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「よど号」グループと「連れてきた」問題
             11・27報告会 塩見孝也講演録


     今回の「連れてきた」問題は、僕自身にとっても、あるいは「よど号」の仲間にとっても、あるいは日本の今後のゆくえというか、朝鮮のゆくえというか、大きく言えば日本、朝鮮、アジアの未来とも関係していると思っています。そういうことで雑誌「創」(11月号、12月号)や「週刊朝日」(10月18日号)などで自らの見解を述べたわけです。

 そのことについて真意を素直に理解してくださる方もいれば、文章を読まれてほぼ理解されたという方もいらっしゃいます。にもかかわらず疑問や質問が寄せられているのも現状です。したがって、そのことに対して答えなければならないと思っています。

 自らが変革者の看板を掲げている、それを大義名文に生きていこうとしている、という問題と今回の問題がどうかかわるのか、あるいは「よど号」の仲間との友情の問題とどう統一していくのか、ということなどいろいろと考えなければならないと思っています。

 これまで「連れてきた」問題には、『謝罪します』(文藝春秋)を書いた八尾恵さんや、『宿命』(新潮社)を書いた高沢皓司君の見解がある。もう一つは小西隆裕さんをリーダーとする「よど号」グループの見解があります。そうしたなかで、いわば人民への愛、責務と友情、あるいは政治的立場と友情をどう処理するのか、現下の複雑な政治情勢のなかで皆が引き裂かれている。僕もこうしたことを統一していくんだと言いながらも、いろんな力関係に左右され、引き裂かれかかるところもあるのですが、断じて基本的には引き裂かれていないと思っているわけです。

 今、僕に寄せられている意見にどんなものがあるかといいますと、大半の方は思いきって言ってくれたことは勇気ある発言であるというものです。にもかかわらず他方では塩見は仲間を売ったのではないか、あるいは保身をはかっているのではないか、マスコミで金儲けをしているのではないか、などという意見もあれば、もっと「よど号」グループと慎重に相談してやるべきではなかったのか、あるいは多分真実であると思うけれど、それを公開するのは賢明な方針ではなかったのではないか、などさまざまな意見があります。

 現在の情勢のなかでは、塩見のやったことは拝外主義に加担しているのではないか、そのお先棒をかついでいるのではないかという意見もありますが、これらはまったくのこじつけですが現情勢で朝鮮拝外主義に注意を払わなければならないのも事実です。

 これらは大体に於いて真実だろうが、公開すべきでなかった、の意見に集約されます。

 今回の発言の一番の根元というのは何か、僕がなぜああいった発言をしたかのいということについて結論的に言わせてもらいます。僕は「よど号」の仲間たちを一番近い同志たちだと思っています。同志であるからより厳しく、より真剣に問題を提起して、お互いに向上していきたいという気持ちで発言したということです。

 普通の仲間であれば相手の気持ちをおもんぱかって友情や仁義を、僕の言葉でいえば、「小義」で接するわけです。小義というのは、なにも大義が一番大切で小義が意味がないというのではなく、恋愛があれば夫婦愛があり、また親子愛があって、(これ等)はこの世でかけがえのない人間存在の根幹を示すものです。けれども小義が積み重なって大義になるかというと、そういうものではないわけです。

 大義は大義でやらなければあかんわけです。大義をやる人は少ないわけで、僕は自分の歴史を振り返ってみると、大義を追求しなければならない立場にあると自己を任じています。そこから見た場合に大義を共に追求している同志たちに対していろんな面で不完全なところがあるという意味で敢えて提言をしたし、疑惑を投げかけたというのが真実です。

 だから基本的な観点でみたら、僕はより厳格になっていく。そのことはどういうことかというと、同志を愛することでもあるわけですが、同志を愛するということは民衆を愛するということが前提である。民衆の問題についてしっかりと考えていくなかで同志愛というのは確立していくわけです。

 だからこそ同志であるがゆえに、民衆の生死に関わることであれば厳しく振る舞う。これまで単なる救援のための活動をこえて付き合ってきたし、彼らとともに「自主日本の会」をやってきました。今は「自主日本を目指す会」とに二つに別れていますが、基本的には兄弟的組織であるという立場であり、かれらが本気で帰ってきた場合は、本格的な同志になれるとみて、どうしても言っておくべきだと思っているわけです。

 メデアなどに関しても、本質的にいろんな条件を考えなければならないと思っていますが、そういう厳格な立場から見た場合でも、言うべきことは原則的に言うべきだということです。ただ今回はいろんな事情を考えて、「創」に発表し、あるいは事情をきちんと報告してくれるということで「週刊朝日」に発表しました。今後条件が許すならばいろんなことを考えながら、説明をすることは原則としてやっていきたいと思っています。

