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対クロアチア戦に思う。
サッカー雑感

2006年 6月19日

                    塩見孝也


 僕はど素人のサッカー狂、隠れた熱烈なサポーターです。

 と言っても、大体はワールド・カップ関係で、ここには、緊張し、闘う人間の真実が、ごまんと詰まっており、日本人、諸国・諸民族の文化、真実が詰まっているからでしょう。

 インチキ、いい加減さが許されない世界があるからでしょう。

 人間の真実が、詰め込まれた名画を百本ぐらい、いっぺんに見るような、真実が爆発してゆくからなのでしょう。

 或いは、僕の政治・思想の許容範囲を前是にしてのことですが、人々との一体感を、一番広い範囲で感じられるからかもしれません。

 何かの、理念、目的に向け、自主・矜持ある個人が、私心を越え、繋がって行く感覚が好きなのです。

 勘兵衛を中心とする「七人の侍」達、そして最終段階で創出されてゆく、農民との絆、一体感が創造されてゆくのようなものです。

 この、「一体感」が好きなのです。

 70年闘争の時もそれを感じました。

 と言って、決して、この感覚は、共生感、協同・共同体意識に近いもので、個の自主、自立、「民衆」を捨象した国家主義思潮とは全く違うものです。

 平たく言えば、「お祭り」好きと言っても良いのかなー。

 豪州に負けた時は、僕も呆然としたものですが、僕は、この総括を巡って、民衆、解説者、サッカー関係のお偉いさん達、そして、当の監督、関係者達がどんな発言をするか、どう総括してゆくか、勝った時ではなく、負けた時、ピンチな時、人々の真実が、映像を通じてだが、隠れもなき形で露呈するからです。

 越え切れないような、壁にぶっつかり、それでもそれを、どうしてもそれを越えなければならない時、日本人、日本民衆はどう対応するのか、このことです。

 主として、日本人の見識がモロ問われます。多方面、多分野の情報が集中されます。さながら、日本の文化、文明状況がオンパレードでさらけ出されます。こういった、事象は滅多に味合えぬ最高に興味ある事象です。

 そういった点では、僕は一面奇跡を期待するロマンチスズムと他方で社会科学者者として醒めた目を努めて養おうとしました。

 18日のクロアチア戦は、このケンケンガクガクを経て、展開され、結局はドローで、日本は首の皮、一枚を残して、22日(現地時間)の対ブラジル戦を迎えることとなりました。

 僕は、性懲りもなく、必死で応援し、もしも負けたなら、いろんな厳しい総括をしつつも、成田に激励に「敗戦軍」を迎えに行ってやりたい、気持ちです。

 クロアチア戦に対する解説者達や民衆の意見は、大体において、「気分の切り替え」「必勝の信念」「日本人の底力」「持てる力以上のものを出す」ら、それを踏まえた犀利な作戦分析で、概して穏当でけな気なもので別に異論はないのでしたが、それでも、この2戦に付き合ってみて、皆が言いたくても押えていたような、科学的考察も必要とも思うようになりました。

 何故なら、素人にも大体の合理的判断が、ここまで付き合えば見えてくるからです。

(1) 2トップの高原、柳沢はいずれも怪我もちで、攻撃力なく、早めに変えるべきなのにそうしなかった。

 マキや大黒らを早めに出すべき。この、フォアード(僕は昔流にこう呼んでいます)の問題は、このチームが「決定力を欠く」問題として、前から指摘されていたことです。

 一体、何処のどのチームにこれほど頼りない、影の薄い「2トップス」がいるでしょうか!

