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人間の自主性についての覚書(その1)

2005年8月11日

                    塩見孝也


(一)若き日の僕の人間論、「人間の能動性」と現在の僕の「人間の自主性」、マルクス人間論の陥穽とは?

「人間の自主性」、この問題については、僕は、若き日の理論的、思想的営為を出発点にしています。

 70年闘争の赤軍派の頃、否その前の第二次ブントの第7回大会の基調草案、いわゆる「過渡期世界論――世界同時革命論」を書いた時にも、これをメインテーマにし、その後の「赤軍NO4」の「(赤軍派)綱領草案」の時もそれを機軸において書いています。

 あの時は「逆制約の能動のテーゼ」といった展開です。

 この人間の自主性の究明の問題は、その時の「人間や民衆の“能動性”の問題」の思想的、哲学的営為の延長であり、その凝集、集大成として捉えられます。
 僕は、当時、ロシア革命以降、人類史の新たな段階の指標として、民衆の運動が“能動的”になってきた、とも書いています。

 当時の僕の経験、理論化の水準、能力では、それは、唯軍事主義(軍事力学主義)に偏ったり、スターリン主義労働者国家の要因を挙げたりする、欠陥もありましたが、紛れも無く、その本筋は、レーニン主義によるロシア革命の実現をもっての、民衆の経験の階級的自覚、人類的経験の成熟の進展を直感的に表現しようとしたものです。
 
 この「人間論」の問題意識は、福沢諭吉は「学問の勧め」の中で「一身の独立(自主)なくしては、国の独立なし」と喝破してますが、この“独立・自主”とも関係しています。

 「幸福論」では、この問題を、集中的に、歴史的、起源的に考察し、この「人間の自主性」を正面に押し出し、能動性を位置づけなおし、又これを基点に民衆の自主意識の深化、民衆の一国的、世界的統一の促進、階級と民族の関連、統一、人類の統一と諸民族の共和を考察しています。

 人間が既存の物質的諸関係、経済に規定されながらも、逆にそれを反映、取り込んだ関係性とその意識、精神において、この関係を乗り越えてゆくことが出来ることやその方途、道筋について考察しています。

 僕は、マルクスのフォイエルバッハ、第六テーゼ「人間とは社会諸関係の総体(アンサンブル)である」を批判しつつ、それは間違っていないにせよ、「余りに一般的で茫漠」としている事、『総体』と強調しながら、その「総体」を本質付ける内容を、何も語っていないことを指摘しています。

 つまり、マルクスは、自主性こそが、この、この『総体』の骨、本性であることを語っていないことを指摘しています。

 資本主義体制下では、単なる「(階級)関係論」に還元され、ひいては「階級規定、階級闘争至上」に短絡される限界を持っていること、「階級関係の総体」というが、その「総体」の「本質(内容)」を明らかにせずしては、「人間の生きる価値」「幸福」「徳」「愛」、「最高善」或いは「道徳」・「倫理」は明らかに出来ないし、従って、資本主義後の社会、共産主義社会の姿も描けないし、それに向けての労働者等人民大衆を団結させてゆくことも出来ない、と指摘しています。

 このマルクスの人間規定では、経済、物質への基底還元思考を出ることが出来ず、上述の人間にとって一番大切なものを目指して出発しつつも、いつの間にか、それを逆に否定し、その反対に、その一番大切なものを消し去ってしまう構造、つまり、「階級闘争至上」「暴力至上」「党物神、軍事至上の党」「指導者絶対化、神格化」など、最後にはスターリン主義を生み出す結果となることを指摘しました。

 マルクスは「資本論」をもって「資本主義批判」を完成させました。この世界史的、人類史的意義については、僕は幾度と無く語ってきたから、このことについては、ここでは繰り返しません。

 しかし、それを、前提とした上での、人民大衆の主体形成の論理、原理はまったくといって、語っていない、こと、マルクスは、変革の必要条件は見事に論証したが、それを十分化する十分条件としての変革主体形成の原理、論理は語りきれてないと指摘しました。
 そして、その根本原因として、人間の本性としての「自主性(命を大切にし、それを、保障するものとしての)」の「欠落」を指摘しました。

 同じことですが、「人間と動物との違い」を明瞭にしていない、ことを指摘しました。
 他方で「動物が人間となってゆく起源的な歴史的構造」を明らかに、その境界、指標に人間の自主性が生み出されていることを究明しました。



(二)自主性とは何か―個の独立自尊とその逆立としての自覚的な社会奉仕、個人主義批判

 自主性とはなんでしょうか?

