寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る

 

僕のパトリオティズム(愛国心)とは?

掲示板の投稿者さんへ (返事その1)

2005年年3月16日

                    塩見孝也


 真摯な体験に即したメールありがとう。

貴兄が同志遠山さんを知る人、友人(?)の立場から、彼女を思ってくれていることに限りない親愛感を感じます。今後も、心からよろしく、と言いたいです。

 ★スターリン主義を僕が引き摺っていた、という指摘ですが、基本的にはそうでないといえるのですが、別の言い方をすれば、そうであったとも言えますし、そうでなかったともいえるということです。

 言うなれば、当時の「反スターリン主義」のレベルでは、僕は「反スタ主義者」であったと自負していますが、僕等の運動、闘いが60年代の戦いの質、水準を越え始めていた、ことに照応するような「反スターリン主義運動」の水準の内容を提起していたかといえば、それは未だ未成熟であったということです。

 スターリン主義については、「世界革命の放棄、一国社会主義」「ソビエトの解体」「党独裁」「官僚制国家」らら、赤軍派は、他の新左翼と同様の展開をしていましたし、「3ブロック同時革命―世界党」等でそれを実践的に展開していました。毛沢東思想を評価しても、この旗は堅持していました。この辺のことを、思い出してください。

 しかし、人間論、暴力論、組織論とかいった、もっと深い問題では、スターリン主義はレーニン主義にも根を持ち、更にはマルクス思想、エンゲルス思想の歴史的限界に帰着する問題を孕んでおり、このレベルにはつっこみ切れていないわけです。

 人間を、「自主性(協同性)を持った社会的存在」として哲学し、人間と民衆の可能性を信じ、愛する点で不十分であったという事です。

 この辺のことは、「暇松さん」に簡潔にお答えしたことと、合わせて御考察ください。僕は、共闘、統一戦線として、スターリン主義者はおろか、資本家や「右翼」(実際は、反米の民族主義者)とも、主要な敵を明瞭にし、相手の状態を見、的確に合わせつつ、必要なら手を組まなければならないと思っています。

 実際、実行してもいます。

 問題は、意見が違うから手を組まない、のではなく、手を組む以上、相手があり、互いに規定し合い、影響され合うわけですから、この関係の中で、如何に自主性を守り、相手の立場、自主性も尊重しつつ、創造性を発揮し、共闘の目標実現に向けてのヘゲモニーを発揮するか、です。

 この意味合いで、それが可能なら、段階を踏みつつ、相互浸透し合い、融合してゆくようにすることです。

 だから、革命左派との共闘は全く、時宜に適し、必要で正しかったわけです。

 共闘したことやその内部で論争したことがスターリン主義の証拠とは言えないでしょう。又、僕は「山」での「新党」結成運動に、全く関与してないし、特別な指示も出していないことは「監獄記」でも縷々述べていることです。
 
 毛沢東思想―中国党とも手を組むべきであったと思います。

 ちなみに、朝鮮労働党とも、組めるなら「反米」で手を組むべきです。

 問題は、その中で、如何に「独立自主」で己の自主性、ヘゲモニーを擁護し、共闘を正しく発展させるか、です。

 森同志は、この点で、永田さんのスターリン主義、2名処刑を容認し、毛沢東思想そのものに溶解しています。

 僕は、朝鮮労働党とある面で、主として救援の面で、ですが、共闘していたわけですが、内部では言うべきことは言い、[拉致問題」が露呈するや、労働党を批判し、それに追随する[よど号」同志に疑惑を提示しています。

 これは、連合赤軍事件や中国党のその後の変遷などからの教訓から労働党も醒めた目で見ており、70年の頃以上に、左翼スターリン主義にきちんと対応しています。

 この辺、世間では可なりの誤解があるようです。

 チュチェ思想から学んだわけですが、あくまで「塩見流」[自分流」で日本民衆、日本人の自主性、主体性を持ってです。

 この点では、「よど号」同志たちと一貫して論争しています。

 森君も永田さんも、この共闘と「党建設」を区別できず、共闘を超えて「党建設」に踏み出しています。

 共闘では、相互の自主独立性が前提になりますが、「党」となると、思想、哲学、路線の一致が前提となります。

 本来、それは、路線、思想の差異からして無理なわけで、それを無視して強引にやろうとすれば、野合故、粛清が必然化されるわけです。
 
 ★僕がブルジョアジーに主導される、「近代国民国家に総括される民族」を主張していないことは、ご承知と思います。

 したがって、抑圧民族と被抑圧民族の関係を百も承知で、抑圧民族が、抑圧しない民族にどう、変容、脱却してゆくかを、民族論プロパーで、展開しようとしていることをどうか、ご理解願います。

