犠牲にする、殉教・苛烈な生き方(切ない生き方と読め!)や、或いは、王子に対して「政治に任ずる役目の人、指導者は生きて任務を全うすべし」とか、穴堀り攻城に対する防御軍事、水攻めらの軍事思想ら、幾つもの墨家独自の政治・思想・軍事の片鱗が見受けられましたが、この辺の墨家の思想が、映画では前提になっており、やはり、観客には分かりにくい、と思います。

墨家は、始祖、墨子の後、二代目以降、春秋・戦国時代、儒教と天下を二分する政治・思想勢力で、その学団は、全国を遊説して歩く布教班、典籍・教本の整備や門人を教育する講書班、食糧生産や雑役、守城兵器や防御戦闘に加わる勤労班に組織される全国的組織となりました。

指導者猛勝などが、城を守れなかった責を負い、墨家の信義を貫くために、同志180人と共に自決した話は有名です。

原作では、この辺の細かい展開が出てくるらしい。

どこかで、一まとめに墨家について、分かりやすい、思い切って解説が必要だったのではないか。

そうすれば、映画に一本、筋が通ったように思えます。

僕は、たまたま塚本青史の「白起」や「裂花」など読んでおり、叉少々墨子も知っていたのですが、そうでないと、単なる「防御請負人」の「用心棒」のお話にならないとも限りません。

ともあれ、日、中、韓、香港映画資本が連合し、このような、アジア・世界の反戦・平和の思想を、曲りなりにも「墨家」を介しつつ、ある面での革命的内容、階級闘争の観点を盛り込むことを恐れず、謳いあげたことは、やはり特筆すべきと思います。

とは言え、高々今の映画制作人、当時の農民を余りに貧相に惨めったらしく描いているのは、この程度の思想状況か、と思いました。

この春秋時代は、日本の戦国時代がそうであったように、堯、舜の原始共同体時代の後の、それが崩れていった夏、殷、周の古代のアジア的な総体的奴隷制社会が、生産力が上昇し、農民達が活気好き、力を得、他方で下克上が盛んになる群雄割拠の戦国時代に繋がる、社会が活況を呈す時代ですから、農民達も気高く、剛毅な人々を輩出させていったはずです。

この民衆の状態を反映し、墨家のような、民衆の全国的革命家集団が生まれていったものと思います。

であれば、農民像も豪快で、英知ある姿が見受けられるように描くべきです。

革離が突然変異的に生まれるのではありません。

それにしても、これまで没却視されていた、「兼愛」「非攻」の墨子思想を、我が日本の酒見賢一辺りが、アジアに向けて発信した時代状況に僕は、希望的な興味を持ちました。


以下、mixiで三人の方から頂いたコメントへの返答を、補足として追記します。

1) Aさんへ

農民達が、映画では、余りに貧相で、弱弱しく描かれがちで、あれが、嫌でした。

気高く、毅然として生きる民衆の生き様との関連の中で、墨子思想が成長していった筈ですから、民衆はもっと生き生き、活力を持っていたのではないでしょうか。

特に、原始共産制が、未だ残る、総体制奴隷制社会(『周』が残っていました)、未だ、覇者、列強が完全に割拠する、「戦国時代」と違って、「春秋時代」は。

中国古代史は、宮城谷昌光らよく読んでいる方ですが、墨家については、無認識でした。

中国古代で、自主的な個人の信念、思想を軸にした、学的、思想的、政治的、経済的な全国的規模の横断的組織が出来ていたとは驚きです。


2) Bさんへ

墨子は一元論で、苛烈な所のある思想のようです。

これは、「兼愛」、この標語に端的で、親と隣人への愛について、親を優先しない、いずれの隣人への愛も平等である、主張でも明らかです。

僕なども、孔子の「修身、斉家、治国、平天下」についても、修身と平天下は同時双方向的、或いは修身と平天下は同一の事柄の向かい方、表れ方の違い、とか、で自己納得したりしているのですが、どうも墨子の思想は、平天下,つまり徹底人民主義のように思えます。シンプル、というより、短絡的「社会主義」でしょうか。

とすると、僕の人間自主社会主義とは違うように思えます。

孔子・儒家の君主を通じた政治、道徳の宣布、「仁徳」も君主によって決まる、といった、いわば「上から」主義の欺瞞に対して、この欺瞞を摘発して、「下から主義」、生産や労働の重視で一家を成したようです。

工学的知識、技術化集団の性格も持っており、兵器の製造なども優れていた、と言われているようです。

これは、民衆の侵略否定、しかし正当防衛としての反侵略・自衛軍事は承認する、と言った思想と関連があるように思えます。

墨擢の「尚賢論」なども、一人一人の民衆の教養、文化水準をいかに挙げるか、に力点が置かれています。

しかし、もともと冥家という、民衆、農民の原始的自治、大地信仰などを持った思想的流れを受け継いでいるようです。

ともあれ、非常にユニークな思想で、70年代頃までの、「革命」中国では、高く評価されていたことは、知っていました。

それにしても、猛勝らその同志達の信義のために、責任を取って自決する思想は凄いですね。

荀子(性悪説、法家)−−韓非子は国家主義思想ですね。

墨家については、研究の価値あり、と思っています。


3) Cさんへ

僕も原作を読んでみます。

こういった作品が、古代アジア、中国の文化を借りながら、現代日本から出て、日・中・韓のエンターテイメントになるところが注目すべきで、面白いです。

原作がどうか知りませんが、農民を、あんな形だけしか描けないのは、それが、この種の映画界の水準の表現、と言う所です。

もう一つ、アジアの映画は、日本を除けば、どうしても洗練さにおいて、土着的なのは良いのですが、未だ、未だ、泥臭く、アメリカに劣りますねー。

韓流ものは、やはりハリウッドの亜流で、洗練されているようで背伸びもあり、実はそうでないのではないでしょうか。

日本映画は、この点では、ある程度、個性を持ち、洗練されているものもあるように思えます。

僕などは、「筋もの」ですから、どうしても歴史観を問題にします。

と言って、筋だけでなく、あくまで人間、その血と肉を、重視します。とりわけ、文藝においては---。

果て、何を言いたかったのだろう?

               塩見孝也