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憲法改「正」について (その2)

2005年7月24日

                    塩見孝也

 以下は僕が6・15一水会現代講座に招かれ、改憲問題について、約一時間半講演をおこなったものを、
一水会の三村真一朗氏に記録していただいたものです。




第四十九回 一水会フォーラム 塩見孝也先生講演録
    三村真一朗
 
 前回に引き続き改憲問題を取り上げる。今の自民党主導の憲法改「正」が真の自主憲法制定ではないことは明白となった。また、日本の現状が左派の言う「軍国化」「右極化」をしているわけではないことや、主権なき「自主憲法論」が、いかに我々民族派の真意を汚しているかは明らかであろう。

 中韓の反日運動が激化する中、政権主導による改憲で我が国の行く末は一体どうなるのだろうか? 

 今回は反改憲の立場でありながら民族意識を持ち合わせた左派の巨頭、塩見孝也先生をお招きしてこの諸問題を論じて頂いた。

 

 皆さん、今晩は。塩見です。僕は一水会をかなり親しい仲間だと思っており、過去にも、何度か、この場でお話をさせて頂きました。また木村代表とは、二年前に一緒にイラクに行ったこともあり、仲間意識を持っています。

 さて、憲法についてですが、現状は非常に緊要な事態にある、と思っています。
 私の立場は、反改憲論になりますが、左と右ながら、同じ民族派という意味で、一水会、また一水会の支援者の皆さんと意見交換、討論などをしてみたいと思っております。
 

[改憲の行方―反対派の抵抗]

 私自身は、マルキストであってマルキストではない。言うなれば人間自主主義者であると自認しております。人間自主主義者で、また真の愛国者、パトリオットでもあります。ですから、そのような点で一水会と考えがかなり重なる部分があるでしょう。その辺りを前提として、お話しさせて頂きます。

 先ほども申し上げた通り、私は、改憲については反対の立場にあります。その点では、一水会の自主憲法制定という観点とは違う立場にあるでしょう。ですが、改憲反対といっても、仮に日米安保が廃棄され、対米従属から抜け出した段階で、もろもろの状況を総合した場合には、改憲に反対だとは必ずしも言わないでしょう。しかし、日米安保体制下、つまり対米従属化、売国化での自民党権力者達による改憲には断固反対する、ということが、私の基本的な考えです。

 話をする前に、今の改憲の状況を話しておきますと、今年の春頃、衆議院の憲法調査会の答申案が出ました。他方で、自民、公明を軸にして、国民投票法案が検討されています。

今国会では流れましたけど、まだ継続討議、答申が検討されています。まだ草案の段階だと思いますが、この内容は、憲法改「正」の投票をするに当たって、その内容について言論人、マスコミ関係は発言できず、外国人も発言することが規制されます。普通の選挙のように、言論人が自由に論戦することができなくなる法律が、盛り込まれています。

この法律がもし成立するならば、国会で議院の三分の二で議決されたなら、後はオール・オア・ナッシングで選択しなければならず、そういうわけで、憲法改正に反対する勢力としては、この搦め手から来る攻撃に対しては、あらゆる左右の言論人が、本筋の改憲議論では、意見が違っても、改憲議論は双方でやりつつ、これと平行して、この絡め手では、共に手を組み合って、廃案にしてゆく闘いはやれると思われます。

 小泉首相は二〇〇七年を射程において憲法改「正」を、という予定を考えているそうですが、反改憲の側からすれば、決戦をする構えで臨みます。

 一番目立つのは、九条1項、2項の改「正」に関しての抵抗であります。井上ひさし氏、梅原猛氏、大江健三郎氏、小田実氏など、そうそうたるメンバーの呼びかけで、「九条の会」が作られて、全国に広がっています。

 また九条は世界のインテリゲンチャーに人気がありまして、非常に珍しい憲法だ、と外国の人がこれを高く評価しております。そういう状況で、社民党関係が「九条を世界に!」という運動を展開しています。このような様々な民衆運動が、政治過程と平行しながら成長、発展しつつあるのです。

 毎日新聞の世論調査によると、国民全体は憲法改「正」派が過半数を占めている状況ですが、九条に関しては、「九条改正反対」の人々の方が、「賛成」派を上回っている、とのことです。

