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我が反米愛国戦士
見沢知廉同志 追悼

                    塩見孝也


 見沢知廉が9月7日亡くなりました。享年46歳。

 新聞、その他のメディアでは「飛び降り自殺」と報道されていました。

 残念、無念なことです。

 彼を最後まで、面倒見し、最後を見届けられた御母堂と奥様に、心からお悔やみし、ご愁傷様と言いたいです。

 又、悲しみを乗り越え、悲しみを力に変え、力強く生き抜いてくださることを切望します。

 9月12日、それまで予定されていた鈴木邦男、パンタさん、見沢知廉の三氏のトークセッション(高田馬場「トリックスター」)が、急遽「見沢知廉を偲ぶ会」に切り換えられる形でもたれました。真摯にして、しめやかなものでした。

 僕も急遽出席し、発言しました。

 僕と見沢は、「よど号グループ」が朝鮮の地から提唱し、それを日本で受けた、僕などが提唱しなおし、推進してきた、6年間、年一回続いた「9・2集会」を基軸にした、左右の壁を越えた反米愛国の統一戦線作りの同志であり、ある種の気が置けない弟分的政論相手、という関係でした。

 「9・2集会」は、各回ごとに、話題を振りまき、左右連合の、強力なインパクションになったと思います。

 見沢や木村三浩氏は、朝鮮国にも行き、「よど号」グループとも会っています。

 おそらく、右翼を公然と自称する人で、最初に朝鮮国に言った最初の人たちではないでしょうか。この、流れを受けて、雨宮カリンさんなどが朝鮮国に行ったのでした。

 出会いは、見沢が出獄し、すぐに電話を掛けて来、高田の馬場で会いました。それからの、付き合いでした。多分、一水会関係では、最初、左から出発した点で、一番政治討論したりし、理論的問題を話し合った人と言えます。

 ソシュールとかフーコーとかデリダ、とかネグリなど構造主義やポストモダン系の人々の議論が出来たのは、右翼では、彼ぐらいだったのではないでしょうか?

 気が置けない、ということで言えば、彼と付き合い始めてから、ずっとそんな間柄でしたが、この1〜2年は、彼と僕は電話友達であったわけです。政治討論や理論討論の相手、全体の状況把握をするための情報を提供してくれ、その解説が出来る人に、多分飢えていたのでしょう。

 僕は、窮状や病状の打開に少しでも役立てば、と彼の気負った論争吹っかけに気軽に応じてきたのでした。

 実は、僕は、亡くなる4〜5日前も真夜中、彼が電話を掛けて来、民族論や日本安全保障=防衛論、改憲について、激論し、家族に顰蹙され、家の外の畑の真ん中に出て、一時間余も議論していたのです。

 僕には、僕の懐具合をよく知っている彼は、さすがに「金を貸してくれ」とは言いませんでした。

 そのかわりに、「日本の反米愛国運動は、これからどうなるのだろう」「自分の役どころは何なのでしょう」と聞いてくるのに対して、「これからが、貴方の出番で、年齢的に油の乗り切った時期に入るのだから、頑張らなければ。俺たち、団塊の世代の、後を継いでもらわないと困る。君はそれを担える数少ない人の一人だ」と激励してやりました。

 大分、安心し、心を和ませていたようです。
 
 とは言っても、彼の訃報に接し、本当は、僕は驚かなかった、というか、普通の人のように悲しみの感情が素直に迸(ほとばし)り出ませんでした。

 こう説明することが、正しいのか、今も、はっきりしないのですが、ある程度までは、彼の追い詰められた、危うい「晩年」の2〜3年を正狩炎と共に比較的良く知る僕は、「さもありなん」というと、こう言えば、とても沢山の事柄が零れ落ちてしまうのですが、涙腺などの感情機能が停止し、どこかで醒めてしまって、訃報を聞いたのです。

 これは、心身障害の介護を職業としていた、正狩の職業的な醒めた目の影響や、僕のところ(「自主日本の会」)に居て、何がしかの薬物障害に犯されていたM君との関わりにおける心身の闘い、福祉における、民衆、民族、国の側の圧倒的貧困、無力状態に関しての、僕の感じている、やや絶望的気分と関係しています。

