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 −書評−
「<帝国>」
(グローバル化の世界秩序とマルチチュ―ドの可能性)

アントニオ・ネグリ / ウィリアム・ハート 共著

2006年 7月 16日

                    塩見孝也


(1) 僕が“<帝国>”を読んだ理由(わけ)、グローバル資本主義=帝国主義における変革の主体とは?
その設定方法について


 誰でも自分の問題意識に合わせて本は読んでゆくものと思います。

 問題意識に合わなければ、如何に世間的に名著と囃されようと、或いは時宜に合った、必読文献と言われようと読まないものです。

 まして、600ページ近くの大著ともなれば、です。

 こう考えてくれば、僕が、この大著を、今月になって、4日間ぐらいで一挙に読了したのは、この著作が僕の問題識にピタッと噛みあい始めて来たからだろう、と思います。

 卑近な言葉で言えば、というより、有体(ありてい)というか、謙虚な姿勢からすれば、僕の問題意識、思想・理論の射程に二人の営為が、やっと、入ってきたからだ、といえます。

 直接には、二人が強調する「マルチチュード」の概念をどう規定しているのか、或いは、グローバリジェーションから、どうこれを規定しているのか、でした。

 根本的には、「産業資本主義」→「レーニン帝国主義(金融独占資本主義)」に続く、資本主義の最後の段階と思われる「グローバル帝国主義」の段階に在って、変革の主体はどのような存在してゆくのか、それは、マルクス的意味合いでの、「産業工場労働者(いわゆる「プロレタリアート」)」なのか、僕が、ほぼパラダイム転換しつつ現代革命の認識において使って居る「民衆(ピープル)」なのか、或いは、現在、流行りつつある「プレカリアート」なのか、ということでありました。

 これを見定めたかったところにあります。

 僕は、この書を、発売時から、買い込んで、2~3回瞥見はしていました。しかし、精読する気にはトテモなれなかったのです。
 正直に言いましょう。

 実は、僕は、構造主義やポスト構造主義、ポストモダンの学問的営為には、余り、信用せず、重きを置かず、むしろ馬鹿にしていたわけです。

 叉、こういった翻訳学問が僕には、遠くの存在に映り、日本インテリ特有の外国かぶれ、に見え、連赤問題や内ゲバ問題から提出されてくる、僕が「幸福論」などで接近して行った、マルクス主義のパラダイムチェンジ、「超克」「脱構築」とは、殆ど、重なる所がないと、と思えたからです。

 はっきり言えば、マルクス主義からの後退、マルクス主義の清算、民衆中心で資本主義と闘うことの否定、日和見主義に見えて仕方がなかったからです。

 言い換えれば、70年安保闘争ら日本の民衆運動の到達点は、決して欧米に遜色しない地平に到達しており、その総括運動に、外国の経験は、批判的に摂取しつつ役立てなければならないにせよ、日本民衆運動の経験の総括は、日本民衆自身、日本革命家によってのみなさなければならないという、確固たる確信、自負があったからに他なりません。

 しかし、ネグリについては、同世代の革命家で、投獄され、亡命し、叉帰国、入獄した人として、敬意を持っていたことも確かです。

 問題意識のレンズが合えば、たとえ、翻訳された文章でも、問題意識は伝わって来、本の構成の仕方も見抜け、僕の脳味噌に滲みこむように刻まれていったのです。

 こういう訳で、僕は、一気に4日間、正味2日間ぐらいで、この本を読み切り、僕流に書評を書いてみようと思った次第です。



(2) 西欧独自の「ポスト・モダン」の論客、ネグリ・ハート、その提起する事柄の内容と意義、限界

 ネグリ、ハートがヨーロッパ・マルクス主義の最良の部分(の一つ)で、ある面では、ポスト・モダンの数ある思想家、理論家達の言説を、革命家の立場で、この書が、その積極面を、或いは、その問題提起の玉石混交性を彼等流に、捉え返し、集約的に総括しようとしたものであることが判りました。