改憲、改憲と言われていますが、九条の条1、2項の恒久平和、交戦権と軍事力の放棄について、国民過半数が賛成しているわけではないのです。

 比較的、年長者の世代が改憲反対であると思いますが、若い人の中にも現実の問題として自分らが戦争に参加するということがありますから、改憲反対の動きが起きている、と僕は見ます。

 僕が理解する、自民党ら与党の改憲戦略とは、「憲法は押しつけられた」、「だから、天皇を元首とし、自衛権、国軍、交戦権を銘記した、憲法を作ろう」という「自主憲法路線」ですが、他方で「解釈改憲論」という現実対応を採ってきました。

「元々、自然権として自衛権は最初からあるもので、自衛隊の存在も、当たり前であって、自衛隊は九条には違反しない」という「憲法の枠内で実質的改憲は可能」、という論理です。これで、自衛隊はどんどん拡大して世界二位の軍事予算を取るほどまでになっています。

 一方で旧社会党なんかは、現に自衛隊はありますから、ある以上は仕方ない、ということで、「違憲合法論」という理屈を出してきた。違憲であるけれども存在するから、仕方なく合法だと言って来ました。

 共産党や新左翼は「憲法改悪阻止」と言っていました。「護憲」という言葉を出さなかったのは、当時は、僕らも含めて「プロ独憲法」、「社会主義憲法」を作ろうとしていたからです。

 そういう過程が戦後五十八年続いてきたわけですが、その中で、朝鮮の拉致問題、核実験・核武装の問題、また最近の中韓の反日デモもあって、国民の間に安全保障・国防意識、そして民族意識が醸し出されて来ています。

 先程言いました二〇〇七年ぐらいに憲法改「正」というスケジュール設定が出来上がって来ているわけです。


 
[覇権主義より王道主義―日本の新アジア戦略]

 ただし、それで一気に行くかというと、僕の見るところではそうもいかない。それは、アメリカが、一方で憲法改「正」を支持しておきながら、胆(はら)では、そうはさせまい、と考えている点です。

 アメリカとしては、核の引き金を握っており、軍隊についても、自衛隊を米軍の掣肘下に半永久的に置き、米軍基地というドスを日本社会の脇腹に突きつけ続けたいわけです。日本の完全独立、主権回復を許さず、占領の延長として従属化支配を継続したい、これがアメリカの戦略です。

 憲法に関しても、建前では改正してもいい、と言っておきながら、陰に陽に、自分の掣肘下に置こうと干渉するでしょう。他方で、アメリカは日米安保を当然堅持しようとしますが、日本が国力、軍事力を自立的に増強するのには警戒します。

 歴史的に言えば、かつての枢軸国に対して、反ファシズム連合という形で米、ソ、中が連携し、米、中が組んで日本を封じ込めんとする狡猾な作戦も、一面で、取っています。

 中国も日本を叩いてアジアのリーダーシップを取るという狙いがあり、日本を掣肘するために、反米でありながらアメリカと手を組む、やり方も一部採用しています。だから憲法改「正」を、アメリカが本当に支援するか、どうかは疑わしい、と思います。

 自民党改憲派は、安部晋三氏を軸として急ピッチでいろいろなことをやっておりますが、自民党内にも、それを押し留めようという動きもあります。

 昨日の新聞では、古賀誠氏を中心にして遺族会が、小泉首相の靖国参拝に対して、慎重にした方がいい、と忠告しています。A級戦犯合祀は従来通りで、靖国とは別の慰霊施設を作ることには反対だが、日中関係を考えれば、当面靖国参拝は控えるべき、ということです。

 遺族会がこういった見解を発表したことは、「英霊」論を錦の御旗にする急進保守派には痛手です。ここからも、自民党が全部改憲まっしぐらに向かっているわけではない、ということが見て取れるでしょう。

 僕の、今の日本の状況について、総括的に考えていることを述べさせてもらえば、歴史を振り返ってみるに、日清・日露(僕は否定するが)の頃までは、欧米列強に抵抗して、国と民族を自衛する幕末、明治維新の気風が残っていたと考えます。

