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「連合赤軍の全体像を残す会」―「『証言』編集委員会」
会報3号のインタビューから
                    塩見孝也



(1) このインタビューを読み返してみて

このインタビューを受けたのは、出獄して間もなく、多分1991年頃ではなかったでしょうか、未だ6年3ヶ月の府中刑務所の生活からの延長、いわば、「無菌」状態のままでした。

 僕は世間に対して、「西も東も分からない」状態で、文字通りにオープンに対した時期でした。

 世間も又こうした人物に寛容な態度で臨んでくれる時期でした。

 「全体像を残す会」についても、村井さんなどが「ヨイショ」してくれたことも関係していると思いますが、あれこれ考えず、素直な気持ちで応じ、当時のありのままの自分が出ているように思えます。

三戸部さんや張間君らインタビュアーや周りの人々のかなり気負った、やや、意識的対応に「受身」的な対応の観、無きにしもあらず、ですが自然体で対すことは僕の臨むところでした。

 お二人は非常に冴えており、傾聴に値するところが大いにあり、ですがインタビュアーの方が多弁という感じでした。

 にしても、あれから13年が経ち、思想的、政治的には、僕の見解に相当の「発展・変化」があるものの、編集者がいうところの「“歴史的な当時での一証言”として、記録して置くべき」ということには何の異存もありません。

 送られてきた、起こされた文章で、主に事実関係でひっかかる箇所については訂正を求めましたが、全体は元のまま、で良いと思いました。

 ただ、現在の僕の政治的、思想的立場、観点、方法と当時とでは、基本的な点では変わらないものの、相当の隔たりがあるところもあるとおもいます。

それは、改めて別のインタビューとか対談でフォローするのが、読者に対して、また「記録する」ことの本来の姿からしても至当、と編集者の雪野、黒宮両君と共同確認しました。

 つまり、僕としては、このインタビュウーでの発言内容が「そのまま現在の僕を表現している」と、読者の皆さんが思ってもらっては困る、ということです。

 ここでの僕との関連での論点、発言は大きく分けて三点だと思います。

  一つは、連合赤軍事件―連赤問題の事実関係、形成過程―展開―結末、直接の原因らに関する領域

  二つは、この事件を如何に捉えるか、の政治的・思想的領域、いわばイディオロギー的領域

  三つは、僕の個人的、人格的領域、具体的に言えば供述、完全黙秘問題の領域です。

 一つ目と三つ目については、態度、観点で全く変わっていません。

 二つ目は「12名を想う立場」や「人民大衆中心で捉えてゆく」根本的な姿勢 においてはほとんど変わっていないのですが、時代の変化とそれと関連する 僕の「思想的深化」があり、捉える観点、主張の力点は大きく変化しており 相当の説明を要する、ということです。

 つまり、一つ目と三つ目はこのまま見てもらってかまはないこと、二つめは 違ってきているということです。

(2) 事実関係について

一つ目については基本的に僕の一貫した主張であり、僕の獄中での著書「封建的社会主義と現代」や最近の「赤軍派始末記」にも書かれている内容です。

惜しむらくは、このインタビューでは僕の主張は前提的に扱われ、論点から はぐらかされおり、それ故、僕の方も余り詳しく、強調的に語っていず、やや不満が残るところです。

 軍事至上主義が中国革命教条主義やスターリン主義的組織論、つまり「指導部異議申し立て派の抹殺の肯定」に媒介されて起こったのが最大の動因なのか、ブントや赤軍派の急進的思想運動の極限の所産であったのか、の論点がぼやかされていることです。

  連合赤軍問題は両派に軍事至上主義が濃厚であったこはたしかですが、従っ てこれはこれで、最も普遍的な基本問題として総括される問題ですが、それだけで説明が付く面もあれば、それだけに単純に解消されない独自の面もあります。

路線、思想の違う二つのグループが、それを無視し野合し、「新党」を強引に作ったこと(でっち上げたこと)、それほど「外」は軍事至上主義が濃厚であったこと、言い換えれば、獄中の赤軍派、革命左派のほとんどは「合流」に反対していたこと、軍事至上主義の偏向は両派ともに有したいたものの、それは程度問題であり、ここで明確に政治的・思想的分岐が獄外と獄内とでは既に生まれていたことはしっかり押さえられなければなりません。

 この野合・「新党」結成をめぐって、さまざまな革命戦士となるため思想的研鑽の闘い、思想運動が疎外され、解決できない野合の矛盾の解決として、永田さん、森君の二人の指導者の権力のための思想運動、「粛清」(“同志殺し”)が産まれていったこと。