 マルクス「資本論」や「フランス3部作」の解説もあれば、ローザの「資本蓄積論」の「資本主義の生命力は、非資本主義圏を、資本主義に吸収していくところにある」をもって、それを、マルクスが、メモとしてしか書いてない「資本論プラン問題」の最後の項目、「外国市場」の所に当てはめ、解説したり、「資本への労働の「外延的包摂」から、「内包的包摂」やマルクスの「交換価値、使用価値、価値」などのマルクス概念を上手く使い分け、グローバル帝国主義を、マルクス経済学の原理論を、修正することなく、それを反対に、ベースにしっかり置きつつ、解説しようとしていることなど、或いは、使用価値が語義どおり発現する社会を共同体として定めて行こうとするなど、二人と僕に、かなり、共通語があること、或いはレーニン帝国主義の解説やレーニンやマルクスが経済学での指標である「交通」を「道路と鉄道」に置いて分析して行ったのを真似て、その指標観点を、今は“情報ハイウエー”などとする比ゆ(でもないか?)なども面白かった。

 それにしても、他方では、このようなグローバリゼーションを特質とする現代資本主義を、「資本主義の第3段階としての“グローバル帝国主義”」と定めず、そのような観点・方法とは違う“帝国”といった形で、新たに、概念規定するのには、随分と無理があり、特殊ヨーロッパ的事情に負う所が大きいとも感じました。

 ヨーロッパが、最初に資本主義を生成し、帝国主義を確立していったことは紛れもない歴史的事実であり、叉同時にEUの成立に見られるように、ヨーロッパ多国籍資本のグローバリゼーションに呼応しつつ、「国民国家を超国家」化しつつ、「国民国家の衰退」に呼応しつつ、単一の経済圏を確立しつつあるのも、事実であり、グローバル帝国主義の重要な典型であることは明らかです。

 そして、アメリカ以上に、従って日本とは比べ物にならない形で、資本のグローバル化、ボーダレス化が進み、それに応じて諸国民衆の移動と異種民族交流が急速、激烈で、二人が言うところの「ハイブリッド化(異種混交、交雑)」、「脱出(エクソダス)」現象、「故郷流離」、二人が好きな「民衆の移動」、「遊牧民的混交(ノーマディズム、ノーマッド化)」が進行しているのは予想に固くありません。

 「帝国」に照応する、哲学者スピノザの予言していたノーマド(単子、遊牧民)現象が進行するのも了解できます。

 しかし、このヨーロッパ的な「帝国」的在り様が、現代グローバリズム帝国主義の典型的在り様か、と問えば、僕はそうではなく、断然アメリカ資本主義の在り様を強調すべきと思っています。

 叉、これとの関連で、このアメリカ帝国主義との闘争と結託の二律背反的対抗関係としてEUは捉えられるべきで、叉日本帝国主義は、アジアを代表する、EU的とも違う、アメリカ的とも違う、アジア的な対米従属のグローバル(独占資本主義)帝国主義と考えるべきと思います。

 いずれにしても、はっきり、言える事は、グローバル帝国主義を、新しい発展段階の資本主義、独占資本主義の段階、従って帝国主義の本性になんら変わりはないが、だから独占資本主義、帝国主義でありながら、エポックメーキング的な意味合いでの新たな、より高度で国際的な独占資本主義、と捉えるべき、だということです。



(3) 資本主義の第3段階的発展としてのグローバル資本制帝国主義を“帝国”と規定してよいか?
マルクス「資本論」やレーニン「帝国主義論」との経済学の方法のヅレ

 現象的には、一般に、グローバリゼーションの特質として、資本の世界性に基づく資本、テクノロジー、労働、情報らの移動、或いはこれらと付則不離なIT革命、情報革命の進展らが上げられますが、これは現象上の事柄であり、グローバリズム帝国主義の運動法則の解明には、レーニンが「帝国主義論」を展開するに当たって、その「帝国主義論ノート」で留意しているように、経済構成体の本質的特長を掴むには、「“生産”とその“蓄積”といった経済活動の基礎的活動の質的変化」から掴まねばならぬように思います。

 こういった観点で、レーニンは「資本の集中・集積」としてのカルテル、トラスト、コンチェルン、を挙げ、独占資本の形成を指摘し、その上で株式資本的蓄積、つまり「銀行の新しい役割」としての金融資本主義的蓄積を指摘しています。その後、資本の輸出、勢力圏形成、列強の世界分割と再分割、帝国主義(間)世界戦争、といった形で独占資本制帝国主義の運動法則を見事に解明しています。

