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関博明同志を悼む

[通夜と二次会の報告]

2005年6月14日

                    塩見孝也



 関君のことについては、既に報告しました。

 僕も11日の通夜に出かけました。

 川崎市立葬祭場は、JR南武線津田山駅を下車し、10分程度歩いたところにあり、幾つかの葬祭場を持った、広壮な構えをしていました。

 途中、知り合いや仲間と出くわしながら、通夜の会場に辿りついたわけですが、既に可なりな、顔ぶれが集まっていました。

 彼の患者さんや世間的付き合いの方々、親族の方々が沢山参集されていたのでしょう、盛会でした。

 会場には、向かって左正面では、彼が舞踊しているビデオが流され、右横には彼がパレスチナに行った時の写真が大写しされていました。

 僕は焼香し、奥さんの関直美さんに「初めてお目にかかります。塩見と申します。この度は誠にご愁傷さまです。悲しく、お辛いことでしょうが、悲しみを力に変え、お元気を出され、強く生き抜いてください」と挨拶しました。

 関は、随分と痩せ、顔もやや頬骨が飛び出すようでしたが、誠に安らかな表情でした。
 二次会の席が一駅はずれの溝の口で設けられました。

「連合赤軍事件の全体像を残す会」やこの会に協力した「ハルの会(和光晴生さんを救援する会)」が尽力してくださったのでしょう。

 通夜だけで、都合があり、帰った仲間もかなり、いたのですが、それでも20名余の人々が集いました。

 高松の同志から、丁寧な思いのこもった弔電が届けられていました。

 一人、一人みんな各自の思い出と決意を語り、彼を偲びました。

 それにしても、集まった仲間は旧赤軍派を中心に、革命左派、黒ヘルグループ、ML派、第二次ブントの各派の人ら元武装闘争を闘い、入獄経験を持つ人たちであれば、「銀行強盗犯」「連続爆破犯」「銃奪取犯」「ハイジャック犯」「同志“粛清”犯」等ら、世間一般の人々から見れば、誠に怖気を振るう「日本の物の怪」「悪霊」達が、群れ集った観があったかもしれません。

 そんなことに、頓着無く、話は弾んでゆきました。

 旧MLの指導者、豊浦さんは長野刑で彼と一緒だったようで、その話から、「誰と誰が何処の刑務所に一緒だった」とか、「誰にオルグされて、この世界に入ってしまった」「出獄し、誰の世話になって飯が食えるようになった」とか、会計士になった人物は、元の同志たちの台所を見て回る世話を引き受けざるを得なかったが、「どいつもこいつも、経済観念、経営能力は零」で「結局、自分が尻拭いした」とか、と裏話にも花が咲きました。
 僕には、そういう僕が知らなかった話は、かつての同志たちを知るに極めて貴重で、新鮮でした。

 何しろ、赤軍派は第二次ブントから分派する際、それまで苦楽をともにしてきた多くの同志がそのまま「結党」したのではなく、その大義たる政治主張や理論、思想・感性、というよりインスピレーションで結集したのですから、僕は、7人の政治局や中央委員クラスは、よく知ってはいるものの、部下の下部兵士同志達を、生活状況などの面からは殆ど知っていません。

 赤軍派を結成し、すぐに半年の間も地下に潜り、それからは投獄の20年があり、その最初の2年間に連赤問題が発生し、分化して行き、外に出ても、その時は、イディオロギー分化が固定化され、未だ皆、それぞれ蛸壺化して生きていたわけです。

 出獄して、7〜8年は、各同志たちの僕に対するスタンスが既に決まっていたところもあり、各々の同志たちを生活の面まで下がって知るような親密な付き合いは、それは、極く々、僅かの同志にしか出来ませんでした。

 だから、情けないことに、僕は肝心の同志なのに、この4〜5年前までは、各同志たちを本当は知っていなかった、といっても良いのです。

 各同志達も、多分そうだったと思いますし、多くの誤解や偏見も横たわっていました。
 それが、時代も変わり、僕も、総括の基本方向を、パラダイムを転換するような規模で、何とか確立するに及んで、或いは、重信さんら日本赤軍の同志たちが逮捕されたり、強制送還されたりし、日本赤軍が解散する等の契機も加わり、最後の垣根も無くなるような状態で、同志達を知れるようになったのです。

 僕にとっては「ミッシング・リング」が次々に発見されてゆくような感じなのでした。
  関君についても、基本的には同様なのです。

 東京地裁の地下で、互いに腰縄を打たれた格好で、拘置所への帰途に向け、整列・点呼の時、顔を合わせたのが初対面です。

 赤軍派の同志らしい奴が居る、とは互いに薄々分かり、まじまじ顔を見詰め合っているうちに「M作戦の関です」と名乗り、僕も「塩見です」と名乗り、微笑しあったのです。
 あの時の彼は、眼光が鋭く、精悍な若きコマンドそのものでした。
 彼は出獄後「元気堂」の看板で、鍼灸師をやり、この職業を見習った同志や後輩の弟子たちもかなり居たようです。

