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     *「日本列島ウラ情報Vol.3」 マイウェイ出版から

赤軍派元議長 塩見孝也(「赤字」)インタビュー 聞き手 本橋信宏(ー黒字)


 新左翼運動の最過激派、赤軍派の最高同指導者だったのが、塩見孝也議長そのひとである。
 破防法違反・凶器準備集合罪等々で懲役20年の刑をうたれ、満期で出所した。男子を産んだ奥さんは、ずっと待った。
 時が時なら、「日本のレーニン」とよばれた塩見孝也氏も、歓呼の声でむかえられたのだろうが、ときあたかも社会主義国家群の相次ぐ崩壊で、マルクス主義も左翼運動も衰退のさなかにあり、出所後の塩見氏に苦闘の日々がつづいた。
 かつての仲間たち−よど号八イジャックメンパー、あさま山荘銃撃戦の同志−との関係や思想闘争で、批判の矢面に立つことにもなった。
 赤軍派をひきいて首相官邸を武装制圧するという途方もない計画をたて、実行寸前まていった。仲問たちはよど号ハイジャックで北朝鮮に飛び、またアラフブに飛び、国内に残つたメンバーは革命左派と合流し、あの連合赤軍事件を引き起こした。
 1970年前後、日本はこの男の言動て激震していた。
 長期投獄では、拘禁ノイローゼになる囚人もいるが、塩見氏はよく持ちこたえた。厳正独居房というひとりだけの牢獄で寝起きし、ぎりぎりの状態で思索の世界を構築しつつ、出所した。
 その問、自主日本の会を立ち上げて、思想にとらわれない広範な人脈であらたな政治運動をおこそうと動いた。
 過酷な獄中生活にありながら、精神は持ちこたえものの、変形脊椎症と骨粗繋症になり、今度は心臓にきた。

 −心臓のほうはどうですか?健康そうに見えますが。

 「僕ぱいつも健康ですよ。心筋揮塞で倒れてから、心臓にパイパス手術するという抜本的治療だったから。ここの(左太股をさして)血管をとって心臓に移植したんです。ハイパス手術がよかった。成功したんだ。胸開いて5カ所にハイパスやった。持々、太股の静脈とった2本のところがむくんで痛くなる。医者は、泳ごうと走ろうと喧嘩しようといいと。ま、そういう話ぱいいですよ。あとぱウォーキング。毎日朝ター時間歩くと、す−っとする。心臓に悪影響あたえたのは、朝鮮問題とやっぱりタパコですね」

 といいつつ、セーラムライトをとりだして、フーと紫煙をうまそうに吐き出した。ニコチンがもっとも低いこのタバコを選んだことが、塩見氏のせめてもの健康への配慮であった。

 「論文書いたり議論すると、2箱吸うなあ。よど号の彼らと議論してると、彼らはむこう(朝鮮国)に忠美でないといけないが、僕はちがうんで堂々巡りしてる。長年の同志でもありこれからも同志だけど、別々に進んで行くという話になる。それがつらかつた。ちようどタイで逮捕された国中義三が帰ってくる時だったから。田中ぱ帰ってきて、日本中心で考えていくかと思ったら、発想がそう(北朝鮮中心に)なっちやってるから、朝鮮在住中心の輪からぬけられない。そういう問題がからんでいた。人間関係も停滞していく、それがつらい。いま、僕ぱきちっと人間自主、民族自主、人民大衆中心で考えているんだけど、彼らぱ朝鮮流チュチェ思想そのものてす。僕はよど号グループと一線画したんです。これからは塩見式自主論の立場をもって朝鮮とかかわっていく。『塩見は朝鮮に入れあげている』という人もいたけど、ちがうんです」

 1970年、よど号を八イジャックして北朝鮮に飛んだかっての仲間たちと、このところ拉致問題で快をわかった状態にある。

 「僕は拉致はあると思ってなかったから。朝鮮はそんなことはしないと思ってたから」

 −幻想があった?

 「あったということでしようね。96年ごろ、よど号の同志たちに問いただしに行ったんです。写真(ヨーロッパで石岡さんがよど号の妻たちと撮った物)が94年ごろ公開された。最初、僕はオルグのために朝鮮につれてきたんであって強制的に連れてきたとは思ってなかった。そしたらよど号メンバーがヨーロッパでの拉致に関わっていると騒きになってきたんで、北朝鮮にいる赤木君に『噂の真相』で反論書くからと、電話をかけた。僕はひとはだ脱ごうとした。すると『これはまずいから黙っていてくれ』という言い方だった。なんで黙っていてくれなんだってびっくりした。写真に写っている男の人(石岡さん)が朝鮮にいるということになったので問いただしに行ったんです。そしたら小西が言ったのは『オルグしきれなくなって、朝鮮労働党がでてきたので自分たちの手のとどかないところにいった』ということだった」

 −有本さん、石岡さん、松木さん、そして横田めぐみさんの存在を実は、塩見さんも知ってたんじやないてすか?横田めぐみさんの噂は現地でなかったんでずか?