 この、方法論的観点から、レーニンはむしろ、ブルジョア経済学者のホブソンの方法を支持し、カウッキーとともに、軍事費増強に賛成した修正主義者、フィルファーディングのいきなり金融資本的蓄積から始める「金融資本論」を批判、否定しました。

 何故、レーニンがこういった方法を採用したか、といえば、こういった構成によって、資本や総資本としての国家の、プロレタリート抑圧、搾取、収奪を資本の運動の全部面で、プロレタリアートに良く見えるようにしたから、だと思います。

 言い換えれば、資本制所有関係の反人民性を、資本の運動の起点から始め、あらゆる全部面において確証していった、ということです。

 マルクスが、資本制所有関係を前提にしつつ、「資本論第一部」の「第一章」において、「商品と貨幣」から展開し、「貨幣の物心崇拝」を論じ、第二節で「貨幣の資本への転化」や第3節で、絶対的剰余価値、相対的剰余価値、搾取を論じ、その後、資本の蓄積、資本の原始的蓄積、再生産と流通、資本の総過程、といった順序の各章展開においても、資本の運動の全部面で、階級抑圧が見える形で展開したことを見習った、ということでしょう。

 それは、とりもなおさず、資本のもっとも単純で原基的な運動、商品と貨幣から始められてゆくのも当然なことでありました。
 レーニンの資本の「集中・集積」は、マルクス「資本論」の原理的部分を当然にも前提にしているわけです。



(4) 「“工場内分業(資本論)”の世界化」を拠点にしてグローバリズム帝国主義の成立・展開を考えてゆくことの意義について

 マルクスやレーニンの経済学の立場、観点、方法に従えば、グローバル帝国主義の運動法則の解明は、僕の考えるには、マルクスが論じている「工場内分業」の「世界化」の始まりを起点にして、捉えて行くべき、と思います。

 一国国民経済の枠の下に在った「工場内分業」が、国際的な、世界的な規模での「工場内分業」に質的に、飛躍したわけですが、これこそが、グローバル資本主義の経済(学)的起点をなす歴史的事態といえます。

 しかし、グローバリズムを論じる学者は、数あれど、この決定的意味について、論じる経済学者を、僕は全く知りません。

 「資本の相互乗り入れ」の事態は、決して経済学それ自身としてのみは捉えられてはならず、二つの世界大戦の過程で、スーパーな帝国主義に成長した、アメリカ帝国主義の政治的、軍事的力量に依存した、アメリカ独占資本の意志を無視しては、何の解析も出来ません。

 叉、これと随伴し,一体化して行った、かつての管理システムとしてのテーラーシステムや労働行程システムとしてのフォーディズム、に取って代わっていった情報化、エレクトロニクス化を要とする「生産のシステム化」の開始から、も論じるべきと思います。

 或いは、これに伴って金融的資本蓄積のやり方もグレードアップして行きます。

 様々なアメリカ資本が牛耳る、国際的な経済、金融らの諸機構の発達です。デリバティブ、ヘッジファンドらも現れます。

 このグローバリゼーションの潜勢的構造が、冷戦期にも増大して行き、金本位制のドル本位制への1972年の切り替えなどを経つつ、最後的には植民地体制の最終的瓦解、消滅、そして、中国の路線転換、それに呼応する社会帝国主義、総体的官僚制国家社会主義(国家資本主義)のソ連と東欧圏の瓦解の過程で、一挙に世界市場が成立し、グローバリゼーションが顕在化して行ったわけです。

 つまり、独立し、資本主義的「発展途上国」となった第三世界、未開拓な非資本主義経済も含む旧ソ連・東欧圏、それに中国の「社会主義市場」経済圏が加わって、文字通りの「単一の世界市場」が成立したわけです。

