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第3回「資本論研究会」の報告。

2006年 11月 5日

塩見孝也


 第3回「資本論研究会」は、予定通り、10月29日(日)午後5時よりもたれました。

 女性一人を含む新しい参加者が、4人加わり、相当賑やかとなりました。

 次回には、「塩見塾」関係の若い女性も参加されます。

 全く、左翼畑でない、有名商社畑で活躍され、今は嘱託をやっておられる方で、僕より少し年配の方も来られていました。

 彼は「死ぬまでに、一度は〈資本論〉を読んでみたいと思っていました。いやー、勉強になりました」とおっしゃっていました。

 何年掛けても、読破する気らしい。氏は「資本論」全巻を、既に購入していたのです。

 この研究会も、3回目となり、大分、研究会のやり方も見えてきました。

 次回(第4回目)は、「勤労感謝の日」にあたる11月23日(木)の、午後3時から午後7時までです。

 「貨幣の物神崇拝」の部分で、この1章「商品と貨幣」で、マルクスが「剰余価値の生産」と共に、この著書で、一番言いたかったところです。

 テキストは、大月書店の国民文庫版の第1分冊を使います。



 さて、今回は「資本論」第1部、第1節の「商品と貨幣」の中の、第3項、「価値形態と貨幣」の項でした。

 これを、皆で、順番に読み合わせて行くのでした。適当なところで区切り、質問を出し合い、討論し、叉読んで行くやり方です。

 こうすると、翻訳原文が、参加者の頭の中に入って行きますから、チューターを決めて、予習で読んできて、問題点を討論しあうやり方ではないから、みんな手間暇かからず、頭に入りますし、マルクスの主張も、その認識構造や論理の組み立て方、比喩の仕方や註等も全部頭の中に入ります。

 叉、一人で読む場合は、解説書をもってしても、理解できなかったり、肝心なところを見落としたり、理解できないところに際した場合、うろうろします。

 或いは、理解できなかったら、「俺はなんと頭が悪いんだろう」と悲観するのですが、集団でやると、文殊の知恵で、ほぼ正解に近いところまで行きます。

 叉、マルクスの比喩は、確かに本質を鮮やかに言い当てているようにも思えますが、幾らはずれていることなどもあり、集団でやると、それが可なり分かることもあります。

 「頭が悪い」と悲観する必要がない、と自信を回復します。

 今回も、「幻の対象性」とか、「商品語で語る」とか[価値魂]とかマルクス流のシュールな文学表現にはみんな途惑います。

 「相対的価値形態」と「等価形態」の関係で、「相対的価値形態」の「価値と使用価値の矛盾」が、どう「等価形態」の中に、転嫁されるか、「使用価値は価値の化体(けたい)」、「使用価値は、価値の素材的荷い手」とか、ヘーゲル流の言い回し、は皆を、大いに惑わしました。

 アリストテレスの話しまで、出て来たり、重商主義者の関税官が、価格決定をするのに、恣意的にするにも関わらず、実は、その価格は、労働時間で決まること、労働価値説からそれが説明されてゆく、ことらいろんな興味を引く論点も出ました。

 それにしても、マルクスが商品の交換関係、価値関係を「単純な交換関係」、「展開された交換関係」、それを「ひっくり返した関係」等を彼の強力な分析力で、こねくりまわしながら、分析し、そうして「一般的な相対的価値形態」を引き出し、貨幣出現の具体的歴史過程は、意識的に捨象しながら、とうとう貨幣、金にまで、普遍的な抽象的論理性のみでもって行く豪腕振りには、みんな感服しました。

 マルクス流の論理と歴史の関係認識で、マルクスは、先ず現実の対象の論理的、抽象化分析を行い、それに歴史的展開を内包させてゆくやり方です。

 この手法が、わかっていれば、「資本論」冒頭商品が、資本主義社会の「商品」であることはすぐに判ります。

 「歴史的な商品か、資本主義社会の商品か」などといった、昔経済学者を悩ませた論争は、決着済みなのです。

 次は、「貨幣の物神崇拝」の項です。 これも、マルクスの説明を聞くと、何故、「市民社会(ブルジョア社会)で、なぜ、市民が貨幣を神としてゆくか」がすっきりといつの間にか、判ってゆくのです。

 こういった、説明を見ると、目茶とっつきにくいように思えますが、読み合わせていると、すうっと頭に入って行きますからご安心あれ。

 終って、近くの中華料理屋で、少しのみ、歓談したのでした。

 結構、みんな楽しんだようでした。


               塩見孝也