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 −書評−
「戦争と平和 - 戦争放棄と常備軍廃止への道」
前田哲男 著  ほるぷ出版

(その1)

2006年 10月 31日

書評者 塩見孝也


今回は、前田哲男氏の「戦争と平和-戦争放棄と常備軍廃止の道」(ほるぷ出版) についての書評(その1)です。


(1) 前田哲男氏について

僕は前田哲男氏を知らない。全く予備知識のない人ですが、こんな大きなテーマと真正面から向かい合い、目次を見ると、このテーマに相応しい諸論点が考察されているようなので、2〜3年程前、清瀬私立図書館で借りました。

憲法9条の1,2項、「戦争否定、交戦権の否定と戦力の不保持」を最高尊貴し、この観点から、大きな構想力を持って、冷戦以降の時代でその可能性を追及したものでした。

期待に沿う、もので、以降ずっと印象に残り書評を書こうと思っていたのでした。

著者略歴を見ますと、1938年生まれで、ジャーナリストのようでした。

多分、平和運動の方面で 有名な方かも知りませんが、僕は知りませんでした。

後で、調べてみると東京国際大学教諭で、たくさんのこのテーマで、本を書いていらっしゃいます。

しかし、こういった詰め方やその内容的深度、トータルな展開の仕方らからして、ある程度年配の人とお見受けしていたのですが、予想通り、1938年生まれでした。

叉、これが代表作(1993年上梓)のようにお見受けしました。

僕は、「戦争」とその対極の「平和思想」の両面からの歴史的総括、哲学的、理論的考察、特に戦争、軍事理論史に興味を持ちました。

何よりも、「冷戦」終了後、その要として「常備軍廃止」を据え、「戦争のない世界」「恒久平和の世界」を、いち早く展望し、それを客・主の条件の中で、極めて合理的、科学的方法で、大胆に、探っているのが、気に入りました。

こういった壮大なテーマを、真正面から考究してゆく人はそうは居ないと思います。

若い人には、知識上、思想上、未知で、前提になったものが多く、大まかな道筋だけが前面に出て、とっつきにくいかもしれませんが、基本的には、その展開の道筋、グランド・デザインに於いて、或いは考証の仕方、資料の挙げ方とその確かさに於いて全く正しい、と思います。



(2) 「常備軍の廃止」と「国家死滅」について

それにしても、僕は、この本の中か、別の著書か、他の人のものかで、いずれにしても、この本に触発され、一つの重要なヒントを得たのでした。

それは、「国家死滅」「(世界)コンミューンの樹立」の問題です。

「国家の死滅」は、確かに、民衆の自主・自立の向上、民生の文化、文明の向上と一体の問題ですが、具体的には、他民族侵略、覇権支配、民衆抑圧の暴力装置の廃止という具体的で主体的な政治的課題の実現なしにはありえないこと、ひとりでに文化、文明の向上の過程で、無くなってゆくものではないこと、主体的に民衆が無くさせてゆくべきこと、として捉えなおさなければならないこと、そのもっとも重要な課題が、「常備軍の廃止」ということだということです。

これを、足がかりにしつつ、民衆支配の「警察」らの階級的性格が、薄まり、公共的性格が強まり、それが変革されてゆくか、全然、別個な性格の自治機関が作り出されてゆく、ということです。

こういった問題設定として、「国家」「国家権力」の実態である、常備軍、警察、裁判所、監獄ら民衆支配の暴力装置が、とりわけ「常備軍の廃止」の主張が、この課題への糸口,道筋として、ヒントされ、見えて来たわけです。

言い換えれば、「マルクス・レーニン主義者」流に言えば、「プロレタリア独裁」とは、どのように想定されるべきか、ということでもあります。

マルクスは、晩年の「ゴータ綱領批判」で、「共産主義」(“共同体”と言った方が良いか!)への道筋に「プロレタリア独裁」のプロセスの階梯の不可避性を、物質面、経済条件から指摘しています。

しかし、その内容は、はっきりとは示していません。

ここで、「共産主義」について、その「低い段階」としての「社会主義」、その「高い段階」としての、本来の到達目標としての「共産主義」を、二つの段階に分け、想定して居るのですが、その前段に、「プロレタリア独裁」期を想定しているだけです。

この「プロ独論」をレーニンは受け継いだわけですが、しかし、マルクスのそれと、レーニンのそれとは、相当、というよりは質的に違っているように僕には思えます。

それほどレーニン流であったと思います。

マルクスの想定しているのは、いわゆる有名なコンミューン4原則といわれる、
 1.役人のリコール権、
 2.役人の俸給の民衆並みの規定、
 3.全人民の武装、
 4.ブルジョア代議制の、立法、行政、司法の「三権分立」論とは違う、立法、行政、司法の三位一体論、

で、民衆の自衛武装は、下からのものです。

レーニンの場合は、たとえソビエト(労農兵の評議会)に基礎を置く、という形をとっていますが、「赤軍」は、民兵を基本にしたものではなく、正規軍であり、いわば、“民衆軍”、“国民軍”という名を冠した「国家の軍隊」(実質は“党”の軍隊)でした。

