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小泉首相は何故、靖国参拝を
「正面突破」で行なったか?


2006年 8月 17日

                    塩見孝也


 僕の予測どおり、小泉は正面突破で、やってきました。執権勢力は、この8・15で、たじろけば、彼ら執権勢力の結束はガタガタになってゆくことを、よく弁えていたからです。全く、愚かしいことですが、これが真実です。


(1)  死者に〈手を合わす〉ことは、同胞として、極く、当たり前の行為です。しかし、この、人間的行為と政治的な小泉首相や諸閣僚の靖国参拝を混同してはなりません。

 これを意図的に混同させている事に於いて、慰霊する場所を国家的に限定し、その場所が、先の戦争を公然と〈聖戦〉と規定し、軍国主義国家を〈神国の“国体”の在り様〉と賛美し続け、「慰霊」の名文で、自己の戦争責任を不問にし(不問にされ)、それを良い事にして、居直り続ける、日本唯一の宗教組織、靖国神社に、日本国首相として、小泉が参拝したことは、憲法を基準にして、世界平和を求める、日本民衆を愚弄するペテン師丸出しの行為と言えます。

 正に、羊頭を掲げて苦肉を売る類です。

 僕等、日本民衆は慰霊の感情と靖国参拝の政治的意図を混同してはなりません。

 叉、慰霊の感情は、日本人が、もう2度とアジアや米国を含め、戦争をしない、という世界平和の決意へと結実させてゆかなければならない、ことであることを、かかる事態に於いて、改めて、噛み締めてゆくべきでしょう。

 このことと、小泉のなした政治的、思想的行為とは180度違う、天と地程の違いのある、反民衆的、反人間的、或いは反民族的(パトリオティズム的)行為と言える。

 ある面では、「今度は勝ってやるぞ!」といった、1部保守反動右翼の偏狭、視野狭窄、陋劣な報復主義的な民族主義感情に流されてもいます。


(2)  先の戦争の歴史的評価は、対アジア、太平洋の人々には、明確に帝国主義侵略戦争でありました。これは、国際的にも一応承認された、憲法上の確認でもあり、動かせぬところです。

 対アメリカ帝国主義とのアジア、太平洋に渉っての覇権戦争は、その国の執権勢力、資本家階級の利潤追求のための帝国主義間の強盗同士の覇権戦争であり、人間本位、民衆本位の「自衛」戦争では決してありません。

日本側に道理があったわけでは決してありませんが、アメリカ側にも、道理があったわけでもありません。

 双方とも、資本家達の、儲け主義、利潤追求の欲望に根ざす覇権獲得の欲望という、表面で掲げた高邁な戦争推進標語とは、無縁な極めて現世的などろどろした欲求に根ざしたものです。

 この戦争の本質、原因,性格を突き詰めることをせず、それを「どっち側が正しいか」で争うのは〈目糞鼻糞を哂う〉の類の愚かな、議論です。

 資本主義体制下にある、両国の民衆が、資本の利潤追求戦に、自己も利己的に、欲望本位に、動き(動かされた)、巻き込まれた思想的、政治的弱さこそ、双方で反省すべきです。

  この帝国主義侵略戦争、帝国主義間戦争の本質を、犠牲になった兵士たちの「慰霊」と称して、「自衛」という名の何がしかの、手直しした、インチキ「聖戦」論を掲げ直し、覆そうとするところに、首相、小泉の靖国参拝の最大の狙いがあったわけです。


(3)  今、「国家の自然権としての自衛権が、今まで見過ごされてきた」「だから、憲法9条,1,2項は改められるべきだ」「自衛隊は国軍として正式に認められるべき」と改憲が主張されて来ています。

 果たして、「自然権としての自衛権は国家に存する」、といえるでしょうか?

