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日本文化チャンネル桜 (SKYPerfecTV! ch.767)

日本よ、今... 「闘論!倒論!討論!2005」

4月2日放映分 (3月26日 収録)

                    塩見孝也


その6:対米追従と復古の折衷は亡国の道。

      真のパトリオティズム=愛国心を
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1.あるのかパトリオティズム?

 僕は水島社長、司会、そして高森明勅、遠藤浩一、潮匡人、河内屋蒼湖堂の四論客については初めてお会いしたばかりで、全くその人柄、思想、経歴を存じ上げませんでした。

 職業と若干の紹介されたプロフィールのみです。

 以下、討論の中での私から見た印象を申し上げます。

 潮氏が、一番はっきりと印象付けられました。

 彼は、自己の立場を予め決めている人で、何事もきっちりしないと気がすまない方の様です。

 河内屋氏については、今回の討論のみでは良く分かりませんでした。

 水島氏、高森氏、遠藤氏については、思想的に同じブロックなのかしれません。

 彼等は最保守世界の中堅として、保守勢力を一定牽引しているのは事実でしょう。

 そして、主観的には「憂国の士」を任じておられる様にもみえました。

 僕等と彼等は本来、同胞(はらから)ながら、政治的・思想的に見れば敵対関係にある位置であり、この様な面々が、論戦ながら共通のテーブルに着き、向かい合っている情景に僕は一瞬不可思議な感覚を覚えました。

 国家も無く、民主主義的法制も無く、あるいは70年頃の情況であれば、殴り合っていたかもしれないし、戦国時代であれば合戦をやりあう関係なのかな、とも思いました。

 他方では、テレビを通じた公開討論の場であれば、瀬踏みしあいながらも、互いに双方を国士と任じあって、何かを民衆に訴え、何かを得んと競争しあっていればこそ、かな、とも思いました。

 それにしても、四氏と僕等は「執権勢力側の論客」と、「在野の批判側の論客」であり「金輪際互いの立場に加担し合わない」といまのところは思っているわけです。

 彼等が現実主義で実際の政治、政策を問題にし、我々が理想主義、ロマンティックでそれに反対する闘いの方針に頭を悩ます関係ならば、互いに怜悧に論理と言葉の駆使に熱中するのは何の不思議もないのですが、それでも、論戦の合間に、僅かながらも、苦笑いも含め、笑みがこぼれるのは面白いことでありました。

 僕等は、心のどこかで同胞(はらから)として、双方“愛国者ではないか”否、“愛国者であって欲しい”と願望する気持ちがあるのかもしれません。




2.何故今、「桜」のような保守派潮流が?

 論客の方達には悪いですが、私から見れば四人の方は「対米追従」と「戦前復古」の折り合わない基本性質の機械的、マキャベリスティックな折衷(戦前復古は表面で、中身は対米追従)に見えます。

 本当に、両者を折り合わせ、一つに融合させ、その欠陥を超克するようなベーシックな思想、理念、哲学には未だ到達していないと感じました。

 その結果、対米戦は反省する一方、対アジア侵略戦は否定されない潮氏が理論的支柱となり、対米対応では曖昧で、単純戦前復古イメージながら、他方で、いくらかはパトリオティズムを持つ水島、高森、遠藤氏らが潮氏に引っ張られながらも別グループ的な印象を受けたのでした。

 いずれにしても水島氏を含めた五氏の理論は、「侵略戦争」「帝国主義戦争」を批判し、これを清算、克服してゆくようなもの(戦争論:暴力論、民族論)ではない様です。

 また、軍国主義、超国家主義を否定、清算するような、国家論も殆ど持っていない、と思いました。

 武道家の堀辺正史氏や僕が主張する“武徳を持った非暴力”の「暴力論」(「格闘技通信」5/8、5/20の前、後篇の対談参照)「戦争論」について納得していただくのは、現時点では難しいかもしれません。

 しかし、何故このような、私からすれば陳腐に見える「戦前イメージ」を連想させる潮流が、一部では「憂国の士」として見られる様になって来たのでしょうか。

 それは、もともと彼等の出自母胎が、表面上は反省しながらも、本音では侵略戦争を否定しない、戦前からの執権勢力やその主流、自民党であったが故だと思われます。

 それが、70〜80年代の国際・国内情勢の構造的変化に応じつつ、建前では、否定して来た「本音」をあからさまに表出する「鬼っ子」を自らの内部から輩出させることになったのでしょう。