 といって、見沢が、違法な薬物による障害者などでは決してなかった事は、くれぐれも断っておきます。

 実際の付き合いは、この2〜3年、一回彼の中野のマンションに行ったりし、彼が清瀬に訪ねてきたくらいで、主として、この2〜3年は電話付き合いでした。

 欝の時や病院に入っている時は、途切れ、それが終わると電話してくるのでした。その時は躁で、テンション高く、言うことも理路整然としていました。

 彼は、大体、1〜2週間に一回位の割で、今年の春ぐらいから電話して来、最後の電話討論の、その前の回は、ある問題を巡って、「もう電話してくるな!電話を切るぞ!」と僕は怒り、「なってことを言うのだ。12年間も付き合っていて、それはないだろう」と彼は怒り返し、切った後も何度も電話を掛けて来、僕も反省し「言い過ぎた、詫びる」と激しく遣り合っていたのでした。

 僕の仕事場の電話には、「もしもし見沢ですが、いらっしゃいますか?
」という、生前の彼の留守電が、幾つも入っており、聴きなおして、感無量、というところです。

 病院から出て来て、すごく良くなったと喜んでいたら、その直後に、指を詰めたりし、又病院帰りしたり、久方振りに、九州の方から講演を依頼され、行ったものの、そこで、論争となり大喧嘩したとかも聞いています。

 僕は、見沢の最後を思うにつけ、共に反米愛国の政治、変革を目指すものとして、何故政治が、病気に勝てなかったのか、勝たせられなかったのか、病気に政治が負けたことが口惜しくてならないのです。

 この点で、僕らは、彼の「晩年」を、良い人間関係で囲んでやり、彼がぼろぼろにならないよう、もっともっと配慮してやる必要があった、と痛感しきりです。

 戦い、進撃すればするほど、味方が増え、壮健になってゆくような陣形作りの問題です。

 言い換えれば、左右の連合した反米愛国の戦士たちが、いろんな理由でエンコしかかった戦友、同志たちに注意深く目配りし、互助・福祉のロンドを組んでゆく問題です。

 逆に言えば、我々は、一時エンコしかかった同志たちを、「弱きもの」、「落伍者」として、知らんふりをして、見限ってゆくような習慣、伝統がなかったか、否かの反省の問題です。

 死んでからあれこれと追悼するのも、人の世の慣習、義務ですが、なろうことなら、死なせず、戦線復帰の手立てを、同志、仲間、友人は取るべきで、この点を我々は深く反省すべきではないでしょうか。

 この点で、正狩など立派だと思います。

 さて、この集まりが、最初の見沢追悼の集まりであったからでしょうか、見沢ゆかりの人を中心に、いろんな人が急遽駆けつけた模様です。

 予定の鈴木邦男、パンタの二氏に加え、雨宮処凛、小林義也、平野悠、加藤梅造、そして佐伯紅緒さん、早見慶子さん、僕などがパネラーとなりました。

 10月3日には、新宿ロフトプラスワンで、本格的な追悼会をおこないました。

 それより後、10月19日(水)、19時、「ネイキッドロフト」で、彼と同世代の大熊雄次、古沢俊一さんらが「追悼、野村秀介、見沢知廉」をやります。

 また11月5日には、一水会と新潮社共催で、大規模な、威儀を正した追悼会が予定されているとのことです。
 
 さて、この集まりでは、いろんな人々が、自分との関係の中での「自分の見沢」を語りました。

 「見沢を追悼する」「見沢を偲ぶ」とは、見沢を贔屓の引き倒し風に天まで持ち上げることでもなければ、反対に目茶目茶にこき下ろすことでもない、と思います。

 いろんな人が、自分に照らして、自分が愛した見沢の実像を、ある面で自分をさらけ出すことで語り、等身大の見沢像を総合的に浮かび上がらせ、それを記憶、記録してゆくことではないでしょうか?