 中田は、ミドルシュートの練習をしていたが、現にそれを実行していたが、諦めかかっていた、ようです。「前に出よう、ともかんがえていた」とも発言しています。

 極論すれば、中田が、「非常時」として、加わっても良い、と言ったぐらいのど素人的英断が必要と、僕は感じました。

(2) 宮本の「主将としての統率力」云々は、この際「凡庸人」として値引きすべき。

 幸い、ブラジル戦にはイエローカードをもらい出ないのですが。中田で良いんではないか?小野なども活かすべきです。

 中村俊介は俊才ですが、体調も本調子でなく、イマイチ。稲本は良し。川口も良し。サントス、最初本調子でなさそうだったが後半、いやらしいようなあくどさ発揮し、合格点。

(3) ジーコ監督の評価となると 難しいところだが、いろんな問題点も出たと思う。

 対豪州戦のヒギンズ監督と比較してみれば良いです。自由放任のところがあり、果断、峻厳さに欠けます。

 日本的な「長いものには巻かれろ」「和」といった保守性にどこか流されていないか?

 選手と監督業は本質的に違い、王監督のようなWBCに優勝したような隠れもない「威信」をベースにした、決断と鷹揚さの二面を巧みに統一できるようなところまでは行っていない、ことは明らかです。

 言葉の壁もあったと思います。

 この辺の問題となると、政治の問題となり、サッカー協会や与党政治の保守凡庸さと密接不可分な問題です。

 良い監督選びをする、政治の選択眼の問題です。

 チャンとした、理念、原則、見識を持った判断力、僕流に言えば、日本チームが、マラソンなどと違って民衆的、国民的総合力が問われる、波高きサッカー世界で、優勝するには、優秀な選手が生まれつつあるが、それだけでは、限界で、文化としてのスポーツをリードする曇りなき澄明な認識力の問題も考あると思いました。

 縄文の自然主義、自主・自立のもののふ精神、人類福祉に向けての世界平和の国民性の創造の問題です。

(4)熱心なニュールンベルグ迄で出かけたサポーター達、日本の津々浦々で衷心から応援してきた、日本民衆の方々、僕はその純真さ、素朴さに心から敬意を表するものです。

 日本民衆は本当に純朴なんだな、感じたのです。

 そして、この熱狂性、純朴性が、その合理的科学精神、批判精神を忘れ、一寸でも油断するなら、かつての「大東亜共栄圏」の理念にイカレ、赤紙一枚で戦地に出向いた、その純朴性に重なって見えて来るようにも思えたのです。

(5) 僕は、この第二戦が始まる前、批評家、革命家を自認するなら、もう少しはましな、気の効いた揺ぎ無い見識を持って、行こうと心がけました。

 「無心・無我」「このスピリチアルな境地に立てば、選手は自分のもてる以上の能力を発揮しえるのだ」「彼等は、日本サーカー選手の代表で,第一流なのだ。きっと、ここまで行ってくれる」「ジーコは、天啓の閃きを受けるであろう」こんな精神主義の境地で、やっと落着いたのでした。

 しかし、試合は、レアルな攻防の修羅場、現実です。もののふとして、苛酷な現実を踏まえ、闘った人達もいれば、その域に達していない人も焙り出されて行きました。

 怪我や故障を抱えては、スピリットも発揮し得ようもないこと。身体条件、ヒジカルな問題は冷厳な選手起用の判断の第一要件なことも露呈しました。

 ともあれ、後5日、アアだこうだ、と言って居れません。

 差し当たって、判った教訓に従って、「サッカーでは何が起こるか判らない。ブラジル何するものぞ!」で進む以外活路はないのです。この可能性をこじ開けることです。

 敗北しても、全力で、ありったけなものを出し、闘いぬけば必ず、有益な教訓が産み出されます。

 往々にして、ありったけなものを出さないから、もたもたよたし負けるものです。

 マー、その時は、その時で対処してゆくことでしょう。

 選手の皆さん、体調を万全にして、闘魂の限りを見せてください。

 過大な期待に押しつぶされないで、逆にそれを食ってしまう様な、無心さを涵養し、自分の持てるもの以上のものを発揮してください。

 ジーコ監督よ、選手・監督生命の全てを賭け、己を恃み、ターキテクトとしての本領をあくまでもクールに発揮してください。

 僕は、僕は、皆さんとともにあります。

               塩見孝也