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今臨時国会で「共謀罪」が成立する危険について警戒するように
皆さんに訴えます ― 「共謀罪」を批判する

             塩見孝也

(一)「共謀罪」の画策を知って

僕は「監獄記」を最終的に書き上げた、9月半ば頃、友人と新宿ゴールデン街の飲み屋に行きました。

その店はある左翼系のサークルの青年たちが屯し、マスターもイラク反戦などを推進する青年でした。棚にレーニン全集が安置されフランス革命のジャコバン党の旗が飾られていたのには、少々驚きました。

そのマスターが、「共謀罪」のことで『情況』に投稿したい、と連れのO君に申し込み、それでひとしきり、この法律の件で議論になりました。

僕も、風の便りでこの件については耳に挟んでいましたので、このことと関連させて僕の「破防法」や「共謀共同正犯」論による被弾圧体験について述べました。

これは、「監獄記」で書いたことの再現ではありましたが、大分力が入っていました。

それから、暫くして「共謀罪」に反対する集会に参加しました。

これは、弁護士の海渡雄一さんや沢山の早くから、この法律の危険性を察知し、警戒を訴えてきた人々によって主催され、社民党の福島さんや日本共産党系の人々や個人情報保護法案に反対してきた人々、民主党の代議士の方や法律家のメッセージもあり、人数はさほどでもなかったのですが、内容は非常に良かったと思います。

パロディストのマッド・アマノさんも挨拶しました。ユニークな面白く分かりやすい展開で会場を沸かせました。僕も飛び入りで発言しました。

 販売されていた資料は非常に立派なものでした。

「話し合うことが罪になる!――――冗談も言えない『共謀法』入門」と題したものですが、核心が分かりやすく要約され、対談も簡にして要、各弁護士会の態度、法律草案も掲載されたコンパクトなものでした。

 これを読んだり、講演を聞いたり、議論をする中で、僕は「共謀罪」の本質、狙いや提起の歴史的経過、その影響、国際、国内情勢の中での意義ら、よりすっきりと掴めるようになりました。

 (二)思想を裁く/予防的治安対策/監視と密告の常態化/権力による情報管理/、社会の偽善、堕落、戦争体制準備――――「共謀罪」の四つの本質

これは、ブッシュのイラク侵略、占領、支配が続き、小泉政権が自衛隊をイラクに派兵する事態、「集団自衛権」の承認の動き、米朝、日朝関係の反映、[ 「日の丸」「君が代」「国旗・国家法制化」や盗聴法制定、サイバー犯罪に関する条約、個人情報保護法案、住基ネット、新予防拘禁法、監獄法「改正」法や代用監獄の法制化等に伴う、司法・行刑の反動化ら一連の軒並みの治安反動立法の制定の流れ、の政治状況の中でも、この「共謀法」は横綱級の治安反動立法であり、これらの諸状況を集約しつつ、日本社会の在り様を根本から変えてしまう程の悪法である、と分かりました。

国連で発布された「越境組織犯罪防止条約」の批准に伴って、提出された「関連法だ」と法務省は言っていますが、(この条約自身、アメリカの侵略、覇権を不問にし、これに反対する“テロリズム”とアメリカらが規定する反米、反帝国主義、反覇権の抵抗武装闘争を取りまる性格なのですが)それは名文で、この法律はそれとも関連していますが、日本独自な治安反動法といえます。

2003年に一度法制化が試みられ、見送られたとのことでした。

○1近代法の基本原理である「思想を裁くのではなく、行為を裁く」罪刑法定主義に背反し、国家が公民の基本的権利である思想、信条を裁く性質のものである。

国家、国家権力が個人の内面に踏み込み、干渉、統制する性質のものである。

○2徹頭徹尾予防弾圧的性質の法律である。つまり、「何々するおそれがある」と国家が認定すれば、その行為がない以前で、その人、仲間、集団が『話し合っていた』というだけで「罪を犯した」とすることが出来る法律である。