 いろんな賛否両論があるという中でなかで物事を整理して説明したいと思います。たとえば塩見は赤軍派の議長として、「よど号」のプランナーであった、その責任をどうとるのか、という問題がある。その朝鮮国へ行ってチュチェ(主体)思想を信じる人とどういうふうに一緒になったのか。そこでどのような意見の違いが続いているのか、またどうして一番の同志であるのか、などなど、そういう問題の説明を第一にさせてもらいたいと思います。

 第二には、私の思うところで、今の朝鮮国の政治路線の転換というか、対応の転換をどうみるのかという見解をちゃんといっておかないと、「よど号」グループとの関係が鮮明にならないので、そういう意味で朝鮮国の現状、日朝関係、米朝関係についての基本的な評価を語らせていただきたいと思います。

 第三に「よど号」グループの帰国問題はどうあるべきか、日朝関係がよくなるという意味でどういう帰国がいいのかという問題について語ってみたいと思います。

 第四に日朝の正常化を目指して、小泉首相が朝鮮に行って首脳会談をやったわけですが、僕はそれを高く評価しています。しかし、その意義が最近の状況では反故にされかねないことになっているように見えます。そうい意味では拝外主義が跋扈していると僕は理解しています。そういう拝外主義と闘うのにはどういうふにしていったらいいのか、塩見は何か拝外主義のお先棒を担いでいるのではないか、といわれているところもありますので、そのことも語っておきたいと思います。

 最後に塩見が真実を、僕の知っている事柄について語ったということでもって、じゃ塩見は権力の介入についてどう考えているのか、あるいは反弾圧の立場をどう貫くのか、という問題に答える必要があると思っています。

 以上の五点くらいの問題について語らせていただきたいと考えています。

 第一の問題ですけれど、僕や田宮高麿君や小西君らは最終的にキューバへ行きたいということで、ハイジャックをプランし、僕が逮捕された後、彼らはそれを引き継いで実行して行ったというような経緯があります。その時の目的はあくまでもキューバがいいということで、ゲバラ・カストロが好きだというものでした。ゲバラ・カストロはわれわれの兄貴分で、毛沢東やホーチミンも好きだけれど彼らはおやじさんであり、戦前の世代であると思っていました。

 したがって、キューバを根拠地にするということでハイジャックを決行したのです。ただし、キューバについては直接行けないのでハワイに行って、メキシコに行ってということになるだろうし、船で密航するにしてもパナマ運河でやられるなど、いろんなことを考えまして、やはり朝鮮経由で行こうということになったわけです。

 朝鮮国は中国やソ連とは違う中ソ論争でキューバと同じ自主独立派の国で、キューバとは仲がよい。ただし当時の僕らの評価は朝鮮は「スターリン主義の寒い国」で、いろいろと独裁的であって、そういう意味では一番意見の違う国だという理解でした。しかし、その頃の僕らは大雑把で、どう言ったらいいのかなあ、スターリン主義でも革命をやった国だから同じ革命をめざしているのだから気持ちは通じるだろうし、当然キューバに送り出してくれるだろうということでやったということですね。

 僕らの立場は世界同時革命、「世界プロレタリアート」という形で国境や民族を越えて、人民は「世界単一のプロレタリアート」であるとうい認識を持っていました。したがって、労働国家は革命の根拠地にならなければならないし、第三世界は民族解放、社会主義の革命をやらなければならない。先進国は帝国主義戦争の前段で社会主義革命戦争に転化しなければならない、という考え方をしていたわけです。  ここで一番押さえていただきたいのは、世界プロレタリアートとか、日本プロレタリアートとか、どこそこのプロレタリアートいうことではなく、ロシア革命以降、プロレタリアートは世界単一のものになったっんだというのが基礎にあって、そこから世界同時革命という考え方が出ていることです。そういう考えのもとにキューバを根拠地にしていこう、さしあたって朝鮮に行こうということだったわけです。  ばくが逮捕されたあと田宮君らがそれを引き継いでやっていった。有名な「明日のジョーになる」んだという宣言文を残して飛び立って行ったということです。

 ここからが問題なんですが、彼らが遭遇したことは何かというと、朝鮮民族の現実だったわけです。南北に分断され、近代以前から侵略と抑圧にさらされ、泥を食い木の芽をかじって民族の統一をめざすというそういう国の現実があったわけです。日帝36年の植民地支配ということは、頭ではわかっていたけど、現実に遭遇すると、「世界プロレタリアート」という言葉がきわめて抽象的で観念的であったということをつきつけられた。

 朝鮮民族の現実に対して、日本人である彼らはどのように生きていかなければならないのか。朝鮮人になるのか、なれるわけがない。そうすると日本人として植民地支配を自己批判しながら、ほんとうの民族として朝鮮民族と如何にしたら向かい合うことが出来るようになるか、ということになった。二年間くらい労働党と論争していって過程があったと聞いています。論争の過程で自分自身で学んでいく。