 だから欧米覇権主義に、国民が身を挺して戦う側面が残っていたのも事実です。このことは司馬さんが「坂の上の雲」で強調するところです。

 しかしながら、日露戦争に勝利し、「世界の一等国」として驕るようになった。それから大陸、太平洋に対して覇権を目指すようになる。

 あの時こそ、日本は、覇権主義で行くのか、或いは王道主義で行くのか、の岐路に立っていたと思います。本当なら、自分たちが成長して、強くなればなるほど、身を慎み、謙虚になって、内を充実させ、他国、他民族、人類のことを考え、人、民族、人類、民衆に役に立つような王道路線を日本は選ぶべきであった、と思います。

 残念なことに、国政を担った指導者が、「日本はたいしたものだ」と思い込み、「もっともっと行けるんだ」と考えたところに、間違いがあったと思います。

 もちろん、世界の状況下では、そう選択することが避けがたかった事情があったわけですが、それにしても、です。

 戦後60年後の、我が国の指導者や国民の意識、ひいては日本人、日本社会の現状は、今述べました日露戦争後の位相、岐路と同じ質にあると僕は考えています。

 そういう意味でも僕らは、覇権主義ではなく王道主義に立って、謙虚な姿勢を持ち、我が日本を、本当の意味で実力のある祖国・日本にしていかなければと思います。もっと自分を深く己を見つめ、身を正す、必要があります。

 日露以降の状況に陥らないようにすることが大事だと思います。

 そういう点から見た場合、近隣国、特に中・韓などにも意見があります。一定の近代化に成功して、「国家」を作った。国家を作った後、革命の熱が冷めた段階で、今度は「俺たちは偉いんだ」と思い込み、かつての日本と同じ道を歩むようになっていることです。

これは、成長期の声変わり、思春期の時期と同じです。そういう意味で、今、日本は大人になったわけですから、声変わりをしつつある連中に対して、「あんたらも同じ道を歩むな」と言って、アジアの諸国を諭していくのが、あるべき日本の位置だと僕は考えています。
 


[自衛権とは何か?−対米従属化での国防とは?]

 憲法改正問題の核心は何かと言われると、いろいろな議論がある中で、はっきりしているのは、やはり憲法九条です。

 九条の二項を改めて、交戦権を認め、軍事力を持つ。そして、この改憲の大義名分に、「自衛権」を持つことが挙げられます。

 日本国を自衛する、それを大義にして改憲を推進することを狙っているわけです。

 それでは、「自衛」とはどういう意味か、考えなくてはならないと思います。今、日本は自衛する、という段階ではない、というのが僕の結論です。

 自衛するどころか、攻撃の力量を持っている。他国に侵攻する力もある。

 自衛、というのは強大な軍事力で圧迫され、主権を犯され、敵国軍が内部に侵攻してきた時、敵を国土から叩きだす、ということが本来の意味であると思うわけです。

 日本で言えば、幕末期の植民地化の危機、または元寇の頃。そういう時こそ「自衛戦」と呼ぶべきです。

 では、今、どこが攻めて来るかといえば、昔はソ連、今は中国が攻めてくる、という自衛論が論じられるわけですが、日本と中国の軍事力を比較してみると、明らかに対等であると思われます。

 そうすると、自衛というよりは、むしろ戦争を前提にして相手を屈服させる、相手を殲滅して軍事力で自分の意思に従属させる、このように「戦争」そのものをやれる体制を作れるか、というのが「自衛論」の核心であり、自衛という言葉のあやに包まれた覇権のための侵攻論、これが「自衛論」の本質と言えます。

 憲法の話に戻りますと、憲法前文や九条で、明らかに交戦権の放棄、恒久平和を目指すことを謳っているわけです。非常に厳格に、軍事力も持たないし戦争もしない、と書いているわけですね。

 本来、国が繁栄するということは、相手の国々と仲良くして、経済的、文化的に交流することで互いに栄えることであり、相手を尊重し合うことで、人間同士が仲良くなっていく、基本と同じ基本だと思うわけです。

 ただ、時には喧嘩することもある。だから自衛権はもともと、国や民族は自然権として、もっており、銘記するまでもないほどの重要な権利です。

 しかし、これは通常は「あってはならない」「非常時」で、「相手をやっつけてやろう、殺してやろう」というのは、平和、文化から考えれば、僕は下位の理念だと思います。

 ですから、もとから戦争を前提とした「自衛」ということを言いながら、国際平和など、うまくいく訳がない。ですから、「自衛」という言葉を使うのであれば、やはり、不文として、憲法には明記しなくても、当然ある物である、と考えます。