 自主性とは、個人利己主義、自分本位の、「自分さえ良ければよい」の自己中心主義のための性向と捉えられてはなりません。

 自主性とは、これの反対物、自己を独立・自尊の人格と自覚するが故に、逆にそれを確立、完成することは、とりもなおさず、意識的・自覚的に社会に奉仕する性向と同じ内容であると規定できます。

 この、自己の独立自尊の自主性と他方でのその集団との関係における集団への奉仕の逆立の関係の認識こそが重要なのです。

 自主性とは、個人主義、社会や集団と切り離された自己中心主義でなく、集団主義、共同主義(協同主義、協働主義)、個における社会中心主義(社会主義)を形式とします。

 自主性とは、現代的には、この反対の内容、労働者等人民大衆や民族、人類が、自分を大切にし、自分が独立・自尊の人格であることを徹底的に自覚するが故に、その逆立として、人民や民族、や人類に責任を持ち、尽くすべく、それらの、利益要求を損ない、破綻させる、資本主義制度、それを担う資本家階級とその権力と意識的、能動的に闘うことの、資本主義の人間観、個人主義を超克する、社会の人間観、つまり、新しい変革の思想的旗印として定立されます。

 資本主義を廃止し、階級制度を廃止し、人間や民族や人類を愛し、その自主性を最高に発達させる共同(協同)社会を築くことに収斂してゆく、人間観です。
 だから、利己主義とは反対の利他主義、社会奉仕の思想でもあります。
 この個人主義、個人利己主義が、本当に己を大切にした、独立・自尊の人間の意識、性向とはとても思えません。

 個人主義は、本来、動物的な群れ、集団の性癖としてある弱肉強食の自己保存本能であり、その延長にある意識です。

 しかし、少しでも集団的共同(協同)性が進化した群れ、集団では、その成員は、本能的にその集団の存続なくして、自己の存続もあり得ないこと、集団利益と個の利益において、集団利益を優先させるべきことを本能的、経験的に知っています。

 それ故、集団利益と切り離された、それと結びつかない個人主義など本来ありえないのだが、資本制下では、あたかも自分と自分の利益が、孤立して存在し、自分を自己目的的に偏重し、我利我利亡者になることが、自分を独立・自尊の人間としてある、と錯覚せしめられ、「他人(本当は隣人)」蹴落としの利己主義が個を大切にすること、と錯覚させます。これが、資本制の個人主義の本質です。

 「個の確立」や「自我の確立」はその解釈によって、いろんな意味合いを持ちますが、資本主義の下では、結局は、この内容に収斂してゆきます。

 資本主義は生産手段の私的所有、労働力の商品化、剰余価値の搾取を特質とする社会であることに於いて、それ以前の階級社会とは異なり、相対的には、個の自主化が進んだ社会と言えないことはないが、他方では、上記の3特質からして、商品経済が全面化した社会であり、商品経済社会(市場社会)での価値(交換価値)、つまり、貨幣が物神化した社会であります。

 ここでは、労働者は賃金という貨幣関係の鎖で繋がれた、資本主義社会特有の、資本との関係では、奴隷的関係に置かれ、社会成員は貨幣間関係の下で、あたかも自分たちが、バラバラにされ、孤立させられた状態にあることを、体制と支配階級によって、「個人主義」で「自分が自由である」かのごとく錯覚させられ、自分たちが奴隷的関係に置かれていることをなかなか自覚し得ないのです。

 こんな個人主義が、どうして独立自尊にガイストを持つ人間の尊重、自分を本当に大切にし、尊貴する意識を育ててゆくことが出来るでしょうか?