一般に犯罪の遂行を思いついてから、結果が発生するまでには次の段階が考えられます。

1、 共謀=犯罪の合意
2、 予備=具体的な準備
3、 未遂=犯罪の実行の着手
4、 既遂=犯罪の結果の発生
  普通、罪刑法定主義の原理では○4が刑罰の対象です。○3については殺人未遂ら超重大なものに限られますが、それでもその適用には慎重さが求められます。 

  ○2の予備罪の適用ともなれば、これまで、思想・信条の自由と抵触する危険あり、として、その適用には慎重さが要求され、厳しい制限が施され、きわめて重大な犯罪、殺人とか強盗、爆弾関係とかに限られていました。

 ○1の「共謀」についても、思想信条の自由に加え、結社の自由らと抵触する危険に鑑み、その法律、「共謀共同正犯」論の適用についても、具体的な事実証拠の典挙が条件になっていました。

 もちろん、この法律は初め、暴力団のボスの検挙を名文に適用、実施されて行き、それが70年闘争では新左翼の闘争弾圧に濫用され、このような際は「事実証拠もへったくれもない」状況を呈しました。

このような状態に関しては僕のことにも関係しているので後で触れます。

 しかし、法律的建前はそうであったのでした。

ところが、今回の「共謀法」はこのような条件をすっ飛ばして、準備を含む実行行為が着手されていなくても、「犯罪」の「合意」が成立したと認定されれば「罪」が成立する、ことを本質としたものになっていることです。

 こういう性質であれば、「何々するおそれ、がある」とその「話し合い」を、国家が認定すれば、具体的な準備の論証抜きにでも「罪をなした」とすることが出来る構成になっているわけです。

 これでは、予防を名文に基本的人権の根本、人間の本性たる自主性を保障する「思想・信条の自由」「集会・結社の自由」は侵されてしまいますし、刑法の基本原理である「罪刑法定主義」も骨抜きになってしまいます。 ○3さらに、これでは、560近くに至る刑法やそれ以外の公民の日常生活に関連する商法や消費税法、水道法、道路交通法などの広範囲な法律に触れる犯罪が対象とされている以上、公民の思想、信条、日常生活は全般的に監視と密告、裏切りで覆われることになります。

○4このような「思想・信条を裁く」性質のものであれば、その取調べは証拠を挙げ得ないものとなり、自白偏重となり、代用監獄は濫用され、取調べ,起訴は本人以外の「共謀者」の調書中心になったり、盗聴やコンピューター、パソコンへの権力の無制限な乱入となったりし、盗聴法や「個人情報保護法」、住民基本台帳の整備らとリンクされ、これらの法律はこれまで危惧された危険をいっそう具体的に発現してゆくこととなります。

 注目しなければならないのは、このような性質からして、自首などの任意出頭者の共謀者は優遇され、無罪か著しくその「罪」が減免される規定があるがゆえに、つまり一種のアメリカ式「司法取引」が持ち込まれることです。そうすれば、人間関係における裏切り、密告が常態化し、一見和やかな市民生活の裏面で著しく思想、政治面での自主規制が進行し、社会全般の道徳的堕落、権力偏重の偽善が生み出されてゆくことになります。

 (三)治安維持法、破防法、「共謀共同正犯」論を現代に即し発展させ、より反動的にそれらを越えんとする「共謀法」

 これまで、このような性質の罪刑法定主義の原理に反し、国家が個人の思想・信条を統制する法律は戦後では「破壊活動防止法」と「共謀共同正犯論」の二つがありました。

 戦前では「天皇制」と「私有財産制」を批判する思想を持つ個人を、それ自体で持って「有罪」とする、悪名高き「治安維持法」がありました。

 この治安維持法が、始めはコミュニストに適用されつつも、その後はリベラリストや宗教者などに拡大され、侵略戦争、帝国主義戦争、国家主義、ファシズムの跋扈に向け猛威を振るったのは周知の事実です。

この治安維持法は、戦後悪法として廃止されましたが、その代わりとして「公共の安全を害する」思想を持つものを「悪」とする破壊活動防止法が、朝鮮戦争のさなかに制定されました。

 しかし、この破防法は余りに思想抑圧が見え々で、大上段過ぎ、物議を醸しすぎ、戦後発動されたのは70年闘争の際の革共同(中核派)やブント(第二次共産同)、そして赤軍派への3件だけであり、三里塚反対同盟、戸村一作氏にも発動されずじまいで、オームに対しても物議を醸しすぎ発動されずじまいでした。

