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*「自主日本の会」・塩見孝也の見解

僕は何故発言したか?
優先順位の変化を考えよう。


−自分中心の党派主義者の
様々な理解不足、誤解
偏見、中傷に答える−


 (序)僕の「よど号グループよ、『拉致問題』の真実を語れ!」(「創」11月号、この見出しは編集部が付け、僕は不満である)や 「真実を話して総括しようーー元赤軍派議長からよど号グループへ」(「週刊朝日」・10/18号)の発言は大きな衝撃的影響を及ぼしている。これは予測したことではあったが、そしておおむね共感を持って受け入れられているが、しかし理解不足や偏見からの予断、誤解、中傷も陰でないことはない。「何故この時期に塩見があのような発言をしたのか」について真意を測りかねる人もいる。

 このような事態に付け込んで、ハイエナ的な党派主義者が「元もと朝鮮革命は駄目だったのだ」「元々"よど号グループ"は駄目だったのだ」と言った身勝手な認識を振りまき、「介入」を行おうとしている。彼らがこれまで何か日朝友好運動やよど号グループと連帯したり、反弾圧の闘いに加わってきたであろうか!彼等は何か発言すべき資格があるのであろうか!ないのである!

 これらとは全く別に、在朝鮮のよど号グループ=「かりの会」の仲間からの批判が先ず返ってきた。これは当然のことである。しかし、言うに言われぬ事情があることは推察できるが、その内容たるや全くお寒い限りなのである。

「(塩見達の言うことは)虚為である」「弾圧に手をかす」「救援の論理からの逸脱」「奇怪である」等々。

 全く我々の真意を理解せず、質問、疑惑、要望に何も答えてないのである。だから小西さん等は益々孤立して行っているのである。

 僕らは不当捜索に抗し、金子さん判決公判、田中救援集会、面会運動をやりつつ、即座に、この「かりの会」の批判への反論として「よど号の仲間の批判に答える」を発表した。

 「真実と思える根拠があること」「人民大衆としての3人の人権を考えることから出発すべきなこと」「これまで労働党に盲従し、その理論、路線を教条化してきたことを反省すべきである。」「朝鮮革命を名分にして、今保身の方向に後退している」ら、いささか厳しすぎると思われるほどの批判を述べたりし、「日朝友好、国交正常化のために真実を明らかにしつつ、人柱になる決意を新たにし自主帰国すべきである。今がそのチャンスである」「真に日本人の体験、思考から生まれる自主の道を確立して、前進しよう」と再提言した。

 「かりの会」との論争が事態の核心を掴む基本であれば、基本的には「創」や「週間朝日」を読まれた上で、「よど号の仲間の批判に答える」をキチンと読んでもらえれば、僕の真意は十分わかって頂ける筈である。

 とは言え、事態は複雑で様々な側面、切り口から僕の真意は出来るだけ丁寧に説明されるべきと感じる。それ故、今回はこれらの人々の反応に合わせて「僕は何故発言したのか」を述べることにする。

(一)優先順位をハッキリさせるべきである。 
 何が優先されるべきか。優先順位の変化を考えるべきであろう。9/17金正日総書記の「拉致報告」は我々の朝鮮認識を決定的に変化させた。石岡さん、有本さん、松木さんの"死"乃至は「安否」の真相究明が国民的関心の的になっていること。この点が、今の全局とその中での僕の発言の真意を捉えて頂ける最大の眼目である、ことを理解して欲しい。