 そのことで、十分、僕等の愛すべき、反米愛国戦士にして作家の、自由奔放で、は茶目茶で、ずっこけ、繊細、知的、ナイーブそのものの坊ちゃん、それでいて、男性的で、大胆不敵なラジカリストとしての見沢のスケールの大きさ、特異な破滅型のキャラクターがイメージされてゆくのではないでしょうか?

 彼は、天来の二枚目で、女性にもてたようです。「伴妻(伴東妻三郎、ばんつま)」演ずる映画「幡髄院長兵衛」の「白井権八」に重なる、優男(やさおとこ)にして、男っぽいところがあるのです。

 正狩が記録した見沢のDVDを見て、その印象を強めました。

 ここには、彼の生い立ち、美しい母堂のお姿、良家の坊ちゃん風に育った過程、ジャンキー時代、新左翼・ブント(日向派)時代、そして新右翼時代の軌跡が手際よく、まとめられています。

 反米愛国戦士として、アジテーションしている勇姿や鉢巻、羽織・袴で木刀を見つめている姿など誠に格好いいです。

 女性には優しく、贈り物も良くしたりして、文学的なことも含め、丁寧に相談に乗っていたようです。

 本音のところで、男どもには見せない泣き言も、女性には語っていたようです。

 「借金魔」だが、何か、それに相当する贈答を、必ずやっていたようです。

 平野ロフト席亭が言うように、ドタキャンの常習者で「幾ら思い入れし、入れ込んでも、度重なってやって、こないのでどうしょうもなかった」、これは、銀座の「人形亭」のドタキャンといい、ロフト以外でも確認される事実でしょう。

 この、2〜3年は、約束の時は張り切り、心底から約束しても、後になって心身が、約束などの社会的規範の次元から、別の次元に飛んでしまう身体状況があったからなのでしょう。
 
 見沢は、最後まで孤独の魂だったと思います。「文学的挫折」という人もいます。それも、一理あります。

 僕は、彼の文学を、それほど研究してないし、作家として彼を論じるつもりも今はありません。多分、彼は才能ある、民族派右翼の抵抗文学者といえるのでしょうが。

 それよりは、やはり、彼の死は、紛れもなく政治的事柄と思います。現在の愚かしい小泉政治の猖獗に対する、抗議の憤死と僕は思いたいのです。

 孤独な魂の、その魂らしい、ただ一人の孤独な決起と思いたいのです。

 今のような時代閉塞のご時世では、ダイナミックでオーソドックスな思想的、政治的、理論的陣形を持って望むことは非常に難しい。革命運動における、パラダイム転換が必要とされて久しいのです。

 見沢は、文学的煩悶もあったでしょうが、このパラダイム転換に、「“新しいマインカンプ(「我が闘争」”を書くのだ」と意気がり、僕の自主革命論と噛み合わせようとして、この壮大な課題に、何とか挑戦し、戦っていたのでした。その途上での、憤死と、僕は見たいのです。

 それは、政治的野心、と言えるかもしれないし、愛国の志の登り詰め、沸騰し、凝縮した行き着く先と言えるかもしれません。或いは、矢折れ、弾尽きた後の自決と言えるかもしれません。

 そんなことは、僕には、どうでも良いのです。確認しなければ、ならないのは、その彼にとってのその企図の異常な重さ、深さのことです。

 彼は、左から右に移行した魂の歴史があります。これは、これで、思想上、政治上の荒業(あらわざ)で、結構精神的トラウマを残します。

 更に、僕は、その真相はよく知りませんが、「スパイ殺し」といわれる、左の連合赤軍問題に類似する、民族派右翼世界での「連赤問題」を抱えていたこと、それ故の12年間の投獄の歴史があります。

 この、二つの重さ、深さ、トラウマは、解析されきれないまま、かれの魂の奥深くに滾り、降り積もって、いつも彷徨していただろうことは、ある面で似たような体験をし、似たような軌跡を持つ僕には容易に看守されることなのです。

 連合赤軍問題は、社会問題として、取り上げられ、左翼内部で、この30数年間とり上げられ続け、公的、集団的に論じられ、ある段階での決着が付きつつありますが、見沢が抱える問題は、果たして見沢だけに背負い込まされないで、集団的に解決されたでしょうか?