 何故このことが、可能となったかといえば、民衆側における「マルクス主義の歴史的限界」とその「超克」といった主体的要因があります。

 しかし直接の主因、契機は、ソ連、東欧の崩壊ら「冷戦構造の崩壊」といった外的強制力の消失です。

 そもそも「“ファシズムの侵略戦争”反省」は、執権勢力の内発性として生じたものではないのです。

 戦争勝利者の米英帝国主義とソ連らスターリン主義の「反ファシズム連合」ブロックによって、敗戦の結果、外部から押しつけられたものに過ぎません。

 だから、その外部強制力が半ば消失したために、その反動としてこのような「本音」の潮流が奔出するのでしょう。

 アメリカの横暴と中国らアジアの台頭という構図の中で、無理に対米追随を堅持しようと思えば、執権勢力の間にこのような苦肉のブロック、潮流が捻出されてくるのは歴史的必然があったと言えるのです。

 これこそ、先の侵略戦争の責任を回避しつつ、アメリカに身売りし、アメリカに庇護されて、延命してきた執権勢力が持つ宿命と言えます。

 アメリカの専横が強まったから、その分だけ、「反米」を強める、といった具合には対応できない戦後日本の執権勢力のねじれた出発は、こういったその後のよじれを当然とするのです。

 「東京裁判批判」の旗を振るにしても、真剣な「追随脱却」の実行ではなく、ガス抜きにしかなりません。

 実質は、アメリカへの忠誠の裏返しです。

 深層意識では「“嫌い、嫌い”も好きのうち」ではないでしょうか?

 これは、石原都知事が、アメリカに対し「NO!と言える日本」と勇ましく言っていても、実態は半端な親米の馴れ合いで、本音は「反アジア」であったことに象徴されるでしょう。

 帝国主義の侵略戦争を“独立自存の聖戦”と居直り、「東京裁判史観批判」を言い立てる真の狙いは、「アメリカ非難」の目くらまし、のポーズで粉飾された、一方でのアメリカへのラブコールであり、他方では、アジアへの手の込んだ侵略戦争の居直り、アジア再侵略の国民的合意取り付けの陣立であったと言えます。

 しかし、一応、保守派論客の方々は覚悟しているおられるのでしょうが、彼等にとって危険で致命傷になりかねないのは、対米向けの姿勢ではなく、対アジアに対してです。

 「侵略戦争肯定論」を公然と言い立てるからこそ、中国や半島南北朝鮮人は「脅威」に感じ、日本に対して構えざるを得ないのです。

 アジアの人々には、幾ら「中国人、朝鮮人脅威論」を言い立てても、日本の「保守派勢力」の方こそが、アジアの人々に「脅威」を生み出している震源地と映るのです。

 であれば、中国や朝鮮人の人々の批判、怨嗟が彼等に集中するのは当然であり、それについては、彼等はその声を責任を持って受け止めるべきでしょう。

 彼等は言います。

 このような非難の拡大の中で「自分達は、中国・朝鮮人の問題にはノータッチである。一切干渉しない」と。

 「干渉もしなければ、左翼のように甘ったるい連帯とか、援助とか、共存・共栄とかを呼びかけない。日本は、アジアなしでやってゆくことを覚悟すべきである」と。

 しかし、実際は、「侵略肯定論」を展開し、肯定しているのですから一方で「強がり」と、他方では「戦々恐々」の矛盾した対応となるのです。

 さて、「保守派勢力」を一時期にせよ有利にしたのは「拉致問題」であり、北朝鮮の内部諸事情が大きな要因でした。

 しかし、今ではそれも下火となりつつあり、徐々にこれらのグループの実態とその仕掛けが明るみに出てきつつあるのではないでしょうか。

 アメリカ帝国主義と従属独占資本主義は、ソ連・東欧の崩壊以降、「アジアでは次は中国崩壊だ!その手始めが北朝鮮崩壊だ!」
と勢いづき、約20〜30年スパンの基本戦略を定め、台湾や日本国内に系統的に、この戦略を実現しようとし、人材、グループを各所に育ててきました。

 一連の、(対米追随)保守派論客の勢力も、メディア界の突出したグループとして育てられてきたのではないでしょうか。

 ここから脱却した小林よしのり氏は、この勢力をいみじくも「ポチ保守」と評しています。




3. 国家主義的「愛国主義」が真の愛国主義=パトリオティズムに転質して行くための三つの提言

 さて最後に、僭越ながら水島氏や四人の論客の方々に次のことを申し上げて、この報告、論評の締めとします。

1)犠牲になった人々を忘れないでください。

 もし機会があれば、中国や朝鮮半島の各地で、
「先の戦争は、侵略戦争の意図は無かった。白人植民地主義から皆さんを解放するための、聖戦として戦いました」「私達こそ、あなた方の痛み、苦しみを一番分かっているものです」と講演、対話をして回られては如何でしょう?