 決してそうはいえません。

 僕は、「自然権としての自衛権」は、「国家には無く、主権者である、自主・自立し、愛し、尊敬しあう民衆各人が、その生存の危機に晒された時に、唯一、それぞれに於いて、正当防衛としてのみ発動を許されるものとして、唯一、個々の民衆の中にのみ存する」と思います。

 一昔前の、近代国民国家が誕生する近代革命(ブルジョア革命)の時代には、この、「国家は自然権として自衛権を有す」「ここからの国民国家軍=「国民軍」、或いは「市民軍」の保持は正当」、これは常識的真理とされてきました。

 ところで、軍隊は、ひとたび創建されれば、戦争勝利の獲物を求め、ごろごろ戦争を巻き起こす、という本性を如何なる軍隊であろうと、持っています。

 この本性を、近代国家を牛耳る支配階級である執権勢力、大体は、資本家階級は、利潤追求のために最大限利用します。

その結果が、2度に渉る世界戦争でした。

 この、悲惨な戦争の結果から、日本民衆を始めとする世界の民衆、人間、民族、人類は、この戦争の原因、構造、論理を学び、「自然権としての自衛権は国家に無し」と教訓化し、被爆体験まで経験した日本人はそれを、憲法9条の中に、戦争否定として、しっかりと書き込んだのでした。

 この憲法での確認は、ひとたび戦争が始まれば、現代では、人類絶滅の核戦争を孕むが故に、先覚的意義を今、輝かせて来ています。

 このような核戦争、環境破壊、その他の科学による生産力の発展が、人間の福祉を増進する反面、人類危機を生み出す、今の時代、21世紀は、世界は民衆中心、人間中心で、人類として一つになら無ければならないことを自覚しつつあります。

国家ごとに分かれて、それぞれが、「国益」ら、名利を掲げ、いがみ合い、戦争をやることが如何に愚かしいかを、世界と日本で起こりつつある全ての事象が、人間、民族、人類、民衆に明確に教えてくれ始めています。

 その、結論は、「各国の主権を守る、ことを名文とした常備軍を廃止する」という、世界の、人類の共通の普遍的認識へと煮詰まりつつあります。

 日本国憲法は、日本人、日本民衆が、余りに悲惨な国民的体験をしたが故に、世界に先んじて、今、21世紀に、徐々に普遍化されてきている認識を先覚的に表現したと思われます。

 このことは、「自衛に為の抑止力としての軍事力強化」の論理が、如何に時代錯誤で、視野狭窄の愚かしい、浅薄極まりない民族主義の迷妄であるか、を教えてくれています。

 民族主義は、世界平和の観点から、国家主義的にではなく、民衆、民族の国際主義的連帯、世界同時革命の方向で、僕の唱える、パトリオティズム(愛郷主義)によって止揚されるべきです。パトリティズムこそ、国際主義と一体で、世界平和実現のメダルの表裏なのです。

 21世紀の、諸民衆、諸民族、諸国家が相互依存し合うグローバリズムの時代、「国家とそれに括られる“民族”」として、「自然権としての国家自衛権は“国益”に照らして正当、それ故に国軍を認め、軍事力強化を!」の主張は、戦前の二つの世界戦争の論理そのものであり、そこから何も学ばない、既に「帝国主義の論理」として、「執権勢力のみを利する、民衆には全く不利益で、危険極まりない反動的言説」として破産を宣告された主張です。

 民衆の側は、このグローバリズムの時代に際し、オールタナティブな民衆側のグロー−バリズムの論理として、一国主義的な「国民国家」の枠組みを越えた、「人類共同体」「世界民衆共和国」の道こそ、真の世界平和の道であることを、はっきりと認識し始めています。

 ところで、戦争の危険が、それでは、全く無くなったかと言えば、完全にそうだとはいえません。

 僕は、これを、もう無くなった、と安請け合いするわけには行きません。

 確かに、日本執権勢力とどっこい、どっこい、ともいえる、愚かな朝鮮国の指導者が、核の引き金を引く可能性も僅かの僅か、ですがあり、中国が、核武装をしているのも事実です。

 しかし、だからといって、こちらも軍事力強化をし、核戦争を準備するのが良いか、といえば、それこそ、完全に愚かで、間違っています。

 こういった迷妄から、アメリカに従属し、軍事力強化を日本が目指すことで、核戦争が勃発する危険の確率は、決定的に増大します。

 その確率は、現在の状態より、遥かに高まります。しかし、非暴力・世界平和の闘いの道を民衆が覚悟を決めて、民衆が歩めば歩むほど、その確率はさらに低まります。比喩的に言えば、万対1の確率が、億対1の確立ぐらいに低まります。