 (三)集団性、「文化」と生命維持活動を繋ぎ、融合させてゆく意義としての個の自主性の誕生

 自主性とは、群れ、集団の成員である、個(体)が、己を自覚し、独立・自尊するが故に己の存続が、その群れ、集団無くしてはあり得ないことの積極的、主体的自覚し、行動する性向です。 

 その前提認識の上に立って、その群れ、集団に意識的、積極的、能動的に奉仕すること、集団の共同利益に、己の存在、生、個人利益、要求を結び付け、従属させ、それに寄与する内容、形で統一して行くことを当然とする性向と規定できます。
 自覚された、すなわち自意識を持つ固体が、自己を独立した主体として尊貴し、大切にするが故に、逆に自己の要求、利益を集団の要求、利益の下位におき、時には、自己を無にし、自覚的に、集団(群れ)に奉仕し、この方式で集団の共同利益と個の利益を統一してゆこうとする性向です。

 群れ、集団の危急存亡の事態といった、特殊の条件下では、個の利益要求を犠牲にして、生命を賭してまで、集団の共同利益要求を自ら自覚して、実現してゆかんとする性質、性向とも規定できます。
 アンビバレンツに見えますが、これが逆立的に成立させてゆくのが人間の人間たる由縁なのです。

 この、自主と協同の逆立した内部的社会関係を持った、社会とその社会成員の両者は、その社会と成員が自然に対して、自己がその主体、主人としてあることの力を感得して行くのです。

 ここで、僕が「幸福論」の中で、強調してきた自主性の定義、つまり、ここから、僕が終始一貫強調してきた、人間の定義、人間とは「自主性を持った社会的存在」という定義が、マルクスの「人間とは社会諸関係の総体である」という定義を超克し、導き出されてゆきます。

 又自主性について、これまた、「幸福論」の中で次のように、僕は強調してきました。

1、 人間性、自主性を、これまでと違って、世界との関連で規定した観点、自主性とは、「人間は世界の主人である」という観点、世界とは、宇宙(自然)、社会、意識の総体を意味します。

2、 又、人間は、それ故、「世界の主人として、全てを決定してゆく」

 つまり、人間とその運命の関係についての観点、「人間が宿命的存在ではなく、自己の運命の主人として生きてゆける」、という、論断が導き出されます。

3、 以上、1,2、から、人間は世界の摂理に立脚しつつ、「人間は宇宙、世界の摂理、いのち(命)、声を体現し、体現する可能性を持っている」とも論断しました。

 
 そもそも、マルクスは、「社会」を前提として「社会関係」を措定し、「労働」「生産力」「生産関係」、「下部構造―上部構造」の概念を措定します。しかし、その「社会」について、その起源について、つまり「人間」については、殆ど考察していないのです。

 マルクスは「ドイツ・イディオロギー」の中で「我々はあらゆる人間存在の、従ってあらゆる歴史の第一の前提、すなわち人間たちは『歴史を作り出す』ために、生きることが出来なければならない、という前提を確認することからはじめなければならない。

ところで、生きるためには飲食、住、衣、その他、若干のことがなくてはならない。従って、最初の歴史行為は、これらの必要の充足のための諸手段の産出、物質的生活そのもの産出であり、しかもこれは、今日もなお、人間を生かせておくだけために、日々刻々、果たさなければならぬ一つの歴史的行為であり、あらゆる歴史の一つの一つの根本条件である」と述べる。

 しかし、これは、人間が生きるための根本条件でもあれば、動物が生きる根本条件でもあります。言い換えれば、この文章の何処に、動物と変わる人間の根本規定が明示されているでしょうか?