 ここでもって、レーニン的帝国主義の資本主義の段階は、アメリカ資本主義が主導し、それを典型とするグローバル帝国主義の段階に自己脱皮して行ったこと、これによって「資本の輸出」「排他的な経済的勢力圏形勢→ブロック化」「帝国主義間戦争」の運動法則の構造も、変わってしまい、そうはストレートには「勢力圏形勢」「ブロック化」といった形態での「不均等発展」としては、発現せず、この帝国主義の不均等発展の動力は、地下に潜ってしまい、閉鎖的ブロック経済化とはならず、それは、世界市場を前提とする、開かれた水平的性質を含む相互依存関係を持つリージョナルな経済圏に変容し、アメリカ帝国主義と他帝国主義の水平面での闘争と結託の矛盾の激化は、その相互依存関係の緊密化からして、おおむね、対米従属関係を持った、「結託(依存)と闘争」となり、罷り間違っても「熱戦」に発現せず、内向化して行き、局地的に「熱戦」化していったのは、此れに取って代わる形での垂直面での「南北間対立」の激化からのものでありました。


(5) 「南北間対立」の持続の構造の質的変化、「熱戦」の局地的持続と流移した途上国労働者のグローバル帝国主義心臓部での“叛乱”―――「脱植民地化」「脱中心化」と「外部の内部化」、「戦争の変容」

 この、「南北間対立」やその「熱戦関係」も、かつての如く、冷戦関係の下での、「帝国主義の植民地護持か、資本主義を飛び越えた反帝、反半植民地主義から社会主義への連続革命か」の鮮明な対決構造とはならず、一応は「単一の世界市場」を前提とする近代化の在り様、或いは近代化しつつそれを同時に、一個二重的に、それを、共同体に超克してゆく、「近代の超克」を巡ったもので、「米帝主導のアメリカン・スタンダードの近代化か、当該の民族と人民主導の近代化か」が対決軸となったものでありました。

 つまり、「近代化を如何なる主体が担うか」、従って、「西欧に起源を持つ、アメリカン・スタンダードの文化・文明か、その国の民衆、民族が、自国の文化、文明、伝統を継承しつつ、一国主権国家を絶対的命題とはせず、“世界人類共同体”創出にリンクしてゆくような内容で、革命的に近代化してゆくか」と言った文化・文明論的性格を持った「熱戦」であったわけです。
 この意味で、90年代以降、前面化してきた、「アメリカン・スタンダードの西欧中心文明か、イスラム教中心の文明か」と言った、中東、アラブでのアメリカ、イラクを始めとする闘争は、サミエル・ハンチントンが主張する「文明の衝突」的様相を呈するのは当然のことでありました。

 しかし、文明、或いは文化それ自体が「必ず衝突する」といった主張は、勿論誤っており、異なる文明・文化が必ず衝突するとは言えず、平和共存し、宥和、融合し、更により良き文明を産み出してゆくてゆくことも十分可能です。

 このように、アメリカ帝国主義の対フセイン・イラクへの湾岸戦争や第二次対イラク戦争に典型なように、対アフガン戦争もそうでしたが、一見文明戦争の様相を呈しつつも、その底に流れていたのは、明白に「近代化、或いは近代化を共同体に超克して行く、ことでのアメリカ・グローバル帝国主義とアラブ民衆、民族のヘゲモニー(主導権)争いの問題」であり、それは当然にも「石油の独占的支配を目指すか、それを許さないか」の「経済的権益、搾取と収奪、支配、侵略を帝国主義が貫徹するのか、それを拒絶するのか」の資本制独占資本主義の帝国主義侵略という、古典的にして、かつ現代的でもある命題の貫徹ということでもあったわけです。

 ブッシュ親子は、「核保有、毒ガス保有」とかの虚言を弄しつつも、その「普遍的主張」は「イスラムの野蛮、前近代性、独裁、域内クルド抑圧」とか「近代の使い古されたコンセプト」をあげつらい、「文明戦争的様相」をプロパガンダしつつ、これと一体にこの命題を実現して行ったわけです。

 このように、不均等発展は、南北問題―南北戦争にねじれ、攀じくれながら発現していっているのです。

 或いは、この矛盾は、かつての途上国民衆が、アメリカら先進資本主義国内に移民して行き、アメリカら先進資本主義都市に、「ゲット―」や「チャイナタウン」や「リトル東京」みたいな形の、「発展途上国ゲットー」の移民族空間を創出することによって、「先進帝国主義対第三世界(今は「発展途上国」)の闘い」は、内と外の関係ではなく、その壁をグローバリゼエ―ションが取り払うことによって、外と内、南と北を一体的に融合させつつ、「外部が内部化する」内容で、先進資本主義社会に内包化されつつ、転移して来ています。