 中国を敵に回す風潮があることが問題だと思います。防衛庁でも、自衛隊の仮想敵国にしています。

 軍人である以上は、相手をやっつけることを前提としているわけで、相手が立派だ、とかは口が裂けても言えない。だから中国の悪口ばかり言う。それでは中国もいい気持ちにはならないでしょう。

 いずれにせよ、「自衛権」は必ず先制攻撃の論理になります。お互いに警戒して軍備を増強する。戦後の米ソ冷戦の関係と同じだと思います。

 この時、互いに軍事力を強化することで、戦争を抑止するという論が生まれました。これが倍々ゲームとなって冷戦の緊張が続いた。それが、現在の日中、米中の間でもそろそろ貫徹し始めています。馬鹿馬鹿しいことです。

 その罠に我々は入ってしまうのか、という問題に、今直面していると考えなければいけない。
 だから、今の段階で自衛論を大義名分にするのは自制するべきであり、それよりも、先程述べたように、日本人はどういう生き方を根本的にすればいいのか、しっかり考える必要があると思います。

 ならば、「自衛論」を真剣に考えている勢力はどういう人々か。それを見てみますと、僕は最近、「日本文化チャンネル、桜」という有線放送に出演して、その中で彼らと論戦をやっています。

 言わば、「正論」、「諸君」とかで書いている人たちですが、それのテレビ版をやろうとしているわけです。

 そういう人たちを見てみますと、先の戦争の責任を取ろうとはしない。できないまま、曖昧化して、アメリカの懐に逃げ込んでいる気がします。ある時期が来れば、今度は「自主憲法」などと言いはじめる。「自主憲法」を唱えながらも、日米安保体制は維持するという。

 「東京裁判」批判を声高に言うわけですが、その割には「反米」、「反安保」は、トーン落ちで、「嫌い嫌いも好きのうち」といった、屈折した愛米、反アジアの心理表現なのです。

 筋を通すなら、あの敗戦の時、大東塾の十六人の愛国者が腹を切っています。先の戦争が正義の戦争かは別にして、国民を泥炭の苦しみに叩き込んだのでありますから、責任を取らねばいかんとして腹を切った人々がいる。

 また軍人の中にもそういう人たちはいた。こういう責任を果たしたら、アメリカに対しては出て行け、と言って戦って、国民もついて来、そこで自主憲法を作る。本当の愛国者はそうあるべきと思います。

そうしたすっきりとした日本人の生き方とは、今の執権勢力の取っている態度は、全く違う。結局は自分の責任を不問にして、冷戦ということでアメリカにくっついて、うまく延命した連中の、2世の若い世代が軸になって「自主憲法だ」とか言っているに過ぎないのです。この場合の「自主」とは、すごくインチキだと思いますが。自民党、「さくら」の中にこういう人たちが大半でいます。

 でも同じ日本人、同胞である、という同朋意識を双方自覚するようになったから向かい合って話ができます。七十年代はポカスカやって殴り合ったけど、今は脳みそ、論理と論理で勝負をしています。


[日本国憲法誕生史]

 さて、それでは、憲法とは一体何か。今日、ここに来ていらっしゃる、有名な小林先生の意見等、後で御伺いしたいところですが、僕はこの憲法は、すごくいいものだと思っています。一般的なところで言えば、掛け値なしに「平和」憲法だし、戦争否定の九条なんかは、憲法が公布された一九四九年から二十一世紀に至るまで、ずっと通じる理念を持っています。

 どういうことかと言うと、イギリス、アメリカでも国内の同胞、国民に対しては人権などが論議されていましたが、国際的には、第一次世界大戦の頃まで、平和的な理念の国際法などはなかった。世界は弱肉強食の時代で、強い国力の国が偉いということになっていた。それで、ロシア革命が起きて、人類の国際的共同関係が深まって行った。

 その中で、米大統領ウィルソンが提唱したのが民族独立のための自決権の承認です。民族が持つ正当な権利だと言ったわけです。言い換えれば、これを否定し、侵すことは、不正義で、それを人類の倫理、国際法として侵略と規定し、不正義、国家犯罪としたわけです。

