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恭賀新年

2007年 1月 4日

塩見孝也



皆さん、明けましておめでとうございます。

旧年中はお世話になりました。どうか、今年もよろしくお願いいたします。


2007年、今年は、人民大衆が発言する年、政治的に発言しなくては、生きてゆけない年でもあります。

シニックに、「小さな物語」を対置して、揶揄するようなあり方を克服し、今年からは、「大きな物語」を語り、僕等、民衆一人一人が、宿命を拒否し、自己と民衆の運命の主人となって、「大きな物語」と「小さな物語」を融合させ、自己の運命を切り拓いてゆく生き方を培ってゆく年としましょう。

この国、この国家は、いまや自壊の淵に一歩一歩近づきつつあります。

政治的危機が到来しつつあるといっても過言ではありません。

単一に結びつきあい、流動、激動してゆく国際環境とそれを構成する諸要素、これと有機的に不可分一体の、域内の政治的、その他の諸要素がそれを示しています。

戦争が始まる前には、どんな英知ある指導者や政治集団、潮流が生まれていようと、戦争勃発を防げない、という「神話」がありますが、決して、現代はそうでないことが証明される時代と僕は思っています。

この実証は容易なことではないことは明らかです。

民衆が、「大きな時代」に直面し、それを解決して行く能力を保持しえていない時、この政治危機は、“階級的危機”としても顕現し、労働者ら人民大衆もそれを許容せざるを得なくなります。

しかし、僕は、この「階級危機」を、日本と世界の人民大衆は突破してゆくものと、固く信じています。

自己と愛し合う人々のために、日々営営として、額に汗して、黙々と勤労して行く日本人民大衆の叡智らを総合した能力は必ずや活路を切り拓いてゆくものと信じています。

「愚公、山を動かす」、“愚公”は、古代中国社会の英明君主ではなく、毛沢東が言うが如く、現代では、人民大衆です。

人民大衆が、日本と世界の政治舞台に登場し、歴史の主人として、今年は、政治の“熱い”舞台を少しずつ創造して行くでしょう。

この30年間に作り出され、僕等、民衆を雁字搦めにし、思考や精神の奥底までをも、否、それこそにターゲットを絞って、朦朧化させ、ぼやかし続けてきた思想、文化における現代特有の蒙昧の霧は徐々に拭われ、晴れ間が見えてきつつあります。

あの70年闘争以降、奪われ続けて来た、民衆の政治の諸管制高地に替わって、あたかも不動、磐石であるよう思われた、この30年間、権力によって構築され続けてきた政治・経済、文化、軍事の執拗で粘着力あるシステム化された陣地、ヘゲモニー装置、機構、システムも、徐々に軋み、解(ほど)け、一部は金属疲労を露呈し、一部は摩滅してきたり、一部は、再編制されるにしても、空回りし、新生事物がその中に浸透してゆく可能性は増大してゆくでしょう。

何故なら、その思想、文化、システムは所詮、一皮向けば、ミミッチー、チャッカリズムのせいぜい、一寸だけ目端の効いた小知恵の「知」でしかなく、小手先だけの類のものでしかないからです。

民衆、人間の根底に達する道理、哲学、思想に基づく何かがあると言えるでしょうか?

全くといって、ありません。

虚構といっても良いと思います。見掛けは強そうでも、所詮「張子の虎」なのです。
若肉強食の浅薄な実利主義思想、その勝ち馬に乗ろうとする思想、個人利己主義、拝金主義、低水準な快楽主義―。

それを、決して全面的とは言いませんが、一面では、補完し続け、民衆を思考停止させ続けてきた「ポスト・モダン」らの「現代思想」、或いは、「これだけは、日本人の根もとに結びついて居る、確かな思想」、「文化」と銘打ちながら、その実質は、単なる古色蒼然の新しい化粧回しを施しているだけの復古主義思想でしかない、ネオ国家主義、ネオ軍国主義、こんな既に破綻が証明されている思想で、日本(世界)民衆は救えるでしょうか。

日本民衆が、それを、受容してゆくでしょうか。

僕は、そう簡単とは言いませんが、決してそんなことはない、逆に、脱却して行くもの信じています。

しかし、今では「軽いノリ、遊び心」、奇抜さ、はぐらかし、ヅラシらであったものが、小才子たちによって、上っ面の悲壮感、使命感をまぶしった様相で、「国家至上」、そして「失地回復の報復主義」に集合されんとしているわけです。


「先の戦争は避けがたかった。日本人はよく闘った。やり方、判断が間違っていた。今度は上手くやって勝つ。」、このような戦争「不可避性論」を前提にすれば、必ず「今度は上手くやる。報復主義」の結論しか出てこないのです。