 人間としてまず国や民族を愛していく、というのが人間の生き方だ。人間としてそういう風に民族を良くしていく、あるいは民族がよくなっていくことによって人間の自主が実現してゆく、というのか、そのぜんていには人間の自主性を保証するものとして民族がある、という認識が座る。そういう観点から日本人として生き、人民大衆中心で生きる、あるいは人間自身として生きるということになっていった。  論争の過程で、マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』を引っ張り出して論争したという話も聞いていますが、結局のところそういうところに行き着いたということです。そこで彼らは、新左翼ないしは赤軍派の理論の観念性を自己批判しながら、生き直していくことを決意していく過程があったと理解します。

 そういうことのなかでもう一つ結論だけ先に言っておきますが、どうなったかと言いますと、朝鮮人にならずに日本人として生きるというけれど、生きている場は朝鮮半島の共和国である。なにをするにしても共和国にお世話にならなければならないし、たとえは出国するにしてもいろんな応援をしてもらわなければならない。

 そうすると日本人として生き直すと言いながらも、実際のところは、朝鮮労働党の掣肘下で動いていた、というのが現実だったと思います。

 ここで考えていただきたいのは、以下のことです。最も非道でむごいかたちで拉致されていった方々がいる。それは許せないことであり、絶対に労働党は自己批判し補償してもらわなければならないと思います。その方々が連れて行かれて、そのなかで生きようとした場合に、田宮ら「よど号」グループと同じような形で朝鮮民族と向かいあわざるをえなかった、ということです。

 そのなかで生き抜こうとした場合は、朝鮮民族になるか、日本人として自己批判しながら日帝の支配階級を打倒するというか、アメリカ帝国主義の従属を打破するというのか、そういう方向で自己の生き方を定めなければ生きられなかった。そういう意味においては田宮君らと、拉致された人たちとは本質的に同じような立場にあったと思います。

 ただ違うのは連れて行かれた方々は、明らかに暴力的に拉致されたわけで、田宮君らは自ら飛んで行った。自主的に判断していくということです。

 この違いはわかりやすい例で言いますと、「ダンス・ウイズウルヴズ」というアメリカ映画がありますが、そのなかのダンバー中尉と彼と最終的に結婚する白人で少女の時、拉致されてネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)と結婚した未亡人がいます。彼女はネイティブ・アメリカンと結婚して生きてきた。タンバー中尉は、西部が好きでネイティブ・アメリカンが好きで、彼らと一体化する。そこで問題なのはダンバー中尉はネイティブ・アメリカンの立場にたって闘ったわけですが、彼はネイティブ・アメリカンにはなりきれないと僕は思います。やはりネイティブ・アメリカンの立場を理解した白人として生き抜く、というのが基本だと思います。それと類似されるようなこととして今回の問題はあるといえます。

 そういうことを含めて田宮君らは第一回目の翻身をして生き直そうとしたというのが事実ではないか。僕の理解する範囲では、毛沢東思想は中国人の革命的な民族思想である、ホーチミン思想はベトナム人の革命的な民族思想である。この観点で見た場合、チュチェ思想もまた朝鮮人の革命的民族思想ではないかと思う。朝鮮民族が大国のはざまで侵略されたり、分裂させられたりした歴史のなかで、民族は独立自主で生きていかなければならない。そのためには、民族の構成員である一人ひとりが、人間を中心にして、人間と民族、人民大衆を信じ、民族を守りつつ、自主的に生きていかなければならない。そういうごくごく普通の朝鮮人の生き様を思想化し、哲学的に論理化したのがチュチェ思想だと思っています。その上でマルクス主義の限界やスターリン主義が融合しているとかで、或いは国際的な流れ、南北分断、競り合いのなかで歪みが生じているとかが加味され、いろんな問題が生じてゆくわけだと思います。

 僕は反スターリン主義者でもなければ、朝鮮万歳主義者でもなくて、日本人には日本人の自主独立の思想があり、朝鮮国には朝鮮国での、そこの民族思想があるということにおいて、チュチェ思想は朝鮮人の生き様を表現していると思っている。ただそれが形而上学的であったり、スターリン主義的だったり、マルクス主義の限界に規定されたりしている。今回の拉致問題において、あれは明らかに僕の知っている80年代頃から生まれた民族イオール「社会政治生命体論、生物有機体説」に根拠があるのではないか。

 金正日氏の言った「一部英雄主義、妄動主義」というのはここから発する一種の朝鮮流の盲目的、偏狭な国粋主義、報復主義的攘夷主義の潮流と言える。

 僕の考える民族というのは、根本的には「民族も又歴史的社会的存在である」ということです。

 だけれども朝鮮国は血縁第一で見るところがある。そういうことがいつ頃から押し出されたのか僕もよくわかりませんけれど、80年代だと思います。そうなると民族を「社会生物有機論」で、その頭脳は金正日氏であって細胞や手足等々は人民である。その頭脳に尽くすことによって「社会的政治生命を与えられる」というふうな思想も生じる。こういう考え方はマルクス主義でもなければ朝鮮民族の思想でもないと思います。このように人間中心の思想、人間の自主とか人民大衆中心の自主性の理解は形而上学的なものに変わってもゆく。