 逆に、先進国資本は、生産基地を他国、とりわけ途上国に移転させることで、自国心臓部では生産を空洞化さ、生産的労働は減少し、その3Kとも言われる底辺労働部分は主として、途上国から流移民してきた途上国労働者が担い、サービス産業や情報労働ら非生産的産業部門、ネグリ・ハートに言わせれば「非物質的」産業部門が比重を増し、それが先進資本主義産業の花形となるような産業構成になってゆきます。

 この結果が、今年3月のフランスでの外国人転移労働者の苛酷な労働条件撤廃の300万人のデモ、「暴動」であったわけです。

  或いは、これに続いた、主として、ヒスパニック系の白人労働者と同水準の労働条件改善と移民規制撤廃のこれまた300万人の大政治闘争の勃発であったわけです。

 「資本と労働の相互乗り入れ」は、このような新しい質の「南北対立」を、「内」「外」の壁を取り払い、「外が無くなる」、つまり「外部を内部化する」ことで、先進資本義内部に内包的に転移させて来ています。

 このような、統一的な理論的連関において、ネグリ、ハートは、グローバル帝国主義の様々な諸現象やその特徴の指摘や大まかな構造を、多少文学的言語を駆使し、象徴的指摘を行いつつも、その本質的構造、或いは、局地的「熱戦」も孕んだ「南北問題」と「先進資本主義内民衆闘争の構造」などを、未だ十全に意識しているとはとは、全く言えないが、描出しようとしているように思えます。



(6)グローバリズム資本主義の活火山的タイプと休火山的タイプ

 ネグリ、ハートの分析対象、「帝国」は、経済学理論、政治経済学としては、現代帝国主義とその政治を、アメリカ資本主義やEU資本主義に特定せず、マルクスやレーニンが、ある段階の資本主義を、普遍的に抽象し、一般化する方法をとっており、それゆえ、特定の資本主義を対象にしたものではありません。 

 しかし、マルクスが、当時産業資本主義がもっとも典型的に発達したイギリスに住み、そのイギリスを対象ににし「資本論」を、産業資本主義の段階論的内容を書き上げたように、――マルクス「資本論」は、その後のあらゆる段階の資本主義を貫徹する、「原理論敵」的資本主義論であったことは、何も宇野弘三氏の三段階論の指摘に待つまでもないことです――、叉レーニンがイギリスやフランス、スイスなどに防衛中、これにドイツを加えた、ヨーロッパ資本制帝国主義を対象にしたように、二人が出自、在住し、生きてきたヨーロッパ、EU圏のグローバル独占資本主義とその国家や政治、民衆の対応構造の研究が実際上のモデルとなり、「帝国」論もこのことにえいきょうされています。

 二人は、アメリカグローバリズム・帝国主義も能たうる限り念頭に置き,調査し、そのような記述も沢山散見されますが。

 それが、どうしても、レーニン的帝国主義論性を典型的に継承し、現に今も発現させている超スーパーな、グローバル帝国主義、アメリカ帝国主義に従属し、アジアに存在する日本グローバル帝国主義の足下で、生活している僕などには、違和感を憶えさせるわけです。

 とは言え、この感覚は、グローバル帝国主義の典型、アメリカ帝国主義を典型化しつつのタイプ分けに一方では行くものの、他方では、そうはいっても、レーニン的帝国主義性を弱化、衰退させてゆく、この意味で、正に文字通り、「ポスト・モダン」的普遍性を持った資本主義の“帝国”的変容の追及の問題意識を、決して無視したり、否定したりするものではないことも確認して置きます。

 二人は、このことを、「没落期に入ったローマ帝国」の政治経済構造との関連で見て行っているようです。

 いわば、活火山的なアメリカ資本主義と休火山的性質を帯びつつあるEU資本主義との比較関係です。

 二人は、この休火山的性質にスポットをあてて研究しているのではないでしょうか?