 70年闘争の際も威力を発揮したのは、破防法ではなく、実際は小回りが効き、即戦力の実効性を持った「共謀共同正犯」法でした。

これが、「凶器準備結集罪」や「爆発物取締り罰則法」「火炎瓶法」などと併合され猛威を振るったわけです。  しかし、この法律ですら、罪刑法定主義の枠組みを建前としていますから、一定の事実検証が条件と前提とされ、面倒さが必要とされます。

 このような事情の中で、治安維持法や破防法のようにストレートな思想統制の性格を原理的に持ち、「共謀共同正犯」論のように小回りも効き、実効性もある、いわば「孫悟空の如意棒」のように変幻自在し、伸縮自在に予防性も併せ持つ性質の強力な治安弾圧法が国家権力には要求されることとなります。

 それが今回の「共謀法」であるわけです。

(四)憲法理念や罪刑法定主義の原理を弊履視する二つの風潮批判

このような、大上段でなく、実際法的性格を持ちつつも、思想統制が見え見得で、憲法の基本原理や罪刑法定主義の原理を真っ向から否定するような治安立法が、正面から押し出されてくることは、余りに「異常」と思えますが、それには、それ相当の社会的根拠があるように思えます。

その根拠を二つほど挙げておきます。

一つは、資本主義的爛熟の意味合いでの日本社会の保守化の要因です。

対米従属が深まり、アメリカ主導のアメリカ式グローバリズム化が日本社会で深まり、市場原理第一に根をおく、拝金主義、個人利己主義、快楽主義が日本社会を全幅的に覆い、このような性質での保守化が進展しています。

民衆が「自己中」に陥り、政治に無関心になる中で、社会全般が無気力状況に陥り、そこに自民党政治が付け込み、憲法の理念や憲法の4大原則○A主権在民○B基本的人権○C恒久平和○D代議制民主主義などの民主主義的価値観が拝金主義、個人利己主義のほうに疎外され、生命力を失ったり、歪曲されたりし、憲法改「正」意見が多数を占めるほどになってきているわけです。

二つは、一つ目と連関しつつ、戦後公然たる海外派兵がブッシュ・アメリカ帝国主義に従属しつつ、イラク出兵として実行され、「集団安保」「集団自衛」の名文で平和主義の基本理念を、九条「改正」の方向で「解体しても良い」といった戦争是認の雰囲気が帝国主義権力からの強要、その民衆の側での「許容」として蔓延していることです。

こういった風潮の中で、憲法の基本原理に真っ向から挑戦するようなとんでもない治安弾圧の超悪法が、あからさまに提出され始めてきている、と捉えられます。

 この問題は煎じ詰めれば、対米従属下での帝国主義復活の問題であり、民衆の側から見れば、憲法の基本理念、基本原理擁護派が今まで不問にし、思考停止してきた民族や安全保障、自衛の問題に、あくまで日米安保反対、安保体制打破を前提に積極的な方向性、提案を出し、活路を開いてゆくことに怠慢であったことに因ります。 これまでの冷戦体制下での「中立論(実際は“社会主義”に寄生した)」や「護憲論」に保守、安住し、何もなしてこなかったことに因る問題でもあるともいえます。

或いは、この根底には「マルクス主義の超克」をやり遂げていない問題があります。

 そうであれば、民衆の側は、さし当たって、こういった大問題をあらゆる心ある人々が胸襟を開いて、オープン、活発に検討、議論しつつ、他方でこのような具体的な治安反動立法や海外派兵の動きに鋭意、執拗に反対し続け、前者の問題らに実践の中で民衆討論を積み上げ、コンセンサスを作り出してゆくことだろうと思います。 (四)僕の体験から「共謀法」に反対する