 金日成氏の言っているチュチェ思想というのは、長々とした説明は一つも必要なくて、人間は世界にたいして主体であるというか、「主人であってすべてを決定する」、人間をそれだけの可能性のある存在であるということを言っているだけなのですよ。「人間は自分の運命の主人になれる」と行っているわけです。

 つまり、人間について「人間の世界に占める地位と役割について、正しい論断をしたことだと思う。

 労働党内部にもこの理解を巡って、いろんな解釈があり、前述のようにやチュチェ思想を形而上学的に展開する意見もあるわけですが、僕はそれはマルクス主義と関係あるなしに関わらない人間が人間らしく生きていくための誰もが承認する、極く普通の人間観だと思っている。いいかえれば人間の普遍的で根元的な本性を正鵠に言い当てている思想、哲学だと思っている。

 人間が世界に対して中心的で自主性をもった社会的存在だから、ここから隣人を「自己の他在」としてその自主を伸ばすべく助ける、と言った関係論や隣人観が出てき、人間集団は動物集団と違って、自分たちの自主を伸ばし、良くするための集団である(だから反対にそうでない集団については異議を唱えられる)といった社会観が出てくる。

 どの人間も生きていくための基本的な人間観を「自主性を持った社会的存在」といった、人間自主論で捉える。それが朝鮮民族の歴史と結びついていると理解しています。

 しかしそれはマルクス・レーニン主義の一党独裁制的歪曲だとか、指導者絶対制だとか、あるいは絶対主義的な(唯一思想・指導)だとか、そういうものと結びつき、或いは今の民族有機体説と結びつきピンチになる。革命性が徐々に変わって指導者が王になり、指導者群が貴族になっていくとか、そういうようなアジア的な変質状況が部分的ですが生まれます。

 そういうなかで田宮君達は生きてゆかざるを得なかった。彼らは日本人のために生きよう、朝鮮人と連帯しようと考えたにもかかわらず、置かれている立場は朝鮮である、これが今さまざまな歪みを生み、もがくこととなっている。

 僕自身は20年後に出獄して、その時に田宮君から電話がかかってきて会いに行くことになるわけです。最初は赤軍派の顔をして彼らは対応していましたが、そのうちチュチェ思想主義者であることがわかり、僕の全く預かり知らない歴史を持っていることが徐々に分かって行く中で、彼らの言う「民族」とか朝鮮国にたいする理解や赤軍派の総括と向かい合うことになったわけです。

 僕自身は京浜安保共闘の反米愛国路線などと提携した経験とか、毛沢東思想の理解もありますから、彼らの言う「民族」に対しても、否定的考えは持っていませんでしたから対応ができました。

 彼らが人間自主論などを主張した場合に僕自身も、ダンバー中尉がネイティブ・アメリカンの立場を理解して白人として生きて行こう、という問題のように、90年以後、彼らと辿った同じ思考過程、軌跡を同じようにたどっていったと思う。そういう形で「過渡期世界論」や「世界同時革命論」を総括して、95年頃から再出発したというのが経過です。

 ただ田宮君らと僕とが決定的に違うところはどこかと言いますと、彼らは朝鮮にいて僕は日本にいる、と言うことです。僕は日本の民衆と不断に接し、民衆運動、現実の政治を不断に自主思想の神髄から総括し、自主思想を日本に合ったものに作り変えて行ける。実践を通じ創造的に発展して行ける。しかし彼らはそうでない。唯一思想、唯一指導の枠があり、日本の実践がないから、朝鮮党の見方を日本に当てはめて行くだけである。或いは、僕は日本の実際に即して赤軍派や連合赤軍問題の総括ができるちがいがあった。

 これがその後の最重要な問題となって行きます。

 田宮君らは僕に教えた。塩見はそれを学ぶわけ。最初は彼らが先生、僕は生徒だと双方任じていた。けれどもいつの日か日本で塩見達が民族の自主を実現する力を持って行くなら、今度は塩見の言うことを聞いて、それを朝鮮に環流してもらって変わっていきたい、という意味合いをもっていたと思う。

 しかし問題なのは彼らが生きた20年間の歴史は、僕が監獄で生きた20年間の歴史と違い過ぎると言うことです。いま言った民族の問題はいい意味での変質だったと思います。それとは別に悪い意味では、朝鮮労働党とか朝鮮社会の現実を全部肯定するようなものもあったわけです。

 まさに朝鮮労働党の指導、組織作風、戦略戦術のもとに日本人として動く。そういう意味では巷間いわれているような朝鮮労働党の工作隊みたいな性格も多分あっただろうと思います。塩見に対してもそう対する、といった、そういう過程を経ながら彼らは生きてきたことです。