 これを、ロシア革命の指導者、レーニンが資本主義・帝国主義批判を土台にして、この「民族自決権擁護」「侵略批判」をより科学的に位置づけ、政治・思想的に実践化したわけです。こうして侵略否定の、国際的な価値観が確立して行ったたわけです。

 二次大戦後に国際連合というものが作られて、侵略行為が原則いけないものとして更に強固に確立された。また今のグローバル時代を見ると、すでに単独で領土を拡張していくという時代ではなく、資本主義国相互の資本が国際的に結びつくようになり、領土の奪い合いの帝国主義戦争が少なくなっている。

 また核戦争、環境の問題もある。こうなると、国家利害を超えた、人類全体の共同の利益、という面が次第に認識されてきている。人類全体の利益をどう確立するか、国際法を含めていろいろな議論が交わされている。そして、戦争をしないほうがいい、という理屈になるわけです。

 その理屈から言えば、憲法が唱えている交戦権放棄、軍事力を持たないというのは、二十一世紀にも十分伝わる、はるかに我が国が誇るべき理念であると思います。

 仮に、一億二千万の国民が反戦平和、非暴力を発言していったならば、米中が軍拡競争をやったとしても、日本がそれだけまとまることができれば、二十一世紀をリードできる国として誇りと徳の高い、仁義ある日本人、日本国の姿を示していけるのではないかと思います。

 もう一つは、確かにこの憲法案はアメリカのマッカーサー司令部によって出されたということは事実であり、それを当時の日本の統治者が受け入れた。

 ですが、これを提案した連中は、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言を含めて、欧米でも最良の理念を提起しているという面がある。これについて、押しつけではないか、という論があるわけですが、僕は押しつけではないと思っています。

 なぜなら、アメリカは一つの目標として、それまでの日本国の執権勢力とその体系をぶち壊そうとしていた。そのために民衆の変革運動を利用しようとしていた。この時期は敗戦から一九四八年頃まで、左派、共産党がマッカーサーと蜜月の時期でありました。

 戦前の指導者はその間、追放されていたわけで、その様な“干されていた”人々から見れば日本国憲法は自主的でなく、アメリカが民衆に押しつけた憲法、と見て取れるでしょうが、それはその旧体制の人々の見方であり、当時の国民の全体意識から言って、押しつけられたとは、僕は思わない。

 僕のイメージする戦後直後は、笠置静子の「ブギウギ」などに見られるように革命的祝祭日の連続で、民衆の動きはとてもダイナミック、解放的で、その中で憲法は革命的存在として、民衆に受け入れられた、と思います。

 もっとも四十八年頃から中国革命が成功、朝鮮でも革命が進行して、マッカーサーもそういう事態に直面した時、路線転換し、共産党を弾圧し、アジアの革命を抑圧して行く。そして戦前の指導者を復権して政権につけ、また自衛隊を作っていく。

 朝鮮戦争が終わって、五二年に日米安保が結ばれますが、この時、米ソ中と両面で講和すべきだ、という意見もありました。もっとも、最終的に日米だけが結ばれた事は周知の通りです。その過程を頭において考えた時に、アメリカの下での自主的とは何か、ということです。

 繰り返しになりますが、日本国憲法と安保条約と見た場合に、日本人は憲法の下で日本が動いていると思っているようですが、実際は日米安保の下で憲法の理念は汚されており、かつ、対米従属の下に日本の占領は続いている状況が、現実にあります。

 憲法より安保が上位理念、密教が安保、顕教が憲法、建前憲法、本音安保という関係で、歴代の自民党政権は全部アメリカの意向を組んで動いているもので、基地もあれば、自衛隊も全部アメリカ製の軍隊で構成されている。装備品も、将校の育成も、指揮系統、軍事ルールもみんなそうです。こういう中で育った軍隊は、絶対、自主的な軍隊ではない。

 そして、アメリカが対外戦略を決めれば、その通りに動く構造になっている。アメリカが“イラクに派兵しろ”と言ったら、派兵せざるを得ない。言ってみれば、建前は独立していますが、本音では従属している。憲法下では、日本は独立しているように見えて、実はアメリカの従属下にあるということを、知っておく必要があるでしょう。