 とは言え、ゼロになることはないのです。

 この意味では、僕は、安易な保障をすることは出来ないと言っているわけです。

 この意味では、非暴力、非武装、或いは軍縮の道の選択もまた、戦争を阻止できるか、否かに於いては、一種のギャンブル的要素を有しているのです。

 しかし、いずれの選択が、賢明で英知あるかは極めてハッキリしています。

 未来は、予定調和で、完全な平坦な道が約束されているわけではありません。そうであれば、我々、日本人は、それこそ、自己のこれまでの国民的戦争体験に照らし、そこから引き出される理想に照らし、自己の英知、見識、意志にかけ、覚悟し、行動を起こすべきです。

 同じ危険があるのであるなら、このような、理想に殉じて、思いっきり己の信念に従って、闘い抜き、死ぬ方が、どれほど人間的で、自分らしい、でしょうか?
この、闘いの中で創造されて行く、国際連帯を持った民衆的団結の力こそが、真の自衛力だと言い切れます。

 軍事力強化の道ではなく、日本民衆は、世界に先駆ける先覚者として、文化、文明力を高め、たゆまぬ平和外交、経済上の福祉、正しい政治力を強化しつつ、この真の自衛力を創造、強化しつつ、平和の道を歩むべきです。

 わが日本は、国家としては、このような、徳と信義を積んでゆくべきです。

 朝鮮国は、核武装や軍事力強化の道を改め、平和の道を歩んで欲しい。

 ピョンヤン宣言の立場に立ち帰って欲しい。あなた方の、政治の弱点が、どれほど日本執権勢力が利用しているか、考えて欲しい。

 中国指導者も、アメリカ帝国主義や日本従属権力者たちの政治に1対1的に対応する誘惑から脱却して欲しい。



(4)

 何故、小泉は、このような愚かな選択をしたのでしょうか?

 それは、敗戦責任はもちろんですが、それおも包含する戦争責任の総括をこの60数年、曖昧にし続けてきた自民党ら執権勢力にとって、この選択肢しか、彼らの利益、地位、「名誉」を保全する選択肢が無かったからです。

 この道以外に、彼等にとっては、権力者として自己を保全すること、ばらばらになりつつある、執権勢力をまとめてゆく道が無かったからです。

 その意味では、彼等なりの危機感を持って、「変人」小泉は「べき論」として、この選択肢を、次の後継者、安陪に託して行こうとしたわけです。
 だから、任期満了だから、こういったパーホーマンスをやった、と軽く見てはなりません。安倍は、この小泉の遺言を聞いてゆくであろう。

 どういうことか?

 敗戦の結果、日本支配階級が問われた、責任は、敗戦責任ではなく、戦争責任です。

 敗戦責任は、戦争責任にまで、深めて追及されねばなりません。

 戦争責任は、資本制帝国主義の本性である、利己的な、弱肉競争戦としての利潤追求戦争を容認し、彼らの父母、祖父母の政治家が、政治に於いて、それをコントロールできず、野放しにするか、それ以上に、自ら積極的に此れを、推進してきたこと、かつ、それによって彼等自身も利益を得てきたことを自己批判、反省しなかった事にあります。

 これが、真剣に反省されるなら、民衆中心、人間中心で、資本主義を民衆が統制し、最後には、共同体(コンミューン)へ変革してゆく政治を承認し、その基準で、これまでを、反省し、それを、率先垂範するか、或いは、最低限、それに協力するか、或いは、下野して政治に携わらないようにすべきでした。

 腹を切り、自決するのも一つの方法でありました。

 しかし、彼等はそうすることは、出来ませんでした。それは、もともと、出来ない相談でしたから。

 それ故に、そうせず、責任を、敗戦責任に留め、「国体の防衛」「反共」らを名文に、アメリカ帝国主義の庇護の下に、逃げ込み、「昨日の敵は今日の味方」と態度豹変し、延命し、アメリカ帝国主義もそれを、利用し、日本を、ずっと属国化し続けてきました。

 少し時がたって、敗戦の茫然自失から醒めて、今度は、戦前軍国主義を「主体性」と称して、何がしかの手直しをして、ゾロ復活させ、正当化しようとする、慾求にも、駆られ始め、結局、戦後60年間、このような、二股膏薬の従属と復古の二極間を、従属を基調に、振り子のように、揺れ動く、折衷政治を取り続けて来たわけです。