 そのことについて聞いても彼らは一切言わない。日本のことについては一致する。だけれども過去のことについては語らない。僕も聞くことは聞くけれども、しかし、とことんまで問いつめて彼らの立場を悪くするようなことはよっぽどのことがなければ聞くことはしない。  一番問いつめたのは、「よど号」グループの岡本武同志が亡くなっていることだった。そのことについては、弁護士を同行して徹底的に膝ずめで聞きました。それに対して彼らは意見が違って労働党の手にわたって、そこで山林の管理をしていて事故で亡くなったということだった。子供たちは自分たちが引き受けて育てて来たという報告だった。

 そのことについて世間の人はいろいろな意見がありましたが、僕は信じる以外になかった。

今回の石岡亨さんの問題についても、やはり93〜94年頃の段階で文藝春秋でいろいろ言われていた。その頃電話で話をして、応対した赤木志郎君に一肌脱ごうと言ったわけです。それに関して、ただ「まずいから騒がないでくれ」と言われた。そのときおかしいなと思っていたのですがそのままになってしまった。

 96年頃、また産経新聞とか高沢皓司君らが騒ぎだした。そういうなかで聞き捨てには出来ないので、また問い糺しに行ったわけです。この経過は雑誌「創る」でも述べましたが、彼らは石岡さんをオルグしようとしたけれどもしきれなくて、手に負えなくなって労働党が出てきた。労働党が出てくるともう自分らの手の届かないところへ行く、という説明だった。

 2000年の「よど号」30周年で訪朝した時、他のメンバーが聞いたところ、「写真には写ったけれど、連れてきてはいない」という論理に整合されていた。僕は連れてきたけれどもすでに日本に帰っているのだとか、外国で暮らしているのだとか、あるいは朝鮮国で安穏に暮らしているという風に聞いていた。小西君らもぽろっと「日本に帰っているのとちゃうか」というような言い方をするわけで、彼らも安穏をを前提にして物事を考え対応していたふうに思われる。こういう次第で僕自身問つめははしましたが、安穏であるならと、とことんそれを問いつめて、世間に公開まではしませんでした。

 そのことはどういうことかとよく質問されますが、理由は安穏であるにもかかわらず公開するとどうなるか、考えるとよくわかります。小西君らの立場は大変悪くなると思います。僕自身は入国できなくなる。それでは僕が目指していたところの彼らを日本へ連れて帰るという課題や、日朝の友好問題も現実的には不可能になる。こういうことでそんな対応はしなかったわけです。

 彼らの70年代、80年代の生き様についてほんのわずかな情報が流されていますが、それについては、検証が必要で、これなしに、俄には信じられません。はっきり言ってわかりません。

 八尾恵さんの本にはかなり詳しいことが書かれてのせすから、そうであるなら小西君らもそれに応じて詳しい反論をするのが社会運動家としてのスジではないかと思っています。

 歴史については彼らと僕との間には知らないことが多くあり過ぎます。一緒に日本のことを考えるということでは一致していた、未来のことは一致しているが過去のことはダメだという関係なのですね。   もう1つは、過去の関係は明らかに朝鮮の枠組みに規定されて彼らは動いていたのだが、高沢皓司君や救援運動に関わってきた「人道帰国の会」の山中幸男君が最初行き、それから僕とつきあい始めてからは、形の上では日本中心の公開の立場に徐々になってきた。

 それまでは、なにか非公然、非合法の秘密の形で日本への出入りをするという関係だったわけです。ところが東欧の崩壊、ソ連の崩壊などのなかで朝鮮が徐々に政治路線の転換を始めていった。田宮君らは85年から88年にかけて中曽根首相に、「帰国を求める朝鮮民主主義人民共和国で〈亡命〉を余儀なくされている一同」の名で手紙を書いているとか、そうした転換があるわけです。こういうプロセスについても、僕にもマル秘にする、ということです。話をしていても秘密の共同体というのか、そこまで入り込めない雰囲気なわけです。

 僕もなかなかつっこんで話すこともできない。普通の人だったら相手の立場をおもんぱかって質問もしない。僕は同志の立場であるから質問はする。それに答えられなかったら答えなくていいということでこれまできていた。そういう問題を抱えながら「自主日本の会」をつくって、日本を中心にやっていこうとした。しかし、そこでは最初はやはり朝鮮革命至上主義というか、朝鮮式民族至上主義が丸飲みで日本に持ち込まれてきていた。

 僕が最高に感激していたのは、「人間の自主論」という、社会主義的民主主義論の哲学的な基礎にもなるようなマルクス主義とは異なる人間哲学です。前述した人間観です。

 つまり「唯物論か観念論か」で人間を捉えるのですが、それとは全く違った方法論、「人間と世界の関係」で人間を捉え、人間を哲学するということです。

  階級闘争を全く否定しないが、階級闘争至上主義ではなくて人間を中心にした考えであるというところに感激していたわけです。更にグローバリズムに対決するにもまた民族の問題がある、というところで彼らと一致してきたわけです。