 アジアの人々の実際の感情、心がより一層理解できると思います。

 侵略された人々の目線まで降りて、このような人々の痛み、苦しみを肌で理解して欲しいのです。

 もちろん「民族的自虐」「民族ニヒリズム」に、陥る必要は全く無りません。

 しかし、日本が犯してしまった過ちについても、僕等日本人が民族的誇りを持つ民族であるならば、逆に真摯・誠実に対応し続けるべきす。

 「足を踏まれた者の痛みは、踏んだ者にはわからない」とはよくいわれる言葉です。


2)三つの矛盾点を自覚して欲しい。

 あなた方は、アメリカの非を鳴らしつつ、自分達の“正義”を主張します。

 が、ここには以下三つの矛盾点があります。


  a: アメリカの非を鳴らすが、非を鳴らすなら、反安保の反米闘争を本気でやるべきである。その気が無いなら、やめるべきである。

 実際は「ポーズの馴れ合い」なのですから、国民欺瞞であり、それなら正直に「国士」ぶらず、アメリカを礼賛し、「その一州になる」ことを宣言すべきではないでしょうか。

 そうでないと言い張るなら、きっぱりと「愛国者(パトリオット)宣言」をやり、「自主独立」、「反米愛国」を貫くべきです。折衷主義の二股膏薬はみっともなく、やめるべきです。

これは、アメリカ人にも失礼と思わないのですか。


b: 先の戦争は人間の強欲、利潤追求を最大限に商品経済、つまり「市場経済」を通じて、システマティックに発現させる資本制帝国主義のシステムに原因があり、そのシステムの法則性にアメリカ、日本の双方の人間、民衆が惑わされ、それを主体的にコントロール、ないしは廃棄できなかったことに真の原因があり、アメリカ側の強欲、エゴのみに問題があるのではなく、日本側にも同等、同質の問題があったと、主体的に反省すべきです。

 資本主義の煩悩的競争戦の蟻地獄に入り込んでしまうと、誰も彼もわかっていても、そこから脱却できず、その渦に巻き込まれてしまいます。

 そのことを、貴方達はお分かりになっているはずのに、資本主義執権勢力の構成員として、又そこから実利を得ているが故に、隠しているといえます。

 アメリカ側のみの不義を言い立て、自己の利便ゆえに、自己の責任を不問にする責任転嫁の陋劣な欺瞞的手口に陥ってはなりません。

 「目糞対鼻糞」の、不毛で消耗な「戦争論」論争から脱却してゆくには、資本主義の法則の認識とその批判が必要であることを知るべきです。

 「目糞対鼻糞」の地平に居る限り、その総括は「今度は絶対に負けない。一等国になるのだ。戦争とは、どんなことをしても勝つことなのだ。負けたらおしまいなのだ」、これは反転して「負ける戦争はしない。超大国のアメリカに戦争を挑んだのが判断の過ち。アメリカとの同盟を今度は是が非でも維持する」、こういった短絡的判断に「戦争論」は、切り縮められてゆきます。


c: 日本人の「自主独立」の「反米」対応は、幕末の「尊王攘夷」から始まったのであり、「草莽堀起」を唱えるなら、まず、幕末の維新の志士たちを模範にすべきである。

 ところが、あなた方は、そのような攘夷の志士たちではなく、維新革命成功の後、権力に就いた大久保、山形らの革命を変質させた「反革命家」の権力者達を模倣しています。

 彼等の採用した「欧米模倣」「脱亜入欧」「帝国主義的“富国強兵”」路線は日本の針路を誤らせましたが、あなた方は、またぞろ、その愚を踏襲せんとしています。

 我々は、フランス革命は見習うが、反革命化し、覇権主義に落ち入ったナポレオンを見習うべきではありません。ましてや、エセナポレオンたる「小ナポレオン」、ナポレオン三世など見習うべきでないのです。

 貴方がたが、やっていることは、実際は「大久保・山形」の路線であり、小ナポレオン的であり、決して「攘夷の志士たち」とは言えません。

 あなた方は、「羊頭を掲げ、狗肉を売りさばいている」のではないでしょうか。

 あなた方が侵略戦争の真の責任を取ろうとせず、又取りえないのは、戦前の復古に拘泥し、その前の維新の志士や維新直後のパトリオットの所まで還っていかないから、或いは還って行こうとしないから、今後の日本の進むべき道が見えてこないのではないでしょうか?