 ここには、逆に社会や人間の本性が論証抜きに導入され、それを前提にして立論されているのです。

 つまり、自主性と社会奉仕(協同性)がいつの間にか、無自覚なまま、前提的に導入されているのです。

 動物も飲食し、住や衣を必要とし、そのための道具さえ作ります。

 エンゲルスは、類人猿から人間になる、指標として「樹上から、ヒト似サルが、地球環境の変化の中で、地上に降り、2足歩行をやるようになり、手を使うことによって進化し、道具を手の延長として使うようになったこと、このような手の使用が脳を発達させた」ことをあげています。

 この指摘は有意義で重要な指摘ですが、サルから人間になる一つの指摘以上を出ません。
 文化人類学の指摘では、これと並行する形で、人類の祖先である、ヒト猿は、自分を大切にし、慈しみ、育ててくれた親の葬送の慣習を生み出し、クロマニオン人はもちろんとして、ネアンデルタール人でさえ、花をそれに供したという証拠も残しています。

 ヒトは親、祖先信仰とともに多種多様な自然を神として敬う原始宗教を生み出し、その前に近親婚を排する文化を生み出し、言語に近い、個体相互の生命維持活動の向上のためのコミュニケーション方途を発達させています。

 これは、目の構造や発声器官の特性、顔、頭の機能、機構上の特性からくる身振り、手振りの向上、表情の複雑化、高度化らを他の動物と違う土台としていたようです。或いは、与えられたものに、同価値のものを返す贈与の関係、慣習を生み出しています。
 もちろん、分業や協業の社会的秩序の原型になるような原始的な共同(協同)関係も生み出しています。

 これを、手の活動、道具の使用から直線的に説明してゆくことは出来ません。

  この、手の活動、道具の使用の使用は、いまだ人間、社会を前提とする労働というよりは、より発達した動物の「生命維持活動」といったほうが良いといえます。

 道具は未だ道具であって、マルクスの言うところの、「生産手段」と命名されるもの以前なのです。「労働」や「生産手段」、「生産力」、「生産関係」らの概念は、人間社会を前提として編み出された概念であり、それ以前は生命維持活動としての手段、“道具”以上の何物でもないのです。

 又、上述した「文化活動」も、自然発生的側面が強く、人間社会の文化とは未だ、隔たりがあった、低次元のもののように思えます。

 結局、ここから言えることは、手の生命維持活動やその延長としての道具の使用などから、直線的に動物の人間への発達や人間社会の現出を説明することは出来ないことを意味します。

 これは、唯物論のようで唯物論、社会科学とは似て非なる道具信仰のファティシズムでなくてなんでありましょうか。ここから、機械的で幼稚な唯物論、形而上学的唯物論、生産力主義、スターリン的な主体形成を抜きにした、或いは主体形成と相即の法則主義を、絶対的実在存在と錯覚する客観主義やその裏返しとしての低次元の地面に這いつくばることのみを良し、として絶対化する俗流の主観主義が登場するわけです。

 生命維持活動を、手の発達や道具の使用などの動物集団、群れと自然の関係、他方での、人間相互の文化といえるようなものの胚芽、人間集団以前の群れ集団の生活維持規制の両者を繋ぎ、相互作用させ、結合、融合させる固体としてのヒト猿と群れ、集団の関係における何かの本質的変化が生じていったと見ざるを得ないのでしょうか。

 僕は、それが、如何に低次なものであれ、ヒト猿の自主性の獲得、つまり、独立自尊の自己意識、この自己意識と逆立する形で集団の利益、要求の尊重、そこからの集団奉仕の共同性(協同性)の意識的獲得にあったと考えます。

 この性向、意識は未だ幼虫的で、萌芽的性質ではあれ、その本質性に於いて、動物の自然発生的な自己保存本能、それに伴う適者生存の弱肉強食の個と群れの偶発的、無媒介的関係とは異なりに、固体の側から、集団に意識性を導入し、規則性を作りだし、集団の内部構造を変え、これと一体に集団と自然の関係、つまり道具の使用の意義をそれ以前と質を変えてゆくものに変化させ、それまでの受動的関係性を能動的、主導的関係に変えていったものと確信します。

 言うならば、この性向の発達こそが、ヒト猿を人間にしてゆき、動物集団、群れを社会に変えていったと考えます。

       2005年8月11日