 けれどもいろいろと問題が出てくるから民族の問題に対して、縄文のことを言ったり、パトリ(源郷)ということを言ったりして、朝鮮式民族論を日本流に読み替えながら、同時に彼らの立場がわるくならないように配慮しながら「自主日本の会」を進めてきたわけです。

 僕の見解は彼らが帰国すれば解決するというものです。単純に言えば、僕は日本中心で、日本の民族と国を愛しながら、それを人間中心、人民大衆中心で、やるということです。朝鮮が大事でそこを第一でやるということとは違うという立場です。

 ところが彼らは日本を愛すると言いながらも、いつも朝鮮を第一にする、朝鮮を中心にすることを引きずっていて、そこから物事を考えていく。

 しかし、帰国すればこのジレンマは解決すると思っていた。

 敷かし、彼らは再三「日本へ帰る」と言ってきたわけですが、結局はまだ帰ってきた居ない。帰らなかった。いろんな関係をつくって人を連れて朝鮮へ来てくれという形でやるわけです。「帰る帰る」といいながら帰らない路線をとっていた。僕は即、帰るべきだと思っていた。実際に早く帰っていれば、今回の問題ももっとちがう形でクリアーしていたのではないかと考えます。

 そういうことがありながらも、今の事情の中で彼らは帰らざるを得ないということと、主体的に帰るということがない交ぜになって、今年の7月に全員帰国の路線を出したわけです。その路線を出した後、9月17日の日朝首脳会談が開かれました。

 この後出された拉致問題について、この問題を出すなら「帰国しないぞ」と言ったりし、拉致の自己批判を通して、朝鮮国や労働党がいろんな自己批判をやったのだから、彼ら自身も関係していたのなら同じ歩調で自己批判をしてゆくべきなのに、その反対に、朝鮮労働党は自己批判すべきだが、自分たちはまったく正しかったというような態度をしめす。それで僕は危惧して「創」に書いたような提言になったという経緯です。

 次に朝鮮の問題についてですけが、僕の知っているかぎりでも85年くらいから変わり始めていますし、98年に党大会を開いて一種の社会主義市場経済路線みたいなものを採用していく。決議している。現在の羅津、先鋒(らじん、そんぽ)とか新義州(しんぎしゅう)その他を特恵区にする、そういった内容も出ている。

 決定的に変わったのは、2000年の金大中と金正日との南北首脳会談でそれを確認していくわけです。そこで京義線を再開するとか、そういう形で同じ民族同士が連帯していくことが進んでいくなかで、後ろに退けない状況がある。経済的な問題もあって、今年の7月には一種の市場経済のような方針を部分的には実行していくという状況になってきているわけです。

 そういうなかで歴史的に押さえておかなければならないことがあると思います。それは朝鮮のパルチザン闘争派とか、中国の延安を中心にした朝鮮で構成される紅軍とか、旧ソ連にいたグループとか朝鮮国内で闘った南労党とかのグループだとか、そういう人たちが苦労しながら、民族の独立、、日本軍国主義の降伏を経て、朝鮮労働党創建まで行った歴史をもったということです。

 その段階アメリカとソ連が乗り出してきて、大国の冷戦構造に巻き込まれ、一方はマルクス主義、社会主義、他方は自由主義、資本主義と言った対立に入り、朝鮮は南北に分断される。

 そうした状況が長い間続き、東欧、ソ連の崩壊、中国が市場経済を採用するという経過の中で、彼らは階級対立を軸にするところから民族と人間を中心とする軸に変わって行き徐々に民族和解、統一の方向が産み出されていっている、と思えます。

 硬直したプロレタリアート独裁という考え方から、社会主義市場経済の方向へ徐々に変わってきて、いわばイデオロギーを中心にした対立関係から、人間を中心にした、あるいは民族を中心にした政治へと変わりつつある。このことは最初は中国がやり、次にベトナムがやり、最後に遅ればせながら朝鮮国がやりだしたということです。

 このように朝鮮国は変わりつつあるわけです。しかし、アメリカは金正日体制を打倒する、いわゆる「悪の枢軸国」と決めつけています。けれども日本人や韓国人は、明らかに朝鮮戦争をやるつもりはない。とくに韓国人にはないと言えます。

 日本人もかつての朝鮮戦争の時はミサイルは飛んできませんでしたが、今回は飛んでくる可能性があるし、原子力発電所を抱えているわけで、そこにミサイルをぶちこまれたら大変なことになるということは多くの人がわかっている。そういう意味ではお互いに平和共存して生きていく以外にはないと思います。

 金正日政権に関しては、ソフトランディングしていくのが一番いい対応だと思うし、そういう方向に動いているのが現実の朝鮮だと思います。またそこを突破しなければにっちもさっもいかないというのが朝鮮国自身の状況じゃないかと見ています。