3)人間の命と自主性、パトリ的人間(民衆)集団を大切に。

 あなた方は、主観的には「国事に日夜奔走されている」と思っておられるようですが、あなた方の思い入れておられる「国家」とは如何なる国家でしょうか?

 いわゆる「民族」「国民」を束ねる「国民国家」でしょうか?

 このような国家は「国民経済(つまり資本主義経済)」を基礎とする「資本主義国家」であり、これはおおむね中央集権主義の権力形態です。

 この国家は一般に、それに総括される民衆を、内にあっては「国民」、外に対しては「民族」と規定します。

 この国家は「領土」、「国境」という概念を作り、それまでにおおらかに存在していた民衆を区切ります。

 しかし、資本主義のグローバリゼーションは、自らを総括し、庇護せんとし生まれた「国民経済」・「国民国家」を徐々に不用にし、グローバル資本主義に規定された民衆の社会生活の実際に適合せんとするような権力の性格に変えんとしています。

 民衆もまた、自主的な人間同士の愛し合う男女、友人の生活の社会生活の場、原始に基層を置き、現在に展開してきた源郷(パトリ)とそれと一体のパトリ的人間集団を大切にしつつ、世界に開いてゆこうとしています。

 工場・職場労働もこのパトリに包摂され、パトリの生活に近づきつつ、世界に開かれてゆこうとし、国家の壁は低くなり、国境は薄らいでゆきます。

 現在のEUをみてもわかる様に、中央集権的な国民国家の権力は、存在意義がなくなりつつあります。

 これからは、暴力、軍事力、その延長としての核武装といった、人間を動物とみなし、物理的恐怖で統治する原理とは全く異なる、徳、愛、そして自衛の際の武徳に基づく非暴力を原理とする政治が徐々に世界をリードしてゆく時代です。

 はらから(同胞)として、「縄文のおおらかさ」と「もののふ(武士)の覚悟」を培ってゆきましょう。

 侵略戦争は、あの時代、世界の執権勢力の常識では、避けられない側面があったかもしれません。

 しかしその歴史は展開してしまい、それが間違っていたことは今や明らかです。

 その現在の地平に立って、2000万のアジアの人々と同胞300万の犠牲を心に深く刻み、常にこれらの人々を追悼しつつ、この過ちを「当時はやむをえない面はあったが、それを経験した現在の地平から語る場合は、このやむをえなさを認めつつも“悪いものは悪い”」と潔く言い切る勇気が必要ではないでしょうか?。

 つまり、一人の人間が、成長するにあたって、必ず「成長のための過ち」を犯すように、民族もまた「成長のための過ち」を犯すこと、それを、「成長のためのもの」として、主体的、実践的に教訓化して捉えるか、そうでなく我関せずで、他国、他民族の所為とするかも、ひとえに我々日本人の戦後、そして今、そして今後にかかっています。我が民族の後代の子孫、つまり我々にかかってゆくこととなります。

 最も真剣に戦い、傷つき敗れた者こそ、最も良く学ぶものです。

 あなた方は、本当に真剣に戦い、傷つき敗れたのでしょうか?

 僕には、あなた方が、民衆を操作の対象、手段視しているように感じられて仕方がないのです




4. 最後に。

 本気で「反米愛国」の姿勢を貫いていただけるならば、僕は「憂国の士」として論客の方々に心から敬意を払います。

 百歩譲って、反"日米安保"であれば、「脱米」、「非米」でもよいです。

 そして、「大義なき戦争」をおこなったアメリカに追従する形での自衛隊の海外派兵についても、今一度考え直していただきたいのです。

 その上で、「東京裁判史観批判」の線を貫いてください。

 自己利害、自己中心主義を脱却し、国民や民族のために「志」を立てていらっしゃる皆様ならば、容易にご理解いただけると思います。

 解釈の異なる日本の近現代史の総括については、これからお互い討論してゆけばよいし、今すぐ結論を出す必要はありません。時間をかけて積み上げてゆけばよいことです。

 機会があれば、また実りある討論をさせていただきたいと思います。
 
   2005年 4月 14日    塩見孝也