 所が、90年代以降、アメリカとの経済、政治面での対立の激化、中国ら復興するアジアとの対立激化、低迷する日本経済の進展の中で、執権勢力は、板挟みに遭い、最早、このような、折衷主義の二股膏薬の政治は取れなくなり、何がしかの根本的で、決定的方策無しには、ばらばらになり、分裂する危険に立たされ始めたわけです。

 この矛盾を、彌縫し、彼等流に解決すると錯覚されるのは、唯一、憲法を「改正」」しつつ、今のアメリカに忠誠を誓う、売国軍の自衛隊ではなく、日本支配階級に忠実な、自らの軍隊を持ち、その自前の軍事力を強化する道以外に、延命の道がないと、気付いて行った訳です。

 この「主体性」でもって、アメリカとも対等に連携し、中国らアジアにも威を示し、連携し、日本民衆おも隷属させる、ということです。

 軍国主義の新たな復活、「ネオ軍国主義としての再生」という絵図です。

 戦前と違うのは、孤立主義ではなく、アメリカにも中国にも開かれたまま、何とかして軍国主義化する、というものです。

 彼等は、この器用で浅薄な絵図が、グローバリズムの時代、可能だと思い込もうとしているのです。

 その鍵の鍵となるのが、何が何でも、戦争を覚悟すること、それに立脚し、軍事力強化、核武装化を何が何でも、図る、という、決定的にハードな政治しか延命の道がない事に気付いたわけです。

 これによって、挙国一致の体制翼賛政治を実現してゆくことです。

しかし、この道は、決して、「ネオ」の新しい道ではありません。

実は、戦前、欧米列強とアジアの板ばさみに遭った際、いつも採用してきた「二正面対決」という、軍事力強化、内部に向けて強権を発動する軍国主義的全体主義の政治以上の何者でもないのです。

 戦前は、その全体主義的内向化政治を、天皇を最大限利用することでやったわけです。

 戦後の現代では、天皇も利用しますが、そんなにシンプルには出来ず、戦争準備、軍事力強化に利用できるものは何でも缶でも動員してゆく、やり方をとるでしょうが、超国家主義の全体主義を、民族主義を再興して図らんとすることは確かです。

 むしろ、天皇主義ではなく、ヒットラーのナチズムに近似してゆく可能性が強いように思えます。

 しかし、この絵図は、煎じ詰めれば、唯軍事主義、唯武器論の軍事至上主義であり、人間、民衆の道義に立脚したものでないが故に、また、時代の流れにも逆行するが故に、安陪を担ぎまわっている、自民党の「2・26将校」を気取る「若手」連中が、如何に走り回ろうと、あらゆる方面から孤立し、破綻する夢想、妄想であり、白日の夢でしかありません。

 先ず、第一に、アジア民衆、中国やアジア諸国からの孤立は避けられません。
いまの、アジアは戦前のアジアではなく、試練を掻い潜って、成長し、興隆しつつあるアジアであること、それがアジア蔑視の彼等には見えておりません。

 第二に、日本を属国化のままに留め、最大限利用せんとする、アメリカ帝国主義が、それを許そうとしないことです。ロシアだって警戒します。

 その強力、強引な政治の本質をこれまた読みきっていません。

 第三に、日本民衆自身が、こんな安易極まるネオ軍国主義を許さないことです。これこそが、彼らの最大の誤算となるでしょう。

 日本民衆もまた、戦前の軍国主義を総括してきており、言い換えれば、敗戦直後の「戦争責任追及」」の不徹底が、どれほどの危険を後で生み出したかをしっかりと自覚しつつあるからです。

 今度は、それを徹底してやりぬかなければならないことの認識を、執権勢力のネオ軍国主義化政治が激烈になるに応じて、それを反面教師として、強めつつあるからです。

 日本民衆は、この戦後64年間の過程で、自分の頭で、自分の言葉を使って、思考し、自主・自力で、自分の運命は、自分の力で切り拓いてゆくことの大切さを、戦後直後の教訓、60年代から70年代の二つの闘いの教訓から学び取ったからです。

 日本執権勢力対日本民衆の政治的激突は、世界の民衆対資本のグローバルな対決関係と有機的に結びつきあいつつ、始まりつつあります。 


               塩見孝也