 僕等は、この両特質を包含する内容において、資本主義の第3段階であるグローバル帝国主義を把握し、分析してゆくべきでしょう。

 イラク侵略戦争を積極的に推進して行った伝統的な帝国主義の伝統を引く、米、英、西、これに参加しなった独、仏、そして対中国、対朝鮮国との対応のバーターで、アメリカへの義理立て性格も持って、自衛隊を海外派兵した対米従属日本、といったタイプ分けの視点は必要です。

 それに、「市場社会主義」の資本主義化を推進しつつも、常に、欧米・日本資本の自由なる資本の参入には、国家的規制を厳しく残しながら、高度成長し、世界に膨張する中国、ロシア的伝統性やスターリン主義、旧ソ連の構造も残存させている、今では、完全に資本主義となったロシア、或いは、急成長するヒンズー的なインドもまた、この課題を果たすには視野に入れておかなければなりません。

 果たして、米―イラク戦争はアメリカの思うとおりに終息してゆくでしょうか?

 そうは行かないでしょう。

  とは言っても、「石油独占とイスラム国家の世俗政体化」はアメリカ・グローバル独占-―産軍複合体―米軍と言った三位一体の戦争マシン化したアメリカ資本主義の根本要求であり、この動向は、シーア派イスラム神権国家イランの打倒にまで拡張される十分なる根拠でもあります。

 しかし、それは、あくまで資本の要求、論理であり、アメリカと世界の民衆の要求、論理ではありません。

 であれば、この資本の要求、論理が阻まれてゆく場合、アメリカ・グローバル独占の牛耳るアメリカ社会が、今後、ネグリ・ハートが指摘する諸特徴を持ったポスト・モダン的性質の様相を帯びること、無きにしもあらず、なのです。


(7) 「帝国」論の総評と「生政治」について

 とは言っても、二人はポスト・モダンのEU連邦機構を「よりマシな程度」と限定はつけるものの、“帝国”について過大すぎるほどの期待、幻想を抱いているように思えてなりません。

 これは、僕の読み込み不足か、訳の問題かもしれませんが、どうしても、ひっかるところです。

 他方で、マルチチュードを、産業工場労働者との差異を強調するのは良いものの、余りにも無国籍で、平板な、現代のプロレタリアートとして捉えられていることです。

 コミンテルン3回大会頃流行した単純な国籍性を張消しにしたような、実はソ連・ロシア式の「第3期論」や「プロレタリア共産主義文化論」に似たようなものを、感じるわけです。

 プロレタリアートが民衆的に団結、宥和してゆくことは、その資本制生産関係にしめる地位、能力からくる本性として、プロレタリアート「民衆」は「単一のプロレタリアート」「国際プロレタリアート」に団結して行くことが、先ず、第一に、押えられなければなりませんが、他方では、そのプロレタリアートも叉、歴史的、社会的存在として、その母斑を引き摺り、その民族性、文化、伝統は、その民族性、国民性それ自身に即して、「粋を残し、粕を棄てる(毛沢東)」形で、良きアイデンティー、モメントに揚棄し、自己超克して行かなければならなりません。

 この、政治的、思想的、理論作業の課題が、二人のあっては、余りにおろそかにされているように思えてならないことです。

 つまり、国民国家主義的な「民族」「国民」を、パトリ共同体に揚棄、リソリュジュメントしてゆく作業のことです。

@ 僕に言わせれば、もともと、対ソ連、対アメリカの関係での、欧州資本主義、欧州人(こういった概念があるか?)の自己防衛として、1958年のEEC結成の運動から、EUは、生まれたこと、それが、アフリカ、アジア、中東らでの植民地を失い、他方で、ソ連・コメコン体制が崩壊し、東方からの圧力が消滅し、まれに見る開放性、言い換えれば、資本の世界性、グローバリズム性が一挙に強まったこと、ニュ―・レッセフェール(新自由主義)を促進してゆかざるを得なかったこと、更には、アメリカ出自の多国籍独占資本やアメリカ帝国主義の従属化要求の継続の中で、自己の衰亡からの延命のために、こうなって行った、と言わざるを得ません。

資本制所有関係に、本質的な変化はなく、従って従来から持っていた帝国主義性に変化はなく、上記した時代変化からする諸要素に規定され、それが発揮しえなくなった、ということではないでしょうか。

