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A・ネグリ/W・ハートの「マルチチュード」(上)で述べる
“愛郷者”、“愛郷主義”と僕のパトリオティズムについて


2006年 7月 22日

                    塩見孝也


 ネグリ、ハートの「<帝国>」に続く、著書「マルチチュード」(NHKbooks,上、下)を読んでいます。

 柄谷行人氏の「世界共和国」も。氏の考えと、僕の考えは、相当重なる所があるからです。しかし、どうも、ピンと来ないところも、結論部分にあるように思えるのですが。

 ともあれ、ネグリらのこの著書は、「帝国」が90年代から、対イラク不当・不正義戦争までの期間に書き上げあげられた、のに比し、それからのもので、可なり判りやすく、現実的、実際的になっています。

 だが、そんなことはどうでも良いのです。

 僕は、この上巻、「傭兵と愛国/愛郷者」の項の102ページから、103ページに、とんでもない記述を発見し、大感激したのです。

 少々長いですが、引用します。

「腐敗への道だけが未来への唯一の道筋ではない。もう一つの道は、祖国/郷土愛(amor patoriae)--- ナショナリズムともポピュラリズムとも無縁な愛---の再生である。

 ドイツ生まれの歴史家エルンスト・カントロヴィッチは「祖国のために死ぬ」という概念を巡る秀逸なエッセイの中で、近代ヨーロッパに流布したこの概念の起源は、一般に考えられるように、戦争の英雄を賛美した古代ギリシャやローマにあるのではないことを明らかにしています。

 その起源は中世とルネッサンス期に求められるべきでこの時代には祖国/郷土愛はどんな機関とも、どんな国の機関やアイデンティティーとも結びついていなかった。祖国、郷土愛とい概念の背後にあるのは、ナショナリズムではなく共和主義的な同胞愛、共感に基づく同胞愛感情や仲間意識であり、これは、ありとあらゆる国家を超えた人類愛へと形を変える、というのだ。-----今日、私たちはこの祖国、/郷土愛の感情を現実的、かつ具体的なものにするよう努め、ありとあらゆる傭兵と傭兵によって私物化された祖国/郷土愛(インチキな、塩見註)に対置させる道を探らなければならない。-----

 いまこそ、新たなダビデに当たる人物像、彼等はまさしく「帝国」の権力に抗する共同戦線の構築その過剰な知恵と技術を注ぎ込める人物なのだ。これこそ、本当の愛国/愛郷主義、国家を持たない者達の愛国/愛郷主義なのだ。

 今や、 愛国、愛郷主義は、かってなかったほどの勢いで、多くの人々の共謀によって具体化され、マルチチュードの〈共〉的欲望を通した様々な決定へむけ、進みつつある。」

 こう言った文章がちゃんと書かれているのです。 素晴らしいことです。

 僕は、現代グローバル資本主義化の中に、ネグリ、ハートが言うノーマディズム(現代の遊牧主義)、ハイブリッド性(異種混交性)の特質とともに、その別の相補的側面として、パトリ性(愛郷性、自主的な民衆の、生活の場である地域=“故郷”に立脚する仲間意識、同胞愛、それは、現代のグローバリゼーションの中では、国民国家を介さず人類愛に直に繋がってゆく思潮、志向)があるのに、それが軽視されていると、指摘しておきました。

 所で、どうでしょう。

 ここでは、ちゃんと僕が主張してきたパトリオティズムと殆ど寸分違わぬ形で、記述されているではありませんか。

 多分、情況の進展の過程で、発展したのか、付加、修正されたのでしょう。

 万歳です。ネグリ、ハートよ!良くぞ言った。

 思想上の同志に近いぞ!嬉しいことです。

 僕は、感激したのですが、最近会ったイタリアの青年が、これと同じコトをいい、僕と意気投合したことを思い出しました。

 この感情、思想はヨーロッパで普遍性を持つものと思われますが、特に、イタリア(ドイツ)などかつての戦争の敗戦国に 、強烈に生まれるのではないでしょか。

 途上国から流移してくるサバルタン(異民族民衆)と他方でのアメリカンスタンダード文明。

 こういった、情況では、かつての左翼ののっぺらぼうの平板な国際主義と他方での、国家主義、排外主義の性格を帯びた、ネヲファシズム、新超国家主義の相克を止揚した、人間自主主義(協同、協働)を基本ベースとする、人類主義、国際主義を持った、パトリオティズムとしての民族愛が必ず生まれてくるわけです。


               塩見孝也