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映画評 「北の零年」
                    塩見孝也



(1)スペクタクル、大河ドラマとしての欠点について

 その内容が実現されていたか、否かは別にして、映画の歴史劇としての骨組み、ストーリー性については、目指さんとしているところは素晴らしいものがあったと思います。

 それでも、時には西部劇的要素も含んだ、スペクタクル、大河ドラマとしての演出として、優れたところものあれば、足らないところもあり、映画的完成度という点では今ひとつ、と思えました。

 脚本を書いた、那須真知子は幕末から、維新の大転換の時代を、大局で押さえつつ、それを、武士階級個々を、図式化したきらいもあるが、個々に照らして、その解体、再編成、転生を描き分けています。

 彼女は、「極道の妻たち」シリーズや70年安保闘争を闘った二人の女学生のその後の人生を描いた「霧の子午線」や「刺青」なども脚本している、ベテランです。

 史実を丹念に調べ、取材もしっかりやって組み立てていったのでしょう。

 しかも、それを、サムライの妻、妻達の視点に立って実現しようとしているところに、女性脚本家、須田の真骨頂があるのでしょう。

 特に石田ゆり子の役などは良く描かれています。

 しかし、これが映画の最大の問題ですが、このテーマが、十二分に書き分けられ、ヒロイン志乃(吉永小百合)がそれを十分に表現しているか、否か、では、議論が大いに起こるところでしょう。
 
 さて、スペクタクル、歴史劇の面で1〜2指摘します。

 オリーバー・ストーン監督の「アレキサンダー」が、映画的出来はともあれ、200億円を投入して、スペクタクルな面を、ふんだんな財力で、思う存分映像化したことに比すことは出来ないにせよ、15億円と言われる、日本映画なりには相当のお金を投入したものであれば、もう少し、工夫があっても良いものでは、と思われます。
 
 例えば、最後の転向した夫・小松原(渡辺)と彼が率いる国軍(皇軍)を前にして、彼が提唱した「新しい国を作る」ことに共鳴し、彼についてき、裏切られた稲田家の面々が対決するシーンなどです。

 ここは、ドラマの山場であるにも係わらず、鍬をもって闘いを挑もうとする人々、或いは馬の疾走にしても、余りにも、紙芝居的で、人物像も、気根だけは出ているが、モザイク的で、手馴れていず、アイヌのアッシリカ、元会津武士(豊川悦司)の突撃とそれを遮る志乃、そしてこれを受ける小松原の三角関係は、3人とも役者で、濃厚な情緒を醸しているにも係わらず、全体の場からは、逆に浮き上がってしまっています。

 僕はアメリカ映画「折れた槍」の、ジェフリー・ハンター演ずる若きインディアン戦士の騎兵隊に向かっての,自決覚悟の単騎突撃のような緊張感、臨場感を期待しているのです。

 「イナゴの大襲来」は、まーまーにせよ、各所に出てくる農作業のシーンも如何にも素人的に見えました。

 行定監督は「GO」,「世界の中心で愛を叫ぶ」などで乗りの乗っている立派な監督であり、今回のような規模の大きい作品にあっても、大スターの吉永や主演級の渡辺、豊川、或いは脇役のベテランと向かいあっても少しも引けを取ってないようで、そこそこの立派な映画的出来上がりにしてはいますが、極めてリアリティーを持った迫真的描写もあれば、そうかと思えば、明らかに手抜きやパクリのような部分もあり、ちぐはぐで、このような“大きな映画”となるとまだまだ未熟なところがあるのではないでしょうか。

 特に、大スター、吉永を上手く自分の演出に乗せていたか否かは、興味のあるところです。



(2)維新期の北海道認識について

 僕はこの映画を武士が、日本的な特殊性を含むものであれ、紛れもなく、アジアで最初の近代革命(ブルジョア革命)に、遭遇し、どのような運命の中にあったか、もののふとしての精神,芯を、どう維持し、新しい時代に適応しようとしてきたか、或いは適応し切れなかったか、どう変質したか、とりわけ、武士の妻がどのような生き様を問われたかに興味を持ったのです。

 これは、最初に述べておきました。

 この映画は、この問題に半分答え、半分おざなりで答え切れてないと思います。

 評価できる面は、正しい、しっかりした歴史観、北海道認識をもって映画作りをしようとしていることです。
 
 北海道は、ある面では、ロシアの流刑地であるシベリア、或いは大英帝国の流刑地、オーストラリアやニュジーランドに相当する場所でもあります。

 又、今はネイティブ・アメリカン(インディアン)への抑圧、掃滅、差別の問題は置くとしての、アメリカ西部劇に見られる「フロンティア・スピリット」も幾らかは醸す風土的要素も持ちます。

 維新政府は最初、奥羽列藩同盟の反抗武士や庚午事変後の稲田藩士のように処理に困ったような「不平」武士達を、屯田兵として、北海道に送り込んだのでした。

「謎のアイヌ」、アッシリカは、妻子を「官軍」に殺された元会津藩士です。

 或いは、永久革命論者、西郷を担ぐ、薩摩の武士達と革命の変質化の推進者、大久保利通や軍閥・山形有朋ら官僚化した元革命家、権力者達の闘いは、一応西南戦争で決着が付くにせよ、それは、その後自由民権運動に受け継がれ、藩閥政府に対する秩父困民党など、各地の反乱となってゆくが、この反乱者の一部は北海道に流れてゆきます。