 したがって、金正日政権を打倒して変えていく、あるいは金正日政権を全面賛美するということでもなく、政権が徐々に変わっていくというのが一番いい対応だと思うわけです。

 それに呼応して「よど号」グループも変わっていかなければいけないと思います。彼らの状況を見ますと、先程述べましたように全員帰国という方針を出しています。けれども晴れ晴れとした全員帰国という方針にはなっていない。というのは米朝交渉、日朝交渉があって、テロリズム国家のレッテルをはずして欲しいという要求が出ている情況で、やもを得なく決めていったという側面があるからです。

 ただ他方ではいい面もある。明らかに日朝関係のトゲを抜くという意味では、自分たちは煉獄を覚悟して帰って、お世話になった朝鮮にもお礼をするし、日本人にも尽していく、そういう意味で「よど号」闘争を闘ったスピリットが底流にある、というふうに思います。僕は彼らのそういう面を高く評価していますし、帰国するときに国家と国家の取引の材料にされるのではなく、自らの判断で帰国して欲しいのです。

 その時、「よど号」問題は彼ら自身が引き受けると同時に、「連れてきた」問題でも基本的に朝鮮労働党が連れてきた、と言っているわけですから、僕なりに推察しますと彼らが関わったことは知れていると思いますし、そのことを率直に言って、いろんなフレームアップを封じるべきです。80年代の労働党の路線に規定された誤った方針を自ら盲従的にやった面がある、ということも率直に述べるべきです。

 日本人として生きなおして、民衆のために尽すことを宣言して、断固帰るというのが一番いい対応だと思います。そうすることが「よど号」グループの拝外主義が、朝鮮拝外主義につながる状況とか、拉致問題と結びついていっている状況を打破するベストの方針だと思っています。これは第二ラウンドの翻身ですが、翻身の完成とと言えます。

 しかし、現状はそうしたことを言うなら帰国しないとか、自己保身の態度が出てきている状況もあります。

 僕は帰国問題について、リーダーの小西君が最初に帰るようにすれば同志も皆帰るようになると言ってきました。そして次に妻たちが帰り、最後に子供たちもというのがスジだと思います。そうすれば問題の解決はすぐにつくはずです。

 親が残っていて子供たちを先に帰らせるのは、それを衝立にするようなものになるわけで、子供たちに大変な負担をかけていることになる。次に妻たちに負担をかけることになるわけで、このような方法は日本人のやりようではないし、民衆の支持を得る革命家としての在り様ではないと思います。

 この点について田宮高麿君はすばらしい同志だったと思っています。彼は亡くなる95年の時に、僕らが「自主日本の会」の準備会をつくりましたが、反発が強く「愛国路線」がどうも受け入れられないと泣きをいれに行ったのですが、彼はそういう状況でも断固やってくれ、「もし自分が必要なら何時、いかなる時でも日本へ帰る」と言いきった。僕はその言葉を信じて会の結成大会までもっていったわけです。  その言葉を言いきった翌日に田宮は亡くなりました。彼の死を北京で聞いてとんぼ返りでピョンヤンへ行き葬式に出ました。今考えてみますと、彼の発言は並の精神的な重圧ではなかっただろうと想像しますし、彼には大変つらい判断だと思っています。しかし、田宮はそういう人間であったし、それが「よど号」の、「明日のジョー」の精神だと見ています。

 小西君らの行動を見ていると、田宮君の持っていた決断力というか、そうしたリーダー性がやや欠けている。田宮君だったら労働党にどなりこんでいったら、言うことをきてくれることがいくつもあった。今はそうではなく、日陰者みたいな状況に徐々になっている。そのことは非常に残念だと思っています。今考えますと同志として田宮君の持っていたスピリットを継承しなければと考えています。

 重信房子さんを考えてみるとこの問題はよくわかります。彼女は帰らない帰らないと言い、「世界同時革命」は正しいと言っていたと思う。それがさっさと帰国した。僕は重信さんは理論というよりも感性や直感の大変優れた人だと思いましたが、並の決断ではないと思います。

 このことはどういうことかと言うと、パレスチナ革命と日本革命を両立させなければならない。当時の流動的な世界情勢で左傾化している状況では、この二つを統一できるところがある面ではあった。その時にはパレスチナで頑張るということはあり得た。

 しかし、その後の状況では、日本革命をやりながらパレスチナ革命と国際主義で連帯するというのがスジになっていく。もしパレスチナ革命をやるならパレスチナ人になってそこでやる。岡本公三などはそういう立場だと思います。

 重信さんは日本が中東反革命の基地になっているという判断で帰ってやることを決めたと思う。できるだけ逮捕されないようにしたと思いますがそうなってしまった。いまの状況では、もし逮捕されたら15年くらいはくらう可能性があることを覚悟していたと思う。それでも彼女は帰国の判断をした。それはその行動がパレスチナ人と日本人との強固な連帯につながるということだからです。「よど号」のグループも日朝連帯をいうなら断固、こうした行動を追求する必要がある。