「共産主義化」といった思想運動の外観をもった権力闘争、同志抹殺が起こったことです。

この二人の指導者の政治判断の間違いが決定的な直接の要因であること。

野合という形にまで軍事至上主義を凝縮させきったが故に、あのような規模 の大きな歴史の大転換を画すようなシンボリックな事件に凝縮していったこと。 (野合が無くても、過ちは大なり小なりの形で、両派は過ちを犯したかも しれないし、自力で自らの欠点、未熟性を克服して言ったかもしれない、そ れは分からないことでこの論議は余り意味が無い)

僕ら、赤軍派は当時このような事実関係の確認については、余り重視して なく、それは前提的なことと考え、より深く、より普遍的な教訓として「軍 事至上主義の克服」を「プチブル革命主義の克服、資本主義批判によるプロ レタリア革命主義の獲得」に設定していました。これは全く正しいことでし たが、事実関係は事実関係として後に禍根を残さないためにもしっり抑えておくべきであったと思います。

 この点では、ここにとどまり、軍事至上主義の克服・資本主義批判―プロレ タリア革命主義、中国革命教条、毛沢東教条主義、スターリン主義の克服と いった方向に向かわず、思考停止したことが留意されなければなりませんが、 革命左派の川島君たちがやった、「銃撃戦と“粛清”と」(序章社)の事実調 査、分析は、これのみに限れば大いに意義があり、この文献は今から読み返 しても、歴史の検証に耐えうる文献と思います。

是非これは復刻すべき文献と思います。

 向山、早岐さんの処刑は連赤「粛清」の導火線であり、かつ原型であることをもっと強調すべきでした。

 この点も関連してですが、川島君は、この本で軍事至上主義の偏向も含めて、「革命左派の犯した過ちの程度の方が赤軍派に比べ大きい」と率直に述べています。

 このことは、赤軍派の側に政治上、思想上の動因があったのか、革命左派の側にあったのか、人格的に見れば森君が主導したのか、永田さんが主導したのか、というこれまで「対等に責任を取る」「自派の問題として主体的に責任を取る」といった基本的に正しい対応ながら、30数年がたち、事件の全般が見渡せる段階にいたっては、それだけでは不十分になっている「留保していた問題」に判断を提出していないことです。

僕は、この事件は毛沢東思想・中国共産党がまつわる、その核心がスターリン主義にある、日本共産党の51年闘争の際にも生まれた諸事件と同じ質の国際的事件と思っています。永田さんや川島君に主導される中国革命教条、スタ―リン主義の組織論、粛清の実行を是、とするところに真因があったと今は考えています。

赤軍派の側から見れば、真にスターリン主義、毛教条主義を克服する日本民衆、民族中心の自主革命をやりきれなかった問題として主体的に捉えています。

(3) イディオロギー上の問題

 二つ目については、僕は、ややきちんと現在の立場の関連で述べておかなければならないし、かなり重要な自己批判も明らかにする必要を感じています。

インタビュウーの当時の僕の思想的・政治的立場は全く獄中の延長であり、「封建社会主義の克服」「天皇制的非民主性、差別との闘い」にウエイトが置かれていました。

これは中国共産党の1978年のなん中委からの「文革は毛沢東晩年の過ち、否定、清算すべき」に歩調を合わせるところがあり、国内的には日本共産党の二段階路線に傾斜するところがありました。

 これは連赤問題からくる、「指導者の専制性」を、又「下部のそれへの無批判な隷従性」を如何に克服するか、全般的には差別問題に対応すべく、これを詰めていった積極面もあれば、他方では77年の日本赤軍のダッカ・ハイジャックを批判した関係から、赤軍派路線のあくまでも止揚を目指す上での、最終的な自己否定、「清算」の果ての降下すべき立脚点を探しあぐね、ブント・新左翼の歴史、路線の清算から中国党や日共路線に乗り移る過ち、政治的後退に陥った面でもありました。

 問われていたのは、「小ブル革命主義の克服―資本主義批判―プロレタリア革命主義」の思想的、政治的営為の深化、展開として、より下降して「人間論―暴力論―組織論」、つまりは、このトリアーデが示す人間の根本領域、「マルクス主義の超克」の分野に思索を進すまし切れず、僕は自主性、主体性を見失い中国共産党や日共に迎合しようとしたところがあった、ということです。

 マルクス「人間論」の「社会諸関係の総体(アンサンブル)」論から現在の僕の「自主性を持った社会的存在」としての「人間論―自主論」に下向できず、横にそれて「小休憩」していたわけです。