 東北地方を中心にした、庶民の食い詰めのあぶれ者や犯罪者等もここに流れてゆく。明治当初、北海道は“棄民の地”と言っても良いのです。

 又、この地は、関東・東北で、この地に定着した武装した、自主、自立的な開拓農民である坂東武者達に追い落とされていった蝦夷、古くは縄文人であったアイヌのモシリの地でもあったのです。

 幕末の後期、松前藩らによる和人(シャモ)によって侵略され、アイヌの英雄、シャクシャインは反侵略の戦いを起こします。

 映画の時期は、和人の侵出によって、アイヌが最後的に解体してゆく時期でもあったのです。

 稲田藩が入植、開拓せんとした日高の静内は、日高アイヌの神聖なる墳墓の地でした。

 函館から札幌をつなぐ北海道最初の鉄道は「白骨鉄道」と言われたように、差別、抑圧されたアイヌや懲役の苛酷な苦役の上に敷設されたのです。

 映画はこのような北海道の歴史的事情を踏まえており、目配りもあると思えます。



(3)テーマがあるようで、ドーナツ状に思考停止されている

 さて、このような事情を踏まえての、ヒロイン、志乃(吉永)の生き様であります。

 僕には、はっきり言って、このような北海道の激動期を生き抜く、ヒロインのリアリティーは伝わってきませんでした。

 小松原健在の前半部では、武士の妻として、しっくりしたものでしたが、 夫「亡き」後、娘を抱え、武士の妻の芯をもって、一時はぼろぼろになっても、はいあがってゆく、自主、覚悟の精神をもって、自立してゆく“おんな”、人間としての志乃の姿が見えてこないのです。

 始めから、終わりまで、吉永の志乃像は武士の妻、“貴婦人”然としています。

 この点で、後半部は、全てが中途半端で、吉永は、「火火」の地べたを這いずり回っても生きて行くような清子(田中)のように乗りに乗ってはいないし、往年の吉永的な輝きが見られませんでした。

 仲間と自分を裏切って、藩閥政府の官僚に転向した「夫」、小松原になんと鷹揚なことでしょう。

 それからの恋人であろう、アッシリカにも中途半端で、成り上がりの実業家、末端官僚(須田照之)には屈服せず、その強姦行為と毅然として闘い、かつての仲間への気配りももち、全体が武士の妻、母の「気品」が保たれつつも、ただそれだけが表に出て、なぜそれが保たれてきたかは、明らかにされず、表面的な「耐える人」「仲間への義務、義理の人」だけの印象が残ります。

 裏切って、半年がたっても帰ってこない夫への非難に取り囲まれて、開拓地を母子で脱出する志乃が、いつの間にか、5年後牧場主になっているのだが、その間の生き様は全くはっきりしないのです。

 彼女達を救い、援助している「外国人開拓者団(?)」エドウィン・ダンという白人との関係が分からない。

 この5年の間は、武士の妻の気品などかなぐり捨てなければやってゆけない、強烈な厳しさがあった筈です。

 志乃がこの時期をどのような、思想、資質において、乗り切ってきたか、こそ吉永も、那須も監督行定も明らかにすべきであったでしょう。

 この5年間にこそ、「武士の妻」の芯を持ちつつ、世間や男どもからも自主、自立(自律)しつつ、ハチャメチャで、がらっぱち的であっても、あるいは、時にはせこくあっても、野放図に本音をもって生き抜く逞しさ、強さ、が必要とされたでしょう。

 志乃(吉永)には、この5年間をかいくぐって来、拭っ切ってしまい、突き抜けた、強さ、逞しさ、人生に対する自信、言ってみれば生きる“生身のおんな”のバイタリティー、エネルギーが感じられないのです。

 たとえ、維新の余燼冷めやらぬ、因習根深き明治初期ではあっても、神山清子のような、現代の自主、自立した女性たちに通じる生き様の片鱗が見受けられても良いのではないでしょうか。

 慈母観音や「聖女」であっては、人間は演じられません。しかし、志乃(吉永)は最後まで、“貴婦人”然としているのです。

 映画のテーマが、あるようで実際はがらんどう、ぼかされているか、ないのです。
 ドーナツ状のようになっているのです。

 一体、大女優、吉永小百合にとって、これはどうしたことでしょうか?

 小松原の渡辺兼は時代の流れ、変化を象徴する人物として見事に演技していたと思う。

 彼に対抗し、更に彼を凌駕する、“真の武士の妻”、“おんな”の姿を演じるのは極めて難題中の難題であったでしょう。 しかし、吉永ならそれをこなさなければなりません。

 とは言え、今の吉永には、のみならず、那須や行定にもこの注文は無理であった、とも思えます。

 何故なら、武士、武士の気品、芯を持ちつつ、民衆本位で、人間的に凛として生きることは、とりもなおさず、現代の日本人全てが問われている問題であり、最高に困難な課題だと僕は思っているからです。

 余談の、全く個人的感懐ですが、渡辺には、小松原の役は引き受けて欲しくなかったです。

 僕のイメージする渡辺は、自分の役を選択する人、又選択できる位置にある人であり、役者であれば、必要とされれば、どんな役でもこなすのが役者根性かもしれませんが、相当残念でした。

 豊川悦司は、日本武士(もののふ)の役どころを、十分に演じ、彼の芸域を広げたと思うし、良くやったと思いました。
 彼が、一番スカッとさせてくれました。

 アッシリカの方向に、「縄文の優しさ」を根底に持った、「もののふ」としての日本人の男、現代では、自主(自律)・協同、覚悟の精神をもった、非暴力・自主行動の先頭に立つ、生き様は出発させられなければならないと思いました。

         2005年 2月 16日