おいおい、待ってくれよ。この戦争の“不可避性”はともあれ、可避の可能性は無かったのでしょうか?“不可避性”が何故前提になるのでしょう。

これだったら、もう一度戦争をして、今度は勝つしか、結論はない事になります。「不可避性」に対して「可避」する可能性はないのでしょか? いや、十分あります。

このような、問題の捉え方は、執権勢力の立場、利害が前提とされ、彼等が牛耳る社会、つまり資本制社会とその国家(いわゆる“国民国家”が)が前提とされています。

叉、これ等の人々は、そこから翻って、戦争は人間、人類に“付き物”と考え、避けがたい、と思い込んでいます。

確かに、この前提に立てば、「戦争は不可避」で、「ならば、報復主義を固め、今度は勝つ」以外の結論しか、出て来ようがありません。

しかし、あらゆる事象には因果関係があり、原因があります。

原因は利潤追求を第一とする資本制帝国主義の経済、政治、社会システムとその法則です。

これに、民族、国民、結局は資本制下で賃金奴隷としてあり、本来この制度と対立し、これを廃止し、この制度を共産主義によって止揚せずしては、自らを解放し得ないプロレタリアートが、この利潤追求戦に巻きこまれれていった事にあります。

プロレタリアートは、このような執権勢力、ブルジョアジーの「前提」、世界観とは全く別の異質のパラダイム、世界観を有しています。

なぜ、プロレタリアートが、彼等の「前提」を共有し、付き合う必要があるのでしょうか!

であれば、日本プロレアートが、世界プロレタリアートとして、世界諸国プロレタリアートと世界社会主義、世界同時革命の旗の下、その理念、綱領、戦略・戦術のもと、国際主義的結合を図りつつ、この資本制システムとその国家を廃止、止揚してゆく、全然、別次元のパラダイムから出発し、プロレタリア社会主義革命を実現してゆくこと、こうすれば戦争は、十分避けられます。

資本主義、帝国主義資本制の利潤追求第一の本性、法則を絶つこと、このように、既に判りきっている、愚かな道筋を拒否する変革の志向が、今は民衆に於いては、「戦争か、平和か」としてありますが、それが、避けがたく「戦争か、変革か」に帰着して行くことを民衆、日本・世界プロレタリアートは徐々に悟ってゆくでしょう。

確かに、先の戦争は、歴史的諸要素を総合すれば、戦争勃発の前段で、「戦争の危険性を、逆に変革に転化して行く可能性」は少なかったでしょうし、この意味で「避けがたかった」と言えないこともありません。

とは言っても、脱出口は、それしかなかったし、日本民衆の意識的部分は、様々な限界、欠点を有しつつも、それを自覚し、闘かい、一定の執権勢力の危機を引き出すような闘いをしたのです。

それが、その後、これまた、様々な限界、欠点を有すも、戦後直後、民衆にとって良き力を与え、一定の変革的事態を生み出して行ったわけだし、その変革は実現されなかったにしても、平和、主権在民、民主主義の憲法を生み出し、その後、日本民衆の福祉に寄与して行った、と思います。

これ等のことを僕等は、しっかりと把握し直しておくべきです。

であれば、戦前の僕等先輩の闘い、教訓を継承、獲得し、戦争前段での、戦争を阻止する陣形を一層強化してゆくに如くはありません。

戦前に比べれば、人民大衆、人間、民族、人類が帝国主義戦争を可避する条件は、客観的にも、資本主義の第三段階であるグローバル帝国主義の存在性格、様式からして増大し、主観的にも、国際的にも、国内的にも、遥かに増大しており、人間が利潤追求第一のシステムに身を任せ、己の放埓さ、“煩悩”をそれと一体に上乗せにしてゆくような愚かしさを克服する可能性は圧倒的に増大してきています。

焦らない、悠々自若。自得、自足の思想、姿勢を、民衆の生活、労働則に照らし、もっと、もっと創造、確立してゆくこと。

マルクス資本主義批判を基本ベースとしつつ、あくまでも“人民大衆中心”、“人間中心”で、民衆と人間の命と自主性を最高尊貴し、それを輝かせる道理を明らかにしつつ、それを持って民衆と共に進もう。

民衆と共に、指導的ヘゲモニーを徐々に創造して行こう。

世界人類共同体・世界民衆共和国、世界共産主義同時革命(3ブロック同時革命)の旗高く、徳高き信義ある民衆第一の自主日本へ。

マルクス「資本論」を基本ベースとして、レーニン「帝国主義論」を踏まえた、資本主義の第3段階、グローバル帝国主義(批判)論を獲得し、新現代先進国革命へ!

右翼ナショナリズムの蒙昧を克服しよう。ポスト・モダンの二日酔い的迷妄,思考停止から脱却しよう。

2007年、今年から始まって行く、21世紀の日本が決まってゆく、天下大乱に備えよう。

               塩見孝也