 僕らはこの認識を機軸に諸問題を整理し、一切を出発させてきたし、この認識を機軸にしてこそ唯一諸問題が解決されると信じている。  僕らも小西さん等「よど号」グループ=「自主日本をめざす会」も日本人民大衆と国と民族に尽くすことを共通の基本理念、目標にしている。かっては連合的で単一の組織であったが、昨年6月でもって兄弟的な別組織となった。しかしこのような基本理念はいささかも変わっていないと考える。であれば尽くすべき対象たる日本民衆の安否、生死の問題が9/17でもって全面的に登場し、それに小西さん等が関わり合っているのでは、という疑惑はどうしても最優先的に解明、解決されねばならぬ課題となった。であれば「保身である」「権力の介入を招く」「豹変した」「黙っておくべきであった」「内輪で解決すべきであった」「これまでの信義の関係を危険にさらす」「公安とつるんだ」等の一部の非難、中傷は覚悟の上でも敢えて「3(4)人の安否、生死の問題、救出等」の真相究明は最優先の公然たる課題として、彼らの反弾圧救援闘争や連帯活動を堅持しつつも追求せざるを得なくなった、のである。 

 1,もしこれを不問にし、小西さんらの保身的態度を許容して行けば、小義は守れても、僕らは大義、公義、正義を語る資格がなくなり、実際は小義も貫徹できず、単なる私的な徒党、利権の談合集団と何ら変わらない集団に成り下がってしまう。

 あらゆる人間関係はその人達が所属する集団の仁義、義理から成り立っている。小は友人、恋人、家族等のもっとも日常的にあるが、人間にとって最もエッセンシャルな規定的単位に於いて。中ははもっと大きな地域や労働単位、社会生活単位、大は民族や国家、人類の単位である。

 仮にこの小単位から生ずる仁義を小義とし、大から生ずるものを大義としよう。

 小義だからと言ってその価値が大義に劣るわけではない。それぞれの人間としての信義があり、このような 小義が重なって集積してこそ大義は内容化され、実現されるであろう。

 とは言え、小義があれば、大義が実現されるとは必ずしも言えないし、大義なしには小義も実現されない関係もある。  やくざも親分子分、兄弟間の仁義を重んずる。しかし、この仁義が反人民的、反社会的であることの方が多いことは常識である。このような仁義が幾ら実現されても、それはやくざ間のことであり、民衆の小や中や大の仁義がこのことで盛んに守られるてゆくわけではない。もっとも世の中が乱れ、中義や大義、根本的で規定的な小義が守られていない場合、やくざの「仁義」「任侠」がもてはやされ、憧憬されたりもするわけである。だがこれは、正義がまともに行われていないことの逆説なのである。

 社会全体の生命力を革める革命者は小、中,大のどんな義も実行しなければならないが、小や中は沢山の仁義の人が生活の中で実行し、模範を示していっているわけで、人民大衆、民族や国家の革命や人類の仁義に腐心する。この方面の仁義はなかなか実行する人が少なく、実行しようとしてもなかなか出来ないのである。

 僕らも小西さん等も革命者を自認し、大義に生きようと確認した集団である。僕は大義に生きる同志として小西さん等に提言しているのであり、決して救援の義を無視したり、軽視したりしてないが救援の義から提言しているわけではなく、僕らだけが出来る義、大義の為に提言しているのである。

 救援の義を価値が低いとして決して、軽んじているわけではなく、ただこれだけでは大義無くしては、救援の義も実現して行かないと考えてるわけである。

 小西さん達は今大義を忘れかかり、僕らや救援の仲間に小義を要求し、救援の原則をはずれかかっているという。これは小西さんらがもう保守化し、革命者から後退しつつあることを意味し、非常に残念に思う。僕らはあくまで大義の追求者として、小西さん等がこれまでの革命家スピリットを蘇らせ、3人とその子供さん等人民のことを考える人であり続けることを願っているのである。

 保身するならそれこそ沈黙し、黙っておけば良いのである。だれが好んでこんなシンドイ渦中に飛び込んで行くでしょうか。大義、正義を、公義を我々の共通の義の最優先課題にしなければならないと考えているからです。

 小西さん達が保守化していることは「自主日本をめざす会」をもう名乗らなくなり、被救援組織「かりの会」で行動していることにも現れている。

 2,権力の介入は塩見が黙っていようといまいと9/17でもって急激に強められるのであり、逆に真相を明らかにすることによって、フレームアップや大弾圧への加速を先手を打って防ぐことが出来るし、自己批判を正しくやることによって、離反した民衆を再度僕等や小西さん達の側に引きつけ、弾圧に対処できると確信している。