 「知らなかった。ノータッチだよ。でも気になったよ。石岡さんのことは」

 「石岡さんの話を聞いた」という証言をしたことで、塩見氏は仲間を裏切ったと、このところ批判されている。しかし、北朝鮮にみずから進んて行った人間と、無理矢理っれられていった人間とでは、やはり後者にまっさきに救いの手をさしのべるのは、弱者救済という左翼の行動原理に照らせぱ、至極当然の行動てあろう。塩見氏のとった選択は、批判されるべきものではない。

 −安倍晋三官房副長官、平沢勝栄氏といったタカ派の活躍ぱかりめだつ拉致問題でずが、北朝鮮に関してはずっと深く関わってきた塩見さんこそ、率先して拉致問題解決にかかわって、尽力ずべきではないですか。 「おれが案内する!」と、言ってみては?

 「それはそう。日朝関係も動き出したらいっペんに動き出しますよ。拉致問題も。僕もやらなけれぱ」

 −政府、外務省あたりが北朝鮮との交渉で、塩見さんにアドパイスを受けるために接触したことは?

 「ないことはない。あとはオフレコ、答られない。いま必要なのは民間の交流なんだよ。それがあると動くよ。まだその段階なんです」

 11月初めをめどに、塩見氏は平壌にむけて展望のみえてこない日朝関係に風穴を開けようと、「訪朝平和義士団」なる300人の大旅行団を組もうとしているところだ。まず9月初めに第一次の訪朝をめざしている。

 訪朝団がはたして実現するか、流動的だ。

 話は連合赤軍問題になった。

 「連赤問題、やりましよう!植垣君が何言ったのか知らないけど、山岳根拠地で仲間たちを前にして森(恒夫)が共産主義化を言い出したのも、パックにぱ塩見の理論があったからだ、と言ってます」

 〃共産主義化〃という言葉をもちいて、森恒夫や永田洋子が、メンバーだちに自己批判をもとめ、凄惨なリンチ殺人がおこなわれた。共産主義化を唱えだした最初の人物は塩見孝也だ、として、元メンパーだった永田さんや植垣康博氏は塩見氏を批判してきた。『赤軍派始末記』(彩流社)はこれの反論の書てある。

 「『共産主義化』論は塩見が最初に提唱したのではない。又、それは人それぞれで内容は違っていたが、自己権力を固める為の〃同志殺し〃の『粛清』をいずれも肯定しない。赤軍派と合流した革命左派、つまり毛沢東派は関係なく、『共産主義化』路線に従っただけというわけです。だったらその前におきた革命左派の印旛沼の2名の同志への処刑はいったいなんだったのか?革左は革命根拠地を山に設定して、そこが権力側にぱれるから仲問たちを口封じで殺った。スバイと嫌疑をかけて。『山岳根拠地化』判断は革命左派以外できない。赤軍派にはできっこないですよ。はっきりしてます。赤軍派は都市ゲリラや山谷での戦いがでてくるけど、革命左派のように山に籠もるなんてのは絶対に戦略としてでてこない。革命左派の山岳根拠地理論は毛沢東の中国革命の教条主義で思いついたことなんです。
 もうひとつ、革命左派との論争では、スタ‐リン主義を防衛する、粛清論を防衛すると革左は言っていました。僕たちは否定していたけど。永田洋子さんが踏み切ったものです。組織討論して踏み切ったと彼女も言ってますが。革命のために、組織防衛のために、同志だった人間を殺す、こういう構造が思想構造のなかにあるんですよ。現に革命左派の指導者だった川島豪氏も『整風(粛清)すべきだ』と実際につかっています。要するに〃殺せ〃ということです。それを永田さんが独走したのか知らないけど、山岳での12名の殺害前に印旛沼での処刑があったということですよ。まずこれが前提です。
 その次になにがあるかというと、野合の問題があるということ。赤軍派と革命左派、路線がちがうのに、野合しようとした。トロキズムとスターリン主義、新左翼と反米愛国社会主義革命の野合です。森は孤立していく。永田さんも孤立していく。路線の問題を抜きにして、野合していっしよになろう、と新党をっくろうとするその為に、銃による殲滅戦になっていく。
 自己防衛のために極左の旗を掲げてやる、その展開構造をみると、最初に革命左派の3人が殺されていきました。反対するやっが殺られている。川島豪氏の意見書をもっていって、それに新党反対が書かれているのが公開されるのがまずいわけです。反対を排除していくのがあの仲問殺しにあったんです。革命的意識をっくるために、リンチやしごきをした、と世間では見られているけど、深く分析すると、追いっめられて野合新党をつくろうとしたこと。工ゴイズムの自己権力を作り上げようとしておきたことです。根本は毛沢東思想のなかにあるスターリン主義、それが日本のなかで実験されて爆発したんです」


 −塩見さんが生前、よく知っていだメンパーは?

 「遠山、山田、行方……3人知っています」

 ー親しい人間が親しい人間に殺されてしまうという悲劇を当時、どう受けとめましたか?

