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イラク訪問記    塩見孝也


   2月15日11時成田を発った。KLMオランダ航空。約12時間かけアムステルダム15:00到着する。2時間ほどトランジットして16日0時ヨルダン・アンマン到着、一泊して11時アンマンーボーダー(国境)ーバグダッド約12時間の自動車行であった。

 17日午前0時頃か、バグダッド到着。これが行きの行程である。

 帰りもこれと同じ逆行程だがアンマンで5時間ぐらいの待機。アムステルダムでやはり6時間ぐらいの時間があり、市内に出る。成田には機中泊で2/24日09:25に着く。日本は春を想定していたわけだが、予想に比し雪で寒かった。

 それでも日本はいつ帰ってきても良かった。

 17日から行動開始。この日は市内行動。18日も。19〜21日がNASHO反戦会議。22日バビロン見学の後アンマンへ。そして帰国。これがバグダッドでの基本予定であった。

 2月中旬からの日本人訪問団は4団体100人にものぼった。喜納さん達の20人、僕らの37人、ジャミーラ高橋さんの市民グループ30人、ピースボート5人、その他個人で、が大体の内訳であった。

 欧米、シリア、パレスティナ、ブラジル等30数カ国外国人の3/1。欧米ではベルギイーの20人が最大部隊であった。パレスティナからはPFLPが10数人で壮んに連帯と外交のデモンストレーションをしていた。ロシア共産党も来ていた。

僕らは総勢37人。イラーキー(イラク人)を加え2〜3千人の反戦集会となった。

   3日間の集会を含む7日間の滞在であったが、当初の「戦争を起こさせない為」の意思表示は一応果たされたのでなないか。

 この間「NO BLOOD FOR OIL!」「AGAINNST WAR!」のは世界の声となっていった。

 我々は15日、出発したわけだが、空爆の危険はそのころは可能性があると言われていたのである。団長の木村の予測ではスケジュールのケツッペタの21,22頃が引っかかるかも知れない、とのことであった。

 その可能性は30%と宣った。

 この予測を前提にして、それなりに深刻な議論もした。とにかく行くことを前提にしてだが、14日(外国時間15日の零時過ぎ)の安保理の査察報告と国連の議論を見守ろう。或いは14〜15の世界の反戦闘争の推移を見てみよう、となっていた。

 日本政府は我々を牽制すべく米国のそれに呼応しつつ13,14日と国外退去勧告をまくし立て、木村の方にも通告してきた。

 我々は事態が最悪の場合はアンマンで情勢を綜合把握し、入国は個人意志に任すことを内定していた。

 僕は脱出の移動手段、車の確保を条件に空爆が確実視されない限り、入国する覚悟であった。

 旅行慣れした平野の提案で懐中電灯、ロープ、応急救護の諸材料は持っていこう、となった。中には防弾チョッキ、ナイフを用意した奴もおり、ナイフは空港検査の度に引っかかっていた。

 情勢の急変に備え、イラク内では逆に情報は限られると想定し、短波ラジオは日本から持っていこう、とも確認した。

 一番気を配ったのは車の確保であった。これはみんなの最大の関心事であった。入国し、空爆にあった場合、パニックや内乱を一応想定しておかなければならず、その際の車の確保は重大なのである。

 それも不可の場合はそれはその時、なるようにしかならない、と言った腹づもりであった。

 こういう場合は臨機応変と言うことなのだが、ドルだけは普段よりは多めに持っておこう、ということだった。 

 僕は最終判断は班長会議を踏まえてだが、木村に任す以外ない、と観念していた。

 木村が一番事情通であり、これまで「左右共闘」の長い付き合いもあり、共に、立場は違え「民族派」でもあり、「万が一」の際は一連託生、「これも運命、命預けます」と言うわけだ。周囲のことは年長者の僕と鈴木邦男さんで解決し、彼を盛り立てて行けばナントかなる、こう思っていた。

 僕がこういう、人に自分の運命を託すと言った気分、心境になったのは、これまでの人生で後にも先にもこれがタダの一回のことである。

 我々の団の基本姿勢は決して「平和の盾」「人間の盾」になりに行くのが始めから目的でなかったし、「戦争を起こさせない」メッセージを被攻撃、被侵略の当事者国のイラクの地において発する、ということであった。