 これとの、関連で“民族”を“血”ではなく「歴史的社会的な存在」と捉え重視する観点、或いはパトリ(源郷)論から定立できず、暴力論を「自衛の際のみ許される暴力、基本的には非暴力」論として、確立できていなかったことでもあります。

 それ故、組織論もレーニン主義的組織論を原理的に「開かれた解放型の組織」から批判的に見れず、それ(レーニン組織論の批判、否定)を経験的にのみ実行することにとどまっていた、ということです。

「封建社会主義の克服」は積極面もあれば、後退面もあったということですが、僕自身の思想的営為から見れば「僕のアイデンティティ―」を見失っていたところがあったわけです。ブント―関西ブント―第二次ブント―赤軍派の大道・正系から沿れたところがあったということです。

 これが、永田さんや植垣君の分離、裏切りを許した深因でしたし、出獄後のこのインタビューでも「自分流」を発揮し得なかった要因でもあったといえます。

 とは言っても、二人が「塩見がこのような対応をしたから、自分たちも勝手に動いたのだ」と例のごとく僕に責任転嫁してもらっても困るし、これでもって二人の「12名にも問題があった」「“共産主義化”の“粛清(同志殺し”)には正当性があった」とか「森さんに、付き従っただけ」といった自己正当化や責任転嫁の言説が許されて良い訳がありません。

 植垣君の「思想的援助しようとしただけだ」といった「自分(たち)は正しく、強く、亡くなった人たちは間違って、弱く問題のある存在」といった12名を再度なぶり殺しするような言説はけっして許されて良い訳がありません。

 或いは、野合の問題や永田さん、川島君ら革命左派からもたらされて来た「スターリン主義の粛清肯定論」に論及せず、赤軍派やブントのラジカリズムの所為に短絡させ、事態を混乱させた責任が許されて良い訳がありません。

 また、花園君が当時から毛沢東教条主義に乗り移り、それを今も引きずり、合流推進論者であったことをしっかり自己批判せず、現在も植垣君の態度を半ば許容し、二人に対して中途半端な態度を取り、「“粛清”が新左翼の側から惹起されていった」(田原総一郎「連合赤軍とオーム」)などの言説を吐くことが見過ごされて良い訳がありません。

現時点では「封建社会主義の克服」の問題はその核心が「スターリン主義の克服」にあること、スターリン主義を新たな経験と新たな情勢の中で「ミクロはスターリン主義の克服、マクロはマルクス主義の超克」の問題として、ブント運動や赤軍派の闘いを継承する中で、捉え返して行くべきだと思います。

(4)供述問題

この問題はここで語られているとおりです。

もう少し詳しく説明する必要を若干感じます。

それは、今回発刊される「監獄記(オークラ出版)」の第三章「逮捕、取調べでの死闘と僕の凄まじい決意」をお読みくださればもっと事情がお分かりいただけると思います。

(5)「僕に全責任がある」にこだわる問題

張間君は僕のこういった態度に森君の友人の立場から異議を唱え、直接の責任関係を確かめつつ、「こういった態度を取るべきでない」「そうしないと森独自の個性とその行動が浮かび上がらない」「問題全体をぼかすこととなる」と強調しています。

 確かに、僕は「直接の指示」など一切出してはいませんからこういった観点も必要ですが、実際は連赤の母胎、僕や赤軍派の未熟、僕の器量不足からくる政治的、思想的限界の問題は至る所にあり、「押し並べて見れば僕と川島君に全般の責任あり」は否定すべくも無く、それ以上に重要なことは、変革の指導者として「鴻鵠の志」を持つものとして、「関係ない」といった「燕雀の立場」はとれなかったし、断じて取るべきではなかったと思っています。

 この態度で一貫してやってきました。これで、全く良かった、と思っています。

ただ、赤軍派やブントの同志たちの一部に「塩見が責任を取る、と言っているのだから、塩見に責任を集中すればよい」「自分の責任はない、あっても極く小さい、黙っておこう」「自分たちは関係ない」「“対岸の火”の事」と勘違いしている50を過ぎた「豚もおだてれば木に登る」人々や「狼少年」の類の人々や、「関係なしで」で「総括放棄」「思考停止」を決め込む人々が極少数ながらいることは困ったことと思っています。

「燕雀」に甘んじてはならないのではないでしょうか。

「全体像を残す会」―「『証言』編集委員会」が地道な事実調査、取材をやりながらこういった雰囲気を正してくれることを望み、かなり正していっていることに敬意を払います。