 拝外主義の問題をどう捉えるのかということは、金正日氏が自己批判したことで、朝鮮人学校の焼き討ちとか、彼、彼女らに対する差別事件がたくさん起こっている。戦争しろとか懲らしめろとかいうことも言われている。僕らも三十なん箇所の家宅捜査とかやられています。「よど号」の「安部公博君は結婚目的のための誘拐」という、全く聞くに堪えない薄汚い嫌疑を掛けられている。

 こうしたなかで拝外主義と闘うことはどういうことかといいますと、今回のことは明らかに拉致問題として起こっている。したがって拉致問題を軸にした日朝関係についてきちんと決着をつけていくことが、拝外主義と闘う一番重要なことだと理解しています。

 そうした観点で、同時平行で拉致問題と正常化交渉を同時に解決する。ただし、八組十三人の解決は今なんとかやり、それ以上たくさんの日本人がいると言われていることは僕は事実だろうと思っていますが、その問題は日朝正常化してから解決するというやり方がいいと思っています。

 朝鮮国側は拉致問題については誤って陳謝し、補償すると言っているわけで、それを受けとめて進めるのがスジであるし、その時にまず拉致家族を第一にして、あるいは被拉致者を第一にしてその要求を軸にしてやっていくのがいい。その場合、極力政治から切り離して解決していく努力をすべきだと思います。

 僕は救う会や拉致議連の人たちについては快く思っていません。ですが家族の方や被拉致者の人たちについては、基本的にはそれを評価して汲み上げていくことで、日朝友好を実現せんとあかんわけです。

 今まで左翼は、あれはたんなる反共運動で謀略だという見方があったが、まったく間違っていたし見識不足であった。こお言う人々と結合して運動を進めていくコトも日朝友好、国交正常化の基本の1つだと考えます。

 「よど号」グループもそれらに呼応して、断固帰国して自分たちがトゲになっていることを認識し、それを抜き、明らかにすべきことは明らかにしていくなかで拝外主義を突破していくことが重要でしょう。

 ところが塩見がそう発言をすること自体が拝外主義につながる、言わない方がよいという意見がある。よく考えてみてください。発言にはいろいろと配慮をしなければならないでしょうが、発言しないで沈黙しているほうが拝外主義の要素を拡大していくし、より疑惑がフレームアップされるはずです。

 僕は今日も「よど号」グループの裁判へ行きましたが、関係者の家族と彼らを支援するほんのわずかな人とマスコミの人というのが現状です。そこには大衆運動としての救援運動などありません。僕はちゃんとした自己批判をして、二度目の翻身をやり、そういう立場での帰国を明らかにし、大衆的に呼びかけてもう一度生き直す、どんな監獄でも耐え抜いていく、という方向を打ち出せば運動は成り立つと思っています。そうした形での拝外主義との闘いが必要ではないか。

 最後に権力の問題についてですが、塩見が発言することによって彼らを不利な状態に陥れたと言う人もいます。このことで弁護士とも相談もしましたが、発言だけでは証拠にならないし、僕自身、日時、場所などを明らかにしているわけではないわけで、これはあくまでも彼らへの提言の範囲をでないわけです。

 弾圧が起こったという問題は、仮に僕が発言しようがしまいが起こることで、そのこととは別です。「よど号」グループを弾圧しながら家宅捜索をするというには、権力の常套手段であるわけです。それに対しては反撃し、しぶとく闘っていくというのが僕の方針です。

 僕は提言が拒否されたからといって彼らと訣別するようなことはしません。反弾圧と救援闘争は続けていきます。

 ただ「よど号」グループの娘さんたちを見ますと朝鮮国で育って、そこのイデオロギーはすべて正しいと思っているわけですが、、日本ではそれは通じない、から、「信念」と現実のギャップは大きい。

 たとえば雨宮カリンさんらの若い仲間がグループをつくって交流をされていますが、心を割って話すことができないわけです。山嵐のようにトゲを張って対話を拒否するという状況が一時的に生まれています。こおいう事態は僕も出獄して1〜2年間経験したことです。

 どういうことかというと、日本の実状を知らないコトに加え、自分らは正しいと思っているから、心では相手を見下す。そうなるとフランクに話も出来ないし、対話が成立しなくなる。その結果自分たち仲間だけで固まってしまうことになるわけです。。僕はそれはやむをを得ないと思っていますが、それはとても悲しいコトです。真実をフランクに語れれば相当違うと思います。

 救援運動は今のような家族とほんの一部の支援者だけのものではなく、もっとダイナミックなものでなければならない。日本と朝鮮のこと、あるいは日本の大衆運動を総括したような人たちが救援運動に参加して見守っていただければ有り難いし、救援される側も励まされると思います。