 3,自分は塩見式の日本の実際にあった自主思想を「幸福論」等で既に、自分流だが確立しており、これは9/17があろうと変わっていないし、かえって、益々信念化され、田宮が果たせなかったものを体系化し、完成化しつつある、と思っている。であれば9/17位でビクともしないのである。

 又チュチェ思想が朝鮮民族、人民にとっての革命思想である、認識もいささかも変わっていない、ただチュチェ思想も又朝鮮民族、人民、社会の成長,発展に応じ、成長・発展して行かなければならないし、過去の不完全さ、不十分さ、欠陥、欠点は自己批判され、改めなければならないし、今がその朝鮮民族、人民にとって試練の時期にあり、キム・ジョンイル総書記等労働党はそれに着手しつつあると考える。そうであれば必要な提言、批判は日本の友人同志である自主主義者からもなさなければならないと信じている。同様に在朝鮮で労働党を信奉してき、同様の過ちや限界を持った小西さん達にも正さなければならないと思っている。

 僕は全然「豹変」などしていない。

 あのような提言が小西さん達との信義を破ることにならないと信じています。仮に一時そう言う現象が生じても必ず修復されると思っている。僕の方にも至らなさがあると思うし、その指摘が正しいなら改めるとして、今は小西さん等が主要に改めるべきです。これがスムースに行かなければ多少とも長い期間こじれるかも知れないが、僕はこの修復を信じています。

 4,小西さんらのこれまでの態度を辿っていけば「内輪の提言」では埒が明かず、それをやれば事態を悪化させるし、「公然たる提言」が必要であった。

 それでは、「塩見は小西さん等から聞いたその時何故公然化しなかったのか?」と言う質問が返ってくるが、その時は「安穏」と聴かされ、それでも公然化すれば、入国出来ず、政治的連帯も救援も出来なくなってしまうからである。

 5、「公安とつるんだ」は僕や「会」の反弾圧の態度、実際をを見て行けば明瞭であろう。

(二)優先順位を変えなければならなくなった現状とは?

 9/17金正日総書記の自己批判(※1) ・「拉致報告」の衝撃度はあらゆる日本国民、民衆に驚くべきもので、信じがたいものであったろう。あらゆる人が朝鮮国と労働党について認識不足を痛感したことであろう。

 僕は「よど号グループ」救援、政治的連帯と日朝友好を目的に40回近く訪朝してきたわけだが、それでも「分からない国」として「現実の体制についての支持、不支持を保留」(「幸福論」第8章1節)する鋭敏さは持っていたつもりであるが、それでも自分の朝鮮国への認識不足、甘さを認め、自己の不明を恥じなければならなくなった。

 何という人権認識の足りなさ、朝鮮流「自主思想」のこれまでの欺瞞性、自己批判までの労働党の言う「自主性」とは人民大衆の自主性ではなく最高指導者のみの自主性になってないか!「自主性」の強調は何よりも「人間一人々を大切にすること」でなかったのか!「人民大衆の一人一人の自主性」ではなかったのか!何という"レーシズム"(血統をもって民族の優劣を決定しようとする思想、自民族を最優秀民族と狂信する思想)に基づく報復主義的な国際主義無き日本人排外主義!このような事態を産み出した労働党の人民主体を軽視する体質の許すまじき有り様は何たることか!(※2)

 もたらされた報告の拉致された家族へのむごさ、つらさはいかばりであろうか。

 加えて、僕にとって救援してきた「よど号」の仲間が、関与していると目された石岡さん、有本さん、松木さんの3人が亡くなっている(最終確認がされている訳ではない)事態は一般の人々の衝撃を更に越えた決定的に深刻な問題となった。