 その一人の方が長野から駆けつけられていました。

 彼主催の詩誌は「有刺鉄線」でした。

 第一次赤軍派(通称「一赤(いっせき)」と第二次赤軍派(通称「二赤(にせき)」の違い、連赤問題が話題になりました。

 「二赤は軍事至上主義で、政治がない」「二赤や連赤は一赤を否定、清算している」「同じ赤軍派でも溝がある」「そんなことはない。一赤を尊敬している。M作戦は一赤メンバーも沢山いた。あれはなん赤だ。1・5赤ではないか?森さんらが一赤を否定清算することで、連赤に突き進んだことは事実だ」といった、僕には既に越えられ始めている、いつもの内容も議論となりました。

 O君が貴重な証言をしました。

 「焼身自爆(自決)した、檜森は奥平、安田達と最初にパレスチナに行き、本当はこの3人でテルアビフ(イスラエル)空港闘争をやる予定だった。それが二人の要請か、その他の事情で、“檜森は僕等(二人)の戦いを日本の民衆、同志達に報告せよ!”」となり、不承不承、帰日せざるを得なかった。

 桧森にとっては、だからその後の人生は余命でしかなく、それであんな、ただ一緒に活動していた仲間には、理解できないような、壮烈な決着の挙にでたのだ。この事情を聞いていたのが 関で、それだから、彼が葬儀を献身的にやり、日本赤軍と赤軍派を融合させようとしたのだ」と言いました。

 癌が発見されてから3年、関はこの晩年を「残す会」の仲間等に囲まれ、自由気儘に、極めて濃密に、辛いが、幸せな晩年を生きたようです。
 その前の2〜3年介護事業を始め、「幸いライフ」という会社を設立し最初は予想外に順調だったらしい。

 病気で思わしくなくなったらしい。

 「針を打って30分間は酒を飲んではいけないのに、患者(大体は友人や親しい人)と針を打った、その直後から、飲んだようだ。これでは、治療も糞もあったものではなかった」とのことでした。

 なんだ、カンダ理由をつけて、よく飲んでいたようです。

 癌の切開手術については、友人たちの、「関に手術を受けさせる会」が、「手術した方が良い」と勧告したようですが、彼は、自分の信ずる東洋医学の思想に忠実で頑として受け付けなかったらしい。

 そのかわり、自分の信奉する医学思想に従って温泉療法などを実行し、新潟の玉川温泉や鹿児島の花園君のところに行ったりし、よく温泉につかっていたらしい。
 花園のところは、確か、指宿だったと思う。

  関君は、決して弁舌さわやかで、明晰極まる理論展開や方針などを語る男ではないし、この方面から、大きく人々を団結させる人ではなかったのでしょうが、確信と覚悟を頑固に持って、地道に人と人を繋ぎ、そのためには「千里の道も遠しとせず」でせっせと動く男であったようです。

 彼流に、同志や民衆を団結させるに、日夜心を砕き、仲間達の面倒をよく見、実際いろんな人の話を聞けば、愛すべき形で、勘所を掴み、人々を団結させてきたのだと、理解できます。

 僕などは、政治的意見の相違も、一時は激しかった時もあったのですが、心の深いところで、彼を同志と信じ、頼もしく思っていましたが、そして近いうちに、分かり合い、親密になれると思っていましたが、彼の実際の能力などしっかりとは知りませんでした。
 不明を恥じます。

「人は棺に入ってから、評価が定まる」とは、よく言われる格言ですが、彼は、徳のある立派な民衆解放の戦士であったと思います。
「歳月は人を待たず」と言われていますが、正に「歳月は志を待たず」で、彼は逝ってしまいました。

 残った僕らは、彼の志、想いをしっかり確認し、彼の貌を常に想い浮かべ、改めて初心を新たにして、進むべきと思います。

 そして、その上で、後の人生で、自分に何が出来、何が出来ないかをしっかり見極め、それを日々研鑽し、若い人達に、受け継いでもらうよう日々努力しなければならないと思いました。

 僕は、心置きなく、この集いを楽しみました。関君よ、ありがとう。

 尚、この原稿を書いてみて、M作戦について、殆ど知らないと思いました。

「残す会」等を中心に、記録を残しておくべきと痛感しました。

 7月17日ごろ、「関君を偲ぶ会」がもたれるようです。この時はみんな集まるべきではないでしょうか?

詳しくは、追って知らせが届くと思います。

       2005年6月14日