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僕のパトリオティズム(愛国心)とは?

掲示板の投稿者さんへ (返事その3)

2005年年3月18日

                    塩見孝也


   パトリ、パトリ的人間集団、パトリオティズムについては説明しました。

今度は「国民国家」について、述べます。この問題も、国家論の究明、これまでのマルクス主義のそれも踏まえた、これまでの諸国家論が整理され、パラダイム転換された国家論が確立されていかなければなりませんから、大変厄介です。

 「国民国家論」は、一般には、欧米の近代革命の過程で確立されたものですが、キリスト教絶対の神権国家や王権神授説に基づく絶対主義的国家らもろもろの封建国家に対して、市民階級(ブルジョアジー)が、資本主義を確立してゆくために展開した、それといえます。

 フランス革命、その前のアメリカ独立戦争らで展開された「自由」[平等]「博愛」とか、「主権在民」「基本的人権」、「代議制民主主義」、或いは「三権分立」が基本システムです。

 議会、常備軍、警察、裁判制度、監獄、そして税制これらが国家の基本形態、基本システムです。

 そして、その国家成員を内にあっては「公民」「国民」、外に対しては「民族」と宣言したわけです。

 これが、最初で述べた「国民国家で総括される民族」と僕が指摘した「民族」です。

 このような国家が、それまでの奴隷制の国家や封建農奴制の国家に対して、民衆の自主性を擁護する点で、歴史的前進であったことは言を待ちません。

 しかし、この国家が生産の社会性を阻む私的所有から生ずる不平等を隠蔽する限界を孕んでいたことも言を待ちません。
 このことは、マルクス・エンゲルスが展開し、レーニンが『国家と革命』らで暴いた通りです。
 マルクス、「マルクス主義」が、この問題を「資本主義批判、私的所有と階級の廃止、共産主義」を主張したのは全く大方向で正しい。

 「近代革命」で高らかに宣言された、「市民社会」、「国民国家」はこのような矛盾、限界を孕んでいたことは明瞭です。

 結局のところ、「市民社会」はブルジョア社会であり、「国民国家」は資本家階級が執権する国家であったわけです。

 ここまでは、貴兄と基本的に全く一致しているのではないでしょうか?

 しかし、マルクスやエンゲルスは、この市民社会、国民国家の批判を、主として、所有、経済の方面から展開し、そこから直線的に帰納される「階級」「階級闘争至上」で解決しようとしています。

 人間性や民族についての考察は全く不十分です。

 人間性の問題や民族の問題は、仮に「階級」が廃止されても、残ってゆく、階級よりももっと深い問題です。

 この点から見ますと、マルクスはあの有名な「フォイエルバッファ批判」の第六テーゼ「人間とは社会諸関係のアンサンブル(総体)」で考察を打ち切っています。

 それ故、後の「マルクス主義者」が、このテーゼを「階級関係の総体」や「階級闘争至上」に短絡する不十分性があったのです。
 翻れば、マルクスはブルジョア革命の際、動員された人間論や民族論を正面から批判していず、後の「マルクス主義者」が、それをそのまま無批判に継承する、原理的弱さを残していたということです。

 これが、「マルクス主義者」の暴力論や組織論(実は国家論でもある)の悪として開花してゆくわけです。

 マルクス・エンゲルスやその一寸前の時代、生物学が長足の革命的進歩をしたわけですが、ダーウィンは、それまでの「世界の神創生説、人間=神の子説」を批判し、「進化論」を主張しました。

これは、革命的な事柄ですが、近代革命の人間論、国家論、つまり社会契約説は、実は、この「進化論」に理論的基礎付けがあり、マルクスやエンゲルスもこれを、正面から批判できず、評価の面だけを強調しています。

 スペンサーは、この進化論を人間社会に適用して「社会ダーウィニズム」として展開し、これを「契約説」の理論的裏付けとしました。

 つまり、「弱肉強食の自己保存」「適者生存」「淘汰と突然変異」らの動物進化の法則を、人間おも動物とみなし、そのような、人間の動物性を前提にし、淘汰競争を行う人間を、社会的契約を結び、調整する、その調整機能を国家が担う、というものです。

「自由、平等,博愛」或いは「民主主義」の高遠な理念も,一皮向けば、人間はこういった本性を持ち、「人間は国家なしにはやってゆけない」思想が根底にあるのです。

 中国の、韓非子の「性悪説」に立脚する「法治主義」と似通うものです。

 このような、人間観、国家論はピッタリと資本家、資本主義のそれと一致しています。

 このような、社会ダーウィン主義を近代国家は持ってくるが故に、どうしても、その背後に神を残し、その欠陥を補充せざるを得ないわけです。

 だから、資本主義を批判し、階級を廃止し、後は近代の民主主義、国民国家論を持って来れば良い、というわけには行かないわけです。

 ダーウィン進化論については、その後、いろんな批判が出ていますが、日本の今西錦司博士の「棲み分け理論」は世界的に有名です。

 僕は、「自主性を持った社会的存在」という、動物と人間の共通性を踏まえながらも、それとは違う本性を人間が獲得、向上してきた内容をはっきりさせてゆかないと、資本主義後の社会像や「国家」像、「民族像」も見えてこないと思っています。

 もう一つ思いつく近代国民国家の偽善性は、一律の「公民」、「国民」として「平等」を謳いつつも、その社会の多数ないしは強力な支配的民族が、エスニシティーや少数民族を抑圧、差別して来、支配民族に同化、融和せんとして来た事です。

 日本では、「ヤマト民族」という神話で持って、侵略されたり、抑圧、差別されてきた、ウチナンチュウー、アイヌ、在日コーリアンの問題としてあります。

 この問題は、70年闘争の頃から問題にされ、意識化されても来ました。

 ウチナーやアイヌの人々は自決し、主権を持つ権利を本来的に有しており、

「在日」の人々は、朝鮮国との国交正常化や半島朝鮮人の南北統一といった、日本が係わり合い責任を負わなければならない問題を引き摺り、その解決がないから、帰化にもふん切れず、さりとて外国人としての身分も精神的に整理しきれず、日本国家の側は、これらの人々の人権を社会的に保障せず、社会的に精神的にも辛い位置に置かれています。

 これらの人々への、ヤマト民族主義、エスノセントリズム(自民族中心主義)の差別や抑圧を、人間中心、民衆中心のパトリ的集団を持って闘い、これらの人々と連帯してゆかなければなりません。

 アメリカ帝国主義と従属日本帝国主義、民衆内部での差別問題を克服しつつ、協同の戦線を強化して行かなければなりません。