 最近騒がれている、常任理事国入りについて考えてみますと、日本人である以上、日本の誇りとしてみたら、世界のリーダーとなるのはいいと思いますが、僕は今の段階では、対米従属の下でアメリカの尻尾にくっついている副官という形で世界の覇権に関わっていく道を進むことになる。それはまずいことで、別の敵を生み出してしまうのではないでしょうか。中国を敵にまわしてしまう。

 これはドイツと比較した場合、非常にわかりやすいと思います。ドイツのシュレーダー首相、ワイツゼッカ―元大統領といった人々は、過去の戦争に関し様々な場で反省しています。シュレーダー首相なんかは、中国の反日デモについて、日本ももう少しこの問題を考えるべきだと言っていますが、僕もドイツを見習うべきだと思います。

 ただ、ドイツがなぜそこまで深刻に考えるか、というと、第一次、第二次大戦と、今まで二回戦争をやった。二回もやられたら、人間、学ぶわけです。日本はまだ一回しか負けていない。打ちのめされている度合いが少なく、権力者は丸々と言ってよいほど温存されてきたから、もう一回やれば、勝てるんじゃないか、中国人、朝鮮人には絶対負けないとか、という意識やそういう人々がいるのです。そこらを僕らはちゃんと抑える必要がある、と思います。

 
[民衆運動としての民族主義復興]
 
 塩見は「憲法バンザイ主義者」であるかというならば、確かに憲法は優れていると思いますが、他面、戦後民主主義でも取りこぼしているところがあると思います。

 また、侵略戦争であったことは否定できませんが、明治以降の歴史認識として述べるならば、東洋の大陸の端にあるのんびりとした、自然的な国家であった日本国は幕末に列強進出といきなり向かい合った。

 当時の世界は、争い合っている。その中で勝たねばならない、国民の中にも同胞のため、国のために戦おうという意識が芽生えた。

 それで大陸へ進出したわけですが、それでも僕は自衛的な面、第二次大戦でもアメリカに圧されている中でも、自分らの国、郷里、妻、子供、恋人、そういうのを守らなくてはならん、そんな時に日本人はきれいな、美しい犠牲的な戦いをやっているのですが、こういうものを、戦後民主主義は見落としてしまっていると思います。

 アメリカからは一つのリベラリズムを学び、ソ連、中国からは社会主義を学んだ。だけれども彼らが、それでもって日本の背骨の精神、文化(僕はその核心をもののふ精神とものの哀れと、と思っていますが)抹殺しようとしてきたことは確かであり、まさに我々の背骨を叩き潰してしまおうとしていた。

 過ちを犯したけど、日本人は日本人らしい生き方を、ぎりぎりになると、僕はしてきたと思うことがあります。これを失ったら駄目だ、ということで、僕は愛国者、パトリオットとして、日本人のいいところをすくい上げて行かねばいけないとかねがね思っています。

 そういう意味で、世界平和の問題、国際連帯の問題、そして日本人の民族的アイデンティティ、これをどう統一するか。民衆的利益と民族をどう良くしていくか、これをどうまとめるかが今後の課題だと思います。

 こういう問題を統一する上で、憲法問題に挑んでいく。そうでないと、単なるリベラル、単なる民主主義、それだけで今の状況に接近していくについては、取りこぼしが大きいと思います。こういう点で一水会ががんばっていることに、僕は高く評価しています。

 一水会は別に権力にくっついて政治をやる組織ではなく、基本的に反権力の愛国者の組織だと思っています。従来の右翼運動とは違って、ヤルタ・ポツダム体制の打倒を呼びかけているし、木村三浩さんなどを通じて反米を軸とし、下からの民族主義勃興を目標にしている。

 こういう中で、僕は新左翼において過激闘争中心でやってきました。暴力革命論が連合赤軍問題まで登りつめ、マルクス主義の限界というのを知りました。  

 そういう中で、人間の自主性とはどういうことなのか、あるいは民族というものを考えながら、民衆中心で民族を良くして行くという観点に立った僕が、交差点を持って一水会と仲良くなったという状況があります。もっともっと哲学的に思考していくならば、左右両派は反米、民族主義で手を組んでやっていけると思います。