 その行動が日程上、万が一、空爆に引っかかれば「仕方がない、"平和の盾"に結果としてなるのもそれはそれで良い」というモノであった。

 だからブランキズムや冒険主義とは元々無縁の位置づけをしていた訳で、無事に帰ってきたことを「"平和の盾"になるのではなかったのか」とおちょくる奴が居るがこれは勘違いか、筋違いというモノである。

 しかし一言言わせてもらうなら、それでもそれなりの勇気のいる行動ではあったのだ。

 情勢の一時的安定が見えてからノコノコ20日頃やってきた民主党の代表などはイラク政府から相手にされなかったし、政府特使すらも副議長止まりで軽くいなされたのである。

   僕らの班、3班には21才の学生のS君も居、僕も「俺達年長者と違って、君は先が長いのだから、くれぐれも無理をするな!よく考えろ!」と柄にもなく分別くさいことを言った訳だが、結局彼は地方から14日には詰めかけてきた。

 こんな覚悟でスッキリし14日、荷造り等している内に零時を過ぎ、テレビをひねったらそれが安保理のブリスク報告の最中であった。  彼の報告は「不十分だが、イラクは査察に協力的になっており、査察の延長も考えられる」というモノでった。

 それで「大丈夫」と言う大勢判断が固まった訳である。

   若干上記4団体について報告しておこう。

 喜納さんのグループは「あらゆる武器を楽器に!」をスロ−ガンとする所謂音楽を軸に非暴力を主張する集団である。音楽集会を軸に結集し、これはバクダッドでも大受けし、このイベントは全世界に報道された。さすが喜納さんである。

 僕らの集団は極めて「特異」と思われる集団である。

 団長木村、団長代理沢口友美(元自衛官の反戦ストリッパー)、顧問長年のイラク勤務のベテランK氏、副団長 塩見、鈴木 実質事務局長 平野悠 エジプト人通訳、留学生Nさん

1班 9人「一水会」系。各民族派の指導者や明治天皇の血筋を引く人も含む。班長N君。

  2班 ロフト組7人。班長M君。ボス 平野 ここにはパレスティナ献花運動のムキンポ君や電脳キツネ組の猛者、才人2人も入る。

3班 塩見組、5人。パンタさんや元第二次ブントベテラン2人や21才の学生。ベテラン二人組は会社社長でK大出身の一応のインテリ。一人は平野と並ぶ旅行のベテラン、しかし個人主義の単独主義者、一切の規則に従わず。一種の思想上の「テロリスト」「○○とはさみは使いようによる」で所を得れば「偉大な力」を発揮するが、いつも勝手に動いているからどうしょうもない。だが2〜3箇所で冴えを見せた。もう一人は先と正反対の温厚篤実の君子、英語力もテロリスト程ではないがそこそこにやる。責任感あり。面倒見も良し。人望を得る。パンタさんは有名な歌手。「マラッカ」は良かった。「世界革命戦争宣言」を歌う。人を愛する義に熱き人。21才の学生君はピースランやデモを頑張るが後半張り切りすぎダウン。重傷の腹痛に襲われる。大前研一の塾に学ぶが、この団の話を聞きつけ飛び込んで来る。 4班 雨宮組4人 「新しい神様」の著者、イラク二回目、作家雨宮かりんと映画志望の青年達、日本衣装やアラブ衣装でデモンストレーション、この班が幔幕ら用意する。

5班 Eさん組み3人 Eさん親子と元教師、現会社員、英語力、交渉力あり、難局で物怖じせず力を発揮する。

6班 TBS組み4人 男女半々。

7組 大川興行組 遅れて駆けつけるが大川豊は学生時代の応援団の経験を活かし会場で音頭をとり満場を沸かす。

 尚帰国は木村、沢口が一時残留することとなり、年長組の塩見、鈴木、金井で責任を持ち全員無事帰国するも、仮団長の塩見は張り切りすぎ、ヨルダン入国の際、ポカをやり、カメラを回し、没収されかかり、みんなに迷惑を賭け平身低頭する。

14、15日の国際反戦行動には全世界で2000万の人が決起した。ベトナム反戦行動を越える動きであった。このニュースをアマステルダムで知った。

 イラクは一つの大きな賭とも思われるが、懸命にこの反戦闘争の力に立脚しようとしている。

 我々を迎えた学生、政府、バース党は知的で、きびきびとことを運んでいた。

 バグダッド大学の学生達は極めてめて快活、冷静、開放的であった。

 他方、集会はバース党青年達と思われる諸集団から「我々はフセインに命を捧げる」「アメリカ帝国主義打倒!」といった激情が噴出し、会議は度々中断されたが、このパッションに応ずる人も居たし、醒めた目で迎える人も居た。

