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対ブラジル戦を前にして。
サッカー雑感その2

2006年 6月21日

                    塩見孝也


 サッカ―ばかりに凝っていて家族から顰蹙を買っています。

原稿を書くことすら脇に置き、テレビ解説や資料読みに時間を費やすぐらいなのです。仲間や飯のための仕事の連絡すら、ほっとらかしにするくらいです。

 そんな時、一体俺は何をやっているのだ、と自問自答するくらいです。僕のサッカー狂につきまして、前回幾つか理由を挙げました。


(一)
 「忙中閑あり」の「遊び」と言えばそれまでですが、僕には、このサッカー批評は、何を隠そう、僕の「大義」に関係しているのです。

 前回「一体感」の問題を挙げました。その通りなのですが、僕が、政治において「人間」、「民衆」、「民族」、「人類」の4モーメントを持って、世界とその各運命を占い、成すべき事を定めるように、僕にとっては、この事象はこのことと一体なのです。

 「革命とは、よどんで、鬱血した人の命を革(あらた)めること」、「文化革命」が根元に座るものであれば、「一体感」とはそういったモーメントを大きく内包しているものであろう。

 「左翼」が、「右翼」もだが、こういった問題に発言できないなら、全くの政治音痴で、化石でしかないであろう。

 まして、それを「階級闘争史観至上」で、「国家主義的民族主義」などとレッテルを張り、我関せずとするならば、己の愚かさ加減を世に晒していることになります。

  叉、右翼がこのことを持って「我がことなれり」とするとすれば、これはとんでもない愚かな錯覚です。

 左翼は、民衆、国民の大関心事にしなやかに、且逞しく、切れ味鋭く、意見を展開すべきです。

 サッカー文化は、諸民族が競い合い、それが、合わさって人類の文明を創造して行く一つの重要な回路を成しています。

 言い換えれば、文化が(徐々に文明、それも21世紀の人類が今後創りあげてゆくような、行かなければならないような文明)が文明になってゆくような回路を内包しているような気がするのです。

 オリンピックを遥かに超え、しかも、やや残っているあのヒットラーのベルリンオリンピックのような、スポーツを政治に利用するようなキライはここでは殆どありません。

 人々は、「地球は一つ」「人類の一員」とか、「人類」について、気軽に使いますが、「人類」は未だ成立していません。成立途上にあります。

 様々な、歴史的社会的個性を持ちながらも、普遍的共通性を持った人(人々)は存在していますが、人類は、存在しているようで、本当は、未だその成立途上なのです。

 禁則事項として、世界戦争、核戦争、環境危機、遺伝子、バイオ科学らの人間の壊し、らは確認されてきています。

 しかし、民族としての「公」はあっても、人類の「公」は未だ、ぶよぶよです。文化、文明もそうです。

 積極的な創造的活動として、マザーテレサ、NPO、沢山のボランティヤ活動、災害救援、国連の活動等々もあります。素晴らしいことです。

 しかし、64億の人々をひきつける、述べにすれば300億も400億もの人々が一挙に惹きつけられるようなフェアーな、世界戦争に取って代わるような怪物的祭典を人類は持ったでしょうか?

 国連加盟国数、オリンピック加盟国数を越える、世界サッカー連盟のような機構を人類はこれまで持ったでしょうか?

 このスポーツは、世界戦争に変わる、誰でもが金もかからず練習でき、その格闘技性を余すところなく発揮でき、叉、「自主・自立した個と集団の矛盾を統一する」、その意味で、民族の伝統、文化と関連し、且国際的文明を吸収する、集団スポーツ、それがために真摯極まる純朴さをもつサポーター達が登場するような民族、国民の個性を試すような性質を持っています。

 この性質は、野球などの比ではありません。

 「喜納さんは音楽を楽器に!」と高らかに唄いあげました。ロックンロール、ビートルズ、確かにこれも人類の感性、思想性を引き上げました。

 しかし、サッカー文化と比べたらどうでしょう。

 集中の密度性、格闘技としての身体能力、精神性、知力、智力、闘志、テンポの速さ、転変性、そして個と集団を統一するチームワーク、それに、外国人監督、選手を何の拘りなく許容する国際性、全て、今の人類の発展度に照応したスリル性を具備しているのです。

 このような、スポーツが、グローバリズムの時代、情報化の時代、人類を繋ぎ、その協同性、文化・文明を、権力者たちの予想を遥かに超えて、創りだされつつあるのではないでしょうか?