 「みんな泣いてましたね。僕も泣きましたよ」

 ー悔しくて?悲しくて?

 「悔しいというか……。一番感じたのは、愛がなかつたということ。なんで同志をたいせつにしなかつたのか……。しかし、決して『殺した人が殺されている』、皆んな責任がある、と見るのはおかしいのです。あの山岳で、武装した指導部に誰が逆らえるでしよう。指名されたら殺されざるを得ず、他の人はは意に反し殺しに参画せざるを得なかったのです」

 ー愛と一言っただけで、反革命、プルジョア的と総括されたんでしようね。

 「昔、あの世界ではね。マルクス主義を突き詰めていったら、やっぱり資本主義批判は正しい。労働者は賃金奴隷で資本家は悪い。そういう憎悪の観点はものすご発達している。ところが仲間を愛して団結させて、敵をもおなじ人間として溶解させ仲間にしていく、そういう思想がないんですよ。階級闘争至上論でいつたら、いつまでも敵か味方かなんです。敵は殺す、へつらうものは味方にする。スタ−リン主義はマルクス主義と無関係ではないんです。暴力革命、プロレタリア独裁、そのために中央集権の革命家の党。つまり非和解的対立、プロ独、党内部で粛清、というのがかならずでてくる。〃清く正しく人を殺せ〃という論理になる。そういう論理をどこで越えるのか。階級闘争の前に人間には共同体があつてそのなかに資本主義がある。共同体と人間を大切にして、資本主義を変えていくことこそ大切だったんです。マルクス思想にはこの前提があるんだが、理論的に展聞してない。資本主義批判しかしてない。絶対的憎悪の哲学になつてしまう。弁証法的唯物論では、人間は唯物。物なら殺してまたつくれぜいいとなる。弁証法的唯物論は、決定論でしよう。それを知ってる最高指導者はすべてを知つてるわけだから、人民は黙つてついていくしかないことになる。スターリンが一番えらい。あとをついていくしかない。逆らったら殺される。神になつてしまつている。朝鮮も弁証法的唯物論の流れにあるんです」

 −塩見さんがもしあそこにいたら?

 「僕はみんなが山に行ってるとは思つてもいなかったですよ。革命左派は知ってたかもしれないけど、僕はガンガン都市ゲリラ路線をやってると思つていたから。山岳根拠地路線なんか夢にも思つていなかつたから。
 ただ、永田さんの革命左派の機関紙『解放の旗』に、6月ころ『自分たちは根拠地問題を解決した』と書いてあったんです。その時はなんのことかわがらなくて、疑問符として残っていた。その時点でもうすでに山に入ってたんです。こっちはまさか行つてるなんてわからなかった。森恒夫も都市でウロウロしてる、と。山は一時避難の隠れ場所で、軍事訓練の場所だった。そこでだんだん気持ちのいい権力を持つた小社会だ、と指導部は錯覚していつたのだと思う」


 ーその前に赤軍派がやろうとした首相官邸武装制圧では、以後の展望はあったのてすか?

 「制圧に成功していなくても、武装トラックで権力中枢に接近すれぱ銃撃戦までいく可能性があった。爆弾と銃をもって、機動隊の阻止線で遭遇戦をするつもりだった。ところが僕たちはその前、大菩薩峠でやられてしまった」

 −ベトナム戦争のテト攻勢のようなものてすね。

 「そうですよ、そういう感覚だった。とても、銃撃戦をやつた。そういう意味で英雄だと思っている。つぶれたかもしれないけど、プントや新左翼の最低限の名誉をまもったと思っている。その上で、より完璧になるための自己批判です。『やるべきじやなかった』と言つてる連中は困つた人たちです。僕は日本の民衆の名に於いて、その意味では天にむかって自己批判してるんであって、武装闘争やらなかつた人たちに土下座してるんじやない。大衆にたいして自己批判してるんであって、日和つた人に自己批判してるわけじやない。重信房子さんもふくめて監獄にいる達中は英雄であって、これから影響力あたえる時がきっとくる。(重信)メイちゃんなんか可能性があるでしよう」

 ーいまと当時の青年をくらべて変わったと感じますか?

 「当時は疎外感というのがあつて、マルクス主義とドッキングして動いた。今はマルクス主義を丸々手本にするわけにいかない。しかし『侵略をしない』『人間を大切にする』『人間らしく自主的に生き、隣人と社会に役に立ち、愛される』と言った根本は今の若者と同じです。だから、必ず、これを原点にして新しいマルクス主義を超克した革命的世界観、哲学、路線を今の青年たちは創ってゆくでしよう。それが僕が描いている人間自主の哲学と推察しています」

 苦悩の中に一抹の笑顔ありき。
 去る者がいれば、いまもなお、氏を慕う若者が集う。かつての同志たちとのきずなを矢いかけることに苦悩しつつ、世紀をまたき、夢をつないでいく。
 62歳の男は枯淡の境地に達しつつも、今も現役であった。