 僕は、このような民族論を超える“民族”、比ゆ的に言えば「民族であって民族でない」様な、民族の在り様を追求しているわけです。

 これは、「階級論」から接近すれば「資本主義批判を堅持した民衆中心の“民族”、“国家”」となり、貴兄と本質的には変わりはありません。

 しかし、今問われているの、人間論からの「人間、民衆を中心とする」民族、国家の在り様の問題です。

 もっと言えば、「民衆中心で、その成員たる人間が、己の自主性を十全に発揮しうるような民族、国家」に如何に「近代国家に括られる民族から脱却してゆくか」ということです。

 何がしかの革命が起こり、資本主義が廃棄され始めたとします。

しかし、民族は、急に無くなり、「民族でなくなり、いきなり、人、住民は、人類、地球人になるでしょうか?」

 人類や地球人を目指し、努力する必要は決定的にありますが、しかし、いきなり、民族や国家がなくなるわけがありません。こう考えるなら、それは夢想というものです。

 民族も国家も「民族でないような民族」へ、「国家でないような国家」に、現存のそれから、徐々にプロセスを経て、自らの諸桎梏要因を無くし、反民衆的なもろもろの衣を脱ぎ捨て、脱却してゆかなければなりません。

 僕は、このような「民族論」の確立の志向を、イ、人間の自主性、ロ、民衆中心、ハ、諸民族の共和・国際連帯・愛類の3モメントをもって確立してゆこうとしています。

 何故、このような問題設定が生まれるのでしょうか。

 これは、資本主義が、産業資本主義、独占資本主義の段階を経て、グローバル資本主義とも命名できる新しい段階に、ベトナム侵略と反侵略の戦いを経て、新旧の植民地体制とそれを補完する米ソ冷戦構造の崩壊を経て、到達したからです。

 ベトナム反侵略、民族独立闘争の勝利は、植民地体制を最後的に解体させました。その結果、グローバルな世界市場が成立し(中国の現代化とこれに基づく、今度は米中連合による、ソ連の崩壊を経て)、アメリカは、ベトナム敗北のショックから立ち直り、逸早く、グローバル帝国主義に脱皮し、攻勢に出てきたのでした。

 貴兄は被抑圧民族と言いますが、確かに被抑圧的性格はアジア諸国家、諸民族に残ってはいますが、すでに国民国家を確立し、朝鮮国にあってすら核ミサイルを持つほどです。

 貴兄は、朝鮮北部の朝鮮人を,単純に被抑圧民族と規定しますか?

 中国人をそう考えますか?

 問題は、このグローバリゼーションです。

 この進展の中で、全ての国民国家は、存亡の危機にさらされ、民族は、自己のアイデンティー喪失の危機に晒されて行きます。

 自己の国(くに)や民族の根元を固めずして、開いてゆけば、アメリカ帝国主義とそのスタンダードに融和され、自己消失してゆきます。

 だから、全ての国と民族はそのまま開いてゆくのではなく、一方で根元に下りつつ、己の特性、長所、アイデンティティーを守りつつ、他方で開いてゆく一個二重の複雑な対応が問われます。

 他方で当該の民衆は、グローバリズム特有の搾取と収奪に晒されます。

 だからこそ、搾取反対の「階級的」運動と「民族であって民族でない」ような、最も現代的な主権とアイデンティーを擁護するような新しい質の民族運動が問われてゆくわけです。もっとも、この「階級的」という言葉にカッコをつけたことは、僕としては大きな意味を置いています。このことについては、別の機会に述べます。

  民族問題を論じる場合、まずこの問題の設定の仕方の確認が大事なのではないでしょうか?

 そして、結論から言えば、この一個二重の攻撃に民衆の側も、民衆の経済的利益と「“民族”の擁護」をこれ又一個二重に統一して推進して行かなければならないのです。

 その、二つの統一の思想的基礎に人間の自主性がすえられてゆくわけです。

掲示板の投稿者さんへ(返事その2) へ