基本的には、帝国主義性の延長、連続の中にあるということです。

A 言い換えれば、資本、資本主義の本来持つ、無国籍性、世界性がヨーロッパに於いて実験室的に、特殊地域的に資本主導で顕現していったこと、そのことによって、そうはいっても、資本主義は自らの国民国家に出自を持ち、常にその世界性、無国籍性は、自らの出自国民国家に最終的には依拠、防御されてしか実現し得ない矛盾を抱えていること。

かつて、僕等が「過渡期世界論」のガイストとして依拠した「資本の世界性と1国性の矛盾」という、今でも貫徹し、より明瞭になりつつある命題です。

このことは、EU加盟諸国が経済での協同性を高いレベルで実現しつつも、主権の枢軸、軍事と外交に於いては堅守していることでも明らかです。

B 叉、この根元には、ヨーロッパ人の始原性、パトリ性に於ける、ケルトという人種性が、イタリアなどのある面で「異質」(とは言っても、地中海文明が揺籃源である点では変わりがないのですが)ラテン性も作用していること、も見ておかなければならないのではないでしょうか。

C 更に、この点こそが、最重要なことですが、利潤追求第一の資本の「超国家」のグローバル「帝国」試行は、無限ではなく、極めて矛盾に満ち、資本の世界性、グローバル性と出自、母胎の国民国家としての一国性の両極を彷徨、痙攣する永遠の宿命を宿しており、この矛盾は、その所有関係下や市場原理第一社会で、呻吟せざるを得ない階級、国民国家の壁を本性的に打ち破る能力を持つ、民衆(プロレタリアート)、彼が言うところのマルチチュ―ドによってのみ根本的解決を見るということです。

勿論、プロレタリアートとて、その資質である国際主義性を、自らも引き摺る国民国家の母班性を、そのパトリ性で持ってよう揚棄する苦闘をやり遂げつつ、開花してゆく課題がるのですが。

もう少し、突っ込んで、巨視的観点で言えば、ネグリ・ハート氏が強調するような「帝国」的現象は、「生産の社会化と所有における私的・資本主義的所有の矛盾(エンゲルス、「空想より科学へ」)の貫徹ということであり、この資本主義の基本矛盾は、ブルジョアジーではなく、唯一プロレタリアートによってのみ、止揚、解決される、主体的問題である、ということです。

D 以上のような諸点をしっかり押えて上で、ネグリ・ハート両氏は、EUの“帝国”性の指摘の画期性は強調されるべきではないでしょうか。

この点を押えた上で、ネットワーク的権力、混合政体、超国家権力、そこに置ける法概念における無限性、脱帝国主義・脱植民地主義、脱中心性らの概念を使用すべきでしょう。

 しかし、 他の、怪しげな論調の幾つかも含めてですが、特に「依頼された」「介入」の「正戦」論などの肯定はどう考えてもいただけません。

このように見て行けば、両氏が解析するEU“帝国”の試行は、東北アジアの共同体,「東洋のEU」創出の目標に大いに参考になるのではないでしょうか。

E 最後に、最大に引っかかることを述べて起きます。

それは、グローバリズムとローカリズムの問題です。両者は、人間、民衆の生活のメダルの裏表であり、同じ人間生活の内容、事柄の現れの違いであり、両者は相補的でグローカリズムとして活かしあわなければなりません。

もう一つは、民族の両義性、つまり「国民国家に総括される民族性」とそれを超えてゆく「パトリ民族性」を後者の側から前者を克服する思想的、文化的、政治的努力の問題の重要性です。

この視点が、両氏には全く欠けていて、「ハイブリッド性」の一言で片付けられてしまっていることです。

このことは、人間観、人間性をどう考えるか、問う問題ですが、お二人は、この点を「生政治」と命名し、少し触れてはいます。

僕は、この点を、僕の政治、思想、哲学の要に置いており、「命と自主性(協同性)」に据えて来、政治的には人間中心、民衆中心をベースとした、主権在民と民主主義の追求,揚棄、世界平和、世界福祉、「人類共同体」,「世界民衆共和国」、或いは「パトリ・コンミューン」に据えてきました。

お二人の「生政治」なるものの概念に於いて、市場原理至上のグローバル“帝国”に於いて、個人利己主義(唯我論の神秘主義や神、宗教信仰をベースとする)、拝金主義、低水準な快楽主義と違ったものが、生まれているのか、否かを問いたいです。



               塩見孝也