 彼の孤独な魂は癒されることが果たしてあったのでしょうか?

この、孤独な魂を暫し、癒したのが文学ではなかったのでしょうか?

 見沢の死を思うに付け、思い出すのは、元「日本赤軍」系活動家、救援活動家、日本・パレスチナの国際連帯を追及し続けてきた桧森同志の、日比谷公園での、ガソリンを被っての焼身自殺です。4年ほど前のことです。

 日本赤軍は、国際情勢の転換の中で、日本重視に転換し、そのリーダーの重信さんも帰国し、獄に繋がれました。「日本赤軍」は、正式に解散しました。このような、国際主義的連帯運動の転換期、それは、ある面での後退、ある面での潰走期でもありました。

 パレスチナでも自爆テロが横行し、檜森は、この壊走の只中で、勇敢にも、国際主義を貫こうとして、ただ一人焼身自決の挙に出たのです。ある面で、潰走の中での憤死と言えます。

 何故なら、彼もまた、精神のトラウマを抱えていたのです。それは、あの奥平、山田、岡本の三戦士のリッダ闘争に同行する予定が、様々な都合で、「日本に帰国して、その戦いを報告せよ」と、彼の意に反して命ぜられ、帰国した事情があったこと。

 死に場所を外されてしまった彼にとって、その後は、同志の3戦士を想う余命のようなものだったのです。

 左の、檜森、右の見沢、僕にとってはいずれも象徴的な同志です。共に、時代閉塞の状況で憤死したのです。

 このような時代状況では、世を憂う、トラウマを抱えた孤独の魂は、ある面では革命的テロか、憤死かの挙に行き着く、必然が、情念だけで見ればあるのです。 

 そうは言っても、僕はなにもテロや憤死をそのまま推奨しているのではありません。そればかりか、基本的には、こういった行為については、断固たる否定的立場にあります。
 それでも、僕は見沢の憤死を心から悼み、彼の憂国、雄渾な精神、人となりを、汨羅江(べきらこう)に身を投げた、かつての楚の愛国者にして詩人、屈原の如く推奨したいのです。

 何故でしょう。それは以下の見地からです。

 二人には、何物にも捉われない、自主・自足・自尊の精神があり、義に徹する崇高な勇魂があるからです。

 この魂こそが、反米愛国の統一戦線とその統合司令部作りの原動力にされねばならぬ、という意味合いにおいてです。

 ひとたび、このような事業が、軌道に乗るや、日本民衆、日本人、日本国民の真の愛国心は燃え上がり、燎原の火となって広がって行くでしょう。    

 パトリオットは、より一層、自主愛国・反侵略・反米愛国の協同の大規模な統一戦線を拡大しなければならないこと、左右の垣根を越えたパトリオットの統合司令部こそ作り出さねばならぬこと、そのことによって、より一層広汎に民衆と結合し、広汎な政治闘争を中心に、集団化され、組織化された力で持って、従属・売国、従属覇権の政権に挑戦してゆかなければなりません。

 この統一戦線は左右の人士が、この反米愛国の基本観点で「小異を残し、大同につき」協力すると同時に、社会革命を目指す「持ち場で奮闘する」志向を持ち、又権力によって飼いならされた民主主義ではなく、その偽善性を剥ぎ取ってゆく、“闘う民主主義”闘争を内包し、それに最初に述べた福祉・互助の運動を内包したものでなければなりません。

  このような統一戦線の中に、見沢や檜森のようなトラウマを持った孤独な魂は安らぎ、癒され、復活し、統一戦線と統合司令部作りの源動力とされるべきだと思うからです。

 見沢や檜森の彷徨い、咆哮する義憤、勇魂の孤独な魂は、ここでこそ、最後の落ちついた、定まった場所を得て、安らぎ、癒され、輝いてゆきます。

 僕等は、それを追及し、実現するよう努力することで、反米愛国の戦士、見沢知廉の供養としなければならないだろう。我々は、これを、必ず実現する。

 見沢よ!安らかに眠れ!

       2005年10月5日