 言い換えれば、何よりも大衆的な形で、人間は、このスポーツを通じて一つになりつつあるわけです。

 つまり、「民族が民族であって民族でないもの」に、僕の言葉で言えば「パトリ民族」に自己脱皮し、「国民国家の枠」を越え、その自主性、個性を魅力あるものとして称揚しつつ、人類共同体に向け脱構築しつつあるわけです。

 こういった、理屈付けで僕は、サッカー観戦に熱中しているわけです。


(二)
 マー、こういった能書きは、ここまでにして、今回は実践論を主としたものに入ります。

 メディアや民衆の論議に選手やジーコ監督は、耳の痛い所もあるでしょうが、耳を傾けるべきでしょう。

 民衆の言うことは、時には専門家を越えた、良き提言があるものです。

 ここまで来れば、開き直って、道理に合うことなら何でもやらかす、八方破れのような境地も必要です。

 ラモスが僕とほぼ同意見のことを述べていました。

「中田を2トップスにして、主将にすべき」と。素人の意見がプロ、プロ評論家と一致したのです。

 誰もFWを問題にしていること、共通意見は巻や大黒や玉田の起用ら。特に巻に対する期待は強い。

 僕は、前々から巻がFWの救世主になるのでは、と予感していました。この試合で結果が出せるか、はともかく、こういった大舞台で試し、経験を積ませてゆくことが大切です。

 とにかく、FWを中心にカウンター攻撃が出来るようにすることだ。

 稲本、小野の起用、横からの攻撃は理解できる。宮本が抜けても中村、加持、小笠原、サントスの4バックッスのディフェンスは相当のものとなろう。

 「もののふ」の最たるプレーヤーとしてはっきりしているのは中田英であることは衆目の認めるところであろうが、川口もそういってよいのでは?

 ここまで来ると、期待に飲まれるか、期待を飲み込み、野放図になり、乗りに乗り、自分の能力以上を発揮しえるか否かが、鍵である以上、こういった選手を2〜3人輩出させることでしょう。

 民衆、サポーターの輿望を満杯に吸い込んで、それを心身の機能に活かしきって行くような選手は、鬼神も驚くような力を発揮するものです。

 人間、永久とは言えないが一時的には、このような神業に近いようなことをやらかすものです。

 ブラジルは、既に決定戦参加を決めており、この余裕、他面での気の緩みは締め様にも締め切れきれないもの、日本は背水の陣で正に「窮鼠猫を噛む」「失うものが何者もない」状況であれば、精神的には有利。

 それに有名選手は、全て個人技により、集団戦、特にディフェンスでブラジルは問題があり、それに調子の悪いロナルド起用を宣言したり、ロナウジーニヨもそうだ。

 優勝候補に挙げられているが、今のブラジルは、勢いの上がる独、英、ウクライナ、スペイン、ポルトガルら欧州勢と比すなら全然勢いが違います。

 「ブラジル、恐るに足らず」です。

 勝機は十分あると見ました。常識論から言えば、とにかく1点取ることです。

 そうすれば、ファンも溜飲を下げて、一応の納得をするでしょう。0点だけは止めて欲しい。

 しかし、この試合の全局を見れば、正しい上記のような選手起用と精神力、「緩急を持った集団戦、集団のリズム」の冴えさえあれば、2−0は不可能な目標ではない、とみました。

 この点では、温情起用は絶対に禁物で、一人でも落ち込んだ選手がいれば、一丸になれず、リズムが創れません。朝鮮式ではないが、それに似たような「一身団結」です。



(三)
 さて、この辺で、叉冒頭の能書きを敷衍します。

 「たかがサッカー」「されどサッカー」で、サッカー、WC戦は、今のサッカーは、諸民族、諸国民の「人類創出」に向けての、最先端の良い意味での文化戦争であり、それはオリンピックの比ではありません。

 そして、この起爆力は、内にあっては、一番アレルギー少なく民族、国民の文化革命を誘発してゆきます。

 グローバリズムと情報化の時代、それに見合ったスポーツとしてサッカーは、誰でもが簡単にやれるスポーツとして、その民族の個性を残し、且、それを輝かせつつ、あらゆる民族が参加可能で、人類へと融合してゆく、良き文化、文明創出の梃子といえます。

 この意味で、普通、経済や政治、或いは軍事に規定された「文化」とは決して言えず、このスポーツは、「広い意味での文化」であり、それは、経済や政治(軍事)を逆に包摂する人間の本質に関わるような内容を持ってきています。

 言い換えれば、サッカーの強さは、その国の経済、政治、軍事、文化の在り様を逆規定してしまう力があるのではないか? そのような民度、文化度を民族、民衆に要求するのです。

 この、スポーツの鋭い凌ぎあいの中に今後の民族、人類の重要なファクターが内含されているのでは?

 僕は、資本主義、市場原理至上のグローバリゼーション―「人類化」の物質的必要条件の深化の中での、残されて行くべき民族性、地域としての人間の生、文化の在り様と言った「民族の抱える普遍性の問題からの民族、民衆の再生」、他方での対米従属の属国化している「日本の現状からの民族の脱却という特殊な民族性」を考え続けているのですが、この視点から、このWCも考え、ここでの諸現象も見ています。

 つまり、パトリオットとして観ているわけです。

 それにしても、対ブラジル戦、一ファンながら、三度目の正直、生なかなサッカー評論家以上の眼を持って、今度は、不覚を取らないようにロマンとクールさを統一して観戦してゆきます。

               塩見孝也