 この認識から僕らの優先順位は変わったのである。

 今まで僕らは「よど号グループ」への同志的友情を優先順位の第一位に置いて彼等の人権、同志的連帯を闘ってきた。石岡さんの人権については安寧であることや労働党への信頼を前提にして第一位には置いてこなかった。このことを徹底的に追及すれば彼等を窮地に立たせ、救援や同志的連帯も入国拒否等で不可能となる、と考えてきたからである。

 ところが9/17以降、労働党の自己批判そのものは歓迎するが、この拉致体質に現れた危険な体質が清算、自己批判されている何の保障もない以上、何よりも3人の死の真相究明、生きているならこの人達の探索、救出が第一義とされなけれならなくなった。

 友情、人情、情実=小義は大切にされなければならないが、このような状態で3人の人権=大義(公儀)を優先させなければ、友情も又真に貫けなくなり、「よど号」グループの利己主義、保身を擁護することになるし、僕らの彼等との連帯運動は単なる反人民的性質も含んだ徒党運動に成り下がる。まして僕の場合、関与に関する某かの確信を体験的に持っているものであれば、よりいい加減に出来なくなってきたのである。

 実際この確証はあの発言以降、柴田発言や今回の遠藤忠夫の「新潮」(10/24号、この発言については氏にも会い、しっかり裏をとるべきだが)で補完されつつあるわけで、今後より信憑性をまして行くであろう。友情や彼等の人権がそれだからと言って投げ捨てられて良いわけではないし、僕らは今後も救援や同志的連帯も極力継続、創造して行こうとしているのである。

 このような小義と大義の統一の悩みは救援運動に関わる家族、救援者、弁護士等それぞれにそれぞれ的に問われ、皆が困難を抱えている。

 この様な状態であれば、「田中義三さんを救援する友人の会」「金子三枝子さんを救援する有志の会」らをリードする塩見等「自主日本の会」がこの原則、大義、筋を貫けなければ誰もリーダーシップを取ることは出来ず、運動は単なる「よど号」グループの自主性なき保身運動に脱してしまう危険があるのである。

 だからこそ、今あのような発言をしなければ埒が明かなかったのである。

 確かに権力が介入する機会は増える。しかし人民大衆を擁護して闘うなら犠牲は付き物であり、それは「人民に奉仕すること」を自認する人たちであれば覚悟の上であるべきだし、用意さえあれば十分防げるし、逆に有利に不屈に闘えるのである。

 田中義三の自主帰国と、裁判・獄中闘争を見てみればよい。田中は犠牲を甘受しつつ断固として大義の旗を降ろさず闘っている。真実で結束するなら助けは多く、我意と保身を通すなら助けは少ないのである。

 小西君等が潔白なら、その潔白を証明するために何故3人を調査しないのでしょうか!何故帰国を恐れず、帰国して潔白を堂々と証明しないのでしょうか!日本人民と民族を第一に愛するなら、このような行動は当たり前のことではないでしょうか!実際は保身のために「大樹」に寄生している、と言えないか。日本の人民ではなく、朝鮮の利益から物事を考えているのではないのか!

 それなら始めから、朝鮮革命に尽くすことを宣言し、朝鮮国に帰化し、朝鮮労働党に入党すれば良い。これも又、亡命革命家の1つの有り様であり誰がそれを非難できよう。

 (三)朝鮮排外主義と闘うと称して真相究明をサボタージュ出来るか?
 朝鮮国排外主義との闘いを強化すべきで、「拉致問題」真相究明はやるべきでない、乃至は内々に、やるべき、という見解がある。これは左の格好をして真相究明をおろそかにする意見である。排外主義の闘いと反弾圧・真相究明の闘いは両立され統一されるべきである。  有事立法、核武装、憲法改悪、従属覇権主義の勢力が虎視眈々と介入を狙っているのは事実である。石原などが小泉の後がまを狙っているし、朝鮮人学校への放火があり、朝鮮人への暴行も頻発している。だからこの指摘は基本的な一般原則として、もっともと言えるが、現情勢では排外主義の源を絶つ、ということでは、それをサボタージュするやり方であり、一種の「逃げ」である。今の排外主義の源、契機は拉致の真相がまだまだ不明朗であることにあり、朝鮮側が常に枠を創り、制限しようとしていることやこれを衝きつつ、日本側の従属覇権勢力が拉致問題を最大限利用し、排外主義に持って行こうとしているところにある。