この軍隊は、当初、ソビエトに立脚し、反革命との内戦を戦う任務でしたが、いわば「自衛の軍隊」でしたが、その後、「革命の輸出」として「ポーランド解放」に転用されて行き、その無謀さ、軍事至上主義故に見事に破綻します。

つまり、内戦の過程で「赤軍」は、「プロレタリア独裁国家」の支柱としての、「常備軍」となってゆくのでした。

このイメージが、その後、マルクスの「世界同時革命」論(ドイツ・イディオロギーに書かれた、“世界”といっても、ヨーロッパ規模のもの)と一体の「コンミューン論」を後景化させ、「プロレタリ独裁」が“民主主義無き”「軍隊や警察の暴力的独裁」「恐怖政治」のイメージとして(特に、「一国社会主義可能論」を定式化したスターリン時代)全世界に定着して行きます。

「国家死滅」の方向性など、完全に、コミュニストの脳裏から吹っ飛んでいってしまう、事となってゆきました。

このことは、「歴史的制約」や「特殊ロシア的条件」を考慮に入れるにしても、民衆にとって、決定的反省の対象としなければなりません。

ところで、人類史は、約150年前のマルクスは勿論、その後の90年前の政治的天才、レーニンすらが予想もしなかったグローバル化時代を現出することとなりました。

その事によって、レーニンは「国家と革命」の中で、「国家死滅の問題」を、アナーキストのパンネックらを嘲りつつ、“長い々文化・文明の発展、民衆の民度の発展を経て、そのスパンを経た、その果ての問題”として彼岸化し、その代わりとして、常備軍としての「赤軍」や「人民警察]による、資本家や地主等の暴力支配としての「プロレタリ独裁国家」を押し出していったわけですが、そういった「一国社会主義」論と一体の「プロレタリア独裁論」を、否定し、マルクス的コンミューン(共同体)論として、今度は反対に、約90年を経て、この臥薪嘗胆的隠従姑息の時代を経て、この隠従性を吹き飛ばし、「世界コンミューン論」の現実的可能性として、その本来のピュアーな姿として、蘇らせてきているといえます。

歴史の展開は、どんな天才的革命家のビジョンにも想定されることの無かった道筋を、ある面でいとも簡単に、イメージ付けて行くわけです。

つまり、エンゲルスが定式化した「生産の社会化と所有における私的、資本主義的矛盾」がどのように、展開して行ったか、ということです。

約60億の人間が、この地球で押し合い、塀(へ)し合いし、生き、向上せんとするエネルギー、社会的生産力の発展の賜物が、それをイメージ付けてくれるわけです。

それは、その前の代償的歴史としての、「国民国家」が、「国民軍」と言う名の常備軍を梃子にして、世界的、人類的規模で、殺しあう第二次世界大戦、その後の冷戦時代の経験とそこでの教訓を民衆が経ずしては、決して自覚され得ないものではありましたが。

「世界人類共同体」、「世界民衆共和国」を可能にし得るような、情報化革命を梃子にした、経済、文化、政治における相互依存のグローバル化時代が現出したのでした。

それが、人類死滅の核戦争の危険、環境危機などの、無制限、無政府的資本主義の利潤追及戦やこれと同質の生産力の発展が何をもたらすかがハッキリした指標として提示される人類的危機の時代の到来でもあったが故に、このような課題、解決方向を促迫してゆかざるを得なかったからでもあります。

かかる、事態は、最早、「国家」そのものが不要なことを、人類、世界民衆に不要であることを徐々に認識させてゆき始めています。

たとえ、それがどのような名文を与えられていようと、最早「国民国家」とその要である「常備軍」が不要となってきていることを自覚させてきつつあるのです。

それは、今のところ、「戦争と平和」という問題があるが故に、「国民国家の不要」→「常備軍の不要」の順序ではなく、「常備軍の不要」→「国民国家の不要」という逆の行程を取ってですが。

こういった、行程を取って、「国家の死滅」の課題を、現実の射程に人類史は入れ始めた、とも言って良いと思います。

それは、マルクス的なコンミューン的内容で、「世界的規模での戦争否定、平和」、或いは「世界的規模での主権在民と民主主義の徹底追及」を前提にしたもので、なければならないということです。

しかも、民衆、人間主体の叡智、自足、自得の獲得と一体の、単一の、宇宙、地球の生命性と一体のエコロジカルな共同体として、です。

そして、その要に、帝国主義覇権戦争と民衆抑圧の「常備軍は不要」という意識が、「人類絶滅か、人類の起死回生か」を、抜き差しならぬ「戦争か、平和か」の、人類史の大団円とも言える大舞台がしつらえる中で、「戦争の人類にとっての宿命性」という悲観主義、ニヒリズムに取って代わって、急速に醸成され始めてきているといえます。

そして、それは、あの悲惨な第二次世界大戦の過程で、一方の主軸を請け負った日本国民、日本人、民衆の国民体験から引き出された、最高の教訓である、我が国憲法に書き込まれた9条の1,2項の意味するところのことであります。

9条は日本人と日本民衆の脳裏に、21世紀の進むべき方向を、稲妻の如き鋭く、激しい貫徹力を持って、その時代を跳び越えてゆく様に、打ち込まれて行ったのではないでしょうか。
(以下、続く)


               塩見孝也