 僕が何ゆえ、この「共謀法」に拘り、重視してゆくかと言えば、それは僕の70年闘争体験とその後の20年間の監獄体験があるからです。

 僕ら赤軍派は、このような「共謀法」的弾圧をすでに30数年前に先駆的に受けていたのです。

僕は赤軍派議長として「破防法」や「共謀共同正犯」理論で徹底的に不当な弾圧を受け、今も受け続け、この「共謀法」成立で更なる犠牲を蒙る事になるからです。

 又、僕自身だけでなく、僕のかつての同志たちが、同じような弾圧を受けてきたこと、そればかりでなく今も超重刑、極刑の現在進行形の弾圧を受け続けているからです。

 このことは、旧赤軍派としての自業自得の、当時の未熟さの面を全く否定するものではありませんが、そればかりかそれを正しく皆さん、日本民衆に、自己批判にすべきと思い、そうしてきました。

今もその自己批判の不十分性を克服せんと努力しています。

しかし、そうだからといって、僕は国家、執権勢力の側がなした不当なこのような「共謀法」的弾圧の数々を決して忘れるわけにはゆきません。

或いは、このような超不当弾圧が基本要因となって国家、体制に超有利、民衆の側には、超不利の「粛清」と「銃撃戦」の「連合赤軍事件」が惹起された面がある、ことも敢えて触れざるを得ません。

つまり、この超不当弾圧が基本要因、背景となって、赤軍派や革命左派から非合法、非公然に分派した森君グループや永田さんグループが民衆や同志たちから孤立、分断させられ、狂乱し、「銃による殲滅戦」を名文とする「連合赤軍・野合“新党”」結成に走り、その野合故に「同志殺し」の「粛清」の致命的な過ちを惹起させた問題です。

押し並べていえば、僕ら赤軍派の栄光と汚辱、正と反の闘いの結果については、僕らに主体的責任、弾圧を跳ね返せなかった責任があることを、あくまで踏まえつつも、敢えてそのことまで含めて、現在まで続く対米従属の体制と自民党ら執権勢力(従属支配階級)とその弾圧に基本責任があると僕は考えているのです。

  僕は以下の3件で起訴され、「無期求刑」「18年判決」、合計20年の監獄生活を強制されました。

 その中には、約2年弱の超非人間的処遇である「厳正独居」処遇も含まれています。

A,69年の10・21新宿署襲撃事件での「共謀」の件
B,「よど号」事件での「順次共謀」の「共謀共同正犯」の件
C,大菩薩軍事訓練に際しての「破防法39条、40条」違反の件
 以上の3件です。

 いずれも、赤軍派が組織的になしたことは事実です。

そして、AとBに関しては僕も関係なしとしないと思っていますが、しかし法律論的には、僕は無罪と思っています。

 分けても、Bの「よど号」事件に関しての「最高指導者故の最高責任論」は全くのでっち上げ、冤罪と考えています。

なぜなら、僕は「よど号事件」が勃発する2週間前に逮捕され、その事件の前後には警視庁に留置され、取調べを受けていたのでした。

それも接見禁止を食らってです。

それを、時の政権、佐藤政府は、自己の不当なる「安保護持」「ベトナム従属侵略」から起こった「よど号事件」の失点を、隠蔽、責任転嫁すべく、僕や赤軍派幹部になすりつけようとしたのでした。

僕を不法、不当に「見せしめ」にし、権力の民衆抑圧の本質を誇示し、民衆を支配せんとしたのでした。

僕は、格好のスケープゴートにされ、赤軍派は「赤軍派構成員であることは、すなわち『犯罪者』である」と言い草で、通称「赤軍罪」なるものを振り回され、非合法化されたのでした。

あの時は、「共謀共同正犯」論と(それも「順次共謀」なる法匪的ペテンを弄しつつ)と「破防法」の適用でしたが、その実質は、まさに現在、法務官僚や小泉政権がその制定を画策している「共謀罪」実行の先駆的姿そのものであった、と考えられます。

あの時の「赤軍罪」とは「共謀罪」そのものではなかったでしょうか。

僕や赤軍派の犠牲、革命的「徹底抗戦派」の新左翼、三派系への権力の弾圧の姿を思い出せば出すほど、我々日本民衆は権力、官僚達の法匪(ほうひ)的策謀に二度と乗せられてはならないと考えるが故に、「共謀罪」制定は断じて許してはならないと思うのです。(11・17)