 だから、今の日本世論の動きは1つ間違えば危険極まりない方向に逸らされて行く危険があるが、しかし概ね,人民大衆の大勢は健善であり、民族和解を望み、国交正常化を望み、他方同時並行で拉致問題の解決を望んでいるのである。

 この動きは、家族会の動きに象徴されている。家族会は拉致問題そのものの解決を望み、真相究明と「マインドコントロール」からの解除をへての真の民族和解、共存を望んでいると見るべきである。決して制裁や報復を望んで居ず、日朝両民族の痛みの相互理解、民族和解、共存共栄の方向に沿って動いているのである。

 ブッシュ・アメリカ帝国主義や従属覇権勢力の如く、金正日政権の打倒をあらかじめ前提とする戦略に沿って動くのではなく、日本の自主、アジアとの連帯、アメリカも含めた共存共栄の方向である。であればこの家族会の最も素朴な「自主日本」の感性、要求を日本人民全体の要求にして、この家族会や被拉致者やその在朝鮮の家族の悩み、感性、要求を環にして排外主義と闘い、小泉政権を規制し、アメリカの規制を殺ぎ、日本全体を自主化させて行く闘いが必要なのである。

 このような重要環の一部に依然として石岡さん、有本さん、松木さんの死の真相究明や朝鮮入国の経緯、「よど号」グループの関与の疑惑が存在しているのである。この「よど号グループ関与疑惑」を解決すべく、この真相を究明したり、小西さん達がこれに誠実に答えて行くことが排外主義と闘う極めて重要な内実と言えるのである。

 朝鮮排外主義反対を声高に叫ぶだけで、真相究明をおろそかにするなら、それは一方では小西さん達の保身の運動を許容し、これに加担し、他方ではその事でもって、排外主義に付け込まれる危険も産むのである。

 (四)党派主義者の自己中心主義とその謬論からは何も生まれない。

 9/17をもって僕が「優先順位を変えた」ことを持って「保身のために、無責任に言説を豹変させた」と物事の本質や解決方向などどうでも良い、党派主義者、「為にする批判者」が飛び出してきている。杉嶋さんの時も飛び出してき、結局その認識が誤っていることを証明した。

 このような人々は、元々日朝友好やよど号の人々との連帯、救援などなど、どうでも良いのであり、運動が試練に晒されたり、後退してきた時、党派利害のために飛び出してきて、餌を漁らんとする人達なのである。

 一体このような党派主義者、反スターリン主義を掲げたスターリン主義者まがいの人々がいかほどの日朝連帯、友好運動をやってきたであろうか。「よど号」グループと連帯し、体を張って闘ってきたであろうか。何もやってない!彼等はアジア独特の諸国・諸民族の歴史的諸事情から発生した革命思想、毛沢東思想、ホー・チー・ミン思想、チュチェ思想を「反革命のスターリン思想」と規定し「元々間違っていた」と断定してきたのである。だから「よど号グループ」との連帯も日朝友好の運動ももともと必要とは思っていないのである。

 そして、いま運動が再編成の時期にいたり、刺激的事態が現出し始め、民衆が関心を持ち始めると、「俺達にも一枚かませろ」と出張って来、トクトクと「自分たちが正しかった」と我田引水しようとするのである。

 彼等のとっては、何故に朝鮮革命が歪みを生じ、何故今行きつまり、今どの様な路線、思想転換をしようとしているのか、どの様な路線転換が必要とされているのか、日朝両国人民・民族はどの様な連帯、どの様な民族和解が必要なのか、「よど号」グループはどの様な歪みを持って革命的に闘ってきたのか、歪みや過ちはどの様に正されるべきか等何の問題意識もないのである。

 このような行動を党派主義と言うのである。
                   10/22