 劣化ウラン弾で苦しむ子供達のいる病院では目の前で一人の幼児が亡くなり、母親の哀哭の声が病院中に響き渉った。

91年の戦争がある種の核戦争で11年後の今もイラク、アメリカ双方に尾を引いている現実を見た。

二弾式ロケット・トマホークは頑丈なシェルターを破壊し、内部で爆発し、一挙400人の民間人を殺した。アフガンで爆発したバンカー爆弾はこの比ではなかったろう。

 あれから11年、人を殺す技術も日進月歩する。戦争が開始されれば前回にも増したいかほどの犠牲が生まれるのか。

 それにしてもイラク民衆はナント屈託なく陽気なことであろう。

 大人達は笑顔で手を振り、子供達は写真をねだる。物価は小生の計算では1/6か1/10。

トラヒックは間断なく、物資は豊富で可成りの国力を温存していると見えた。

こんな時、いつももう一つの国、朝鮮国との比較が脳裏をよぎる。オランダ、かの国を哀しく思った。

 それにしてもこの陽気さはどこからくるのだろう。

 必死の気分、悲壮さが全然感じられないのである。

 戦争馴れ?国民性?それとも外面だけで、内面では様々な不安としたたかな計算が渦巻いているのであろうか?

 素人目にはフセイン政権側からの臨戦態勢の動きすら見受けられないし不思義であった。内乱の可能性もあり、と言われているのにだ。  一説には既にフセインは形の上だが引退を決意し、息子の一人にに政権を譲り譲り院政を決意しているとと言う話も耳にした。

 腑に落ちない気もした。が、帰国後の映像でのフセインはアメリカのかたくなまでの好戦主義に絶対に屈服しない、防空壕を掘れ、と指示する。

 我々としては反戦闘争の大高揚の中でブッシュを完膚無きまでに窮地落とし込めると言ったハッピーエンドを知らず知らずに思い描くわけだが、政治の舞台裏は想像以上に複雑だろう。 

デモを国連支所に数度に渉って行った。用意した幔幕、思い思いの衣装をこらし、みんな想いのたけをシユプレヒコ−ルした。平野は幔幕を支え、鈴木邦男も先頭に出た。雨宮カリンは派手な和服。自分もとらメガで喋った。大熊は日頃の冷静さはどこえやら作務衣姿でこれみよがしにプラカードを高く掲げ「戦争反対」をがなっていた。パンタは一曲歌うべきだ。S君はイラクや外国青年達とピースランした。目立ちたい奴ばかりだ。ところがどっこい、目立つことは今回は美徳なのだ。

 そばをチグリスの悠久の流れが悠々とそれを見守っていた。

 バグダッドはスケールの大きいこのチグリスの川を挟んで発達したメソポタミヤ文明の中心地。シュメー、アッシリア、バビロニア、アッカド、ギルガメッシュ、ハムラビ法典、「千一夜物語」何でも有りの500万都市。恐らく中東最大の都市。

 バグダッドの夜景は素晴らしかった。イスタンブールのそれが逸品だと五木寛之はどこかで語っていたが多分この都市を見てない所為であろう。

 男達は逞しく白人並の体つきで彫りも深い。女達は黒髪で眼かが大きく深くその奥に漆黒のつぶらな瞳を持つ。このようなイラーキーの生きとし生きる営みを破壊し、死に追いやる権利を誰が持つのか、と夜景を見ながらつくづくと思った。

ふと「独裁者」フセインは民衆のため、反戦闘争に賭け、身を犠牲にすることを覚悟しているのではと思った。一体アラブはこんな身の処し方の文化を持っているのだろか。

 そうであるなら、万が一とは言え、空爆の際、恥をかかないだけの覚悟をし、地球を一周するぐらい飛び、砂塵にまみれ、何人かわ胃痙攣や下痢をおしながら来た甲斐が更にあったというものである。

 なつめ椰子のびんろうの葉なびくイラク!もう一度は必ず来るだろう。今は忘れられなくなった仲間と共に。